マボロシみたいに、キズアトみたいに

これで良かったのかなっていまだに逡巡している私は、なんて往生際が悪いんだろう。
もうとっくに四月を迎えて、こうしてホワイトボードの前に立って自己紹介をしようとしているというのに。
「えっと、中林紗耶子(なかばやしさやこ)です。えっと――」
クラスメイトになったばかりの十九人の視線が一気に注がれる。
「この春、大学を卒業しました」
「卒業して今度はデザインの勉強? 熱心ですね」
この時間の担当講師の言葉になんとなくバツが悪くなって口元だけで笑う。
「イラストが好きで、パソコンのデザインソフトを使えるようになりたくて入りましたっ。よろしくお願いします」
流れるように言ってぺこりと頭を下げ、足早に席に戻った。
「じゃあ次、野島(のじま)――」
渋谷の裏路地にあるファッションビルの広いワンフロアを間借りした真っ白な校舎。教室の窓から見える廊下には、斜めの天窓になった天井から光が差し込んでいる。
ここは漫画からファッションまで、幅広いクリエイティブを学べるデザイン学校。
そして私はこの四月から、この学校の社会人向けコースに入学した……世間が言うところの就職浪人、二十二歳。
――『熱心ですね』
先ほどの先生の言葉を思い出して胸がギュッと少しだけ苦しくなる。学び直しと言えば聞こえはいいけれど、ただ就職できなかった(・・・・・・)だけだ。



二年前の秋。
『〝四年制の芸術大学および美術大学、もしくはそれに準ずる学部学科に所属する者〟』
大学三年の私は、学生課の掲示板に貼られたデザイン事務所の募集要項を眺めてため息をついた。
『なんで対象じゃない学校にも募集が来てるの?』
『んー、うちにも一応〝芸術学科〟があるからでしょ』
同じ学科の友人が興味なさげに回答をくれる。
『じゃあ私がこれに応募したら受かる可能性が一ミリでもあると思う?』
『知らんし。応募してみればいいじゃん、受けるのはタダなんだから。紗耶ちゃんイラスト上手だし、デザインソフトくらい入ってから何とでもなるでしょ』
なかば八つ当たりの私の言葉に彼女は困ったように眉を下げつつ、童顔に不釣り合いの冷めた笑みを浮かべた。
私たちの学科は芸術を冠しているけれど、学部で言うなら文学部。美術、音楽、映画それぞれの偉人だとかムーブメントなどの歴史や理論を学ぶ学科だ。
ただでさえ就活がハードモードだと言われる文学部。それに輪をかけたように強みをアピールしづらい学科。その中でも特に仕事に繋がりにくい映画史を選択したマヌケが私である。
就活の渦に飲まれたら、たちまち溺れて息ができなくなった。
『みんな〝応募するのはタダ〟とか〝飛び込んじゃえばなんとかなる〟なんて言うけど』
現実は甘くないんだ。
世間にはデザインソフトが使える学生が余るほどいる。それなのにわざわざ使えないやつを雇ってソフトの使い方を教える企業側の利点なんて、どう考えてもゼロなのだから。
『映画ライターになった先輩はいるけどね』
ライター。それだって稀な話だ。
『やっぱ無理なのかなぁ、デザイン系は』
ちょっとイラストを描くのが好きなくらいで……。



