ラジオ体操を終えると、区長さんから無事に廃校の鍵を受け取ることができた。
大きくて無骨な鍵束。
木札には、黒いマジックで『水守小学校』と書かれている。
ずしりと重いそれを、ハーフパンツのポケットにしまう。
「なくすなよ」
航大が念を押すように言った。
「わかってるって」
「心配だ。俺が預かっておいてやる」
航大は、当然みたいな顔で俺のポケットへ手を突っ込んだ。
「ひぁっ……!」
ハーフパンツの下は、今も下着を履いていない。
昨晩洗濯機を回すつもりが、例の怪異騒動のせいで、すっかり忘れていたのだ。
「いきなり手ぇ突っ込むなよ!」
動揺を隠すように怒鳴りつけると、航大はハッとしたように手の動きを止め、弾かれたように鍵を抜き取った。
よく見れば、耳の先がまた少し赤い。
航大はそっけなく俺に背を向け、すたすた歩き始めた。
まじで腹立つ。
俺だけが、こんなに苦しくて。
好きで、好きでたまらないっていうのに。
こいつの中で俺は、うっかりもので頼りない従兄弟でしかないのだ。
苛立ち紛れに石ころを蹴ろうとしたその時、不意に航大が振り返った。
「……少し、気分が晴れた」
年寄り連中に振り撒いていたのとは違う、ちょっと情けなくて、だけど、たまらなく愛おしい笑顔。
「お前が残ってくれて、本当に助かった」
白い歯を見せて笑うその顔を、一生、覚えていたいと思った。
「ありがたいと思うなら、後でアイス奢れよ。あの白くまのやつな」
「お前……今もあれが好きなのか……?」
「お前だって好きだろ」
「中沢商店だと、あれがダントツだな。あの店のあ○きバーは硬くて前歯が折れそうだし」
「あ○きバーはどこで買ってもあんなもんだぞ。あれは、少し溶かしてから食うものなんだ」
「ぐずぐずになるだろ」
「それがいいんだって。どこまで柔らかくするかのチキンレース」
「訳がわからん」
どうでもいい話を、この男とできるのが、俺にはたまらなく幸せに感じられた。
来年の今頃、この男は医学部生で。
俺は、運が良ければ、都内の美大生。
まったく違う人生を、歩むことになる。
ばあちゃんが死んだのは、悲しくて辛い。
それでも、高校生活最後の夏を、この男と過ごせることが、俺はどうしようもなく嬉しかった。
未舗装の道路。
むっとする草いきれと、埃っぽい土の匂い。
どこかで聞こえる風鈴の音と、全方位から降ってくる蝉の声。
俺は、両手の指でファインダーを作り、青く澄んだ空と、少し先を歩く航大の背中を、そっとフレームに収めた。
**
屋敷に戻ると、じいちゃんは、まだ仏間でお経を上げていた。
「航大、朝食は手早く作らせてくれ。教えるのは後な」
米を研いで、ガス炊飯器にセットする。
その間に、だし巻き卵と味噌汁を作り、昨夜のうちに漬けにしておいた刺身の残りをバター焼きにした。
ばあちゃんが大切にしていた、きゅうりのぬか漬けを添えれば完成だ。
ぽんっと炊飯完了の音がして、蓋を開ける。
甘みのある白米の香りが台所いっぱいに広がった。
「よし、できた」
じいちゃんを呼びに行こうとして振り返ると、戸口に航大が立ち尽くしていた。
「うわっ……! なんだよ、そこにいたのかよ」
「ああ……、なんか魔法みたいで、目が離せなくて……」
真顔でそんなことを言われ、ドキッとする。
「なんだよ、それ。大袈裟だな」
照れ隠しに笑い飛ばしかけて、気づく。
ばあちゃんは、なんだかんだ言って古風な人だった。
本家の跡取りである航大が台所に立つことを、あまり好まなかったのだろう。
料理が出来上がる様を眺めるのは、こいつにとって物珍しいのかもしれない。
