――俺は一体何をしているのだろう。
今日まで幾度も思ったことを考えながら、男は道なき道を歩いていた。
現役時代の鎧と現役時代の剣を携えて、森を行く。
精悍な顔付きながら表情にはどこか迷いがある……三十を超えた男の顔。
筋肉のついた大柄な体ながら、大雑把ではない動き。
「別に……頼まれてもないのにな……っと!」
ゴレスという名の元騎士は、国の最東端である辺境をずんずんと歩き進めていた。
彼の住む村では、決して入るな、といわれている〝魔境の樹海〟を躊躇なく。
災厄の出現。それは為政者だけの特別なものではない。
占星術師は魔術師や異能者よりもメジャーな能力者だ。ゴレスが住む辺境の村にも一人いるくらいには。
その占星術師もまた災厄の出現を予言した。そして次の予言は災厄が出現する位置だった。
ゴレスが魔境の樹海を歩んでいる理由は、その位置が、彼の住む村の近くに広がる魔境の樹海を示していたからである。
「シャーリーの位置があそこだから……」
地面から隆起する根っこを跨ぐのではなく、よじ登らなければならないほど奥へ進んだあたりで、ゴレスは自分の位置を確認する。地図を開くでもなく、星で測るでもなく。それがゴレスの持つ異能だった。かつての友には笑われて、かつての仲間には馬鹿にされ、他人には愛想笑いをされるような……厚遇を約束されるような異能とは違うささやかなもの。しかし、ゴレスは気に入っていた。
「もう少しだな」
そう言いながら、ゴレスはおもむろに腕に付けている手甲を外した。
「よかった、当たりだ……」
ゴレスは安堵しながら、周りを警戒する。
幸いにもゴレスの身長ほどもある根っこはまるで堅牢な根城のよう。
まだ瘴気は薄く、猿や鳥が鳴いているだけ。
それでも人が踏み込むには危険な景色だった。進んでも進んでも同じ景色を見せる森、空を閉ざす巨大な木々と視界を阻む巨大な根。踏み入った者はやがて自分が今どこにいるか全くわからなくなっていく。
危険な魔物が生息する場所に辿り着く前に迷い、野垂れ死ぬ……ゴレス以外の人間にとってはそういう場所だった。
「俺は一体何やってんだ……」
先程の思考と同じ言葉をつい零しながら、ゴレスは迷いなく進んでいった。
元騎士として。村の誰かに頼まれた。占星術師に頼まれた。
そんな理由があればよかったのだが、ゴレスはいわゆるよそ者だった。
三年前に騎士の称号を剥奪され、部隊を追い出されて辺境に流れ着いただけのよそ者で、同時期に村に来た占星術師であるシャーリー以外とは挨拶以上の会話もしない。
今回も元騎士として誰に頼られるわけでなく、気付けばいつの間にかここまで来ていた。
何故? そう問われたら、今日と同じように悩むだろう。
ゴレスは自分でもわかっていないのだ。
自分は間違っていたのか。自分は正しかったのか。
そんな悩みを三年前に騎士でなくなった時からずっと抱えている。
自分は一体何をしているのか、と自問して。
「……妙だな。魔物が来る気配がない」
ゴレスは険しい顔付きで、背中に背負う鉄塊のような両手剣を抜いた。
標準的な剣より太く、長い。ゴレスのような巨躯でなければ扱えなさそうな大きさ。
ゴレスは軽々とその剣を構えながら、瘴気が濃くなっていく森を進んだ。
だんだんと巨大な根がなくなり、生えている草木の種類が変わり、同時に景色も変わっていく。どれだけ歩いたのか、緊張の汗を流しながらゴレスは再び自分の位置を確認した。
「……近い」
手甲を脱ぎながら歩き進めると、周囲の植物が不気味な形状に変わっていく。災厄に相応しいな、とゴレスは自分の緊張を和らげるように心の中で軽口を叩いた。それから少し進むと、どうやら魔物の寝床のようで少し開けている。
「もしやここに住む魔物が……災厄?」
間違いなく、占いによって出ていた場所はここだった。
慎重にその寝床を観察しようと、ゴレスは息を殺す。
最期の予言によって語られた災厄とは一体何なのか、木の影からそっと覗く。
「え……な……? は?」
ゴレスはあまりの驚きに、言葉にならない声を出してしまった。
そこにいたのは魔物ではなく、子供だった。
魔物の子供という意味ではない。人間の子供だったのだ。
赤ん坊から少し成長して、はいはいをするような歳の……一歳ほどの子供。
(捨て子……? いや、そんなはずはない! 誰がこんな場所に子供を捨てに来る!?)
