屋敷を離れても、さっきの水音は、しばらく耳の奥に残っていた。
ぽちゃん。
思い出すだけで、背筋が冷える。
それでも、近くに航大がいるせいか、浴室で聞いた時ほどの恐怖はなかった。
日傘の柄を握り直し、少し先を歩く航大の背中を追いかける。
朝だというのに、日差しは容赦なく強かった。
まばらに雑草の生えた白く乾いた道に、蝉の声が降り注いでいる。
足元からむっとした熱気が立ち上がってきて、首筋にじわりと汗が滲んだ。
「お前も入れば?」
俺は航大の方へ、日傘を少し傾けた。
「俺のことは気にするな。二人で入るには小さすぎるだろう」
「航大、日焼け止めとか、塗ってないだろ」
「今さら日焼けを気にしても無意味だ」
航大は自分の腕を少し持ち上げて見せた。
真っ白な半袖シャツの袖口から覗く腕は、夏の日差しを吸い込んだみたいに、褐色に焼けている。
「——お前は、日に焼けるとすぐ真っ赤になるだろ。しっかり用心しろ」
何でもないことみたいに言われて、胸の奥が少しだけ揺れた。
「そんなの、まだ覚えてるのか」
「忘れるほうが無理だろ。痛い痛いって、泣き喚いてたんだから」
「泣き喚いてなんてない!」
「泣き喚いてた」
「……ちょっと泣いただけだろ」
「ちょっとではなかったな」
一蹴され、少し恥ずかしくなる。
子どもの頃は、翔太も含めて三人で、毎日のように川へ行っていた。
釣りをしたり、水遊びをしたり、石を投げて水切りを競ったり。
航大も翔太も、どれだけ日に焼けても平気だった。
俺だけが、真っ赤になって、水ぶくれまで作って、夜になると痛くて眠れなくなった。
だけど——翔太がいなくなってから、俺たちはあまり外で遊ばなくなった。
川にも。
山にも。
あの池の近くにも、長いこと行っていない。
どちらから言い出したわけでもない。
ただ、気づいたら、そうなっていた。
あぁ、そうだ。
日焼けが痛くて泣きべそをかいていた俺に、航大は黙って、じいちゃんが処方してくれた薬を塗ってくれたんだ。
パンツ一丁になって、くすぐったいのを必死で堪えながら、畳の上に腹ばいになっていたときのことを思い出す。
まだ、小学生だった。
だけど、心はもう、ほとんど航大に奪われていた。
航大はいかにも未来の医師って感じの真剣な表情で、俺に薬を塗ってくれていた。
なのに俺は、航大の指先が肌に触れるたび、息の仕方がわからなくなっていた。
くすぐったいのとは、違う。
痛いのとも、違う。
その感覚に名前をつけられないまま、ただ、自分の身体が勝手に熱くなるのが怖かった。
「……っ」
かぁっと頬が熱くなる。
先を歩いていた航大が、足を止めた。
そして、振り返る。
「大丈夫か?」
「え」
「顔、真っ赤だぞ。ほら、ちゃんと日傘を差さないから」
「へ……平気」
航大の方へ傘を傾けていたせいで、いつの間にか自分の顔に日が当たっていたらしい。
航大は呆れたように眉を寄せると、ぬっと手を伸ばした。
大きな手が、日傘の柄を握る俺の手に重なる。
どくん、と心臓が跳ねた。
「あとで泣いても知らないぞ」
傘の角度を直される。
涼やかな影が、俺の顔の上に戻ってきた。
すぐ近くに航大の熱を感じる。
かすかな汗の匂いがして、幼い頃の記憶と現在が、妙に生々しく重なった。
「……泣かねぇよ。日焼けくらいで」
ぎこちなく答えて、俺は日傘で顔を隠した。
「ならいいけど。都会の人間には、こっちの夏は堪えるだろう?」
「そうでもないよ。てか、航大、東京の人間はいつもクーラーの効いた場所で快適に生活してる、とか思ってるだろ。大間違いだからな」
「違うのか」
「アスファルトやら室外機やらの熱風で、向こうも地獄だぞ。むしろ湿度はあっちのほうが高くて、ずっとサウナに入ってるみたいな感じだからな!」
航大は少し考えるような顔をした。
「あんな人の多い場所で暮らしていられるんだから、お前は凄いよ」
「バカにしてる?」
「いや、褒めてる」
「絶対褒めてないだろ……!」
なんとなくの印象だけれど、東京より西で生まれ育った人たちは、上京への憧れが薄い気がする。
わざわざ東京に出なくても、自分たちの街で十分だと思っていそうなのだ。
航大も、たぶんそんな人間の一人だ。
