恋は、ひどく暴力的なスポットライトみたいなものだった。
六畳一間の、真新しいフローリング。引っ越しの荷解きで床に散乱した段ボールの底から、その薄汚れた冊子を見つけた時、ふとそんな言葉が脳裏をよぎった。
湿気を吸って波打った表紙には、『ロミオとジュリエット(改変版)』という印字と、マジックで乱雑に書き殴られた俺の名前。
指先でそのざらついた紙面をなぞると、途端に、鼻腔を埃っぽい匂いが微かにくすぐった。
圧倒的な光量を持った、純白の熱。
その光を一身に浴びている間だけは、俺は俺ではない誰かになれた気がした。彼に焦がれ、彼に愛されることを許された、完璧なヒロインに。
けれど、それはあくまで電源が供給されている間だけの、限定的な魔法だ。幕が下り、物理的なスイッチが切られれば、網膜に焼き付いた残像ごとすべてが消え失せる。残るのは、以前よりも一層深く冷たい暗闇と、『ただの男友達』という、決して覆ることのない残酷な現実だけだった。
ゆっくりとまぶたを閉じる。
エアコンの乾いた風が頬を撫でる現在の部屋から、意識の底だけが、あのべったりと汗ばむような旧校舎の夏へと引きずり込まれていった。
――ジリジリと、網戸の向こうで油蝉が鳴き狂っていた。
「おお、ロミオ! あなたはどうしてロミオなの!」
高校二年の、七月。
うだるような熱気が滞留する放課後の演劇部室で、大河は大仰に両腕を広げ、天を仰いでいた。
「……大河。お前、今の台詞、愛してるってより『今から肉食わせろ』って顔してたぞ」
部屋の隅、塗装の剥げたパイプ椅子に深く腰掛けていた俺が口を挟むと、大河は広げていた腕をだらんと下げて、あからさまに肩を落とした。
「マジかよ! ロミオ失格じゃん……」
「そもそも一人でロミオとジュリエット両方やるのが無理あんだよ。見てるこっちが疲れる」
微温くなったペットボトルの炭酸水を喉に流し込みながら、俺はわざと呆れたような声を出す。
「しょうがねえだろ。今日は俺以外に役者いねえんだからさ」
大河はガシガシと後頭部を掻き回し、俺の隣にあったもう一つのパイプ椅子に乱暴に腰を下ろした。ギシ、と古いバネが不満げな音を立てる。
帰宅部だった俺が、毎日こうして放課後の部室に入り浸っていた理由は、至極単純だ。演劇部部長であり幼馴染である大河が、「お前がいないと台詞のテンポが掴めない」と泣きついてきたからだ。
窓の外からは、グラウンドの砂埃の匂いと一緒に、野球部の金属バットがボールを弾く硬質な音と、ブラスバンド部のチューニングの不協和音が、絶え間なく流れ込んできている。
ここは、他者のノイズに満ちた、平熱の日常。
けれど俺にとっては、大河の隣という特等席を堂々と占拠できる、誰にも渡したくない時間だった。
「……ん」
不意に、至近距離に大河の顔が迫った。
首元に張り付いた彼のYシャツから、シトラス系の柔軟剤の匂いと、高校生特有の少し青臭い汗の匂いが混ざって漂ってくる。その輪郭の整った瞳が、じっと俺の顔の造作を舐めるように動いた。
「お前さ」
「……なに」
「本当に顔だけはヒロイン向きだよな。睫毛長いし、線細えし。……あーあ、真が女子だったらなぁ」
悪気など一ミリも存在しない、無邪気で、だからこそ猛毒を含んだ言葉。
胸の奥の最も柔らかい粘膜を、冷たく錆びたナイフで薄く削がれたような感覚がした。
「……寝言は寝て言え。俺はただの練習台だろ」
俺はペットボトルを握る指先に少しだけ力を込め、大河から視線を逸らして窓の外を見た。遠くの入道雲が、西日に照らされてオレンジ色に染まり始めている。
ヴー、ヴー。
パイプ椅子の上に放り出されていた大河のスマートフォンが、無機質なバイブ音を鳴らした。
画面を覗き込んだ大河の顔から、スッと、表情というものが抜け落ちていくのが分かった。
