今だ、と思った。
大好きなこの笑顔を、写真に閉じ込めてしまおう。
泣けそうで、指が震える。
ブレてしまうかもしれない。
それでも、この瞬間だけは逃したくなかった。
黒板を背に、ぎこちなく笑う航大。
少し困ったような、泣きそうな。
それでいて、俺のことをまっすぐ見てくれる、優しい顔。
俺は反射的にシャッターを切った。
「……おい」
カメラを向けられた航大が、少し驚いたように目を見開く。
その顔は、いつもより少し幼く見えた。
「いきなり撮るな。——心の準備がいる」
「しなくていい。航大、カメラ意識すると、めちゃくちゃ表情硬くなるから」
「仕方ないだろう。撮られ慣れていないんだ」
バスケットゴールで撮った時もそうだった。
いつもの表情が、完全に死んでいた。
校舎やバスケットゴールを主役にした写真なら、それでもいい。
けれど、室内で航大自身を主題にするなら、表情の欠落は致命的だ。
『いつも、好きな子の前でしてる顔をしてよ』
口にしかけた言葉を、慌てて飲み込む。
恋の話は、二度としない。
さっき、約束したばかりだ。
「じゃあさ、可愛い猫のこと思い出してみてよ。航大、めちゃくちゃ猫好きじゃん。大抵、怖がって逃げられるけど」
航大の顔が、ムッとした表情に変わった。
「猫という生き物は、なぜあんなにも逃げてばかりなんだ?」
真面目腐った顔で聞かれ、俺は堪えきれずに吹き出す。
「いや、普通は逃げないって。俺、全然逃げられたことないし」
「……腹立たしいな」
この集落にも、野良猫はいる。
二人で歩いている時に遭遇すると、なぜか航大だけ、毎回見事に逃げられるのだ。
「ほら、愛くるしい猫に甘えられるところ、想像してみて。大好きな猫が、にゃあ、って甘えたみたいに鳴いて、頬を擦り寄せてくるところ」
航大の目が、なぜか俺の方を見た。
「……何でこっち見るんだよ」
「いや」
次の瞬間、ぼんっと航大の顔が真っ赤に染まった。
航大は慌てたように鼻を押さえ、俯いてしまう。
「は!? また鼻血!? てか、航大、まじで呪われてない!? 大丈夫か!?」
ポケットからハンカチを出そうとして、何も入っていないことに気づく。
ああ、そうだ。
予想外の延泊だから、替えのハンカチもないんだった。
「平気……?」
手で拭ってやろうとして、航大に払いのけられた。
「——触るな」
低い声だった。
さっきの怒りを、まだ引きずっているのかもしれない。
「……ごめん」
「いや、お前は悪くない。悪いのは——」
何かを言いかけて、航大は深く息を吐いた。
「また、何か言いかけて、途中でやめたな?」
「すまない。だが——今はそっとしておいてくれ」
ばあちゃんの不在は、航大の心に、想像以上に重くのしかかっているのかもしれない。
俺にできることがあるとしたら、無理に踏み込まず、そっと見守ることだけだ。
「……わかった。そっとしておく」
航大はズボンのポケットからティッシュを取り出し、鼻に詰めた。
間抜けに見えるはずなのに。
どんなに不格好な姿でも、俺の目には結局かっこよく見えるから、腹が立つ。
「すまん。撮影を中断させた」
「別に俺はいいよ。だけど、航大はあんま長居できないだろ。受験勉強あるだろうし」
「いや。今日は夜まで空けてある。気にするな」
「夜まで?」
「ああ」
航大は顔を少し上向け、鼻血が止まったことを確認すると、きりっとした顔で俺に向き直った。
「よし。再開可能だ」
「いや、無理しなくていいって……」
「エアコンのない建物だ。昼になると一気に蒸し暑くなるぞ」
「……かもね。なんかもう、ちょっと暑い。窓、開けていい?」
「好きにしろ」
窓際に向かい、固いクレセント錠を外す。
ぎし、と軋んだ音を立てて、窓が開いた。
その瞬間。
ふわりと、腐った水のような匂いが流れ込んできた。
「……っ」
思わず息を止める。
さっき校庭で嗅いだ匂いと同じだった。
ぬるく濁った、金魚の水槽みたいな匂い。
外を見下ろしても、そこにあるのは乾いた校庭だけだ。
水たまりなんてない。
池も、用水路も、見当たらない。
怪訝に思いながら、窓に背を向ける。
その時。
ぽちゃん。
すぐ後ろで、水音がした。
ぞわっと背筋が凍りつく。
「どうした?」
航大がこちらを見る。
「——なんでもない」
嘘だ。
何でもなくなんかない。
けれど、今それを口にしたら、撮影を中止されてしまう。
「そういえば、ここって水も止まってるのかな」
「だと思う。『トイレは使うな』と、区長さんが言っていただろ」
水は止まっている。
なのに、水音がする。
腐った水の匂いもする。
わからない。
何も、わからない。
「黒板を消すところ、続き、撮るか?」
「あ……うん。撮りたい」
航大は鼻にティッシュを詰めたまま、黒板消しを拾い上げた。
「その顔で撮るの、ちょっと面白すぎるんだけど」
「撮るな」
「今さら遅いって」
笑いを堪えながらカメラを構えると、航大は不貞腐れたように、鼻からティッシュを抜き取った。
相変わらず、航大の表情は固い。
けれど、黒板に向かってまっすぐ腕を伸ばす姿も。
チョークの粉で少し白くなった指先も。
一枚撮るたび、宝物が増えていくような気がした。
こんなに怖い場所なのに。
ファインダーの中に航大がいるだけで、俺はまだ、ここに立っていられた。