結局四年生になっても就活に身が入らなくて、逃げるようにアルバイトに明け暮れた。それでもずっと、焦りは消えない。
そんな時、スマホにこの学校の広告が流れてきた。名前だけは聞いたことのあるデザイン専門学校。
〝知識ゼロから始めるデザイン〟
〝講師は全員、現役のプロデザイナー〟
さらには〝高い就職率〟の文字が躍る。
気づけば入学試験の申し込みをしていた。
そしてよほどのことがなければ落ちることはなさそうな面接試験を受け、今に至る。
〝初心者でも安心〟なんて言葉を信じて入ってはみたものの……。
「好きなデザイナーとかいる?」
初日の昼休み。教室で六、七人で集まってお昼を食べていると、自己紹介の延長でそんな質問が飛び出す。
「私はねー吉田(よしだ)ムニさん」
「私は森友千絵(もりともちえ)さんみたいになりたいんだよね」
「クリエイティブディレクターの大貫(おおぬき)さんに憧れてる」
年齢も経歴もバラバラなクラスメイトの口から、聞いたことがあるようなないような名前が当たり前のように出てきては「私も好き!」「いいよね」なんて、賛同の声が上がる。
私の耳は声が抜けるように通り過ぎていく。
「中林さんは?」
「え? えっと……」
どうしよう。
「その、デザイナーの人とかあんまり詳しくなくて」
私を見る目たちが、なんだかがっかりして見える。
こういう学校に来る人は、やっぱりみんなデザインに詳しいんだ。みんなおしゃれだし。だいたい校舎が渋谷だし。
何も知らない私がデザインの勉強なんて、やっぱり間違って――。
「イラストは?」
「え……」
落ち着いた声をたどった先で目があったのは、少し年上っぽい感じの男性だった。
白いシャツで、黒い髪は目にかかりそうでなんだかちょっぴりもっさりしている。
「イラストが好きって言ってたじゃん。好きなイラストレーターだったらいるんじゃないの?」
あんなに早口で愛想もなく終えた自己紹介を覚えられていたんだとびっくりする。
「あ、イラストレーターだったらミグチユウコさんが好きです」
「誰だっけ? ミグチユウコって。なんか聞いたことある」
インナーカラーにイエローが入ったウルフっぽい髪形の女子に聞かれる。彼女は吉川樹里(よしかわじゅり)さん。私より二つ年上だ。
彼女の質問に私はスマホを取り出して壁紙や、ケースに入れているステッカーを見せた。少しアンティークな雰囲気の、ペンで描かれた鳥の絵だ。
「あ、知ってるこの絵! 私も好き」
「名前知らなかったくせに?」
男子からすかさずツッコミが入って、みんなから笑いが漏れる。
「うるさいなぁ」
吉川さんが片頬をプクッと膨らませた。表情にずっと人懐こさが溢れている。
「あ……吉川さんのイメージに合う、と思います。ミグチさんの絵」
「敬語いらないよ。それに樹里でいい」
「え、でも……年上だし」
「いや、同級生だし」
ニパッと無邪気な笑顔を向けられて、思わずこちらも笑ってしまう。少し前の緊張が嘘みたい。
昼ごはんのゴミを捨てに行ったら、先ほどの男性が自販機でコーヒーを買っていた。
名前は米津直央(よねづなお)さんで、二十六歳。どこかの会社の営業職を辞めてここに入ったと言っていた。
「おつかれ」
私に気づいた彼が言う。
「おつかれさまです」
並んで立つと背が高い。
「映画好きだったりする?」
脈絡のなさにも、質問の内容にも驚く。だって今日の自己紹介では大学での専攻の話はしていないから。
「そのステッカー、映画のやつだから」
不思議そうな顔をしていたのか、米津さんが私のスマホを指差す。そこには、イラストのステッカー以外にも映画のロゴやポスターのデザインのステッカーをコラージュみたいに重ねてあった。
「あ、そうです。映画好きです」
というか、この質問が出るということは……。
「米津さんも好きなんですか? 映画」
私の言葉に彼がなぜかフッと小さく吹き出すから、キョトンとしてしまった。
「敬語いらないって、樹里も言ってたじゃん」
「あ……そうだった。すみませ、じゃなくてごめん」
と言ってまた笑われる。
大学にだって二、三歳年上の同級生だっていたけど〝社会人してました〟ってわけじゃなかったから、ここの同級生はひときわ大人びて見える。
「これ、タランティーノだ。こっちはジム・ジャームッシュ」
映画の監督名を列挙されたら、映画好きなのは明白だ。
「俺も好き、タランティーノ」
「あ、でも『パルプ・フィクション』が一番好きってわけじゃなくて。ステッカーが売ってなくって」
「何が好き?」
「えっと――」
「『レザボア・ドッグス』」
私が答える前に、作品名を言い当てられた。
「え、正解。なんで!?」
「なんとなく。あと俺も好きだから」
そう言った米津さんが笑ったら、前髪が揺れて穏やかそうな目が見えた。
大きな犬みたいだなあ、なんて思う。
「あの、ありがとう」
「ん?」
「さっき、助かったの。私本当にデザインの素人すぎて」
「ああ、いや全然。そんなの気にしなくていいと思うよ、みんな入ったばっかで何話せばいいかわからなかっただけだと思うし。俺もめっちゃ素人」
やっぱり大人だな、と思ったところで予鈴が鳴った。
「今度見せてよ、イラスト」
授業についていけるかどうか、不安は拭えないけれど学校生活は楽しくなりそう。そんな気持ちの芽がひょこりと顔を出した気がする。

