スポットライトみたいな恋だった

 ひんやりとした空調の風と、古いベルベットの座席が放つ独特の匂い。
 市民会館の大ホールの裏側は、普段の学校とは全く違う、非日常の空気に満ちていた。

 すれ違うのは、見知らぬ他校の演劇部員たちや、バインダーを抱えた大人たち。学校のしがらみが一切存在しない、完全な匿名空間だ。
「すげえ、どこの学校のヒロインだ?」
「めちゃくちゃ可愛い……」
 廊下を歩くたび、すれ違う男子生徒たちのあからさまな視線と、ヒソヒソ声が耳朶を打つ。
 誰も、俺の正体を知らない。完璧なメイクと衣装の下に隠された、湊真というただの男子高校生を、この世界の誰も知らないのだ。
 その圧倒的な解放感が、冷たい手で背筋を撫で上げられるような、恐ろしいほどの全能感へと変わっていく。

 周囲では、うちの演劇部の連中が緊張した面持ちで小道具の最終チェックを行っていた。
「いよいよだね」
「絶対、上手くやろうな」
 小さく励まし合う彼らの声や、微かに震える指先が、これから始まるのが紛れもない『演劇のコンクール』であることを物語っている。

 薄暗い舞台袖。
 出番を待つ俺の隣には、深いネイビーのスリーピーススーツに身を包んだ大河が立っていた。普段の着崩した制服姿や、ガサツなジャージ姿からは想像もつかないほど、大人びて洗練されたその出で立ちは、まさに物語の中から抜け出してきた『王子様』そのものだ。

 ジリリリリ、と。
 開演を知らせる無機質なブザーが鳴り響き、俺の肩がビクッと大きく跳ねた。
 極度の緊張で指先が氷のように冷え切っていく。その時だった。

「緊張しなくていい」

 ふわりと、シトラスの香りが近づいた。
 大河が俺の耳元に顔を寄せ、観客にも、他の部員たちにも絶対に聞こえない、二人だけの内緒話のような声で囁いた。

「……お前が今日、世界で一番綺麗だぞ」

 鼓膜を震わせる、ひどく甘い呪文。
 その一言で、俺の中に巣食っていた迷いや恐れが、嘘のように完全に消え去った。
 体温が急上昇し、指先の震えが止まる。大河に愛される『完璧なヒロイン』としてのスイッチが、カチリと音を立てて完全に切り替わったのだ。

 重厚な幕が上がり、コンクールの劇がスタートした。
 ステージ上では、すでに他の部員たちが最初のシーンを演じている。眩い照明が彼らを照らし出し、通る声が何百人もの観客が待つホールへと響き渡っていた。
 確かな熱気とリアリティを持って進む、舞台という名の日常。
 けれど、俺の意識はすでに、彼らの芝居には一ミリも向いていなかった。
 薄暗い舞台袖の中で、俺の視線はただ一点、隣で出番を待つ大河の整った横顔だけに縫い付けられていた。

「――行くぞ」
 大河が小さく息を吐き、ステージへと足を踏み出す。

 いよいよ、俺と大河の出番だ。
 舞台の中央へと進み出た瞬間。頭上から降り注ぐ、暴力的なほど眩い純白のスポットライトを全身に浴びた。

 ――スッ、と。
 その瞬間、世界からあらゆるノイズが消え去った。

 先程までそこで台詞を交わしていた他の部員たちの姿も。客席を埋め尽くす数百人の観客の視線も。空調の音すらも。
 カメラのピントが急激に絞られるように、周囲のすべてが完全にぼやけ、暗闇へと溶けていく。
 静寂に包まれた絶対領域。
 真っ白な光の中で、くっきりと輪郭を保ち、俺の視界を支配しているのは、ただ一人。目の前で熱を帯びた瞳を向けてくる、大河だけだった。


『ここは、誰も私を知らない世界』


 誰も本当の俺を知らないからこそ、俺は完璧な女の子になれる。
 誰も俺を知らないこの場所でしか、俺は彼のヒロインにはなれない。
 その悲しいほどの全能感が、甘い毒となって脳髄を溶かしていく。


『だから今。この光の中だけは……私は正真正銘、あなたの恋人だ』


 現実という重力を完全に振り切り、俺は熱を帯びた彼の手を取り、果てしなく甘い『嘘の愛』の海へと、心地よく溺れていった。