2026年4月19日(日)
「ママ、本当だよ! この先に、長靴が置いてあったの」
その日は母も一緒に、桜並木を歩いていました。一日とんで、日曜日の昼下がりです。父とわたしは、母に長靴がいかにおそろしかったか力説しているところでした。
下げたポシェットの中では、お気に入りの本がご機嫌にゆれています。土曜日に図書館へ行って、何度目かの貸し出し手続きを経てきたのです。
「川岸ぎりぎりに?」
「そうそう、きれいにそろえて置いてあったんだよ!」
いぶかしげに言う母に、父が応じます。
「そうしたら次の日にはなくて!」
そう熱弁しながら、青々とした葉の下を歩いていきます。前の日同様、川をちらちら見つめながら。……なんてったって、お昼ご飯のラーメンだって、落ち着いて味わえながったくらいですから。
——わん。
「わっ」
吠える声のほう、進行方向へ視線を戻すと、シベリアン・ハスキーが二匹。夫婦らしきふたりの飼い主さんにそれぞれリードを引かれています。今にもこちらへ飛びかからんばかりに、目をきらきらとさせていました。
「かわいい」
小さな声でわたしが言うと、飼い主さんに会釈しながら父が言います。
「今、だーっと走ったら、きっと追いかけてくるぞ」
「そうそう。遊ぼう遊ぼう! ってね」
にこにこして言うのは、母です。
そのあとは、またニュースキャスターの頭のお話になりました。母が二匹とふたりを見送りながら言った「ふさふさだね」と言う言葉によってです。まったく俗っぽい話題ですが、我が家の定番なのです。
まだ髪が抜けるとか、白くなるとか、そう言うのは何十年も先なわたしは、じっと川のほうを見ていました。適当に相槌を打っていると、八重桜のピンク色が見えてきます。
「あ、そろそろかな?」
言いかけて、気がつきました。
「……って、帰りからじゃないと見えないのか」
「トリックだからね」
そう言う父に、止めた足をしぶしぶ前方へ向けます。
「トリックって、なあに?」
父はまたしても力説をはじめます。
視線を川から手前へ向けると、咲き誇る八重桜の下に、ひっそりとヒメオドリコソウが咲いていました。
ひらひらとドレスのような緑の葉に、うすむらさきの小さな花がお飾りのようについています。小さいころはよくその花を摘み、蜜を吸ったものです。——今思うと、ちょっとぞっとしますけれど。わたしはふたりと二匹が去って行ったほうを、反射的に振り返りました。
そんなこんなで、その日も前の二日同様に水色の柵へ石を置きます。二日とふたり、今日の三人ぶんで、合計七つです。
「そういえば、あれはどうなったんだ?」
「あれって?」
父の問いに、川を見たまま首をかしげます。
「午後ちゃんの文章で、小説を書くってやつだよ」
「ああ、言ってたね」
わたしは川から、父と母のほうへ視線を戻しました。
「うーん、筋書きはつくってるんだけど……まだむずかしくて」
「そうかあ。まあ、暇なときにでも書いてみてよ」
書いてはみているんだけどなあ。そう心の中でつぶやきます。
実際、難航中でした。
わたしには、「午後ちゃんの文章」がわかりません。自分の体のにおいや、家で使っている柔軟剤のにおいは、自分ではわかりにくいといいます。それと同じことなのでしょう。
父は「上辺のことじゃない」といいましたが、「午後ちゃんの文章」の傾向がわからない限り、主人公もつくれません。わたしの書く「一人称視点」は主人公の独白めいた書きかたなのですから。
ポシェットをぎゅっと握ります。文庫本の固い感触がありました。あの先生なら、この状況をどう打破するのでしょう。
「——お? ないか?」
そう考え込み始めたところで、八重桜と坂道の前まで来ていました。
はっと、わたしはポシェットを離します。赤い裏地。その色がはっきり脳裏に浮かびました。
「ええ? どれどれ」
母が父の言葉に、坂道の下をじっと見つめます。
まさか、またないだなんて。流されそうな長靴をコンクリートへ置くならわかります。けれど、コンクリートの上の長靴は、どうして移動させるのでしょう。
わたしはそわそわを抑えながら、視線を動かします。
「——ん?」
舗装された坂道の下、生えた雑草の色に紛れて赤が見えます。
「なんだ、あるじゃない……」
わたしは、ほっと息をつきます。
「ええ、どこよ」
「ほら」
「ないぞ?」
指で示しても、いぶかしげに目をぱちぱちとする父。母はわたしたちのやりとりにぽかんとしていました。
「……じゃあ、降りていってみようよ」
このまま帰るのは、なんだか釈然としません。——わたしは唾をのんで、言いました。心臓がどきり、と鳴ります。