学校は水曜と土曜の週二日、朝の一限から夕方の四限まで。。
同じ校舎では全日制のグラフィックデザイン科やファッション科の授業も行われている。
「そういうときはこのボタンとこのボタン押しながらオブジェクトを移動すると……」
目の前のパソコン画面で、花のモチーフが二つに増える。
「わ、コピーされた! 樹里ちゃん天才! ありがとう」
週二とはいえ、五月も後半になる頃にはクラスにも馴染んで、樹里ちゃんともすっかり仲良しだ。
「サーコ飲み込み早いよ。デザインも先生に褒められてし」
「紗耶子」はあっという間に「サーコ」になった。
文字や絵のレイアウト、画像加工、それにコピーライティングの基礎なんかも教えてくれる授業は想像以上に面白くて、延長戦の学生生活は充実している。
デザイナーの名前が飛び交う会話にだって段々と慣れてきた。
渋谷の街に通うことだってすっかり日常だ。
だけどまだ「思い切って飛び込んで良かった」と言い切れない自分がいる。
「樹里ちゃんてここ以外の日は派遣社員だったっけ」
昼休み、いつもみたいに教室でお弁当を食べながらたずねる。彼女はカレーパンにパクつきながら頷いた。
「今は印刷会社のオペレーターしてるよ」
樹里ちゃんの仕事ではMacを使っていて、だからソフトの基本操作にはすでに詳しいのだそうだ。
「偉いね、働きながら学校まで来て」
「そう? サーコだってバイトしてるでしょ」
「まあ、そうだけど」
樹里ちゃんは「なら変わらないでしょ」なんて言うけど、全然違う。
スマホには大学時代の友人たちからのメッセージが表示されてる。私の知らないどこかで展開されているみんなの日常を垣間見て、ふうと小さくため息が漏れた。

「今日の授業では“アート”と“デザイン”の違いをビジュアルと言葉で発表してもらいます」
その日のデザイン概論の授業で先生が今日のテーマを伝える。
白い紙を一枚渡されて「絵でも文字でもコラージュでも、アートとデザインを自由に表現してください。パソコンは使用禁止。時間は三十分」と言われた。
「アートと、デザイン……」
「う、こういうの苦手かも」
樹里ちゃんがつぶやく。
周りのみんなはもう何かを作り始めている人もいれば、樹里ちゃんみたいに悩んでいる人もいる。
なんとなく気になって、少し離れた席に座る米津さんに視線を移す。
初日以来、彼とはときどき映画の話をしている。おかげで樹里ちゃんと同じく随分と距離は縮まった……気はするんだけど。
窓側に座った彼の横顔はどこか冷めた表情に見えた。
米津さんはいつもそんな感じ。優しく笑うけど、どこか本心が見えないような人。
だけど彼も迷いなく手を動かしている。
そこも不思議なところ。
――『俺もめっちゃ素人』
そう言っていたわりにパソコン操作は慣れているし、こういう授業もどことなく手慣れた雰囲気を出している。
「何者……?」
「え? サーコなんか言った?」
小さな声で思わずこぼしてしまったのを樹里ちゃんに拾われて、慌てて笑ってごまかす。
「じゃあ発表してもらおうかな」
先生の声で、席順にそれぞれの作品とコンセプトを発表していく。
「アートは感性、デザインは理性だと思います」
「デザインは枠の中、アートは枠の外って感じで」
みんな個性的な作品と考えを発表していく。
私は「アートは自由に撮ったフィルムで、デザインは編集して映画にしたフィルム」なんて言ってみた。自分で言いながら、どちらもアートな気もしたけど。
「じゃあ次、米津さん」
相変わらず目に被りそうな前髪の彼がホワイトボードの前に立つ。
「自分はこれです」
彼が広げて見せた紙には、手描きとは思えないような真っ直ぐで均等なマスとその中に数字が並んでいて、マスが色分けされている。
「これは、カレンダー?」
先生が聞いた。確かに数字は七つずつ横並びで、1から31まで描かれている。
「デザインは平日で、アートは休日」
「なぜ?」
「アートは楽しくて、デザインにはちょっと堅苦しさもある」
彼の塗った色は、アートの休日が万華鏡みたいなカラフルな粒、デザインの平日は……ブルーグレーみたいな煙たい色一色だった。
まるで「デザインなんて退屈だ」って言っているみたいな彼の作品は、クラスメイトに結構共感されている。
それを見て米津さんはまた大型犬みたいな笑顔を浮かべた。