「暇ならこれ、運んでくれよ」
「あ……ああ」
航大は小さく瞬きをして、だし巻き卵やバター焼きの並んだ盆に手を伸ばす。
「じいちゃーん。めしー!」
俺は、仏間に向かって声を張りながら、三人分の白米と味噌汁をよそった。
**
居間に現れたじいちゃんは、きっちりと身支度を整えていた。
「じいちゃん、今日、マジで仕事行くの?」
「——ああ、家におっても、気が滅入るだけだでな」
じいちゃんは食卓に並んだ朝食を前に、目を細めた。
「お前さんは、いつも朝からこんな豪勢な料理を……?」
「俺、弁当派だし。卵は毎日焼くよ。だし巻きばっかだと飽きるから、オムレツとかハムエッグとかその日の気分で色々」
「料理人でも目指しとるのか……?」
「全然。どうせ食うなら、うまいもん食ったほうがよくない? 人間、一生に摂れる食事の回数なんて、決まってるんだしさ」
何気なく言ったつもりだった。
でも、葬儀の翌日の食卓には、重すぎたかもしれない。
じいちゃんも航大も、一瞬だけ動きを止めた。
「——すまんな。夕子がロクに料理せんで……」
「母さんは関係ない。俺が、食べたいもの作って食べてるだけ」
慌てて急須にお茶を淹れながら答える。
「最近の子ぉは、こういうもんなんか……?」
じいちゃんは、俺ではなく航大に視線を向けた。
「……いや、俺は、まったく作れないから……」
航大は不甲斐なさそうに頭を掻く。
「やれるようにならにゃ、いかんよな……。ばあさんは、戻ってこんのだで」
自分自身に言い聞かせるようなその声に、胸が苦しくなる。
「冷める前に、食お!」
必要以上に、大きな声が出た。
「ああ……。いただきます。——ありがとな、優馬」
じいちゃんは手を合わせ、いつになく優しい顔で微笑んだ。
大きくて無骨な鍵束。
木札には、黒いマジックで『水守小学校』と書かれている。
ずしりと重いそれを、ハーフパンツのポケットにしまう。
「なくすなよ」
航大が念を押すように言った。
「わかってるって」
「心配だ。俺が預かっておいてやる」
航大は、当然みたいな顔で俺のポケットへ手を突っ込んだ。
「ひぁっ……!」
ハーフパンツの下は、今も下着を履いていない。
昨晩洗濯機を回すつもりが、例の怪異騒動のせいで、すっかり忘れていたのだ。
「いきなり手ぇ突っ込むなよ!」
動揺を隠すように怒鳴りつけると、航大はハッとしたように手の動きを止め、弾かれたように鍵を抜き取った。
よく見れば、耳の先がまた少し赤い。
航大はそっけなく俺に背を向け、すたすた歩き始めた。
まじで腹立つ。
俺だけが、こんなに苦しくて。
好きで、好きでたまらないっていうのに。
こいつの中で俺は、うっかりもので頼りない従兄弟でしかないのだ。
苛立ち紛れに石ころを蹴ろうとしたその時、不意に航大が振り返った。
「……少し、気分が晴れた」
年寄り連中に振り撒いていたのとは違う、ちょっと情けなくて、だけど、たまらなく愛おしい笑顔。
「お前が残ってくれて、本当に助かった」
白い歯を見せて笑うその顔を、一生、覚えていたいと思った。
「ありがたいと思うなら、後でアイス奢れよ。あの白くまのやつな」
「お前……今もあれが好きなのか……?」
「お前だって好きだろ」
「中沢商店だと、あれがダントツだな。あの店のあ○きバーは硬くて前歯が折れそうだし」
「あ○きバーはどこで買ってもあんなもんだぞ。あれは、少し溶かしてから食うものなんだ」
「ぐずぐずになるだろ」
「それがいいんだって。どこまで柔らかくするかのチキンレース」
「訳がわからん」