「そうしようか」
「そうだね」
ふたりぶんの賛同があがりました。わたしは止めていた足を、一歩踏みしめます。
白いスニーカーが、白いコンクリートの上を進んでいきます。川から流されてきたのであろう木片が、ばらばらと広がっていました。——緊張するとまばたきがはやくなると言いますが、事実のようです。
「ほら、そこにあるでしょう?」
長靴まで一メートルくらいのところまで来て、父と母はやっと長靴を認めました。
「おお、よかったよかった」
「これがそれなのねえ」
母はうんうんとうなずきながら、長靴へ近づいていきます。
「あ、ママ、待ってよ!」
ポシェットの肩紐を握り、追いかけます。それがもし、縁起でもないものだったら。肝を冷やしながら、「危ないよ」と言いかけました。
「——あら」
ふふ、と母は笑いながら振り返ります。
わたしは、足元へ目を向けました。
「……なあんだ!」
そこには、赤い裏地の——かかとの壊れた、釣り用長靴。
「捨てて行ったんだなあ!」
父もやってきて、三人で長靴を囲みます。
「マナーの悪い釣り人はいかんなあ。今度の河川清掃で、パパたちが拾わなきゃならん」
そう言う父の声は、今にも笑い出しそうでした。
わたしはふと、長靴を見つけた日のニュースを思い出します。どうやらかつらをかぶっているらしい夕方のキャスターさんが言うには、電車の忘れ物には、靴がけっこう多いのだとか。デパートで新しいものを買って、古いものを処分するのが面倒だから——なんて理由らしいのです。
「もっとちゃんと、考えればよかった!」
おかしくて、声をあげて笑いました。ポシェットの中身を、ぽんとたたきます。
「だれよう、幽霊なんて言ったひと!」
「午後ちゃんだよ、まったくホラー好きだねえ」
母も父も、けらけらと笑いました。
ところで、ポシェットの中身はなんだったでしょう。本です——あの先生の、エッセイです。
「あ……」
わたしの鼻の先を、淡いピンク色の花びらがかすめます。振り返ると、咲き誇る八重桜。まるで「勝手に殺すな!」とでも、言いたいみたいに。
「——わかった!」
「わかったって、なにが?」
母が首をかしげます。
「エッセイだよ、エッセイ!」
「エッセイ? なんだそれ」
父はぽかんとしています。
——その日は、水切りが三回できました。
「ママ、本当だよ! この先に、長靴が置いてあったの」
その日は母も一緒に、桜並木を歩いていました。一日とんで、日曜日の昼下がりです。父とわたしは、母に長靴がいかにおそろしかったか力説しているところでした。
下げたポシェットの中では、お気に入りの本がご機嫌にゆれています。土曜日に図書館へ行って、何度目かの貸し出し手続きを経てきたのです。
「川岸ぎりぎりに?」
「そうそう、きれいにそろえて置いてあったんだよ!」
いぶかしげに言う母に、父が応じます。
「そうしたら次の日にはなくて!」
そう熱弁しながら、青々とした葉の下を歩いていきます。前の日同様、川をちらちら見つめながら。……なんてったって、お昼ご飯のラーメンだって、落ち着いて味わえながったくらいですから。
——わん。
「わっ」
吠える声のほう、進行方向へ視線を戻すと、シベリアン・ハスキーが二匹。夫婦らしきふたりの飼い主さんにそれぞれリードを引かれています。今にもこちらへ飛びかからんばかりに、目をきらきらとさせていました。
「かわいい」
小さな声でわたしが言うと、飼い主さんに会釈しながら父が言います。
「今、だーっと走ったら、きっと追いかけてくるぞ」
「そうそう。遊ぼう遊ぼう! ってね」
にこにこして言うのは、母です。
そのあとは、またニュースキャスターの頭のお話になりました。母が二匹とふたりを見送りながら言った「ふさふさだね」と言う言葉によってです。まったく俗っぽい話題ですが、我が家の定番なのです。
まだ髪が抜けるとか、白くなるとか、そう言うのは何十年も先なわたしは、じっと川のほうを見ていました。適当に相槌を打っていると、八重桜のピンク色が見えてきます。
「あ、そろそろかな?」
言いかけて、気がつきました。
「……って、帰りからじゃないと見えないのか」
「トリックだからね」
そう言う父に、止めた足をしぶしぶ前方へ向けます。
「トリックって、なあに?」
父はまたしても力説をはじめます。
視線を川から手前へ向けると、咲き誇る八重桜の下に、ひっそりとヒメオドリコソウが咲いていました。
ひらひらとドレスのような緑の葉に、うすむらさきの小さな花がお飾りのようについています。小さいころはよくその花を摘み、蜜を吸ったものです。——今思うと、ちょっとぞっとしますけれど。わたしはふたりと二匹が去って行ったほうを、反射的に振り返りました。