翌週の水曜の授業後。
「やっとみんなの予定があったね。みんなこれからもよろしくー!」
大衆居酒屋で幹事の男子が乾杯の音頭を取る。
「「カンパ〜イ」」
ジョッキやグラスのぶつかるカチャカチャという音が、あちらこちらで何十回と響く。
今夜はクラスの親睦会だ。
授業後にバイトのシフトを入れている人や大学とダブルスクールで課題に追われている子なんかもいて、入学して二か月近くもみんなの予定が合わなかった。
樹里ちゃんなんかと三、四人で飲んだことはあったけれど、二十人規模の飲み会ってかなり久々。
大学を卒業してから誘われた飲み会だっていつも欠席していたから。

「二次会行く人〜!」
あっという間に一軒目の時間が終わるのも学生ノリですでに懐かしい。
二軒目はアメリカンな雰囲気のダイニングバー。派手なフィギュアや置物だらけの店内はミラーボールなんかも回っている。
「中林さんて、映画詳しいの?」
「んー好きだけど、詳しいってほどでは」
「おすすめ教えて〜」
「あ、俺も俺も」
普段はあまり話すことのないクラスメイトと隣の席になるのも大人数ならではだけど、酔っ払っていると会話がちょっぴり面倒でもある。〝おすすめの映画〟なんて言われても、あなたのたち好きなジャンルを知らないんですけど、とハイボールのグラスを口につける。
「どういうジャンルが好きなの?」
「えー? 面白ければなんでも」
「俺も〜」
げ……一番面倒なやつ。
二人とも結構お酒が回っているみたいだし、こういう時は適当に濁すに限る。
「えっと――」
店にはちょうど映画キャラのフィギュアなんかも置いてあるから、その作品でもすすめておこうと思った時だった。
「サーコ先生のおすすめ映画は有料でーす」
背後から低めの声がしたと思ったら、ちょうど空いていた私の隣の席を大きなシルエットが埋める。
「え、米津さん?」
「なに驚いてんの」
「だって」
なんか普段よりノリが軽い。っていうか、〝サーコ〟呼びなんてしたことないじゃん。
私たちは〝米津さん〟と〝紗耶子〟だ。彼は女子も男子も下の名前で呼び捨てで、誰かをニックネームで呼んでいるのも聞いたことがない。
いつもとの違いに微妙に心臓が落ち着かないけれど……。
「えー直央くんて中林さんと仲良いの?」
「うん。サーコ先生は俺の映画の師匠」
私越しに彼が答える。
これは……。
「米津さん、酔ってる?」
米津さんはニヤリと口角を上げた。
「お酒弱いんだ」
「弱くねーし」
酔っ払いらしく否定してくるけど、余裕に満ちた普段の雰囲気とのギャップがちょっとかわいい。
「ちょっと酔いたい気分だったんだよ」
「何かあった?」
私の質問に、また無言で笑ってみせる。
酔っていても結局本音を見せないなんて、ガードが固い。

