スポットライトみたいな恋だった

 肩を掴む彼の手のひらから、じわりと汗の湿り気がシャツ越しに伝わってくる。
 数秒間の空白。俺は息を止め、目の前で異常な熱を帯びた瞳を向けてくる幼馴染の顔を見つり返した。
 やがて、喉の奥にこびりついたひどい渇きを強引に唾液で流し込み、俺はその両手を乱暴に振り払った。

「……お前、ついに暑さで脳が湧いたか。俺は男だぞ」
「頼む! この通りだ!」

 ドン、と鈍い音が狭い部室に響いた。
 大河は躊躇うことなく、剥き出しの古いリノリウムの床に両膝をつき、額を擦り付けるような勢いで土下座の姿勢をとった。傾きかけた西日が、彼の乱れたつむじの周りで埃の粒子を金色に躍らせている。

「お前しかいないんだ! 身長、肩幅の細さ、何より俺の書いた台本の暗記度。どれをとっても完璧な代役だ!」
「ヒロインに台本の暗記度を求めるな! ……だいたい、声はどうするんだよ。喉仏のついたジュリエットなんてホラーだろ」
「裏声でいける! お前、カラオケで女性ボーカルの曲を歌う時、いつも無駄にキー高いだろ! あれを出せばいい!」
「なんで俺の黒歴史を、何百人もいる客の前で披露しなきゃいけないんだよ!?」

 狂気じみた熱量で詰め寄る大河の頭頂部を見下ろしながら、俺は後ずさった。
 パイプ椅子の脚が床を擦り、鼓膜に障る不快な音を立てる。

「学校の連中にバレたら、俺の平穏な高校生活は社会的に死ぬ。絶対に無理だ」

 きっぱりと言い放ったその声は、自分でも驚くほど冷たく、硬かった。
 しかし、大河は床に這いつくばったままパッと顔を上げ、その口角を歪な形に引き上げた。

「……バレない」
「は?」
「今回のコンクールは、県外の市民ホールでやる外部大会だ。うちの連中は部員以外一人も来ない。つまり、お前が舞台でドレスを着ても、絶対に誰も知らない」

 誰も、知らない。
 その言葉は、蝉の鳴き声とグラウンドの喧噪で満ちていたはずの部室の空気を、一瞬にして真空の無音へと変えた。
 鼓膜から直接、血管の奥深くに致死量の甘い麻酔を打ち込まれたような感覚だった。

「このコンクールに出られなかったら、うちは実績不足で本当に廃部になる」

 大河が、ゆっくりと立ち上がる。
 先ほどまでのコメディめいた狂乱は嘘のように消え失せ、ただひどく静かで、切実な響きだけがそこにあった。

「俺から、舞台を奪わないでくれ、真」

 真っ直ぐに射抜いてくる黒い瞳。
 首筋を、冷たい汗が一筋伝い落ちた。
 断らなければならない。正気なら、こんな馬鹿げた提案は一秒で突っぱねて、カバンを持って帰るべきだ。
 けれど、足の裏が床に縫い付けられたように動かない。
 誰も俺たちを知らない空間で、俺が、彼のヒロインになる。
 そのどうしようもなく醜く、ひどく甘美な響きを持った可能性が、肋骨の裏側でドクンと嫌な音を立てて膨張していくのを、俺はもう止めることができなかった。

「……コンクールが、終わるまでだからな」

 ため息とともに吐き出した声は、ひどく掠れていた。

「っしゃあああ!」

 次の瞬間、視界が乱暴に揺れた。
 強烈な衝撃とともに、大河の両腕が俺の背中に回り込み、肺の中の空気が一気に押し出される。
 硬い鎖骨の感触。シトラスの柔軟剤と、夏の終わりのような微かな汗の匂いが、鼻腔の奥を暴力的に支配する。俺の顔のすぐ横で、彼が安堵の息を吐くたびに、耳の裏の産毛が粟立った。
 心臓が、肋骨を突き破りそうなほど不規則なリズムで跳ね狂う。俺は行き場を失った両手を、ただ力なく宙に浮かせたまま、その圧倒的な体温に全身の輪郭を溶かされていくしかなかった。

「よし、善は急げだ! さっそく衣装合わせするぞ!」

 数秒後。大河は何事もなかったかのようにパッと身体を離すと、部屋の隅にある錆びついたスチールロッカーへと駆け出した。
 残された俺の胸の奥には、行き場のない微かな熱だけが、無残に取り残されている。

 ギィ、と蝶番が悲鳴を上げ、ロッカーの扉が開く。
 大河がそこから引きずり出してきたのは、波打つようなフリルが幾重にも縫い付けられた純白のドレスと、ぞっとするほど滑らかな質感を持った、長い黒髪のウィッグだった。

「ほら、着てみろよ」

 夕暮れの沈みゆく光の中。
 安っぽい化学繊維のドレスを抱え、無邪気に目を輝かせる親友の姿は、俺の平穏な日常の終わりを告げる、死神のように見えた。