ゴレスは混乱を落ち着けるためか、呼吸が荒くなった自分の口を塞ぐ。
こんな辺境のさらに奥……魔境と呼ばれる樹海に子供を捨てに来る人間などいるわけがない。捨てる前に親が死ぬ。
であれば、普通に考えてあれが――。
「あれが……災厄なのか……?」
自分で言っておきながら、ゴレスは信じることができなかった。
すでに自分は何らかの幻覚を見せられているのかと思うほどに。
「あー……あうあー!」
魔物の寝床にいる子供は木の枝をぺしぺしと叩いていた。
次は座ったかと思うと、枝を持ってぶんぶんと振り回す。
最後にはそれを投げて、地面に落ちる様子を見て満足そうにしていた。
「ちゃちゃちゃー!」
今度は周りに落ちている葉を掴んでまた投げる。
それをずっと繰り返していて、ゴレスはそれを観察する。
見続ければ見続けるほど……あれが災厄だとは到底思えなかった。
場所がここでなければ本当にただの子供にしか思えない。
人の立ち入ることのない魔境の樹海でなければ、災厄だと思うことなど絶対になかっただろう。
だが逆に、こんな場所で小さな子供一人が無事でいることこそが、ただの子供ではないことを証明していた。
「やはりあれが……災厄……なのか?」
ゴレスは言葉にしながらも信じられないままだった。
自分がここに一体何をしに来たのか、わからなくなっていく。
しかし、あの子供が災厄なのだとしたら……殺すのが正しいことではないか。
災厄を手にした者が時代の覇者となる。
あまりにも曖昧な予言だが、だからこそ災厄によってこの世がどうなるか想像がつかないともいえる。覇者というのは少なくとも平和とは程遠い響きだ。
もし過激な為政者が手にして、あの子供に秘めたる力があったとしたら世界はどうなるのか。
自分が悩み続けた日常も、多くの人が過ごす普通の時間も、奪われたら。
元騎士である以上、そんな事態になるのは見過ごせない。〝元〟だとしても。
……ゴレスは少し考えて剣を握り直す。強く。決意よりも先に体が動くように。
「あー! んまんあ!」
気付けば子供はどこからか来た、尻尾の長い猿と遊んでいた。
リスやモモンガのような齧歯類なども遠巻きにしている。
人間にとっては瘴気の溢れ、魔物が跋扈する場所でも、動植物にとっては楽園でもある。
尻尾の長い猿は体躯が近い子供を仲間と認識したのか鳴いている。
「んむあ! んああ!」
子供は喋っているつもりだろうが、意思疎通をとれているようには見えない。
不覚にも、ゴレスにはその光景が微笑ましく感じられ、心がほんの少し緩んだ。
だが次の瞬間――。
「ぷぎゅ」
子供のすぐそばにいた尻尾の長い猿が、何か潰された。そして次の瞬間には食われる。
命を示す赤い液体が滴り落ちて、集まっていた猿や遠巻きにいたリスも逃げていく。
ただ不気味な声が聞こえてきていた樹海に、今だけはその意味がわかる鳴き声がいくつも響いていた。
現れたのは、六本足で長い口の中に牙が乱雑に並ぶ、狼を邪悪にしたような肉食獣。その体躯は人間よりも大きく、狼のような知性は感じない。
魔物。
瘴気の中から生まれ、魔力に加えて時には異能を持つ怪物。
どうやらここはこの魔物の寝床だったらしい。
「んあ……?」
先程まで目の前にいた猿がいなくなったからか、子供は辺りを見回している。
自分の頬に跳ねた血がその猿のものなどと知るはずもない。
やがて、目の前にいる魔物以外に何もいないことに気付くと、目に涙を溜める。
「うえええええええええええええ!!」
子供は思い切り、泣いていた。
あまりに子供らしい行動だが、野生の中では最も愚かな選択。
目の前の魔物が、わかりやすく存在をアピールしている餌を逃すはずもない。
「……っ!」
ゴレスはつい木の陰から体を乗り出した。
……だが、これでいいのではないか?