大好きなこの笑顔を、写真に閉じ込めてしまおう。
泣けそうで、指が震える。
ブレてしまうかもしれない。
それでも、この瞬間だけは逃したくなかった。
黒板を背に、ぎこちなく笑う航大。
少し困ったような、泣きそうな。
それでいて、俺のことをまっすぐ見てくれる、優しい顔。
俺は反射的にシャッターを切った。
「……おい」
カメラを向けられた航大が、少し驚いたように目を見開く。
その顔は、いつもより少し幼く見えた。
「いきなり撮るな。——心の準備がいる」
「しなくていい。航大、カメラ意識すると、めちゃくちゃ表情硬くなるから」
「仕方ないだろう。撮られ慣れていないんだ」
バスケットゴールで撮った時もそうだった。
いつもの表情が、完全に死んでいた。
校舎やバスケットゴールを主役にした写真なら、それでもいい。
けれど、室内で航大自身を主題にするなら、表情の欠落は致命的だ。
『いつも、好きな子の前でしてる顔をしてよ』
口にしかけた言葉を、慌てて飲み込む。
恋の話は、二度としない。
さっき、約束したばかりだ。
「じゃあさ、可愛い猫のこと思い出してみてよ。航大、めちゃくちゃ猫好きじゃん。大抵、怖がって逃げられるけど」
航大の顔が、ムッとした表情に変わった。
「猫という生き物は、なぜあんなにも逃げてばかりなんだ?」
真面目腐った顔で聞かれ、俺は堪えきれずに吹き出す。
「いや、普通は逃げないって。俺、全然逃げられたことないし」
「……腹立たしいな」
この集落にも、野良猫はいる。
二人で歩いている時に遭遇すると、なぜか航大だけ、毎回見事に逃げられるのだ。
「ほら、愛くるしい猫に甘えられるところ、想像してみて。大好きな猫が、にゃあ、って甘えたみたいに鳴いて、頬を擦り寄せてくるところ」
航大の目が、なぜか俺の方を見た。
「……何でこっち見るんだよ」
「いや」
次の瞬間、ぼんっと航大の顔が真っ赤に染まった。
航大は慌てたように鼻を押さえ、俯いてしまう。
「は!? また鼻血!? てか、航大、まじで呪われてない!? 大丈夫か!?」
ポケットからハンカチを出そうとして、何も入っていないことに気づく。
ああ、そうだ。
予想外の延泊だから、替えのハンカチもないんだった。
「平気……?」
手で拭ってやろうとして、航大に払いのけられた。
「——触るな」
低い声だった。
さっきの怒りを、まだ引きずっているのかもしれない。
「……ごめん」
「いや、お前は悪くない。悪いのは——」
何かを言いかけて、航大は深く息を吐いた。
「また、何か言いかけて、途中でやめたな?」
「すまない。だが——今はそっとしておいてくれ」
ばあちゃんの不在は、航大の心に、想像以上に重くのしかかっているのかもしれない。
俺にできることがあるとしたら、無理に踏み込まず、そっと見守ることだけだ。
「……わかった。そっとしておく」
航大はズボンのポケットからティッシュを取り出し、鼻に詰めた。
間抜けに見えるはずなのに。
どんなに不格好な姿でも、俺の目には結局かっこよく見えるから、腹が立つ。
「すまん。撮影を中断させた」
「別に俺はいいよ。だけど、航大はあんま長居できないだろ。受験勉強あるだろうし」
「いや。今日は夜まで空けてある。気にするな」
「夜まで?」
「ああ」
航大は顔を少し上向け、鼻血が止まったことを確認すると、きりっとした顔で俺に向き直った。
「よし。再開可能だ」
「いや、無理しなくていいって……」
「エアコンのない建物だ。昼になると一気に蒸し暑くなるぞ」
「……かもね。なんかもう、ちょっと暑い。窓、開けていい?」
「好きにしろ」
窓際に向かい、固いクレセント錠を外す。
ぎし、と軋んだ音を立てて、窓が開いた。
その瞬間。
ふわりと、腐った水のような匂いが流れ込んできた。
「……っ」
思わず息を止める。
さっき校庭で嗅いだ匂いと同じだった。
ぬるく濁った、金魚の水槽みたいな匂い。
外を見下ろしても、そこにあるのは乾いた校庭だけだ。
水たまりなんてない。
池も、用水路も、見当たらない。
怪訝に思いながら、窓に背を向ける。
その時。
ぽちゃん。
すぐ後ろで、水音がした。
ぞわっと背筋が凍りつく。
「どうした?」
航大がこちらを見る。
「——なんでもない」
嘘だ。
何でもなくなんかない。
けれど、今それを口にしたら、撮影を中止されてしまう。
「そういえば、ここって水も止まってるのかな」
「だと思う。『トイレは使うな』と、区長さんが言っていただろ」
水は止まっている。
なのに、水音がする。
腐った水の匂いもする。
わからない。
何も、わからない。
「黒板を消すところ、続き、撮るか?」
「あ……うん。撮りたい」
航大は鼻にティッシュを詰めたまま、黒板消しを拾い上げた。
「その顔で撮るの、ちょっと面白すぎるんだけど」
「撮るな」
「今さら遅いって」
笑いを堪えながらカメラを構えると、航大は不貞腐れたように、鼻からティッシュを抜き取った。
相変わらず、航大の表情は固い。
けれど、黒板に向かってまっすぐ腕を伸ばす姿も。
チョークの粉で少し白くなった指先も。
一枚撮るたび、宝物が増えていくような気がした。
こんなに怖い場所なのに。
ファインダーの中に航大がいるだけで、俺はまだ、ここに立っていられた。