「じゃあまた土曜にね〜ばいばーい」
「おやすみ」
「カラオケ行く人こっちねー」
繁華街で十人ほどだった二次会メンバーがオール組と帰る人に分かれる。
「サーコも帰んの?」
「ん、うん。明日もバイトだし」
ずっと呼んでたみたいな「サーコ」。
「路線一緒だったよな」
あまりにも自然な流れで駅まで二人で歩くことになった。
長いストロークに合わせて早足になりながら、また鼓動が小さく反応している。もう子どもじゃないというのに。
「ちょっと寄ってい?」
駅へ行く途中に小さな公園があった。
よくわからないまま頷くと、米津さんは自販機で自分にコーヒー、私には水を買ってくれた。
それから二人してブランコに腰掛ける。
「って、タバコ?」
彼が口に咥えたタバコに火を着けるのを見て思わず眉をひそめてしまった。
「最近居酒屋とかでも吸えないからさ」
私が居酒屋に行くようになったのはまだ最近だから、吸えないのははじめから当たり前だ。
「さっきの店は電子タバコだったらオッケーって書いてあったよ」
「ダサいじゃん、電子」
「わかんない、吸わないから。どっちも変わらなくない?」
米津さんは私のいない方に向けて煙を吐き出した。
「昔の映画でタバコの煙を(くゆ)らしてんのが最高にカッコいい。電子タバコにはそういう情緒がないんだよな」
「……タバコ嫌いだけど、それはちょっとわかるかも」
身体に悪いし臭いし、全然いいところがないって思っているけど、タバコの煙のゆらめきってそういうのを全部チャラにするようなカッコよさを纏っている。
「ゆらゆらして、幻みたいにフッて消えちゃう感じ」
「サーコのステッカーもタバコが印象的な映画だもんな」
『パルプ・フィクション』に『コーヒー&シガレッツ』。
意識したわけではなかったけれど、どちらもタバコを吸っている写真のステッカー。
「やっぱサーコとは気が合う」
タバコを咥えたまま微笑まれて、心臓がドキリと跳ねる。
「い、言っておくけど、現実のタバコは好きじゃないから。それにあれもわからなかった」
「あれ?」
「この前の授業の、デザインは平日でアートは休日ってやつ」
「あー、あれ。どうした急に」
お酒が回ってるのは、私の方なのかもしれない。
「私にとってはデザインも休日って感じだよ」
彼は「ふーん」と言った。当たり前だ。あの課題には正解なんてないんだと先生も言っていたのだから。
「……いいのかなって思うの」
少しボリュームの落ちた声で溢してしまった。
「何が?」
「私、大学から就職しないでここに来たでしょ」
米津さんはタバコを吸いながら小さく相槌を打つ。
「友だちはみんなもう社会人になってるの。平日に、平日してる」
メッセージやSNSには【新人研修大変だった】とか【初任給ゲット】なんて言葉が並ぶ。
「なのに私だけ、現実逃避でずっと休日してるみたい」
ずっと子どものままみたい。
だから誘われたって飲み会に行く気になれない。
彼はまた、ふうっと煙を吐き出した。
「いいじゃん、休日」
「でも」
「それだけ楽しいってことだろ? サーコにとってはデザインが」
優しい声色で言われて素直に首を縦に振った。
少しだけ恥ずかしくて、地面に足をつけたままブランコ小さく揺らす。
「就職したことないなんて言っても、どうせいつかはするんだよ。それでも俺みたいに辞めちゃう奴もいるし、樹里みたいに働きながら学校来る奴もいて、大人だっていろいろだよ」
「うーん」
頭ではわかっているけど。
「まだ仕事のことだって漠然としてるし」
デザインの仕事をしたいとはいっても、具体的な業種まではイメージできていない。
「人生の夏休みみたいな時期なんだよ。サーコも俺も」
「休日通り越して夏休み?」
「そ。夏休みだから宿題もいっぱいあるけどな」
たしかに、就職のための宿題をしているような気分かも。
「時が来たら終わるんだから、楽しんだ者勝ち」
「じゃあ、米津さんも楽しい?」
私の問いに、彼はチラリとこちらを見た。
「だって一緒に夏休みしてるんだか――」
「そろそろ行かないと終電無くなるな」
シャッターを下ろすみたいに会話を終了して、彼はタバコを持っていた携帯灰皿に押し付けた。
それからまた二人で並んで歩く。もうあと少しだというのに手持ち無沙汰で、買ってもらったペットボトルを開けた。
「サーコって彼氏いんの?」
不意打ちの質問に、飲んでいた水を吹き出しそうになる。
「えっ何急に」
「いや、なんとなく」
「今はいない。ちょっと前まではいたんだけど」
「見栄張らなくていいよ」
からかうような口振りに、「どういう意味?」とジロリとした目つきで見上げる。
「別れたの。デザインの学校に入るって決めた時に」
と言ってもその前のアルバイトに明け暮れていた頃にはもうあまり会っていなかった。ペットボトルを閉める手に嫌な力が入る。
「就職しないって伝えたら現実逃避って言われて、なんか無理ってなっちゃった」
「ああ」
その「ああ」はどういう「ああ」?っていうかどういう意図の質問?
大人のこういう質問は挨拶みたいなものなのかもしれない。
「え……」
左手に乾いた熱が触れた。
それから指が絡む。
一瞬で心音が耳に響き始めてまた、子どもみたいだって思う。
その行為の意図をはかりかねてもなんだか聞くに聞けない。
だってもうあと数十秒で駅の改札だ。

気まぐれ?

