スポットライトみたいな恋だった

 夜の帳が完全に下りた校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
 遠くで聞こえる微かな車の走行音と、部室の壁掛け時計が秒を刻む乾いた音だけが、密室の静寂をより一層際立たせている。

 明日のコンクール本番に向け、他の部員たちはとっくに帰路についていた。
 埃っぽい部室の中央に置かれた姿見の前。俺は、明日の本番で着るための、特別なレースがあしらわれた純白のドレスを身に纏い、息を潜めて立っていた。

「……ちょっと、動くなよ」

 背後から、低く落ち着いた声が落ちる。
 大河が俺の後ろに立ち、ドレスの背中のリボンをゆっくりと結び直していた。シュル、という微かな布擦れの音が、静かな空間にひどく艶かしく響く。
 彼の指先が、乱れたウィッグの黒髪をそっと掬い上げる。うなじに触れたその指先は、いつも俺の背中を無遠慮に叩く分厚い手のひらと同じものだとは到底思えなかった。
 触れれば崩れてしまう、極上のガラス細工を扱うような。優しく、繊細で、どこか愛おしむような、ひどく慎重なタッチ。

 ふいに、鏡越しに彼と目が合った。
 大河の黒い瞳には、いつものおちゃらけた色は一切ない。そこにあるのは、自らの手で作り上げた『最高傑作』の美しさに息を呑み、静かに熱を帯びた、演出家としての真剣な眼差しだった。

 トクン、と。
 喉の奥で、心臓が大きく跳ねる音がした。
 彼が俺の髪に触れるたび、首筋に体温を感じるたび、ドレスの下の素肌が粟立つような甘い痺れが走る。

 衣装の調整を終えた大河が、ふっと息を吐き、俺の耳元へ顔を近づけた。
 シトラスの微かな香りが、鼻腔をくすぐる。

「明日の会場には、うちの学校の奴は一人もいない」
 内緒話をするような、掠れた声。
「審査員も、他校の演劇部も……この光の中にいるお前が、『ただの男子高校生』だなんて、絶対に誰も気づかない」

 大河の両手が、俺の華奢な肩を、背後からそっと包み込んだ。
 鏡の中の彼は、俺を見つめたまま、劇中の恋人に向けるような――いや、大河自身の本心が混じり合ったような、圧倒的な熱量を持って囁いた。

「明日の舞台の上では……俺が誰よりも、お前を愛してやるから」

 呼吸が、止まった。
 分かっている。それはあくまで、劇を成功させるための、演出家としての言葉だ。相手役としての、建前の殺し文句だ。
 それでも。
 その甘すぎる声と、射抜くような瞳に捕らわれた俺は、魔法にかけられたように身動き一つ取れなくなっていた。彼の手のひらの熱が、薄いドレスの生地越しに、俺の細胞のすべてを溶かしていくようだった。

 ――ガチャリ、と。
 部室の鍵を閉める無機質な音が、夜の冷たい空気に響いた。

「じゃあな。明日、絶対遅れるなよ!」
 校門を出たところで、大河はいつもの、ガサツで陽気な『男友達』のトーンに戻り、大きく手を振って反対方向へと歩き出した。
 街灯に照らされた彼の背中が、夜の闇に溶けていくのを、俺はただ一人、立ち尽くして見送っていた。

 夜風が、火照った頬を冷ましていく。
 明日、あの舞台の幕が下りれば。十二時の鐘が鳴れば、この甘い魔法はすべて解けてしまう。
 彼の隣に立つ資格を与えられた美しいヒロインは死に、俺はただの、冴えない親友へと戻らなければならない。それは、初めから決まっている残酷なルールだ。
 指先で、自分の首筋に触れる。そこにはまだ、彼の指の熱が微かに残っていた。

 ――でも、明日あのスポットライトの中だけは。
 世界中の誰よりも、私を愛して。

 失恋という名の終わりの時間を予感しながら。
 俺は、たった一度きりの狂おしい輝きに向けて、夜空の冷たい空気を深く、深く肺に吸い込んだ。