午後の日記帳 2026

2026年4月17日(金)


 その次の日は、父の帰りがちょっぴり遅くなりました。わたしは時計を確認します。何度目だったでしょう。レースのカーテンを閉めて数十分、わたしはそわそわしながらパソコンと向き合っていました。

 先日言われた「午後ちゃんの文章」の似合いそうな筋書きをつくるため、調べ物をしていたのですが、うまく集中できません。事実は小説より奇なり、だなんて、よく言ったものです。

 もう今日は遅くなるし、行けないかな。そんな思いがちらつきはじめた時、玄関の外でちゃりんと金属の音がしました。鍵です。

 わたしはアパートの狭い廊下を早足で歩き、玄関を開けた父を出迎えます。

「ねえ、お散歩行かない?」

 おかえりの次に、そう言いました。

「今日は行かないって言うかと思ったなあ」

 その日は金曜日だったので、しばらくはロードショーのことを話して歩いていましたが、父はふとそう言いました。信号を渡り、桜並木へ向かいます。

「……だって、たしかめたいじゃない。もしかしたら、なくなっているかもしれないよ」

 今日はニュースキャスターの頭の話なんてしていられません。

「それはそれでこわいなあ。誰が持っていたんだって話になる」

「そっか、たしかに……」

 それから、父の職場の人の話になります。身近なひとの声真似というのが、父の特技なのです。目を細め、声を太くして「アイツはクソや!」と言います。ご機嫌ななめなときの、部長氏の真似です。

「——なんよ、川ばっかり見て」

 何度聞いても似てはいるので、笑っていましたが、ばれてしまいました。——川から、目を逸らせないのです。

「腕とか浮かんでいたら、こわいよ。見つけてお巡りさんに届け出てあげないと、呪われちゃいそう」

「うわあ……。やっぱり午後ちゃんはホラー好きだなあ」

 父がそんな軽口をたたく間も、ちらちらと川を見やります。河原に藪のようなところもあって、ひっかっかっているビニールが人間の服のように見えました。

 その藪の近くに、雨と洪水でできた水たまりがあります。けっこう大きく、どういうわけかエメラルドのような緑をしていました。

「ああいうところに足を突っ込むと、温かいんだよなあ」

父はそれを見ると決まってこう言います。

「——あれ、なんだ?」

 そのあとは決まって、父の少年時代の思い出話になるはずです。しかしその日に限っては、ちがいました。

「え?」

 父の指すほうを見てみると、朱色の何かがぷかぷか浮き沈みしています。川の向こう側、釣り人の車のある岸の、すぐ近くでした。一瞬、長靴かと思って身構えます。

「鯉か?」

「うーん、泳いでるってわけじゃなさそうだけど……」

 同じ場所で規則的に動く朱色を見つめながら、わたしはほっと胸をなでおろします。それは長靴の赤より、オレンジがかっているように見えました。

 父はスマホのカメラで物体を写し、拡大してみてくれます。しかし、なにぶん向こう岸まで結構な距離です。いくら高性能なカメラでも、流石に画質がよくありませんでした。

「あそこの釣りの人に言ったら、見てくれるかな」

「叫んでも届かないよ……」

 今にも「おーい」と車へ呼びかけそうな父に、ちょっぴり呆れながら返します。

 すると向こう岸に、黒いウェアを着た釣りのお兄さんがとことこ歩いてやってきました。お兄さんは朱色の物体のすぐそばまで行き、かがみ、ひものようなものを引っ張ります。すると——朱色は、ぴょこんと空中へ。

「なんだあ、釣りの道具か」

「あれ、なにをするものなの?」

「釣った魚を入れておくんだよ。今の時期だと、雑魚かな」

 そんなことを話しながら、青々とした桜の葉の下を歩いて行きます。しかし、川から目を離すことはできません。川底の石まで見えるような清流を、じっとにらんで歩きます。水がきれいなもので、死体でも浮かんでいたら、きっとはっきり見えるでしょう。そんなことを自分で思っては、背中に冷たいものを走らせます。

「……お、そろそろか」

父の言葉に、わたしは少し背伸びしました。若葉をつけた木々に遮られ、河原はなかなか見えません。父も猫背をぐうっと伸ばしましたが、見えたとは言いません。

 少し早足になり、わたしは木々に少し間があるところまで来ました。

「——ない」

 こぼれるように音になりました。

 川の流れが石を打ち、下流へさらさら流れていきます。揺れる若葉と、散る八重桜と、澄んだ清流。それは平和そのものでした。先ほどまでのそわそわを、まるで嘘だと言うようです。——ただ、前の日よりも少し、濡れた石が多く見えました。