「……大河?」
「……嘘だろ」
大河の声は、ひどく掠れていた。
「……外部から呼んでた助っ人の女子。家庭の事情で、コンクールに出られなくなったって」
途端に、部室の空気が凍りついた。
開け放たれた窓の外のノイズが、急に遠くの出来事のように遠ざかっていく。
外部コンクールまで、あと一ヶ月。ほんのりと部員不足の演劇部にとって、このコンクールへの出場と結果は、廃部を免れるための絶対条件だった。
大河は両手で顔を覆い、膝に肘を突いたまま動かなくなった。彼の呼吸音だけが、やけに大きく密室に響く。
「大河……」
かける言葉が見つからず、俺が中途半端に手を伸ばしかけた、その時だった。
ゆっくりと顔を上げた大河の視線が、空中で俺とぶつかった。
その瞳の奥には、先ほどまでの絶望を燃料にして燃え上がるような、異様な『熱』が灯っていた。舞台の上でだけ彼が見せる、純粋なクリエイターとしての狂気。
嫌な予感がして、俺は思わずパイプ椅子の上で背中を引いた。
しかし、大河は逃がさない。
パイプ椅子を蹴るようにして立ち上がると、大河は俺の真正面に立ち、両手で俺の肩を強く掴んだ。
「……真」
布越しに伝わってくる、焼け焦げるような大河の体温。
「お前、さっき言ったよな。俺がコンクールに出られないのは、死ぬより嫌だって」
「待て、大河。俺は別にそんなこと――」
「助けてくれ」
低い声が、俺の鼓膜を直接震わせた。
西日が、俺を見下ろす大河の背中越しに強烈に差し込んでいる。逆光で表情はよく見えないのに、俺を真っ直ぐに射抜く彼の黒い瞳だけが、異常なほどの光を放っていた。
「お前しか、いないんだ」
それは、強烈な引力を持った落とし穴。
あるいは、俺の平穏な日常を焼き尽くす、圧倒的なスポットライトの光。
肩を掴む彼の手の熱から、もう二度と逃げられないことを、俺の細胞のすべてが理解してしまっていた。
六畳一間の、真新しいフローリング。引っ越しの荷解きで床に散乱した段ボールの底から、その薄汚れた冊子を見つけた時、ふとそんな言葉が脳裏をよぎった。
湿気を吸って波打った表紙には、『ロミオとジュリエット(改変版)』という印字と、マジックで乱雑に書き殴られた俺の名前。
指先でそのざらついた紙面をなぞると、途端に、鼻腔を埃っぽい匂いが微かにくすぐった。
圧倒的な光量を持った、純白の熱。
その光を一身に浴びている間だけは、俺は俺ではない誰かになれた気がした。彼に焦がれ、彼に愛されることを許された、完璧なヒロインに。
けれど、それはあくまで電源が供給されている間だけの、限定的な魔法だ。幕が下り、物理的なスイッチが切られれば、網膜に焼き付いた残像ごとすべてが消え失せる。残るのは、以前よりも一層深く冷たい暗闇と、『ただの男友達』という、決して覆ることのない残酷な現実だけだった。
ゆっくりとまぶたを閉じる。
エアコンの乾いた風が頬を撫でる現在の部屋から、意識の底だけが、あのべったりと汗ばむような旧校舎の夏へと引きずり込まれていった。
――ジリジリと、網戸の向こうで油蝉が鳴き狂っていた。
「おお、ロミオ! あなたはどうしてロミオなの!」
高校二年の、七月。
うだるような熱気が滞留する放課後の演劇部室で、大河は大仰に両腕を広げ、天を仰いでいた。
「……大河。お前、今の台詞、愛してるってより『今から肉食わせろ』って顔してたぞ」
部屋の隅、塗装の剥げたパイプ椅子に深く腰掛けていた俺が口を挟むと、大河は広げていた腕をだらんと下げて、あからさまに肩を落とした。
「マジかよ! ロミオ失格じゃん……」
「そもそも一人でロミオとジュリエット両方やるのが無理あんだよ。見てるこっちが疲れる」
微温くなったペットボトルの炭酸水を喉に流し込みながら、俺はわざと呆れたような声を出す。