「好き好んで、ゴミゴミした場所で暮らしてるわけじゃないけどな!」
「——だったら……」
航大は、そこで言葉を切った。
「だったら、何?」
問いかけても、返事はない。
航大はただ、何かを飲み込むように唇を引き結び、どこか悔しそうな目をした後、くるりと俺に背を向けた。
言いかけた言葉の続きを、聞きたい。
聞いてはいけない気もする。
無言のまま歩き出した航大の背中を、俺は日傘を握りしめて追いかけた。
**
ラジオ体操でさっき来たばかりの場所なのに。
人の気配が消えただけで、廃校はまるで別の場所みたいに見えた。
まばゆい夏の日差しが、広々とした校庭に降り注いでいる。
しんと静まり返ったその場所は、どこか薄気味が悪かった。
二階建ての、年季の入ったコンクリート造りの校舎。
古びた窓ガラスは、陽の光を反射して、校舎の中までは見通せない。
十年ほど前に廃校になったのだと、ばあちゃんから聞いたことがある。
校庭の隅には、錆びた鉄棒やターザンロープが残されている。
飼育小屋だったらしい、鉄格子に囲まれた空っぽの檻が物悲しげだ。
昨年までワーケーション施設として使われていたらしいから、そこまで荒れているわけじゃない。
なのに、胸の端っこがちりちりするような、妙な焦燥感があった。
「校舎の外観も撮るのか?」
呆然と校舎を見上げていた俺に、航大が声をかける。
「え、あ……うん。撮りたいかも」
廃校を撮影できる機会なんて、そうそうない。
せっかく得られた、貴重なチャンスだ。
ちゃんと生かさなくちゃいけない。
「あそこがいいかも」
校庭の隅に立つ、古いバスケットゴールを指差す。
バックボードは日に焼け、白い塗装がところどころ剥げており、リングもすっかり錆びついている。
だからこそ、目に鮮やかなほど真っ白な夏服のシャツを着た航大とは、妙に相性がよさそうだった。
「航大、あそこに立って。ゴールに軽く背中預ける感じで」
「こうか?」
「そう。そのまま、少しだけ校舎の方を見て」
航大は言われた通り、錆びた支柱に背を預けた。
目に染みるほど、青く晴れ渡った空。
色褪せたバスケットゴール。
静まり返った廃校舎。
それらを背にして立つ、白いシャツの航大。
日に焼けた肌。
すらりと長い手足。
制服越しにもわかる、競泳で鍛えられたしなやかな体躯。
生きているものと、役割を終えてしまった場所。
そのアンバランスさが、たまらなく美しかった。
シャッターを切るたび、胸が熱くなる。
ファインダー越しなら、どれだけ見つめても、許される気がした。
ただの従兄弟として。
ただの撮影者として。
好きだなんて、言わなければ——
この距離は、許される。
「……優馬?」
「動かないでくれ。今、お前、すっごくいい表情してる」
夢中でシャッターを切っていると、ふと、レンズの端に違和感があった。
二階の窓。
閉まっていたはずの窓が、少しだけ開いている。
「あれ……?」
シャッターを押す手を止め、カメラから目を離した。
肉眼で確認する。
開いていたはずの窓は、きちんと閉まっていた。
「おかしいな……。気のせい?」
「どうした?」
「いや……」
首を傾げながら、もう一度レンズを航大に向ける。
ファインダーの中。
航大の背後。
校舎の二階。
やっぱり、窓が開いていた。
ぽっかりと開いたその隙間は、まるで水底へ続く穴みたいに暗い。
「……っ」
背筋に、冷たいものが走る。
慌ててカメラから目を離した、その時だった。
ごおっ。
生ぬるい風が、一気に吹き抜けた。
「!?」
腐った水みたいな匂いがした。
教室の片隅に置きっぱなしにされた、金魚の水槽。
ぬるく濁って、水苔に覆われたような、嫌な匂い。
「今の……何……?」
ざわっと全身に鳥肌が立った。
怯えた声が、勝手に喉から漏れる。
航大が、怪訝そうに俺を見る。
「何って、何が?」
「今、ぶわって、風が……」
「風?」
航大は周囲を見渡した。
「風なんか吹いてないだろ」
言われて、気づく。
校庭の雑草は、少しも揺れていない。
朽ちかけたバスケットゴールのネットも、錆びたブランコの鎖も、ぴくりとも動いていない。
「嘘だ、今——」
