スポットライトみたいな恋だった

 遠くから、夕暮れを知らせる市のチャイムが聞こえてくる。
 どこにでもある街の喧騒と、微かに鼻をくすぐる夕飯の匂い。
 休日のアパートの一室で、俺は引っ越しのための荷造りに追われていた。

 社会人になって、数年が経つ。
 毎朝同じ時間の電車に乗り、仕事をして、帰って眠る。休日はこうして溜まった家事をこなす。良くも悪くも、地に足の着いた、平熱の現実を生きている。
 大河とは、今でもたまに飲みに行く仲だ。お互いの仕事の愚痴をこぼし合い、昔話で笑い合う、気の置けない『最高の親友』として。
 そこにはもう、息が詰まるほどの緊張感も、心臓が痛くなるような甘い錯覚もない。あの頃のような、熱に浮かされた特別な時間は、俺たちの間にはもう存在していなかった。

 ガサリ、と。
 クローゼットの奥から引っ張り出した古い段ボールを整理していると、ふと、俺の手が止まった。

 教科書や参考書の下敷きになっていたのは、一冊の古びたノートだった。
 表紙には、見慣れた大河の乱暴な字で、コンクールのタイトルが書かれている。
 そっとページをめくると、色褪せた紙の匂いが鼻を突いた。そこには、俺自身の字で細かく書き込まれた立ち位置のメモや、大河から飛んできた容赦のないダメ出しの跡が、当時のまま残されている。

 古い紙の匂いを吸い込んだ瞬間だった。
 俺の脳裏に、埃っぽい放課後の部室の空気が、色鮮やかに蘇ってきた。
 鼓膜を揺らす歓声。舞台袖での、早すぎる心拍数。薄いドレス越しに感じた、大河の手のひらの熱。
 そして――すべてを白く焼き尽くすような、圧倒的な眩しさを持つスポットライトの光。

 俺は台本を膝の上に置き、窓の外に広がるオレンジ色の夕陽を、ぼんやりと見つめた。

『あはは! 残念でしたー!』

 あの時、空っぽの控室で笑い飛ばした、胸が張り裂けそうになるほどの絶望感。
 絶対に越えられない境界線を突きつけられた痛みは、確かにあの時、俺のすべてだった。けれど今はもう、触れてもズキズキと血を流すような傷跡ではない。
 そっと撫でると、少しだけ熱を帯びているのがわかる、愛おしい宝物へと変わっていた。

 大河と結ばれることは、なかった。
 大河の中で、俺が本当の意味で『女の子』になることは、この先の人生でも一生ないだろう。
 それでも。
 あの非日常の密室で、狂おしいほど眩しい光の輪の中で、誰よりも彼に愛された俺の姿は。決して、嘘なんかじゃなかった。
 俺は、当時の不格好で、必死で、恋に泣いていた自分自身を優しく抱きしめるように、台本のざらついた表紙をそっと撫でた。

 夕陽が沈みかけ、部屋の中に柔らかい影が長く伸びていく。
 静かな、そしてすべてを許容するような温かい空気が、俺を包み込んでいた。

『俺の初恋は、スポットライトみたいだった』

 強烈に眩しくて、やけどしそうなほど熱くて。
 でも、時間が来れば一瞬で消えてしまう、嘘っぱちの光。

『それでも――あの光の真っ只中にいた瞬間だけは。俺は間違いなく、世界で一番幸せなヒロインだった』

 俺は色褪せた台本を優しく閉じると、捨てるものが入った段ボールの中ではなく、新しい部屋へ持っていく大切なものを入れる箱の、一番上にそっとしまった。
 窓ガラスに映る自分の顔を見る。
 そこにはもう、泣き出しそうなのを無理やり隠した作り笑いはない。少しだけ大人びた、けれど高校時代よりもずっと晴れやかで、穏やかな笑顔があった。

 ぽつり、と。
 窓の外の街灯に、温かなオレンジ色の灯りがともる。
 俺は、その優しくささやかな光から目を細めると、大きく背伸びをして、また新しい日常の荷造りへと戻っていった。