「あれっ、本当にないなあ!」

 あとからきた父が手のひらを額にやり、前のめりになります。

「水かさ、多いか。昨日夜ちょっと降ったしなあ」

「……うーん、もしかして、流されちゃった?」

「そうかもなあ」

 歩き出しながら、父が笑います。

「まさか、本当にないなんてなあ!」

 わたしが言い出しただけに、とてもじゃありませんがぞっとします。——「誰が持っていったんだって話になる」。川から目を離せず、わたしは後ろを振り返りながら歩きました。

「もしかして、忘れ物で誰かがとりにきたととか……」

 いちばんの安心な結末を口にしてみますが、いけません。言っていて自分で「これはないな」とわかります。

「——いや、これはトリックだ!」

「トリック?」

 おうむ返しとは、このことです。

「ほら、春は謎解きの季節だろう」

「あーあ、映画もやるもんね!」

 父が言っているのは、あの少年探偵の漫画のことです。春になると、決まって映画をやります。ついさっき話していたロードショーも、過去の映画の放送のことでした。

「あそこには鏡があって——行きからは見えないんだよ。ほら、昨日も見つけたのは帰りだったじゃない。鏡を使ったトリックってわけさ」

「べただね、よくあるやつだ」

「きっとあの辺りに犯人が隠れていて……パパたちの反応を見ているんだよ」

「えー、こわい!」

 うそだとわかっているホラーは、やっぱりよいものです。わたしは声をあげて笑いました。

 そんなこんなしていると、折り返しの水色の柵が見えてきます。

「お、こっちはちゃんとあったな」

 その日もふたりぶん小石を置いて、わたしたちはくるりときびすを返しました。

 道端の草花に目をやりながら、またしても映画の話になります。最近、父お気に入りのキャラクターの声優さんが変わったのです。

 桜並木の反対には、田植えのためにおこされた田んぼが並んでいました。張られた水がわたしと父の姿を映します。

 ちなみに、田んぼを埋め立てて家を建てるのは、あまりよろしくないそうです。もとが柔らかい土なので、いくら埋め立てても地面が沈んでしまうのです。それに加えて、周りを田んぼに囲まれていると、かえるにも取り囲まれることになります。わたしは虫がめっぽう苦手なもので、それを聞いたときには、さあっと血の気が引くようでした。——父と散歩をすると、おかしな知識がいっぱい頭に入ってきます。

「うーん、ないよ、流石に」

 散る八重桜の花びらをぱんとキャッチしながら、わたしは父に言いました。父は立ち止まり、細い目をさらに細め、川べりをじっと見つめます。

「ないかあ……本当にないか?」

「ないねえ、推理ははずれだよ」

 淡いピンク色の花びらを、ふっと吹きます。

「やっぱり、あのあと持ち主さんが取りにきたのかな」

「いやあ、遠くのひとならわざわざ取りに来ないだろう。流されたなら、そのへんに浮かんでいるかもしれないぞ。降りて行ってみまいか」

「いやだよ、こわいもん」

「今日は水切り、きっとびっくりするくらい飛ぶぞお。パパの見立てでは十回だな」

「引っかからないよ! はやく帰ろう」

「シビアだなあ」

 そうぶつぶつ言う父の腕を引っ張り、半ば引きずるようにして歩を進めます。道端のたんぽぽは、わたしの恐怖なんてきっと知らないのでしょう。

「ああっ!」

 そのとき、父が声をあげました。

「あった!」

 細いはずの目が、黒豆のようにまんまるでした。

「ええっ?」

「ほら!」

 指さす先は、川へ降りていく坂道の先でした。大きな木の下、突き当たり。アスファルトから自然の地面に変わっ
ているその場所に、ありえないようなはっきりとした赤。

「本当だ……!」

「ほら、言っただろう、トリックだって!」

「すごい! パパ、さえてたね!」

 突っ込むことも忘れていました。父と顔を見合わせます。

 堤防の陰になる坂の終わりに、長靴はあったのです。ちょうどぴったり、行きからは見えないところに。

「だけど、どうしてあんなところに」

「きっと誰かが拾って、流されないところへ置いてやったんだよ。あのままじゃ、川に流されていただろうしね。見に行ったひとがいるんだなあ」

「なるほど」

「どうだ、降りて行ってみまいか。今日は水切り、すごいこと飛ぶぞ〜。パパの見立てでは十回だな」

「それ、さっきも聞いたよ。こわいからいやだよ、帰ろう」

「シビアだなあ」

 わたしは、父を引っ張るようにして帰りました。ほかにも長靴を見つけたひとがいる。その事実に、ちょっぴり安心しながら。——しかしどうして長靴があんなところにあるのかは、その日もわからないままでした。