言いかけた、その瞬間。
ぽちゃん。
耳元で、湿った水音がした。
「うわぁああああ……!」
反射的に飛び上がる。
手からカメラが滑り落ちた。
「危ない……!」
航大が駆け寄り、地面に落ちる寸前でカメラを受け止める。
「おい、大丈夫か!?」
心配そうな顔が、すぐ目の前にあった。
「撮影、中止して帰るか?」
「い……いや……撮ろう」
そう答えながらも、指先の震えが止まらない。
怖い。
怖いに決まっている。
浴室で聞いた水音と、まったく同じだった。
あれが、ここでも聞こえた。
けれど、ここで帰ると言ったら、撮影は終わりだ。
航大と二人きりでいられる時間も、終わってしまう。
「本当に大丈夫か?」
不意打ちみたいに、航大の手が俺の額に伸びた。
触れる直前で、一瞬、ためらったみたいに動きが止まる。それから、そっと、確かめるように触れた。
「っ……!」
「熱は、ないみたいだな」
航大は少し眉を寄せたまま、俺の顔を覗き込む。
至近距離で航大の視線が俺を捉える。
その真剣さに、俺は息を呑んだ。
「無理するなよ。昨日から働きすぎだ。俺たちが甘えすぎている自覚はあるが……」
大きな手のひらで、くしゃり、と優しく髪を撫でられる。
たったそれだけで、心臓が跳ねた。
怖くて冷え切っていたはずの身体に、別の熱が広がっていく。
——怪異より何より、この男の優しさのほうが、よっぽど俺をおかしくしてしまう。
「……平気。ちょっと、びっくりしただけ」
「そうか?」
「うん。撮りたい。せっかく鍵、借りられたんだし」
航大はまだ納得していない顔だった。
けれど、俺がカメラを受け取ろうと手を伸ばすと、少し迷った後、それを返してくれた。
「体調が悪くなったら、すぐ言え」
「わかってる」
「本当だな?」
「しつこい」
いつものように言い返すと、航大は少しだけ表情を緩めた。
「ならいい」
そう言って、校舎の方へ歩き出す。
俺はカメラを胸に抱えたまま、その背中を見つめた。
さっきの水音は、まだ耳の奥に残っている。
怖い。
逃げたい。
それでも、航大の背中を追いかける足は、少しも止まらなかった。
ぽちゃん。
思い出すだけで、背筋が冷える。
それでも、近くに航大がいるせいか、浴室で聞いた時ほどの恐怖はなかった。
日傘の柄を握り直し、少し先を歩く航大の背中を追いかける。
朝だというのに、日差しは容赦なく強かった。
まばらに雑草の生えた白く乾いた道に、蝉の声が降り注いでいる。
足元からむっとした熱気が立ち上がってきて、首筋にじわりと汗が滲んだ。
「お前も入れば?」
俺は航大の方へ、日傘を少し傾けた。
「俺のことは気にするな。二人で入るには小さすぎるだろう」
「航大、日焼け止めとか、塗ってないだろ」
「今さら日焼けを気にしても無意味だ」
航大は自分の腕を少し持ち上げて見せた。
真っ白な半袖シャツの袖口から覗く腕は、夏の日差しを吸い込んだみたいに、褐色に焼けている。
「——お前は、日に焼けるとすぐ真っ赤になるだろ。しっかり用心しろ」
何でもないことみたいに言われて、胸の奥が少しだけ揺れた。
「そんなの、まだ覚えてるのか」
「忘れるほうが無理だろ。痛い痛いって、泣き喚いてたんだから」
「泣き喚いてなんてない!」
「泣き喚いてた」
「……ちょっと泣いただけだろ」
「ちょっとではなかったな」
一蹴され、少し恥ずかしくなる。
子どもの頃は、翔太も含めて三人で、毎日のように川へ行っていた。
釣りをしたり、水遊びをしたり、石を投げて水切りを競ったり。
航大も翔太も、どれだけ日に焼けても平気だった。
俺だけが、真っ赤になって、水ぶくれまで作って、夜になると痛くて眠れなくなった。
だけど——翔太がいなくなってから、俺たちはあまり外で遊ばなくなった。
川にも。
山にも。
あの池の近くにも、長いこと行っていない。
どちらから言い出したわけでもない。
ただ、気づいたら、そうなっていた。
あぁ、そうだ。
日焼けが痛くて泣きべそをかいていた俺に、航大は黙って、じいちゃんが処方してくれた薬を塗ってくれたんだ。
パンツ一丁になって、くすぐったいのを必死で堪えながら、畳の上に腹ばいになっていたときのことを思い出す。