あの子供は間違いなく災厄という存在だろう。
ならば、このまま魔物に食われて終わってくれたほうがいいはずだ。
自分の手を汚さずに、災厄が死んだという安心が手に入る。ゴレスにとって何の不都合もない。
目の前の光景を見逃すだけで世界は平和になるのかもしれない。
むしろ、見逃すのが正しいことじゃないだろうか。
そんな考えが頭によぎり、ゴレスは身を乗り出したまま、目の前で起こる光景をただ見つめていた。
「うええええええええ……」
その時だった。
子供がこちらを見た。
「あー! あーむあ! あー!」
木の陰から身を乗り出しているゴレスを見ると、子供は泣き止み、小さな手を伸ばした。
頭上から落ちてくる生暖かい死の吐息とよだれなど気にしない。
ただ、ゴレスを見つけて……子供は笑ったのだ。
「――――」
その笑顔が子供の姿をした災厄という存在の計算。
あるいは異能による幻覚。
そんな可能性を考える前に、ゴレスは飛び出していた。
「ボロロロロロロ!!」
六本足の魔物――とある国では悪斑狼と呼ばれる魔物は、足下の子供に向けていた視線をすぐさまゴレスのほうへ。
自らに向けられた明確な殺気を野生が察知する。
それが餌でないことを悟ったのか、猛り立つ咆哮が空気を震わせた。
「それはびびってくれる相手にだけやるんだな」
空気を震わせるその威嚇を、ゴレスは気にすることはなかった。
騎士は魔物の威嚇で怯まない。元騎士のゴレスが職を失った理由は、決して騎士として無能だったからというわけではなかった。
威嚇から遅れて、悪斑狼は二本の前足でゴレスを囲むように爪を突き立てようとする。
ゴレスにはその前足の攻撃も見えていた。二本の前足がゴレスをぐちゃぐちゃに引き裂こうとした次の瞬間、ゴレスは走る勢いのまま足下に滑り込んで、無駄に多い足に向けて両手剣を振るう。
「ふんんんんん!!」
咆哮。一閃。両断。
両手剣をまるで木の棒のように軽々と振るい、巨大な骨ごと、ゴレスは一撃で悪斑狼の六本足を五本足に変えた。
「ボロロロロロ!?」
魔物に感情があるとれば困惑。そして次には久しく味わう恐怖。
その振る舞いと寝床の大胆さから、この魔物はこのテリトリーでは常に狩る側だったに違いない。
そんな魔物の前に突如餌が現れたかと思えば……まさかの捕食者。
自分の半分ほどもいかない何かに足を斬られている。
常に狩る側だった者からすれば未曽有の異常事態。
残った五本足を暴れさせ、跳び退こうとした瞬間――力んだ後ろ足は薪のように両断された。
これで両断された足は二本。悪斑狼の視界からはゴレスが見えない。
「懐に入られると辛いのは一緒だな、でかぶつ」
「ボ……!」
瞬間、悪斑狼の頭上に黒く輝く球体が現れる。
魔力。魔物や異能使い、占星術師や魔術師が持つ力の根源。
この魔物は巨大な体躯だけではゴレスを仕留めることはできないと悟った。
しかし、その判断すら遅かった。
魔力が形を成す頃には、六本足だった足は二本足となってバランスを保てなくなる。
そして体を震わせながら……そのまま崩れ落ちた。
足を斬られてバランスは崩れ、まともに爪や牙をゴレスに向けることもできない。最後には体の真下から自分の臓器と魔力の核を切り裂かれ、何をされているのかわからないまま力尽きていく。
頭上に現れた魔力の光体は悪斑狼が死ぬと弾けて霧散した。
「はぁ……! はぁ……! んぐおおお!」
流れ出る黒い血を浴びながら、力の抜けた魔物の巨体を横に放り投げる。
そのまま倒れれば、足下にいた自分達が潰されてしまう。
「俺は……」
浴びた返り血を拭いながら、剣を背中にしまってゴレスは自分の両手を見た。
今更な迷いが、彼の勇猛さを一瞬でどこかへ隠してしまう。
その視線は震える両手から、もっと下へと。そこには、
「んちゃあ! あーあー! あーあ!」
ゴレスに向かって手を伸ばしている災厄がいた。
その手に応えるように、ゴレスは手を伸ばす。
「本当に……俺は一体、何をしているんだろうな」
ゴレスは恐る恐る、子供を抱きかかえる。
子供は自分を抱くゴレスの太い指を掴みながら、幸せそうに笑っていた。
ゴレスもまた釣られて、ぎこちない笑顔を浮かべていた。
今日まで幾度も思ったことを考えながら、男は道なき道を歩いていた。