そんなこんなで、その日も前の二日同様に水色の柵へ石を置きます。二日とふたり、今日の三人ぶんで、合計七つです。
「そういえば、あれはどうなったんだ?」
「あれって?」
父の問いに、川を見たまま首をかしげます。
「午後ちゃんの文章で、小説を書くってやつだよ」
「ああ、言ってたね」
わたしは川から、父と母のほうへ視線を戻しました。
「うーん、筋書きはつくってるんだけど……まだむずかしくて」
「そうかあ。まあ、暇なときにでも書いてみてよ」
書いてはみているんだけどなあ。そう心の中でつぶやきます。
実際、難航中でした。
わたしには、「午後ちゃんの文章」がわかりません。自分の体のにおいや、家で使っている柔軟剤のにおいは、自分ではわかりにくいといいます。それと同じことなのでしょう。
父は「上辺のことじゃない」といいましたが、「午後ちゃんの文章」の傾向がわからない限り、主人公もつくれません。わたしの書く「一人称視点」は主人公の独白めいた書きかたなのですから。
ポシェットをぎゅっと握ります。文庫本の固い感触がありました。あの先生なら、この状況をどう打破するのでしょう。
「——お? ないか?」
そう考え込み始めたところで、八重桜と坂道の前まで来ていました。
はっと、わたしはポシェットを離します。赤い裏地。その色がはっきり脳裏に浮かびました。
「ええ? どれどれ」
母が父の言葉に、坂道の下をじっと見つめます。
まさか、またないだなんて。流されそうな長靴をコンクリートへ置くならわかります。けれど、コンクリートの上の長靴は、どうして移動させるのでしょう。
わたしはそわそわを抑えながら、視線を動かします。
「——ん?」
舗装された坂道の下、生えた雑草の色に紛れて赤が見えます。
「なんだ、あるじゃない……」
わたしは、ほっと息をつきます。
「ええ、どこよ」
「ほら」
「ないぞ?」
指で示しても、いぶかしげに目をぱちぱちとする父。母はわたしたちのやりとりにぽかんとしていました。
「……じゃあ、降りていってみようよ」
このまま帰るのは、なんだか釈然としません。——わたしは唾をのんで、言いました。心臓がどきり、と鳴ります。
「そうしようか」
「そうだね」
ふたりぶんの賛同があがりました。わたしは止めていた足を、一歩踏みしめます。
白いスニーカーが、白いコンクリートの上を進んでいきます。川から流されてきたのであろう木片が、ばらばらと広がっていました。——緊張するとまばたきがはやくなると言いますが、事実のようです。
「ほら、そこにあるでしょう?」
長靴まで一メートルくらいのところまで来て、父と母はやっと長靴を認めました。
「おお、よかったよかった」
「これがそれなのねえ」
母はうんうんとうなずきながら、長靴へ近づいていきます。
「あ、ママ、待ってよ!」
ポシェットの肩紐を握り、追いかけます。それがもし、縁起でもないものだったら。肝を冷やしながら、「危ないよ」と言いかけました。
「——あら」
ふふ、と母は笑いながら振り返ります。
わたしは、足元へ目を向けました。
「……なあんだ!」
そこには、赤い裏地の——かかとの壊れた、釣り用長靴。
「捨てて行ったんだなあ!」
父もやってきて、三人で長靴を囲みます。
「マナーの悪い釣り人はいかんなあ。今度の河川清掃で、パパたちが拾わなきゃならん」
そう言う父の声は、今にも笑い出しそうでした。
わたしはふと、長靴を見つけた日のニュースを思い出します。どうやらかつらをかぶっているらしい夕方のキャスターさんが言うには、電車の忘れ物には、靴がけっこう多いのだとか。デパートで新しいものを買って、古いものを処分するのが面倒だから——なんて理由らしいのです。
「もっとちゃんと、考えればよかった!」
おかしくて、声をあげて笑いました。ポシェットの中身を、ぽんとたたきます。
「だれよう、幽霊なんて言ったひと!」
「午後ちゃんだよ、まったくホラー好きだねえ」
母も父も、けらけらと笑いました。
ところで、ポシェットの中身はなんだったでしょう。本です——あの先生の、エッセイです。
「あ……」
わたしの鼻の先を、淡いピンク色の花びらがかすめます。振り返ると、咲き誇る八重桜。まるで「勝手に殺すな!」とでも、言いたいみたいに。
「——わかった!」
「わかったって、なにが?」
母が首をかしげます。
「エッセイだよ、エッセイ!」
「エッセイ? なんだそれ」
父はぽかんとしています。
——その日は、水切りが三回できました。