まだ、小学生だった。
だけど、心はもう、ほとんど航大に奪われていた。
航大はいかにも未来の医師って感じの真剣な表情で、俺に薬を塗ってくれていた。
なのに俺は、航大の指先が肌に触れるたび、息の仕方がわからなくなっていた。
くすぐったいのとは、違う。
痛いのとも、違う。
その感覚に名前をつけられないまま、ただ、自分の身体が勝手に熱くなるのが怖かった。
「……っ」
かぁっと頬が熱くなる。
先を歩いていた航大が、足を止めた。
そして、振り返る。
「大丈夫か?」
「え」
「顔、真っ赤だぞ。ほら、ちゃんと日傘を差さないから」
「へ……平気」
航大の方へ傘を傾けていたせいで、いつの間にか自分の顔に日が当たっていたらしい。
航大は呆れたように眉を寄せると、ぬっと手を伸ばした。
大きな手が、日傘の柄を握る俺の手に重なる。
どくん、と心臓が跳ねた。
「あとで泣いても知らないぞ」
傘の角度を直される。
涼やかな影が、俺の顔の上に戻ってきた。
すぐ近くに航大の熱を感じる。
かすかな汗の匂いがして、幼い頃の記憶と現在が、妙に生々しく重なった。
「……泣かねぇよ。日焼けくらいで」
ぎこちなく答えて、俺は日傘で顔を隠した。
「ならいいけど。都会の人間には、こっちの夏は堪えるだろう?」
「そうでもないよ。てか、航大、東京の人間はいつもクーラーの効いた場所で快適に生活してる、とか思ってるだろ。大間違いだからな」
「違うのか」
「アスファルトやら室外機やらの熱風で、向こうも地獄だぞ。むしろ湿度はあっちのほうが高くて、ずっとサウナに入ってるみたいな感じだからな!」
航大は少し考えるような顔をした。
「あんな人の多い場所で暮らしていられるんだから、お前は凄いよ」
「バカにしてる?」
「いや、褒めてる」
「絶対褒めてないだろ……!」
なんとなくの印象だけれど、東京より西で生まれ育った人たちは、上京への憧れが薄い気がする。
わざわざ東京に出なくても、自分たちの街で十分だと思っていそうなのだ。
航大も、たぶんそんな人間の一人だ。
「好き好んで、ゴミゴミした場所で暮らしてるわけじゃないけどな!」
「——だったら……」
航大は、そこで言葉を切った。
「だったら、何?」
問いかけても、返事はない。
航大はただ、何かを飲み込むように唇を引き結び、どこか悔しそうな目をした後、くるりと俺に背を向けた。
言いかけた言葉の続きを、聞きたい。
聞いてはいけない気もする。
無言のまま歩き出した航大の背中を、俺は日傘を握りしめて追いかけた。
**
ラジオ体操でさっき来たばかりの場所なのに。
人の気配が消えただけで、廃校はまるで別の場所みたいに見えた。
まばゆい夏の日差しが、広々とした校庭に降り注いでいる。
しんと静まり返ったその場所は、どこか薄気味が悪かった。
二階建ての、年季の入ったコンクリート造りの校舎。
古びた窓ガラスは、陽の光を反射して、校舎の中までは見通せない。
十年ほど前に廃校になったのだと、ばあちゃんから聞いたことがある。
校庭の隅には、錆びた鉄棒やターザンロープが残されている。
飼育小屋だったらしい、鉄格子に囲まれた空っぽの檻が物悲しげだ。
昨年までワーケーション施設として使われていたらしいから、そこまで荒れているわけじゃない。
なのに、胸の端っこがちりちりするような、妙な焦燥感があった。
「校舎の外観も撮るのか?」
呆然と校舎を見上げていた俺に、航大が声をかける。
「え、あ……うん。撮りたいかも」
廃校を撮影できる機会なんて、そうそうない。
せっかく得られた、貴重なチャンスだ。
ちゃんと生かさなくちゃいけない。
「あそこがいいかも」
校庭の隅に立つ、古いバスケットゴールを指差す。
バックボードは日に焼け、白い塗装がところどころ剥げており、リングもすっかり錆びついている。
だからこそ、目に鮮やかなほど真っ白な夏服のシャツを着た航大とは、妙に相性がよさそうだった。
「航大、あそこに立って。ゴールに軽く背中預ける感じで」
「こうか?」
「そう。そのまま、少しだけ校舎の方を見て」
航大は言われた通り、錆びた支柱に背を預けた。
目に染みるほど、青く晴れ渡った空。
