夏の終わりに唄う歌

 鍵束の中から、木札に『水守小学校』と書かれた鍵を探し出す。
 錆びついた鍵穴に差し込んで回すと、がちゃり、と重たい音がした。

 扉を開けた瞬間、ひやりとした空気が足元に流れてくる。

 昇降口は、外の明るさが嘘みたいに薄暗かった。
 壁際には、空っぽの下駄箱がずらりと並んでいる。
 締め切られていたせいか、空気は埃っぽく、少し汗臭い。体育館の更衣室みたいな匂いがした。

「土足でいいのかな」

「この場所で、靴を脱ぐ気にはならんな」

 航大が、廊下の奥を見据えたまま淡々と言う。

 電気は止まっているらしい。
 外は目が痛いくらい明るいのに、太陽の光は廊下の奥までは届かない。

 俺はカメラを抱え直し、恐る恐る校舎内に足を踏み入れた。

 その瞬間。

「うわぁああああっ!」

 廊下の角に、内臓が剥き出しの化け物が立っていた。

 腰が抜けそうになった俺の背中を、航大がすかさず支える。

「落ち着け。ただの人体模型だ」

「なんでこんなところに……!?」

 よく見ると、確かに理科室に置いてありそうな人体模型だった。
 ただ、薄暗い廊下の角に立たせておくには、あまりにも悪趣味すぎる。

「さあな。ワーケーション施設として使っていた時に、誰かがふざけて置いたんじゃないか」

「心臓に悪過ぎんだろ……!」

 俺が胸元を押さえると、航大が小さく吹き出した。

「相変わらず、怖いものが苦手なんだな」

「うるさいな……!」

 からかうように言われて、嫌でも思い出してしまう。

 子どもの頃、航大と俺と翔太の三人で、ゾンビの出てくるゲームをしたことがあった。
 あまりの怖さに、その夜、俺は一人でトイレに行けなくなったのだ。

 真夜中に目が覚めて、どうしても我慢できなくて。
 半泣きで航大を起こした。

 航大は眠そうな顔をしながらも、文句ひとつ言わず、トイレの前までついてきてくれた。

「今も、一人で行けなくなるのか?」

「うちはマンションだし。狭いから、怖いとか思ったことない」

「神崎の屋敷だと?」

「……今もちょっと怖いかも」

 正直に答えると、航大は少しだけ目元を緩めた。

「怖い時は、遠慮なく俺を起こせばいい」

 耳が蕩けてしまいそうなくらい、優しい声だった。
 どくん、と心臓が跳ねる。

「あ……ああ。そうさせてもらう」

 照れくさくなって、俺はわざとらしく視線を逸らした。

「で、どの教室で撮りたいんだ?」

「まずは、普通の教室がいいな。机がいっぱい並んでるところ」

「机がいっぱい並んでいるところは、ないんじゃないか。ここは、もともと生徒が少なかったからな」

 航大は、『一年一組』と書かれた札の前で足を止めた。
 引き戸に手をかけ、がらりと開ける。

 中には、小さな机が四つだけ並んでいた。

「あぁ……でも、これはこれでいいかも」

 黒板には、ワーケーション施設として使われていた時の名残りなのか、カラフルなチョークでロゴのようなものが描かれていた。

『MIZUMORI BASE』

「これ、消しちゃってもいいのかな」

「いいだろ。潰れたんだから」

「じゃあ、消してよ。黒板消してるところ、撮りたい」

「黒板を?」

「うん。背の高い男子が、上の方を消せなくて困ってるちっちゃい女子を、さりげなく助ける感じ」

「女子はいないぞ」

「雰囲気だよ、雰囲気。そういうシチュ、女子に刺さりそうじゃん」

 俺が説明すると、航大は少し感心したようにこちらを見た。

「よく思いつくな、そういうの。俺には絶対に思いつかない」

「姉ちゃんの影響じゃない? 子どもの頃から、『英才教育』とか言って、少女漫画読まされてたし」

「……英才教育?」

「女子のしてほしいこととか、モテスキルとか、自然と身につくんだってさ」

 航大は、妙に納得したような顔をした。

「そのせいか。お前、すごくモテそうだもんな」

「——お前に言われると、なんか嫌味に聞こえるぞ」

「いや、本当に。モテるだろ、お前」

 否定はしない。
 姉ちゃんの英才教育の成果か、昔から女子には割と好かれる方だった。

 だけど——。
 どれだけモテたって、好きな相手に好かれなければ意味がない。

 俺の『好き』は、物心ついた頃からずっと、航大ひとりに向かってしまっているのだから。

「絶望的だよ。好かれたい相手には、全然相手にされてない」

 思わず、本音が漏れた。

 しまった、と思って口をつぐむ。
 けれど、もう遅かった。

「お前……好きな相手が、いるのか」

 航大が、大きく目を見開く。
 その手から、黒板消しが転げ落ちた。

「まあ、そりゃ……好きな相手くらいはな。お前こそどうなんだよ。めちゃくちゃモテるだろ。彼女とか、いるんじゃないのか?」

 軽い口調で聞いたつもりだった。

 できるだけ自然に。
 何でもないことみたいに。