酔っているから?

それとも――。

「じゃあ、遅いから気をつけて」
改札に着いたら絡んでいた指は呆気なく離された。改札に入ってしまえば、そこから先は別方面だ。
「うん、おやすみ。米津さんも気をつけてね」
「直央でいいよ、俺も」
思わず「えっ」て言って顔を上げたら、大型犬の笑顔。
「大体みんなそう呼んでる」
それはそうですけど……。
「じゃあ、おやすみ。直央、さん」
照れるのもなんだか悔しくて、呼んではみたけど変な感じだ。
「〝さん〟ってなんか遠くね?」
彼はおかしそうに笑っている。
「ま、いいか。じゃーな」
そう言って彼は、何事もなかったかのように背中を向けてホームに向かって行った。
その背中を数秒目で追って、自分も逆方面のホームに向かう。
意図のつかめなさに戸惑いつつもドキドキしてしまう。
けれど同時に、先ほど話を断つように終えた直央さんの表情と、彼がカレンダーの〝平日(デザイン)〟に塗ったブルーグレーの色が私の頭に浮かんでいる。

次の土曜は若干緊張しながら学校に行って直央さんに会った。
「おはよ」
水曜の別れ際と同じく、何もなかったかのように挨拶を返される。
いや、何かあったかと言われれば何もなかった判定だとは思いますけど。脳内で独り言。
「サーコ、直央くんとなんかあった?」
樹里ちゃんの質問につい動揺してしまう。
「だってこの間まで〝米津さん〟と〝紗耶子〟だったよね?」
「別に何もないよ。ただみんなと同じように呼ぶのがいいんじゃないかって……それだけ」
そこに嘘は一ミリもない。
気にするだけ無駄だと思いつつ、どこかがっかりしている時点で一つの答えが出てしまっている気がする。
「今日はペアで写真を撮り合って、その写真で広告ポスターを作ってもらいます。校内だったらどこにで撮ってもらっても構いません」
授業課題が発表された。
「サーコ、誰かともう組んでる?」
「え、う、ううん」
「じゃあ俺とペアになってくんない?」
「もちろんいいけど……なんで私?」
他のみんなもまだ全然組んでいないし、今まで授業中にはあんまり絡まなかったのに。
「サーコがデザイン楽しいって言うなら、サーコと組んだら楽しいのかなって思って」
この間の夜の話題にちょっと鼓動が落ち着かない。
寄りに寄って、お互いの写真を撮り合う授業。スマホのフォルダにさまざまな表情の直央さんの写真が溜まっていく。
「なんか今日の授業、人数少ないね」
最近、朝の授業の遅刻者が続出している。
「週二くらいだと、逆にサボりやすいよな」
「わざわざ学費払って入学して、たった二日しかない授業をサボるなんて信じらんない」
「サーコは真面目だな」
私がおかしいの? みんな目標があってここに来たんじゃないの?
授業の後半は撮った写真をポスターに仕上げる作業。それもペアで隣同士の席に座る。
「こんな感じでどうかな」
画面に映したデザインを、緊張しながら直央さんに見せた。
私の画面を覗き込むから至近距離になってまたこの前の夜を思い出す。
彼はそんか私のヨコシマな思考を知ってか知らずか、真剣に画面を見つめている。
「悪くないけど、なんかもっと遊んでもよくない?」
「え?」
「これはこれでカッコいいし、広告としてちゃんとしてると思うけど。なんていうか、サーコらしさみたいな?」
「私らしさ?」
画面の中のものは確かに無難すぎる気もするけれど、らしさ(・・・)と言われてもよくわからない。
「たとえばラクガキっぽくイラストを合成するとか」
「え、あ! そっか、絵と組み合わせてもいいんだ」
「今気づいた?」
思わずコクコクと頷いた。
「だってみんなそんなことしないから」
「しないんじゃなくて、できないんだよ。デザイナーってイラスト描けない人も多いよ」
驚きで目を見開いてしまった。デザイナーってみんな絵が得意なんだと思っていたから。よく考えたらこの学校だってイラスト学科があって、うちの学科ではイラストの勉強をしていない。
「なんか反応が犬みたいだな」
それはあなたでしょ。と、くっくっと笑う彼を見ながら照れて熱くなってしまった頬を冷ますように手をパタパタさせる。
それから直央さんのアドバイス通りに、写真にイラストを合成してみた。
「いいじゃん。他の奴には真似できない」
自分でもここに来てから一番お気に入りの作品ができたと思う。
こういうのもありなんだって、また楽しくなってきた。
そして私の面倒まで見ていたのに、彼の画面でも広告ポスターがしっかりと出来上がっている。
「前から思ってたけど、直央さんてデザインの経験者?」
「……まあ、ちょっとね」
ニコリと笑っているのに、詮索するなというオーラが全開。
そんな風に謎を残すくせに、それからも何度か課題のペアに誘ってきたりデザインのアドバイスをくれたり。
直央さんが何を考えているのか全然わからない。
「なんか直央さんて、煙みたい」
思わず不機嫌につぶやいてしまった。
見えているのに実態がつかめない、幻みたいだなんて思う。

