誰もいなくなった静かな控室。
無機質な蛍光灯に照らされた洗面台の鏡の前で、俺は一人、パイプ椅子に腰を下ろしていた。
冷たい水を含ませたコットンを、そっと頬に滑らせる。
ファンデーションが剥がれ、丁寧に引かれたアイラインが溶け、ほんのり色づいていた口紅が拭き取られていく。コットンが薄汚れた色に染まるたび、鏡の中の『世界で一番美しいヒロイン』が、音もなく崩れ去っていく。
見慣れた、血色の悪い、ただの男子高校生の顔が露わになる。
それは、大河に愛された仮面の少女が完全に死を迎える、残酷で静かな儀式だった。
虚無感だけがぽっかりと空いた胸の奥で、俺はまだ、肌の表面に微かに残る大河の腕の感触と、スポットライトの圧倒的な熱を、縋るように反芻していた。
「おっ、ここか。お疲れ!」
ふいに背後のドアが開き、遠慮のない声とともに大河が入ってきた。
彼の手には、結露で濡れた缶ジュースが二つ握られている。その顔は、舞台上での『熱を帯びた王子様』の面影は完全に消え去り、大役をやり切った『演劇部の部長』であり、俺のガサツな親友のそれに完全に戻っていた。
「いやー、マジで大成功だったな! 審査員も絶賛してたぞ!」
大河は俺の隣のパイプ椅子にドカッと腰を下ろすと、興奮冷めやらぬ様子で缶ジュースを差し出してきた。
「……うん。そうだ、な」
俺は、半分だけメイクが落ちた不格好な顔のまま、静かにそれを受け取る。アルミ缶の冷たさが、火照った手のひらに刺さった。
しばし、大河の興奮に満ちた感想戦が続く。俺は適当に相槌を打ちながら、ゆっくりと残りのメイクを落としていった。
やがて、ふっと会話の波が途切れた。
静寂が下りた控室で、大河が俺の顔を真っ直ぐに見つめてきた。
「でもさ……」
大河は、メイクを落としかけている俺の顔を、少しだけ感慨深げな瞳で見つめた。
「今日のお前、マジで綺麗だったわ。俺、演技しながらちょっとドキドキしたもん」
冗談めかして笑う、無邪気な顔。
そして彼は。悪気など一切ない、百パーセントの純粋な親愛と、無神経な称賛を込めて、その言葉を口にした。
「サンキュな、真。……お前が本当の女の子だったら、俺、絶対好きになってたわ」
――パチン、と。
俺の中で、何かが完全に弾け飛ぶ音がした。
それは、役者としてこれ以上ない『ヒロインとして完璧だった』という最高の賛辞。
しかし同時に。
『本当の女の子じゃないお前のことは、絶対に好きにならない』という、一切の希望を打ち砕く、完璧で無慈悲な死刑宣告だった。
そこには、照れ隠しも、裏の感情も一ミリも存在しない。彼はただ、『男の親友だから恋愛対象にはならないけどな!』という絶対的な前提に立ち、純粋に俺を褒めただけなのだ。
目の前が真っ暗になる。
心臓を素手で握り潰されたような激痛に、一瞬、呼吸が止まり、そのまま泣き崩れそうになった。
『ふざけるな』と大河の無神経さを罵倒することもできた。
『俺は男のままでも、お前が好きなんだ』と、泣き喚いてすがりつくこともできた。
けれど、俺はそれをしない。いや、できなかった。
この気持ちを伝えてしまえば、彼の一番近くにいられる『最高の親友』という特等席すら、永遠に失ってしまうから。
俺は、すべての絶望と、吐き出したい本音を、血の味がするほど強く噛み締めた奥歯の奥へと飲み込んだ。
そして、顔に残った最後のヒロインの残滓を、コットンでゴシゴシと乱暴に拭き取る。
立ち上がり、鏡越しに大河へと振り返った。
涙は、一滴も見せない。
俺は、口角を限界まで引き上げ、これまでの人生で一番明るく、陽気で、完璧な笑顔を作った。
ただ、目元だけは。どうしようもなく光を失い、泣き出しそうに歪んでしまうのをごまかせないまま。
「あはは! 残念でしたー!」
俺の明るい声が、空っぽの控室に、ひどく空々しく響き渡る。
「俺は男だから! お前とは一生、ただの親友のままだよ!」
その言葉は、大河へ向けた冗談の形をした、俺自身への残酷な呪いだった。
「なんだよそれ!」
大河が、いつものように豪快に笑い声を上げる。その笑い声が、取り返しのつかないほどの決定的な断絶となって、俺たちの間にある『男同士の友情』という日常を完全に修復していった。
「ほら、片付け手伝いに行くぞ」
「おう」
立ち上がった大河の背中を追って、俺も控室のドアへ向かう。
最後に一度だけ、誰もいなくなった洗面台の鏡を振り返った。
そこに映っているのは、もうヒロインではない、ただの平凡な男子高校生。
『さようなら、世界で一番愛された私』
あの狂おしいほどの絶望も。胸が張り裂けそうになった幸福も。身を焼くような眩しいスポットライトの熱も。
『一生、誰にも言わない。私だけの、宝物だ』
俺は心の中で静かに呟き、自らの手で重い扉を閉めた。
遠ざかっていく二人の笑い声だけが、夜の冷たい廊下に、いつまでも溶け残っていた。