「しょうがねえだろ。今日は俺以外に役者いねえんだからさ」
大河はガシガシと後頭部を掻き回し、俺の隣にあったもう一つのパイプ椅子に乱暴に腰を下ろした。ギシ、と古いバネが不満げな音を立てる。
帰宅部だった俺が、毎日こうして放課後の部室に入り浸っていた理由は、至極単純だ。演劇部部長であり幼馴染である大河が、「お前がいないと台詞のテンポが掴めない」と泣きついてきたからだ。
窓の外からは、グラウンドの砂埃の匂いと一緒に、野球部の金属バットがボールを弾く硬質な音と、ブラスバンド部のチューニングの不協和音が、絶え間なく流れ込んできている。
ここは、他者のノイズに満ちた、平熱の日常。
けれど俺にとっては、大河の隣という特等席を堂々と占拠できる、誰にも渡したくない時間だった。
「……ん」
不意に、至近距離に大河の顔が迫った。
首元に張り付いた彼のYシャツから、シトラス系の柔軟剤の匂いと、高校生特有の少し青臭い汗の匂いが混ざって漂ってくる。その輪郭の整った瞳が、じっと俺の顔の造作を舐めるように動いた。
「お前さ」
「……なに」
「本当に顔だけはヒロイン向きだよな。睫毛長いし、線細えし。……あーあ、真が女子だったらなぁ」
悪気など一ミリも存在しない、無邪気で、だからこそ猛毒を含んだ言葉。
胸の奥の最も柔らかい粘膜を、冷たく錆びたナイフで薄く削がれたような感覚がした。
「……寝言は寝て言え。俺はただの練習台だろ」
俺はペットボトルを握る指先に少しだけ力を込め、大河から視線を逸らして窓の外を見た。遠くの入道雲が、西日に照らされてオレンジ色に染まり始めている。
ヴー、ヴー。
パイプ椅子の上に放り出されていた大河のスマートフォンが、無機質なバイブ音を鳴らした。
画面を覗き込んだ大河の顔から、スッと、表情というものが抜け落ちていくのが分かった。
「……大河?」
「……嘘だろ」
大河の声は、ひどく掠れていた。
「……外部から呼んでた助っ人の女子。家庭の事情で、コンクールに出られなくなったって」
途端に、部室の空気が凍りついた。
開け放たれた窓の外のノイズが、急に遠くの出来事のように遠ざかっていく。
外部コンクールまで、あと一ヶ月。ほんのりと部員不足の演劇部にとって、このコンクールへの出場と結果は、廃部を免れるための絶対条件だった。
大河は両手で顔を覆い、膝に肘を突いたまま動かなくなった。彼の呼吸音だけが、やけに大きく密室に響く。
「大河……」
かける言葉が見つからず、俺が中途半端に手を伸ばしかけた、その時だった。
ゆっくりと顔を上げた大河の視線が、空中で俺とぶつかった。
その瞳の奥には、先ほどまでの絶望を燃料にして燃え上がるような、異様な『熱』が灯っていた。舞台の上でだけ彼が見せる、純粋なクリエイターとしての狂気。
嫌な予感がして、俺は思わずパイプ椅子の上で背中を引いた。
しかし、大河は逃がさない。
パイプ椅子を蹴るようにして立ち上がると、大河は俺の真正面に立ち、両手で俺の肩を強く掴んだ。
「……真」
布越しに伝わってくる、焼け焦げるような大河の体温。
「お前、さっき言ったよな。俺がコンクールに出られないのは、死ぬより嫌だって」
「待て、大河。俺は別にそんなこと――」
「助けてくれ」
低い声が、俺の鼓膜を直接震わせた。
西日が、俺を見下ろす大河の背中越しに強烈に差し込んでいる。逆光で表情はよく見えないのに、俺を真っ直ぐに射抜く彼の黒い瞳だけが、異常なほどの光を放っていた。
「お前しか、いないんだ」
それは、強烈な引力を持った落とし穴。
あるいは、俺の平穏な日常を焼き尽くす、圧倒的なスポットライトの光。
肩を掴む彼の手の熱から、もう二度と逃げられないことを、俺の細胞のすべてが理解してしまっていた。