現役時代の鎧と現役時代の剣を携えて、森を行く。
精悍な顔付きながら表情にはどこか迷いがある……三十を超えた男の顔。
筋肉のついた大柄な体ながら、大雑把ではない動き。
「別に……頼まれてもないのにな……っと!」
ゴレスという名の元騎士は、国の最東端である辺境をずんずんと歩き進めていた。
彼の住む村では、決して入るな、といわれている〝魔境の樹海〟を躊躇なく。
災厄の出現。それは為政者だけの特別なものではない。
占星術師は魔術師や異能者よりもメジャーな能力者だ。ゴレスが住む辺境の村にも一人いるくらいには。
その占星術師もまた災厄の出現を予言した。そして次の予言は災厄が出現する位置だった。
ゴレスが魔境の樹海を歩んでいる理由は、その位置が、彼の住む村の近くに広がる魔境の樹海を示していたからである。
「シャーリーの位置があそこだから……」
地面から隆起する根っこを跨ぐのではなく、よじ登らなければならないほど奥へ進んだあたりで、ゴレスは自分の位置を確認する。地図を開くでもなく、星で測るでもなく。それがゴレスの持つ異能だった。かつての友には笑われて、かつての仲間には馬鹿にされ、他人には愛想笑いをされるような……厚遇を約束されるような異能とは違うささやかなもの。しかし、ゴレスは気に入っていた。
「もう少しだな」
そう言いながら、ゴレスはおもむろに腕に付けている手甲を外した。
「よかった、当たりだ……」
ゴレスは安堵しながら、周りを警戒する。
幸いにもゴレスの身長ほどもある根っこはまるで堅牢な根城のよう。
まだ瘴気は薄く、猿や鳥が鳴いているだけ。
それでも人が踏み込むには危険な景色だった。進んでも進んでも同じ景色を見せる森、空を閉ざす巨大な木々と視界を阻む巨大な根。踏み入った者はやがて自分が今どこにいるか全くわからなくなっていく。
危険な魔物が生息する場所に辿り着く前に迷い、野垂れ死ぬ……ゴレス以外の人間にとってはそういう場所だった。
「俺は一体何やってんだ……」
先程の思考と同じ言葉をつい零しながら、ゴレスは迷いなく進んでいった。
元騎士として。村の誰かに頼まれた。占星術師に頼まれた。
そんな理由があればよかったのだが、ゴレスはいわゆるよそ者だった。
三年前に騎士の称号を剥奪され、部隊を追い出されて辺境に流れ着いただけのよそ者で、同時期に村に来た占星術師であるシャーリー以外とは挨拶以上の会話もしない。
今回も元騎士として誰に頼られるわけでなく、気付けばいつの間にかここまで来ていた。
何故? そう問われたら、今日と同じように悩むだろう。
ゴレスは自分でもわかっていないのだ。
自分は間違っていたのか。自分は正しかったのか。
そんな悩みを三年前に騎士でなくなった時からずっと抱えている。
自分は一体何をしているのか、と自問して。
「……妙だな。魔物が来る気配がない」
ゴレスは険しい顔付きで、背中に背負う鉄塊のような両手剣を抜いた。
標準的な剣より太く、長い。ゴレスのような巨躯でなければ扱えなさそうな大きさ。
ゴレスは軽々とその剣を構えながら、瘴気が濃くなっていく森を進んだ。
だんだんと巨大な根がなくなり、生えている草木の種類が変わり、同時に景色も変わっていく。どれだけ歩いたのか、緊張の汗を流しながらゴレスは再び自分の位置を確認した。
「……近い」
手甲を脱ぎながら歩き進めると、周囲の植物が不気味な形状に変わっていく。災厄に相応しいな、とゴレスは自分の緊張を和らげるように心の中で軽口を叩いた。それから少し進むと、どうやら魔物の寝床のようで少し開けている。
「もしやここに住む魔物が……災厄?」
間違いなく、占いによって出ていた場所はここだった。
慎重にその寝床を観察しようと、ゴレスは息を殺す。
最期の予言によって語られた災厄とは一体何なのか、木の影からそっと覗く。
「え……な……? は?」
ゴレスはあまりの驚きに、言葉にならない声を出してしまった。
そこにいたのは魔物ではなく、子供だった。
魔物の子供という意味ではない。人間の子供だったのだ。
赤ん坊から少し成長して、はいはいをするような歳の……一歳ほどの子供。
(捨て子……? いや、そんなはずはない! 誰がこんな場所に子供を捨てに来る!?)
