背中を殴られた鈍い痛みが、まだヒリヒリと熱を持っていた。
痛みを堪えて顔を歪ませた、その時だった。うず高く積まれた段ボールと、埃を被った大道具の隙間から、ひょっこりと黒い頭が顔を出した。
「……骨格よし。肌の質感、許容範囲内」
薬品と古い紙が混ざったような独特の匂いを纏い、重い前髪の隙間からこちらを観察しているのは、裏方専任の女子部員だった。衣装とメイクの全権を握る彼女の登場に、俺の全身からさっと血の気が引く。
見られた。終わった。俺の平穏な高校生活が、音を立てて崩れ去っていく。
「違う、これは誤解で、ただの罰ゲームというか――」
「問題ありません、部長から話は聞きました。誰にも話しませんのでご安心を」
必死で紡ごうとした俺の言葉を完全に無視し、彼女は無言で距離を詰めると、冷たい指先で俺の顎を乱暴に掴み、左右に振った。
「私の技術をもってすれば、完璧なヒロインとして盤上に上げることは可能です」
「マジか! いいね、頼んだ!」
「ええ、お任せください」
俺の頭越しで、大河とメイク担当が固い握手を交わす。
「……この部活には、まともな人間が一人もいないのか」
絞り出したツッコミは、開け放たれた窓から入り込むブラスバンド部の不協和音に、あっさりと掻き消された。
数分後。俺はひび割れた姿見の前に置かれたパイプ椅子に、強引に座らされていた。
顔面に冷たい下地が塗りたくられ、独特な粉の匂いが鼻腔を塞ぐ。彼女は手首のスナップだけを正確に動かし、俺の顔を人間ではなく「表面積の小さなキャンバス」として無慈悲に塗り潰していく。
「ちょっと待て。いくらなんでも、そのアイライン太すぎないか……」
「黙れキャンバス。一ミリでも表情筋を動かしたら、その眼球を刺すぞ」
一切の抑揚がない、這うような声。狂人度がさらに増している。
その後ろでは、飲みかけの炭酸水を片手に持った大河が、「おおー、すげえ。お前の顔が消えてく」と、手品を見る子供のように無邪気にはしゃいでいた。
「――定着完了」
手鏡を押し付けられ、俺は恐る恐るまぶたを開けた。
西日が差し込む鏡の中にいたのは、毎朝洗面台で顔を合わせる男ではなかった。睫毛の影がひどく長く落ち、血の気を失ったような白い肌に、紅い唇だけが毒々しく浮かび上がる、酷く線が細くて、見知らぬ『美少女』が俺を見つめ返していた。
軋む音を立てて、部室のドアが開く。
照明や音響担当の部員たちが数名、だるそうにコードの束を引きずりながら入ってきた。彼らはドレスとウィッグを纏った俺の姿を見ると、一瞬だけ足を止め、そして。
「おお、今年のヒロイン役? よろしく」
「うん、可愛い顔してんじゃん」
日常の延長線上にある、ひどく平熱のトーンでそう言い捨て、それぞれの作業に戻っていった。俺が幼馴染の男であることなど、微塵も疑っていない。
呆然とする俺の背後で、メイク担当の部員が静かに宣言した。
「今日から本番まで、この座標に湊真はいません。彼女は、私たちの舞台装置(ヒロイン)です」
誰も本当の俺を知らない。知ろうともしない。
狂気で塗り固められた密室の、絶対的な共犯関係が完成した瞬間だった。
「よし、じゃあ第二幕の立ち稽古、軽く通すぞ」
大河の声に合わせて、俺は埃っぽいリノリウムの床の中央に立った。
向かい合った大河の瞳が、俺の輪郭を捉える。その瞬間、彼が纏っていたガサツな男子高校生の空気が、ふっと消失した。
温度の宿っていなかった黒い瞳の奥に、じゅわっと恐ろしいほどの熱が灯る。俺というキャンバスが完璧な『彼女』へと変貌したことで、彼の内側にある演出家としての狂気が、完全に引き出されてしまったのだ。
「愛している。君だけが、僕の暗闇を照らす光だ」
ひどく甘く、低く響く声が鼓膜を震わせる。
至近距離まで踏み込んできた彼の吐息から、微かなミントの香りがした。その指先が、ウィッグの黒髪をそっと掬い上げる。
肋骨の内側で、心臓が痛いほどの質量を持って暴れ狂い始めた。息の仕方が分からない。首筋から立ち上る熱が、ドレスの襟元をじっとりと濡らしていく。
これ以上、こんな熱を帯びた瞳で見つめられ続けたら。台本という名の致死量の猛毒を、毎日のように血管に打ち込まれ続けたら。
俺は本当に、戻れなくなってしまう。
「――あ、わりぃ。ちょっと語尾噛んだわ」
ふいに、大河がガシガシと後頭部を掻きながら、へらっと笑った。
張り詰めていた真空のガラスが、あっけなく砕け散る。
膝から崩れ落ちそうになった俺と彼の間に、すかさずメイク担当が冷ややかな顔で割って入った。
「大河先輩。ヒロインの至近距離で、過度な呼気を撒き散らすのはやめてください。湿度でベースメイクが崩れます」
「おっと、わりぃわりぃ」
彼女の容赦ない言葉に、俺はドレスの裾を強く握りしめながら、微かに長く息を吐き出した。
……助かった。
冷房の効いていない部室の中で、俺の背中だけがひどく冷たかった。ここから始まる、出口のない残酷な日々に、ただ喉の奥がカラカラに乾いていた。
