夏の終わりに唄う歌

第一話

 焼き上がったばあちゃんの骨と対面したとき、俺の視線は、白く砕けたばあちゃんの残骸ではなく、くちびるを噛み締めてそれを見つめる、詰襟姿の航大(こうだい)に釘付けになっていた。

 喪主を務めたじいちゃんのすぐそばに立つ、神崎(かんざき)航大。
 神崎本家の孫で、将来この家を継ぐのだと、誰もが当然のように見ている男だ。

 親族の端に立つ傍系の俺とは、立ち位置も、向けられる視線も違う。
 俺と航大が同じ場所に立つことなんて、最初から許されていないみたいだった。

 優しかったばあちゃんを悼まなくちゃいけないのに。

 俺は、骨上げの番が来るまで、涙を堪えるあの男の精悍な横顔に、ただ見惚れ続けていた。

**

 さっきまで、皆、あんなに悲痛な顔をしていたのに。
 神崎本家の屋敷に戻ると、葬式の直後とは思えない、和やかな酒宴が始まった。

 開け放たれた座敷の窓から、耳鳴りのような蝉の声が流れ込んでくる。

 山間の集落に建つ、重厚な日本家屋。
 かつてこの一帯の山と水を管理していた神崎家の本家屋敷は、大昔のまま時を止めているかのようだった。

 上座に座る神崎家の当主――祖父の神崎正大(まさひろ)を中心に、男たちが豪勢な料理を囲む。
 一方で、俺の母さんを始めとする女たちは、台所と座敷を忙しなく行き来していた。

 黒い喪服の袖をまくり、額に汗を浮かべながら、皿を下げ、空いたグラスに酒を注ぎ、酒瓶が空になれば、すぐに新しいものを運んでくる。

 誰も、それをおかしいとは思っていないようだった。
 少なくとも、この家では。

「いやぁ、美咲ちゃん、どえらい別嬪さんになったなぁ」
「さすが東京女は垢抜けとる。美咲ちゃんに注いでもらうと、酒までうまくなる」
「フラワーなんちゃらの仕事を手伝っとるんだったか? 道理で華があるわ」

 座敷のあちこちから、感心したような声が上がる。

 その中心にいるのは、俺の三つ年上の姉、美咲だった。
 黒いワンピースの喪服を着ているだけなのに、ぴんと背筋の伸びた立ち姿も、控えめに微笑む横顔も、妙に絵になっている。

 昔から、美咲はどこにいても人目を引いた。
 俺と同じ顔立ちのはずなのに、いつも俺よりずっと上手にこの世界に馴染んでいた。

「美咲ちゃん、もう大学生だったかね。何大学だっけ?」

 美咲は少しはにかんで、誰もが知る名門私大の名前を告げた。

「頭もようて、器量もええなんて、佐伯さんとこは鼻が高いなぁ」

 美咲は、嫌味にならない程度に愛想よく笑っている。
 その笑顔の作り方も、声の張り方も、俺には到底真似できない。

「航大くんも、もう高三だったな」
 話題の矛先が、上座の航大に移った。

 航大は俺と同い年とは思えない、大人びて完璧な笑顔を浮かべて答える。
「はい。おかげさまで高三になりました」
 
 本家の跡取りとして、そう振る舞うことに慣れている返答だ。
 周囲の年長者を敬う言葉を口にしながらも、どこか落ち着き払っている。

 けれどもその笑顔が、俺にはほんの少しだけ作り物に見えた。

「早いもんだ」
「いとこ同士は結婚できるでなぁ。航大くん、美咲ちゃんを嫁にもらったらどうだ」

 座敷内に、どっと笑いが起こった。

 俺の手の中で、麦茶の入ったグラスがかすかに揺れる。
 熱がこもった座敷の空気と、大人たちの無神経な笑い声が、ひどく息苦しい。

 俺は空いた方の手で、夏制服のネクタイの結び目をぐいと引き下げた。
 シャツの襟元を広げても、胸の奥のモヤモヤは少しも晴れない。

「神崎の若先生には、これくらいしっかりした姉さん女房がええわ」
「美咲ちゃんなら気立てもいいし、華やかでええ」
「本家に入ってくれたら、神崎家も安泰だな」

 やめろよ、と思った。

 そういう言葉を、本人たちの前で平気で口にできる神経が、俺にはわからない。
 けれど座敷の大人たちは、悪気のない顔で笑っている。

 航大は、きちんと背筋を伸ばして、年寄りたちの話を黙って聞いていた。

「航大くん、結婚は早い方がいい。なんなら学生のうちにでも籍を入れてまえ」
「遅なると、子ども産むのも大変だでな。美咲ちゃんには四人は産んでもらわんと」
「本家もにぎやかになるぞ」

