午後の日記帳 2026

2026年5月18日(月)


「お大事になさってください」

 赤い眼鏡の女のひと、にこやかなおじさん、きれいなお姉さん。三人の薬剤師さんの声にお辞儀をして、わたしと母は自動ドアからそろりと出ました。

 白いビニール袋の中から、猫の柄をしたお薬手帳を母に渡します。目の前には病院の大きなお庭。数年前枝を切ってさっぱりさせられたはずの大樹が、そんなことは忘れ去ったとでも言わんばかりにいっぱい葉をつけていました。

 薬剤師さんはわたしの順番になると、前のおばあさんのときより、口角をあげて対応してくれました。気を遣うのでしょう。先生も薬剤師さんも、わたしを見ると肩に力が入るのです。ここが病院で、薬局で、今が一六時だからでしょう。

 隣の広々とした公園の端を、チェック柄のスカートを揺らして下校して行きます。スクールバッグについたピンク色の大きなマスコット。近くの高校には、わたしの中学校時代のクラスメイトも通っているはずでした。

 ——なんだか、文学的。

 わたしは初夏らしい眩しいほどの緑を前に、くすりとほくそ笑みました。

 世の中には、付き合ってはいけない3B、というのがあるのだそうです。美容師、バーテンダー、バンドマン。わたしはそれに「小説家」も入れるべきだと常々考えています。Bではありませんけれども。

「午後ちゃんたら、またくすくす笑ってる。思い出し笑い?」

 病院の駐車場へ向かいながら、母が呆れたように笑いました。思い出し笑いというのは、わたしの得意技です。

「ううん。JKの鞄のマスコット、かわいいなと思って。わたしもスクーリングのとき、つけていこうかなあ」

「どの子を買うの、やっぱり猫ちゃん?」

「すみれさん」

「当日になって、汚れるのがもったいないって外して行きそうだね」

 わたしはけらけら笑って、一歩だけ大股になりました。ちょうどそこの道はタイルが外れていて、一ヶ月ほど前、あやうく転びそうになったのです。
 
 
 母は「ケチャップを買いたいから」と、ドラッグストアで車を止めました。けれども、「ついでにこれも」「あれがないわ」と結局買い物袋いっぱいに買ってしまうのが母の性分です。「ケチャップだけなら」と、わたしもついてきたのに。

「パパのおやつがないね」

 重いねずみ色のカートを押しながら、今度はお菓子のコーナーへ向かいます。あたたかすぎるくらいの、初夏の午後。家からのっそりと出てきたわたしだけが長袖を着ていました。

「あ、あれも買わなきゃ、洗濯洗剤」

 つぶやいた母は、反対方向の売り場へ小走りして行ってしまいました。放られた「先にお菓子見ておいて」という言葉に従い、わたしはすみっこの一角へ足を踏み入れます。

「ねえ、チョコレートは?」

「いいじゃん、スナックにしようよ」

 きゃっきゃっという明るい笑い声が、売り場を満たしていました。

 ——あ、女子高生。

 そう思ったわたしは、どうしてか手前の棚に姿を隠しました。三十センチほどを隔てて、この歳の女の子特有のきらめきが伝わってきます。

「……そうだ、お菓子」

 ひとつ向こうの棚に、父のお気に入りを見つけました。ひとつ向こうの棚、つまりはあの子たちのいるところです。あんなに楽しそうなふたりの視界に、入ってよいものでしょうか。けれども、母は洗剤を手にすぐにこっちへ来ます。わたしはカートから手をはなし、空気のようにそろりと一歩踏み出しました。たたたっと向こうの棚まで行き、しゃがみ込んでお菓子を手に取ります。

 ——なんだ、心配することなかったじゃない。あの子たちはおしゃべりに夢中で、わたしを見ている暇なんてないんだ。わたしはほっと息をついて、くるりと後ろを——向こうとしました。

 ほっとしすぎたのでしょうか。あの子たちのいる方向から、わたしはわざわざ振り返ったのです。

 目が合いました。わたしから見て、奥側にいる女の子でした。まつ毛の長い目が、ほんの一瞬長袖のわたしを映します。それがふっとそらされて、手前の髪の長い子に、きらきらとかがやく笑顔を。品よくカットされた、さらさらのボブカットをゆらして。

「午後ちゃん、いつものあった?」

「あ……うん!」

 背中で、母の声。わたしはたっと駆け寄りました。母はわたしがほっぽっていったカートを押しています。洗剤の水色のパッケージが顔を覗かせていました。

「長袖、暑いでしょう。……アイス、食べながら帰ろうか」

 母はそう言って、にこりと笑いました。
 
 
「ママが小さかった頃はね、このアイスもっと小さかったのよ」

 信号待ちをしながら、母がアイスをかじります。

「十センチくらいで、コーンの内側をチョコでコーティングするなんて案もないものだかから、もうふにゃふにゃで——」

「ふうん……」

 曖昧な相槌を打ちます。心の中では、いつもの白昼夢を見ていました。

 ——わたしが一度、ボブカットにしたときのことです。そのときも今と同じように「あばら骨をすべて覆ってしまうくらい」の長さをしていて、ばっさりとやったのでした。小学校五年生の終わりごろだったでしょうか。クラスメイトの反応は、これ以上ないほどに微妙なもの。

「あっ……うん、いいと思うよ、前よりは」

 苦笑い、気を遣うように細められた目、遠くへ引き下がっていくような声音。ゆりかごから十五の春まで。同じ顔ぶれを見て育つこの町では、一度ついた色を洗い落とすのは難しいのです。

 もう何度思い出したでしょうか。こういう思い出は、忘れた頃にふっとやってくるのです。

 ただ単純に、わたしにボブカットはすごく似合わなかっただけかもしれません。けれども、彼彼女らは無邪気なのです。

 信号が青になり、母がアクセルを踏みます。母越しの窓枠、映画のフィルムのように景色が変わって流れていきました。

「長い髪は、撫でたくなるように愛おしい」

 わたしの免罪符は、春の雪の日のような声にありました。彼女、または彼は、甘い男性のような、大人びた女性のような、不思議な声のひとです。すみれさん。びっくりしてしまうくらいに歌の上手な、舞台の上の存在でした。いつか、あのきらめきを間近で見られたら。

 そんなすみれさんからこぼれた言葉は、髪が伸びるごとに、ステージに近づく感覚をくれました。似合わないボブカットから遠ざかる、安心感から目を離して。

「……髪、切りたいな」

 初夏というのは、わたしにはほんの少しだけ眩しすぎるようでした。