痛みを堪えて顔を歪ませた、その時だった。うず高く積まれた段ボールと、埃を被った大道具の隙間から、ひょっこりと黒い頭が顔を出した。
「……骨格よし。肌の質感、許容範囲内」
薬品と古い紙が混ざったような独特の匂いを纏い、重い前髪の隙間からこちらを観察しているのは、裏方専任の女子部員だった。衣装とメイクの全権を握る彼女の登場に、俺の全身からさっと血の気が引く。
見られた。終わった。俺の平穏な高校生活が、音を立てて崩れ去っていく。
「違う、これは誤解で、ただの罰ゲームというか――」
「問題ありません、部長から話は聞きました。誰にも話しませんのでご安心を」
必死で紡ごうとした俺の言葉を完全に無視し、彼女は無言で距離を詰めると、冷たい指先で俺の顎を乱暴に掴み、左右に振った。
「私の技術をもってすれば、完璧なヒロインとして盤上に上げることは可能です」
「マジか! いいね、頼んだ!」
「ええ、お任せください」
俺の頭越しで、大河とメイク担当が固い握手を交わす。
「……この部活には、まともな人間が一人もいないのか」
絞り出したツッコミは、開け放たれた窓から入り込むブラスバンド部の不協和音に、あっさりと掻き消された。
数分後。俺はひび割れた姿見の前に置かれたパイプ椅子に、強引に座らされていた。
顔面に冷たい下地が塗りたくられ、独特な粉の匂いが鼻腔を塞ぐ。彼女は手首のスナップだけを正確に動かし、俺の顔を人間ではなく「表面積の小さなキャンバス」として無慈悲に塗り潰していく。
「ちょっと待て。いくらなんでも、そのアイライン太すぎないか……」
「黙れキャンバス。一ミリでも表情筋を動かしたら、その眼球を刺すぞ」
一切の抑揚がない、這うような声。狂人度がさらに増している。
その後ろでは、飲みかけの炭酸水を片手に持った大河が、「おおー、すげえ。お前の顔が消えてく」と、手品を見る子供のように無邪気にはしゃいでいた。
「――定着完了」
手鏡を押し付けられ、俺は恐る恐るまぶたを開けた。
西日が差し込む鏡の中にいたのは、毎朝洗面台で顔を合わせる男ではなかった。睫毛の影がひどく長く落ち、血の気を失ったような白い肌に、紅い唇だけが毒々しく浮かび上がる、酷く線が細くて、見知らぬ『美少女』が俺を見つめ返していた。
軋む音を立てて、部室のドアが開く。
照明や音響担当の部員たちが数名、だるそうにコードの束を引きずりながら入ってきた。彼らはドレスとウィッグを纏った俺の姿を見ると、一瞬だけ足を止め、そして。
「おお、今年のヒロイン役? よろしく」
「うん、可愛い顔してんじゃん」
日常の延長線上にある、ひどく平熱のトーンでそう言い捨て、それぞれの作業に戻っていった。俺が幼馴染の男であることなど、微塵も疑っていない。
呆然とする俺の背後で、メイク担当の部員が静かに宣言した。
「今日から本番まで、この座標に湊真はいません。彼女は、私たちの舞台装置(ヒロイン)です」
誰も本当の俺を知らない。知ろうともしない。
狂気で塗り固められた密室の、絶対的な共犯関係が完成した瞬間だった。
「よし、じゃあ第二幕の立ち稽古、軽く通すぞ」
大河の声に合わせて、俺は埃っぽいリノリウムの床の中央に立った。
向かい合った大河の瞳が、俺の輪郭を捉える。その瞬間、彼が纏っていたガサツな男子高校生の空気が、ふっと消失した。
温度の宿っていなかった黒い瞳の奥に、じゅわっと恐ろしいほどの熱が灯る。俺というキャンバスが完璧な『彼女』へと変貌したことで、彼の内側にある演出家としての狂気が、完全に引き出されてしまったのだ。
「愛している。君だけが、僕の暗闇を照らす光だ」
ひどく甘く、低く響く声が鼓膜を震わせる。
至近距離まで踏み込んできた彼の吐息から、微かなミントの香りがした。その指先が、ウィッグの黒髪をそっと掬い上げる。
肋骨の内側で、心臓が痛いほどの質量を持って暴れ狂い始めた。息の仕方が分からない。首筋から立ち上る熱が、ドレスの襟元をじっとりと濡らしていく。
これ以上、こんな熱を帯びた瞳で見つめられ続けたら。台本という名の致死量の猛毒を、毎日のように血管に打ち込まれ続けたら。
俺は本当に、戻れなくなってしまう。
「――あ、わりぃ。ちょっと語尾噛んだわ」
ふいに、大河がガシガシと後頭部を掻きながら、へらっと笑った。
張り詰めていた真空のガラスが、あっけなく砕け散る。
膝から崩れ落ちそうになった俺と彼の間に、すかさずメイク担当が冷ややかな顔で割って入った。
「大河先輩。ヒロインの至近距離で、過度な呼気を撒き散らすのはやめてください。湿度でベースメイクが崩れます」
「おっと、わりぃわりぃ」
彼女の容赦ない言葉に、俺はドレスの裾を強く握りしめながら、微かに長く息を吐き出した。
……助かった。
冷房の効いていない部室の中で、俺の背中だけがひどく冷たかった。ここから始まる、出口のない残酷な日々に、ただ喉の奥がカラカラに乾いていた。


