夏の終わりに唄う歌

 一年一組での撮影を終えた後、俺たちは階段を上って、二階へ向かった。

 学校ができたばかりの頃には、それなりに児童もいたのかもしれない。

 二階には、音楽室、図画工作室、理科室、家庭科室などが、廊下に沿って並んでいた。

「次は音楽室で撮ろう」

 鍵束の中から、俺は『音楽室』と書かれた鍵を探し出す。
 解錠し、引き戸を開ける。

 室内は、分厚いカーテンに覆われていて、真昼だとは思えないほど暗かった。

「お前はそこでじっとしていろ。俺がカーテンを――」

「うわっ……!」

 航大の制止を聞き終える前に、俺は足を踏み入れてしまった。
 床に置かれていた何かに足を取られ、前のめりに倒れかける。

 その瞬間、がしっと腹を支えられた。

 逞しい腕。
 近すぎる体温。

「じっとしていろ、と言っているのがわからないのか」

「ご……ごめん」

 慌てて体勢を立て直す。
 校舎の中が蒸し暑いせいだと思う。
 航大の汗の匂いが、さっきよりもずっと濃く感じられた。

 かぁっと頬が熱くなる。

 薄闇の中でぼうっとしていると、さぁっと小気味よい音がした。
 航大がカーテンを引いたのだ。

 次の瞬間、眩しいほどの太陽の光が、室内に一気に流れ込んでくる。

「あぁ……そっか。ピアノが劣化しないように、遮光カーテンなのか」

「お袋の部屋も、いつもカーテンが閉まりっぱなしだったから……関係あるのかもしれないな。単に、動画を見やすくしているだけかもしれんが」

 航大の声が、少しだけ低くなる。

 航大の母親は、若い頃、ピアニストだったらしい。
 伯父さんと結婚して仕事を辞めてからも、家ではよくピアノを弾いていたと聞いたことがある。

 窓際に置かれたグランドピアノを見た瞬間、どうしても言わずにはいられなかった。

「航大のピアノ、聴いてみたい」

「断る」

「なんで」

「なんでも、だ」

 即答だった。

 だけど、ここで引き下がるわけにはいかない。
 俺はカメラを抱え直し、できるだけ真面目な顔を作った。

「せっかくモデルになってくれたところ、悪いんだけどさ……このままじゃ、いい写真が撮れそうにないんだ……」

 航大が、地味にショックを受けたような顔をする。

「いや、被写体としてはパーフェクトなんだよ。スタイルいいし、顔もめちゃくちゃ整ってるし」

「……」

「だけど、カメラ向けた途端、ガチガチに固まられるとさ……」

「くっ……」

 航大が悔しそうに眉を寄せる。

「ピアノ弾いてる時なら、自然な表情してるんじゃないかなって思って」

 しばらく考えるような沈黙が落ちた。

 やがて航大は、観念したように息を吐く。

「……わかった」

「本当に!?」

「ただし、少しだけだ。さっさと撮れよ」

 そう言って、航大はピアノの前に歩いていった。
 椅子に腰を下ろす前に、大蓋へ手をかける。

「蓋、このままでいいか?」

「せっかくだし、ちゃんと開けて。その方が映えるだろ」

「いちいち注文が多いな、お前は」

 文句を言いながらも、航大は大蓋を持ち上げた。
 黒く艶のあるピアノの曲線と、白い夏服の航大。
 それだけで、もう絵になっていた。

「いい。めちゃくちゃいい」

 俺は思わず、シャッターを切る。

 航大は鍵盤に指を置き、軽く音を鳴らした。

「……狂ってるな、調律」

「そうなの……?」

「だが、まあ、許容範囲だ。ワーケーション施設になった後も、調律は入れていたようだな」

 航大はピアノ椅子に腰掛け、背筋を伸ばした。
 長い指が、静かに鍵盤の上へ置かれる。

「何を弾けばいい?」

「なんでもいいよ。好きな曲、適当に弾いて」

「……好きな曲、か」

 航大が小さく呟く。

 そして、最初の和音が奏でられた。

 流れ始めたのは、『夏の終わりに唄う歌』だった。

「……っ」