色褪せたバスケットゴール。
静まり返った廃校舎。
それらを背にして立つ、白いシャツの航大。
日に焼けた肌。
すらりと長い手足。
制服越しにもわかる、競泳で鍛えられたしなやかな体躯。
生きているものと、役割を終えてしまった場所。
そのアンバランスさが、たまらなく美しかった。
シャッターを切るたび、胸が熱くなる。
ファインダー越しなら、どれだけ見つめても、許される気がした。
ただの従兄弟として。
ただの撮影者として。
好きだなんて、言わなければ——
この距離は、許される。
「……優馬?」
「動かないでくれ。今、お前、すっごくいい表情してる」
夢中でシャッターを切っていると、ふと、レンズの端に違和感があった。
二階の窓。
閉まっていたはずの窓が、少しだけ開いている。
「あれ……?」
シャッターを押す手を止め、カメラから目を離した。
肉眼で確認する。
開いていたはずの窓は、きちんと閉まっていた。
「おかしいな……。気のせい?」
「どうした?」
「いや……」
首を傾げながら、もう一度レンズを航大に向ける。
ファインダーの中。
航大の背後。
校舎の二階。
やっぱり、窓が開いていた。
ぽっかりと開いたその隙間は、まるで水底へ続く穴みたいに暗い。
「……っ」
背筋に、冷たいものが走る。
慌ててカメラから目を離した、その時だった。
ごおっ。
生ぬるい風が、一気に吹き抜けた。
「!?」
腐った水みたいな匂いがした。
教室の片隅に置きっぱなしにされた、金魚の水槽。
ぬるく濁って、水苔に覆われたような、嫌な匂い。
「今の……何……?」
ざわっと全身に鳥肌が立った。
怯えた声が、勝手に喉から漏れる。
航大が、怪訝そうに俺を見る。
「何って、何が?」
「今、ぶわって、風が……」
「風?」
航大は周囲を見渡した。
「風なんか吹いてないだろ」
言われて、気づく。
校庭の雑草は、少しも揺れていない。
朽ちかけたバスケットゴールのネットも、錆びたブランコの鎖も、ぴくりとも動いていない。
「嘘だ、今——」
言いかけた、その瞬間。
ぽちゃん。
耳元で、湿った水音がした。
「うわぁああああ……!」
反射的に飛び上がる。
手からカメラが滑り落ちた。
「危ない……!」
航大が駆け寄り、地面に落ちる寸前でカメラを受け止める。
「おい、大丈夫か!?」
心配そうな顔が、すぐ目の前にあった。
「撮影、中止して帰るか?」
「い……いや……撮ろう」
そう答えながらも、指先の震えが止まらない。
怖い。
怖いに決まっている。
浴室で聞いた水音と、まったく同じだった。
あれが、ここでも聞こえた。
けれど、ここで帰ると言ったら、撮影は終わりだ。
航大と二人きりでいられる時間も、終わってしまう。
「本当に大丈夫か?」
不意打ちみたいに、航大の手が俺の額に伸びた。
触れる直前で、一瞬、ためらったみたいに動きが止まる。それから、そっと、確かめるように触れた。
「っ……!」
「熱は、ないみたいだな」
航大は少し眉を寄せたまま、俺の顔を覗き込む。
至近距離で航大の視線が俺を捉える。
その真剣さに、俺は息を呑んだ。
「無理するなよ。昨日から働きすぎだ。俺たちが甘えすぎている自覚はあるが……」
大きな手のひらで、くしゃり、と優しく髪を撫でられる。
たったそれだけで、心臓が跳ねた。
怖くて冷え切っていたはずの身体に、別の熱が広がっていく。
——怪異より何より、この男の優しさのほうが、よっぽど俺をおかしくしてしまう。
「……平気。ちょっと、びっくりしただけ」
「そうか?」
「うん。撮りたい。せっかく鍵、借りられたんだし」
航大はまだ納得していない顔だった。
けれど、俺がカメラを受け取ろうと手を伸ばすと、少し迷った後、それを返してくれた。
「体調が悪くなったら、すぐ言え」
「わかってる」
「本当だな?」
「しつこい」
いつものように言い返すと、航大は少しだけ表情を緩めた。
「ならいい」
そう言って、校舎の方へ歩き出す。
俺はカメラを胸に抱えたまま、その背中を見つめた。
さっきの水音は、まだ耳の奥に残っている。
怖い。
逃げたい。
それでも、航大の背中を追いかける足は、少しも止まらなかった。