ゴレスは混乱を落ち着けるためか、呼吸が荒くなった自分の口を塞ぐ。
こんな辺境のさらに奥……魔境と呼ばれる樹海に子供を捨てに来る人間などいるわけがない。捨てる前に親が死ぬ。
であれば、普通に考えてあれが――。
「あれが……災厄なのか……?」
自分で言っておきながら、ゴレスは信じることができなかった。
すでに自分は何らかの幻覚を見せられているのかと思うほどに。
「あー……あうあー!」
魔物の寝床にいる子供は木の枝をぺしぺしと叩いていた。
次は座ったかと思うと、枝を持ってぶんぶんと振り回す。
最後にはそれを投げて、地面に落ちる様子を見て満足そうにしていた。
「ちゃちゃちゃー!」
今度は周りに落ちている葉を掴んでまた投げる。
それをずっと繰り返していて、ゴレスはそれを観察する。
見続ければ見続けるほど……あれが災厄だとは到底思えなかった。
場所がここでなければ本当にただの子供にしか思えない。
人の立ち入ることのない魔境の樹海でなければ、災厄だと思うことなど絶対になかっただろう。
だが逆に、こんな場所で小さな子供一人が無事でいることこそが、ただの子供ではないことを証明していた。
「やはりあれが……災厄……なのか?」
ゴレスは言葉にしながらも信じられないままだった。
自分がここに一体何をしに来たのか、わからなくなっていく。
しかし、あの子供が災厄なのだとしたら……殺すのが正しいことではないか。
災厄を手にした者が時代の覇者となる。
あまりにも曖昧な予言だが、だからこそ災厄によってこの世がどうなるか想像がつかないともいえる。覇者というのは少なくとも平和とは程遠い響きだ。
もし過激な為政者が手にして、あの子供に秘めたる力があったとしたら世界はどうなるのか。
自分が悩み続けた日常も、多くの人が過ごす普通の時間も、奪われたら。
元騎士である以上、そんな事態になるのは見過ごせない。〝元〟だとしても。
……ゴレスは少し考えて剣を握り直す。強く。決意よりも先に体が動くように。
「あー! んまんあ!」
気付けば子供はどこからか来た、尻尾の長い猿と遊んでいた。
リスやモモンガのような齧歯類なども遠巻きにしている。
人間にとっては瘴気の溢れ、魔物が跋扈する場所でも、動植物にとっては楽園でもある。
尻尾の長い猿は体躯が近い子供を仲間と認識したのか鳴いている。
「んむあ! んああ!」
子供は喋っているつもりだろうが、意思疎通をとれているようには見えない。
不覚にも、ゴレスにはその光景が微笑ましく感じられ、心がほんの少し緩んだ。
だが次の瞬間――。
「ぷぎゅ」
子供のすぐそばにいた尻尾の長い猿が、何か潰された。そして次の瞬間には食われる。
命を示す赤い液体が滴り落ちて、集まっていた猿や遠巻きにいたリスも逃げていく。
ただ不気味な声が聞こえてきていた樹海に、今だけはその意味がわかる鳴き声がいくつも響いていた。
現れたのは、六本足で長い口の中に牙が乱雑に並ぶ、狼を邪悪にしたような肉食獣。その体躯は人間よりも大きく、狼のような知性は感じない。
魔物。
瘴気の中から生まれ、魔力に加えて時には異能を持つ怪物。
どうやらここはこの魔物の寝床だったらしい。
「んあ……?」
先程まで目の前にいた猿がいなくなったからか、子供は辺りを見回している。
自分の頬に跳ねた血がその猿のものなどと知るはずもない。
やがて、目の前にいる魔物以外に何もいないことに気付くと、目に涙を溜める。
「うえええええええええええええ!!」
子供は思い切り、泣いていた。
あまりに子供らしい行動だが、野生の中では最も愚かな選択。
目の前の魔物が、わかりやすく存在をアピールしている餌を逃すはずもない。
「……っ!」
ゴレスはつい木の陰から体を乗り出した。
……だが、これでいいのではないか?