無機質な蛍光灯に照らされた洗面台の鏡の前で、俺は一人、パイプ椅子に腰を下ろしていた。
冷たい水を含ませたコットンを、そっと頬に滑らせる。
ファンデーションが剥がれ、丁寧に引かれたアイラインが溶け、ほんのり色づいていた口紅が拭き取られていく。コットンが薄汚れた色に染まるたび、鏡の中の『世界で一番美しいヒロイン』が、音もなく崩れ去っていく。
見慣れた、血色の悪い、ただの男子高校生の顔が露わになる。
それは、大河に愛された仮面の少女が完全に死を迎える、残酷で静かな儀式だった。
虚無感だけがぽっかりと空いた胸の奥で、俺はまだ、肌の表面に微かに残る大河の腕の感触と、スポットライトの圧倒的な熱を、縋るように反芻していた。
「おっ、ここか。お疲れ!」
ふいに背後のドアが開き、遠慮のない声とともに大河が入ってきた。
彼の手には、結露で濡れた缶ジュースが二つ握られている。その顔は、舞台上での『熱を帯びた王子様』の面影は完全に消え去り、大役をやり切った『演劇部の部長』であり、俺のガサツな親友のそれに完全に戻っていた。
「いやー、マジで大成功だったな! 審査員も絶賛してたぞ!」
大河は俺の隣のパイプ椅子にドカッと腰を下ろすと、興奮冷めやらぬ様子で缶ジュースを差し出してきた。
「……うん。そうだ、な」
俺は、半分だけメイクが落ちた不格好な顔のまま、静かにそれを受け取る。アルミ缶の冷たさが、火照った手のひらに刺さった。
しばし、大河の興奮に満ちた感想戦が続く。俺は適当に相槌を打ちながら、ゆっくりと残りのメイクを落としていった。
やがて、ふっと会話の波が途切れた。
静寂が下りた控室で、大河が俺の顔を真っ直ぐに見つめてきた。
「でもさ……」
大河は、メイクを落としかけている俺の顔を、少しだけ感慨深げな瞳で見つめた。
「今日のお前、マジで綺麗だったわ。俺、演技しながらちょっとドキドキしたもん」
冗談めかして笑う、無邪気な顔。
そして彼は。悪気など一切ない、百パーセントの純粋な親愛と、無神経な称賛を込めて、その言葉を口にした。
「サンキュな、真。……お前が本当の女の子だったら、俺、絶対好きになってたわ」
――パチン、と。
俺の中で、何かが完全に弾け飛ぶ音がした。
それは、役者としてこれ以上ない『ヒロインとして完璧だった』という最高の賛辞。
しかし同時に。
『本当の女の子じゃないお前のことは、絶対に好きにならない』という、一切の希望を打ち砕く、完璧で無慈悲な死刑宣告だった。
そこには、照れ隠しも、裏の感情も一ミリも存在しない。彼はただ、『男の親友だから恋愛対象にはならないけどな!』という絶対的な前提に立ち、純粋に俺を褒めただけなのだ。
目の前が真っ暗になる。
心臓を素手で握り潰されたような激痛に、一瞬、呼吸が止まり、そのまま泣き崩れそうになった。
『ふざけるな』と大河の無神経さを罵倒することもできた。
『俺は男のままでも、お前が好きなんだ』と、泣き喚いてすがりつくこともできた。
けれど、俺はそれをしない。いや、できなかった。
この気持ちを伝えてしまえば、彼の一番近くにいられる『最高の親友』という特等席すら、永遠に失ってしまうから。
俺は、すべての絶望と、吐き出したい本音を、血の味がするほど強く噛み締めた奥歯の奥へと飲み込んだ。
そして、顔に残った最後のヒロインの残滓を、コットンでゴシゴシと乱暴に拭き取る。
立ち上がり、鏡越しに大河へと振り返った。
涙は、一滴も見せない。
俺は、口角を限界まで引き上げ、これまでの人生で一番明るく、陽気で、完璧な笑顔を作った。
ただ、目元だけは。どうしようもなく光を失い、泣き出しそうに歪んでしまうのをごまかせないまま。
「あはは! 残念でしたー!」
俺の明るい声が、空っぽの控室に、ひどく空々しく響き渡る。
「俺は男だから! お前とは一生、ただの親友のままだよ!」
その言葉は、大河へ向けた冗談の形をした、俺自身への残酷な呪いだった。
「なんだよそれ!」
大河が、いつものように豪快に笑い声を上げる。その笑い声が、取り返しのつかないほどの決定的な断絶となって、俺たちの間にある『男同士の友情』という日常を完全に修復していった。
「ほら、片付け手伝いに行くぞ」
「おう」
立ち上がった大河の背中を追って、俺も控室のドアへ向かう。
最後に一度だけ、誰もいなくなった洗面台の鏡を振り返った。
そこに映っているのは、もうヒロインではない、ただの平凡な男子高校生。
『さようなら、世界で一番愛された私』
あの狂おしいほどの絶望も。胸が張り裂けそうになった幸福も。身を焼くような眩しいスポットライトの熱も。
『一生、誰にも言わない。私だけの、宝物だ』
俺は心の中で静かに呟き、自らの手で重い扉を閉めた。
遠ざかっていく二人の笑い声だけが、夜の冷たい廊下に、いつまでも溶け残っていた。