 だけど、本当はずっと知りたかった。
 航大に、彼女がいるのかどうか。

「恋人は、いない」

 航大は、きっぱりと答えた。

 ほっとした。
 ほっとしてしまった自分が、浅ましく思える。

「好きな相手は——いる」

 続く言葉に、心臓が凍りつく。

「だけど、多分、俺の方こそ致命的だ。きっと、一生、報われない」

 振り絞るような声だった。

 航大にこんな顔をさせる相手がいる。
 その事実だけで、胸の奥がぐちゃぐちゃになる。

 誰かを恨むなんて、ダメなのに。
 嫉妬せずにはいられない。

「……叶うといいな」

「——お前が言うな」

 航大が、ひどく不機嫌そうな顔をした。

「はぁ? なんでだよ」

「なんかムカつくから」

「なんだそれ。わけわかんないし!」

「わからんよ。お前には、一生」

「なんだよ、その上から目線。どうせ俺は、お前みたいに頭よくないよ」

「頭は関係ないだろ」

「じゃあ、なんでそんな言い方するんだよ」

 胸の奥が、じりじり焼けるみたいだった。

 航大に、こんな苦しそうな顔をさせる相手。

 考えれば考えるほど、息が苦しくなる。

「お前さぁ、いつもそうやって煙に巻いてばっかだよな。すぐ話、中断するし。それ、めちゃくちゃ腹立つってわかんないの?」

「……優馬」

「一生報われないって、なんだよ。ちゃんと告白したのかよ? どうせ、何も言ってないんだろ? ムカつくくらい見た目いいんだし。素直に気持ちを伝えれば——」

 航大の顔が、見たこともないほど苦しげに歪んだ。

 その瞬間。

 大きな手のひらが、俺の口を塞いだ。

「っ……!」

 突然のことに、頭が真っ白になる。

 口元を、航大の手にすっぽり覆われている。
 苦しい。
 苦しいのに、それ以上に、航大の手の熱が近すぎて、どうにかなりそうだ。

 至近距離で睨み下ろしてくる航大の目は、怒っているというより、ひどく傷ついているように見えた。

「黙れ」

 低い声だった。

「——二度と、俺の前で、この手の話をするな」

 ぞくりとした。

 怖い。
 だけど、それだけじゃない。

 なんで、こんなに怒られなくちゃいけないんだよ。

 ただ、知りたいだけなのに。

 お前のこの大きな手のひらが、誰か他の人に触れるところを。
 俺に触れるのとは別人みたいに、優しく触れるところを。
 折れそうに華奢で愛らしい女子に、俺には見せたことがないような、甘ったるい笑みを向けるところを。

 想像しただけで、気が狂いそうになる。

「んっ……!」

 苦しくなって、航大の手首を掴む。
 無理やり引き剥がすと、息が乱れた。

 涙目になったまま、俺は航大を睨みつける。

「わかったよ。二度としない。っていうか、お前、沸点低すぎない? なんでこんなことでいちいちカリカリしてんだよっ」

 吐き捨てるように言ってから、急に思い出した。

 火葬場で見た、航大の辛そうな顔。
 透おじさんの部屋で見た、航大の涙。

 あぁ、そうだ。

 こいつは、ばあちゃんを亡くしたばかりなのだ。
 母親も、弟も、もういない。

 そんな時に、俺は何を言っているんだろう。

「……ごめん」

 声が小さくなった。

「俺が、無神経だった」

「なんで、お前が謝るんだ」

「だって……色々あってしんどい時に、余計なこと言って怒らせたりとか、最低だろ」

 航大は何か言いかけて、唇を引き結んだ。

 俺は、自分の指先を見下ろした。
 まだ少し震えている。

「俺は——お前には、笑っててほしいから」

 言ってから、胸が痛くなった。

「嫌な思いとか、してほしくないから。だから……お前が嫌がる話は、二度としない。約束する」

 次の瞬間、腕を掴まれた。

「っ……!」

 思い切り引き寄せられて、殴られるのかと思った。
 けれど、航大はすぐに我に返ったように、ぱっと俺から手を離した。

 その目が、揺れている。

「すまない」

 航大は、ひどく苦しそうな声で言った。

「悪いのは、全部俺だ。こういう話は、あまり慣れてないというか……」

 言葉を探すように、航大は視線を落とした。

「軽い調子で、話せそうにないんだ」

「謝んなって」

 俺は、無理やり笑った。

 がんばれ、俺。
 軽く。
 そう、軽すぎるくらい、軽く振る舞え。

 そうすれば航大は、いつもみたいに、ちょっと呆れたように笑ってくれるから。

「ていうか、ほんとはさぁ、こんな話、軽々しくしちゃダメだよな。セクハラだし」

 航大は少しだけ目を伏せた。

「だな」

 それから、俺を見る。

「だけど——お前の恋は、叶うといいな」

 息が止まりそうになった。

「お前と一緒に生きられるやつは、きっと誰よりも幸せ者だ」

 少し困ったような、ぎこちない笑顔だった。

 大好きな顔のはずなのに。

 なぜだかたまらなく、泣きたい気持ちになった。