あの子供は間違いなく災厄という存在だろう。
ならば、このまま魔物に食われて終わってくれたほうがいいはずだ。
自分の手を汚さずに、災厄が死んだという安心が手に入る。ゴレスにとって何の不都合もない。
目の前の光景を見逃すだけで世界は平和になるのかもしれない。
むしろ、見逃すのが正しいことじゃないだろうか。
そんな考えが頭によぎり、ゴレスは身を乗り出したまま、目の前で起こる光景をただ見つめていた。
「うええええええええ……」
その時だった。
子供がこちらを見た。
「あー! あーむあ! あー!」
木の陰から身を乗り出しているゴレスを見ると、子供は泣き止み、小さな手を伸ばした。
頭上から落ちてくる生暖かい死の吐息とよだれなど気にしない。
ただ、ゴレスを見つけて……子供は笑ったのだ。
「――――」
その笑顔が子供の姿をした災厄という存在の計算。
あるいは異能による幻覚。
そんな可能性を考える前に、ゴレスは飛び出していた。
「ボロロロロロロ!!」
六本足の魔物――とある国では悪斑狼と呼ばれる魔物は、足下の子供に向けていた視線をすぐさまゴレスのほうへ。
自らに向けられた明確な殺気を野生が察知する。
それが餌でないことを悟ったのか、猛り立つ咆哮が空気を震わせた。
「それはびびってくれる相手にだけやるんだな」
空気を震わせるその威嚇を、ゴレスは気にすることはなかった。
騎士は魔物の威嚇で怯まない。元騎士のゴレスが職を失った理由は、決して騎士として無能だったからというわけではなかった。
威嚇から遅れて、悪斑狼は二本の前足でゴレスを囲むように爪を突き立てようとする。
ゴレスにはその前足の攻撃も見えていた。二本の前足がゴレスをぐちゃぐちゃに引き裂こうとした次の瞬間、ゴレスは走る勢いのまま足下に滑り込んで、無駄に多い足に向けて両手剣を振るう。
「ふんんんんん!!」
咆哮。一閃。両断。
両手剣をまるで木の棒のように軽々と振るい、巨大な骨ごと、ゴレスは一撃で悪斑狼の六本足を五本足に変えた。
「ボロロロロロ!?」
魔物に感情があるとれば困惑。そして次には久しく味わう恐怖。
その振る舞いと寝床の大胆さから、この魔物はこのテリトリーでは常に狩る側だったに違いない。
そんな魔物の前に突如餌が現れたかと思えば……まさかの捕食者。
自分の半分ほどもいかない何かに足を斬られている。
常に狩る側だった者からすれば未曽有の異常事態。
残った五本足を暴れさせ、跳び退こうとした瞬間――力んだ後ろ足は薪のように両断された。
これで両断された足は二本。悪斑狼の視界からはゴレスが見えない。
「懐に入られると辛いのは一緒だな、でかぶつ」
「ボ……!」
瞬間、悪斑狼の頭上に黒く輝く球体が現れる。
魔力。魔物や異能使い、占星術師や魔術師が持つ力の根源。
この魔物は巨大な体躯だけではゴレスを仕留めることはできないと悟った。
しかし、その判断すら遅かった。
魔力が形を成す頃には、六本足だった足は二本足となってバランスを保てなくなる。
そして体を震わせながら……そのまま崩れ落ちた。
足を斬られてバランスは崩れ、まともに爪や牙をゴレスに向けることもできない。最後には体の真下から自分の臓器と魔力の核を切り裂かれ、何をされているのかわからないまま力尽きていく。
頭上に現れた魔力の光体は悪斑狼が死ぬと弾けて霧散した。
「はぁ……! はぁ……! んぐおおお!」
流れ出る黒い血を浴びながら、力の抜けた魔物の巨体を横に放り投げる。
そのまま倒れれば、足下にいた自分達が潰されてしまう。
「俺は……」
浴びた返り血を拭いながら、剣を背中にしまってゴレスは自分の両手を見た。
今更な迷いが、彼の勇猛さを一瞬でどこかへ隠してしまう。
その視線は震える両手から、もっと下へと。そこには、
「んちゃあ! あーあー! あーあ!」
ゴレスに向かって手を伸ばしている災厄がいた。
その手に応えるように、ゴレスは手を伸ばす。
「本当に……俺は一体、何をしているんだろうな」
ゴレスは恐る恐る、子供を抱きかかえる。
子供は自分を抱くゴレスの太い指を掴みながら、幸せそうに笑っていた。
ゴレスもまた釣られて、ぎこちない笑顔を浮かべていた。
