午後の日記帳 2026

2026年4月16日(木)


 次の日、わたしがパソコンへ向かっていると、父が帰ってきました。

「お散歩、行かまいか」

 時刻はレースのカーテンを閉めるくらい。日の延びてきたこの頃は暑くも寒くもなく、その日はお天気もうららかでしたから、お散歩日和というわけです。

 わたしはニュースをやっていたテレビを消し、メッセージでお喋りしていた友人にことわりを入れ——父はスーツから着替え、まだ仕事中の母にメッセージを送ります。そうして、ふたりでスニーカーを履きました。

 わたしたちの住んでいるアパートから少し歩くと、桜並木に出ます。川を清流が流れ、その堤防沿いを桜が囲んでいるのです。

 桜はもう散り、緑の若葉が茂っていました。数週間前同じ道を通ったときは満開だっただけに、不思議な感じがします。

 そしてお散歩のお供といえば、おしゃべりです。その日あったうれしかったことや、愚痴や、身近なひとの声真似、エトセトラ。今回はニュースキャスターの頭の話です。けれども、いいとか、悪いとか、そういうのではありません。

「朝のあのひとは髪が薄い」とか「夕方のあのひとはかつらだ」とか、そんな下世話な話です。父は伯父や祖父がスキンヘッドなのを見、自分もそうなるのではないかと危惧しているようです。……こんなことを書くと、怒られちゃうでしょうか。

 兎にも角にも、しばらく歩きました。建物や道のある関係で、少しだけ曲がっている道があります。そこに差し掛かったとき、わたしはあっと声をあげました。

「ねえ、あれ、咲いてる!」

 右手で示した方向には、八重桜が満開に咲いていました。数週間前に通ったときは、その数株は死んだようにひっそりとしていて、「もうこの子達は咲かないのかしら」なんて母が言ったくらいです。それが緑のソメイヨシノの中で、一部だけ、いっぱいに花をつけていました。

「おお、きれいだね!」

 父と早足で八重桜の前まで行きます。

「もう咲かないかと思ってたね」

「もう死んだかと思ったけど、勝手に殺すなって感じだなあ」

 父はそう言って両腕をあげ、右手の方へ体を傾けました。川に覆いかぶさるような、桜の木の真似です。わたしもそうしましたが、草刈りをしていたご紳士があまりにもこちらを凝視するので、すぐにやめにしてしまいました。

 桜並木の終わり、折り返し地点まで行くと、少し車を停められる場所があります。水色の柵で囲われていて、6月には紫陽花が咲くのです。その柵の上に小石を乗せ、わたしたちは引き返していきました。

「今度来たときもそのまま置いてあるかな」

「うーん……そうだなあ。ないんじゃないかな、風が吹いたら落ちちゃうでしょう。パパは?」

「明日までは天気もいいみたいだから、明日来るなら『ある』のほうかな。午後ちゃんはああいうの見たら、どうする?」

「わたしは全部落としちゃう」

「破壊神だね」

 そんなことを言いながら、八重桜の前を通り過ぎます。そうすると川へ降りていくゆるやかな坂があって、以前来たときは河原で水切りをしました。そのとき、わたしは初めて水切りを成功させたのです。最高記録は、なんと二回!

 今やったらできるかな、なんて考えていると、今度は父があっと声をあげました。川の方を指さして、口を大きく開けています。

 つられてわたしは振り向きました。父から、川のほうへ。するとそこに、赤い何かが見えます。

 一瞬お地蔵さんのよだれかけに見え、そんなはずはないと思いました。けれど、父の憔悴した声。よいものでないことは明らかです。

「……なんだ?」

 目を凝らしました。——長靴です。赤い色は、その裏地。

 川べりにそろえられています。不気味なくらいにきちんと。赤が不気味に感ぜられました。この季節の自然界に、あまりない色ですから。

「あれ——」

「ちょっと、やばいんじゃないの」

 前の日「太宰の太の字も」なんて言ったわたしですが——桜桃忌。浮かんだそれは、まだ二ヶ月近く先のはずでした。

「ど、どうする……? だって、あれ——お巡りさんに言う?」

「ちょっと行ってみようよ。『探さないでください』とか、書いてあるかもしれないよ」

 こういうときに不謹慎なのが父です。

 わたしは頭上を見上げました。ヘリの姿はありません。耳をそば立てました。行方不明者の広報無線はありません。けれど、ついさっき——なんて思うと、お花畑に熊の足跡を見たような気分になります。

「だめだよ、呪われちゃうかもしれないよ。パパ、帰ろう」
 わたしは川の方から引きました。父の腕をぐっと引っ張ります。

「いやいや、もしかしたら大金持ちが落として行って、見つけた方には謝礼を——なんてのかもしれないぞ」

「靴がなかったら、どうやって帰るのよ!」

 その答えは、「帰らなかった」かもしれない。わたしはわたしの言ったことにぞくりとしました。父も声を落として「それもそうか」と応じます。

「まあ、ただ単に忘れ物ってだけかもしれないよね……」

 こわさを紛らわせるようにそうつぶやき、父とわたしは川から目を離せずに歩いて帰りました。さいわい、おそろしいものが引っかかっているようなことはありませんでしたが、やはり気になるものは気になるのでした。