どうでもいい話を、この男とできるのが、俺にはたまらなく幸せに感じられた。
来年の今頃、この男は医学部生で。
俺は、運が良ければ、都内の美大生。
まったく違う人生を、歩むことになる。
ばあちゃんが死んだのは、悲しくて辛い。
それでも、高校生活最後の夏を、この男と過ごせることが、俺はどうしようもなく嬉しかった。
未舗装の道路。
むっとする草いきれと、埃っぽい土の匂い。
どこかで聞こえる風鈴の音と、全方位から降ってくる蝉の声。
俺は、両手の指でファインダーを作り、青く澄んだ空と、少し先を歩く航大の背中を、そっとフレームに収めた。
**
屋敷に戻ると、じいちゃんは、まだ仏間でお経を上げていた。
「航大、朝食は手早く作らせてくれ。教えるのは後な」
米を研いで、ガス炊飯器にセットする。
その間に、だし巻き卵と味噌汁を作り、昨夜のうちに漬けにしておいた刺身の残りをバター焼きにした。
ばあちゃんが大切にしていた、きゅうりのぬか漬けを添えれば完成だ。
ぽんっと炊飯完了の音がして、蓋を開ける。
甘みのある白米の香りが台所いっぱいに広がった。
「よし、できた」
じいちゃんを呼びに行こうとして振り返ると、戸口に航大が立ち尽くしていた。
「うわっ……! なんだよ、そこにいたのかよ」
「ああ……、なんか魔法みたいで、目が離せなくて……」
真顔でそんなことを言われ、ドキッとする。
「なんだよ、それ。大袈裟だな」
照れ隠しに笑い飛ばしかけて、気づく。
ばあちゃんは、なんだかんだ言って古風な人だった。
本家の跡取りである航大が台所に立つことを、あまり好まなかったのだろう。
料理が出来上がる様を眺めるのは、こいつにとって物珍しいのかもしれない。
「暇ならこれ、運んでくれよ」
「あ……ああ」
航大は小さく瞬きをして、だし巻き卵やバター焼きの並んだ盆に手を伸ばす。
「じいちゃーん。めしー!」
俺は、仏間に向かって声を張りながら、三人分の白米と味噌汁をよそった。
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居間に現れたじいちゃんは、きっちりと身支度を整えていた。
「じいちゃん、今日、マジで仕事行くの?」
「——ああ、家におっても、気が滅入るだけだでな」
じいちゃんは食卓に並んだ朝食を前に、目を細めた。
「お前さんは、いつも朝からこんな豪勢な料理を……?」
「俺、弁当派だし。卵は毎日焼くよ。だし巻きばっかだと飽きるから、オムレツとかハムエッグとかその日の気分で色々」
「料理人でも目指しとるのか……?」
「全然。どうせ食うなら、うまいもん食ったほうがよくない? 人間、一生に摂れる食事の回数なんて、決まってるんだしさ」
何気なく言ったつもりだった。
でも、葬儀の翌日の食卓には、重すぎたかもしれない。
じいちゃんも航大も、一瞬だけ動きを止めた。
「——すまんな。夕子がロクに料理せんで……」
「母さんは関係ない。俺が、食べたいもの作って食べてるだけ」
慌てて急須にお茶を淹れながら答える。
「最近の子ぉは、こういうもんなんか……?」
じいちゃんは、俺ではなく航大に視線を向けた。
「……いや、俺は、まったく作れないから……」
航大は不甲斐なさそうに頭を掻く。
「やれるようにならにゃ、いかんよな……。ばあさんは、戻ってこんのだで」
自分自身に言い聞かせるようなその声に、胸が苦しくなる。
「冷める前に、食お!」
必要以上に、大きな声が出た。
「ああ……。いただきます。——ありがとな、優馬」
じいちゃんは手を合わせ、いつになく優しい顔で微笑んだ。