 息が止まりかける。

 子どもの頃、俺が大好きだったアニメのエンディング曲。
 小学校の中学年から中学を卒業するくらいまで、ずっとスマホの着信音にしていた曲だ。

 そのせいだと思う。
 翔太もその曲を好きになって、神崎の屋敷でよく口ずさんでいた。

 美しいピアノの旋律。
 田舎で過ごす夏休みの、眩しさと寂しさを丸ごと閉じ込めたみたいな、少し和風で抒情的なメロディ。

 聴いているだけで、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。

 俺には調律の狂いなんて、少しもわからなかった。

 航大の指先が紡ぎ出す音があまりにも清らかで、呼吸をするのも忘れる。

 カメラを構えたまま、ただ呆然と聞き惚れていた。

「撮らないのか……?」

 航大は演奏を止めずに尋ねてきた。

「いや……反則じゃない? なんでそんな上手いわけ……?」

 翔太は、歌を歌うのが大好きだった。

 神崎の屋敷でも、よく大きな声で歌っていた。

 そんな翔太のために、ばあちゃんが小さなキーボードを買い与え、航大はいつも、翔太にせがまれて伴奏していたのだ。

 キーボードで聴く航大の演奏も、すごく上手かった。

 だけど、これは別格だ。

 グランドピアノで奏でられる航大の音は、記憶の中にあるものよりもずっと繊細で、切なくて。
 胸の奥の柔らかい場所を、容赦なく揺さぶってくる。

 シャッターを押さなくちゃいけない。
 そう思うのに、指が震えて動かない。

 その時だった。

 床に落ちたピアノの真っ黒な影が、水面みたいに、ゆらりと波打った。
 そして、ピアノの旋律に、誰かの歌声が混ざった。

 子どもみたいに高くて、愛らしい声。

 聞き間違えるはずがない。
 この声は——。

「翔太……?」

 急いで周囲を見渡す。

 けれど、音楽室には俺と航大しかいない。
 開いた窓の向こうにも、誰もいない。
 廊下にも、人の気配はなかった。

 なのに。

 じっと、誰かに見られている気がする。

 背筋がぞわぞわして、カメラを握る手に力が入った。

 また、歌声が聞こえた。

 それは、ピアノの伴奏とはまったく違う歌だった。

『みなそこさま』

 喉の奥が、ひゅっと鳴る。

『みなそこさま』

 ——浴室で聞いた。
 校庭でも聞いた。
 底のない水の中から、這い上がってくるみたいな、あの歌だ。

『だあれが――』

「うわぁああああっ!」

 カメラを抱きしめ、その場にしゃがみ込んだ。

 ピアノの音が乱れる。
 ガタンと椅子が倒れる音がして、航大が勢いよく駆け寄ってきた。

「優馬!」

 大きな手のひらに、肩を掴まれる。

「おい、大丈夫か!?」

「うた……っ」

 声が震えて、うまく言葉にならない。

「今、翔太の……! 翔太の、歌声が……っ」

 涙が滲む。
 怖い。
 怖い。
 怖い。

 浴室の時よりも、ずっと近い。
 あの歌が、俺のすぐそばまで来ている。

 航大は何も言わず、落ち着かせるみたいに俺を抱き寄せた。
 あたたかな手が、必死に俺の背中をさすってくれる。

「落ち着け。俺がいる」

「でも……っ、今、確かに……」

「わかってる。お前が嘘を言っているとは思ってない」

 その言葉に、余計に涙が出そうになった。

 六年前、俺たちは「歌が聞こえる」と言った翔太を、信じてやれなかった。

 でも、今の航大は、俺の言葉を否定しなかった。

 怖いのに。
 たまらなく怖いのに。

 航大の胸に縋りついていると、少しだけ息ができた。

 この男の腕の中にいる間だけは、大丈夫だと思えた。

 その時だった。

 ダンッ、と。

 勢いよく、音楽室の扉が開いた。

 航大の動きがぴたりと止まり、俺を抱く腕に、わずかに力がこもる。

 航大の体温が、すっと冷えた気がした。