 また笑い声。

 航大は困ったように眉を寄せ、一瞬、口を閉ざした。
 その沈黙が、俺には肯定に見えた。

 けれど、違った。
 航大はまっすぐ大人たちを見据え、静かな声で告げる。

「——美咲さんの人生を決められるのは、美咲さん本人だけだと思います」

 座敷の笑い声が、少しだけ引いた。

 怒鳴ったわけじゃない。
 責めたわけでもない。

 それでも、航大の低い声には、不思議と場を黙らせる力があった。

 美咲が、わずかに目を見開く。

 俺は、胸の奥をぎゅっと掴まれた。

 その瞬間、航大と目が合った。
 航大は何事もなかったみたいに、すぐ視線を逸らす。

 けれど、その一瞬だけで、俺にはわかった気がした。

 航大は、美咲を庇ったつもりさえない。
 ただ、黙っていられなかっただけなのだと。

 あいつは昔から、自分のためには何も言わない。
 なのに、誰かが踏みにじられそうな時だけは、必ず声を上げる。

 そういうところだ。
 俺が、この男を忘れられないのは。

 誰かが笑ってごまかそうとした、その時だった。

「――いやです」

 美咲がにっこり笑って、明るい声で言った。

「医者の嫁なんて、私には務まりませんよ。私、支える側より稼ぐ側になりたいので」

 年寄りたちが目を丸くする。
 その顔を見て、美咲はさらに笑みを深めた。

「母の仕事を継いで、フラワーコーディネーターとしてバリバリ働く予定なんです。結婚するなら、専業主夫になってくれる、料理上手で子煩悩な、笑顔の可愛い男性一択ですね」

 どっと笑いが起きた。

「美咲ちゃんは昔からはっきりしとるなぁ」
「東京の子は言うことが違うわ」
「航大くん、ふられてまったな」

 航大は、どう返していいかわからない顔で、ただ小さく頭を下げている。
 その不器用な反応に、また笑いが起きた。

 美咲はその隙に、ちらりと俺を見た。

 ほんの一瞬。
 けれど、俺にはわかった。

 今のは、俺のためだ。

 余計なこと言わないで。
 からかわないで。
 その相手を、うちの弟がどんな目で見ているかも知らないくせに。

 美咲の目が、そう言っている気がした。
 打ち明けたことは一度もない。
 けれど、勘のいい姉は、きっと気づいている。

 俺は慌てて視線を逸らし、ぬるくなった麦茶を口に含んだ。
 味は、ほとんどわからなかった。

「そういえば優馬(ゆうま)

 美咲は、まるで今思い出したかのように、自然な仕草で俺の方を向いた。

「アンタ、写真のコンクールに参加するんでしょ。課題、何だっけ」

「……あの夏の残像」

 嫌な予感がした。
 美咲は俺の隣まで来ると、俺の肩にぽんと手を置いた。

「せっかく水守まで来たんだから、こっちで撮っていけば? 東京で撮るより、ずっとそれっぽいじゃない」

「それっぽいって何だよ」

「夏。田舎。廃校。制服男子」

 最後の一つだけ、妙に声が弾んでいた。

「廃校?」

 近くにいた親戚の一人が首を傾げる。
 美咲はすかさず振り返った。

「ほら、あの何年も前に廃校になった小学校です。コロナの時、ワーケーション施設になってたところ。最近、閉めちゃったって聞きましたけど」

「ああ、あそこか。今は使っとらんなぁ」
「鍵は区長さんが持っとるはずだが」

「あそこ、撮影に貸していただけませんか?」

 美咲の問いに、大人たちは渋い顔をする。

「貸すって言ってもなぁ……」

「優馬だけじゃ不安なら、航大くんに立ち会ってもらうとか。ほら、ちょうど制服姿だし。いかにも『あの夏の残像』って感じの写真が撮れそうじゃないですか」

 大人たちの視線が、自然と航大に集まる。

「航大くんが一緒なら、ええだろ」
「若先生が見とるなら安心だ」

 俺はぎょっとして美咲を見た。

「ちょっと待って。俺、そんなこと頼んでない」

「頼みなさいよ。モデルも必要でしょ。航大くんがモデルなら、それだけで入賞にグッと近づくわ」
 美咲は涼しい顔で言った。

「制服も、すっごく似合うし」
 その一言で、俺は反射的に航大を見てしまった。

 本来なら夏服でいいはずなのに。
 喪に服すために、このクソ暑い中、わざわざ長袖の詰襟を着てきたのだろう。

 漆黒の詰襟。
 広い肩。
 膝の上で固く組まれた手。

 火葬場で見た、涙を堪える横顔が、今の航大に重なった。

 撮りたい、と思ってしまった。
 最悪だ。

 忘れるために撮るなら、これ以上ない被写体だ。
 けれど、シャッターを切った瞬間、俺はきっと、二度と忘れられなくなる。

「やめろよ、姉ちゃん。航大、医学部受けるんだし。高三の夏は受験勉強めっちゃ大変だって」

 断られる前に、自分から予防線を張っておきたい。
 傷つくのは辛いから。

 声が震えてしまいそうになるのをグッと堪え、道化た声で告げた。

 その言葉を遮るように、航大が静かに口を開いた。