七月。
授業の終わりに学校のスタッフからプリントが配られた。
「学祭のコンテスト?」
この学校では九月にいわゆる文化祭があるらしく、そこで開催されるコンテストに全日制だけでなく私たちも参加できるようだ。
「どうせこんなん全日制の生徒が大賞でしょ。授業時間が全然違うもん、技術が違うよ」
どこかからそんな声が聞こえて、同意するような声も漏れ聞こえる。
「見て樹里ちゃん、大賞賞品iPadだって」
「何、サーコ出すの?」
「出さないの?」
お互いに一拍分無言になった。
「だって授業と別の自主制作でしょ? 時間ないし、みんなが言ってるみたいにうちらにはチャンスなさそう」
「出してみなくちゃわからないじゃない。【好きな映画のポスター】ってテーマもおもしろそう」
「ああ、サーコにはピッタリだね」
樹里ちゃんの声はどこか冷めている。
「正直毎回の課題だけでいっぱいいっぱいなんだよね。私デザイン向いてないのかも」
これは彼女だけでなく、他のクラスメイトからも最近よく聞く言葉だ。

視線の先、少し離れたところでクラスメイトたちが暗闇の中で光に照らされている。
彼らのキャーキャーという高い声で、波の音は掻き消されている。
「そんなもんだろ」
そう言ったのは砂浜で隣り合って座った直央さん。二人とも(かたわら)にはお酒の缶を置いていて、直央さんはまたタバコを吸っている。
土曜の夜。ストレス発散だって言いながら、みんなで花火をしに海辺の公園にやってきた。
次々に火をつけられていく花火でみんな煙まみれだ。参加している人数は、五月の飲み会からもう三分の二ほどに減っている。
「でも、みんなデザイナーになりたくて入ったんじゃないの?」
「やってみるまでわかんないからな、デザインは。このくらいの時期になったら向き不向きも見えてくるし、周りの実力もわかるようになってくるんだよな」
「……私は楽しいって思ってるけど」
「サーコは多分向いてるよ、デザイン。いろんなテイストでイラストが描けるのも強いし」
嬉しい言葉のはずなのに、自分ではそんな実感がないし、それに……なんとなく寂しい言葉に聞こえた。
「俺さ、会社員してたんだよね。印刷会社の営業」
「知ってる」
「グラフィックデザイナーもいる会社で、パッケージデザインとか広告なんかもやってるような会社だった」
「そうなんだ」
直央さんがビールを一口飲むと、ゴクリと喉を下る音がした。
「俺も新卒の時にデザイナーで入ったんだけど」
顔をクルッと九十度、直央さんの方に向けた。その動きに「やっぱ動物みたいだな」と笑われた。
「だって初めて聞く。直央さんのそういう話」
「やっぱやめようかな」
「えー! そっち見ないから!」
また視線を花火の方に戻す。
クラスメイトが変わるがわる煙の中から姿を見せたり消えたりしている。
「俺もデザイン系の学科卒業して「デザイン好きだなー」なんて思って入社したけど、同僚は全然レベルが違った」
彼は新しいタバコに火を着けた。
花火とタバコの煙は同じなようにも、全く違うようにも見える。
「ずっとデザインのこと考えて、残業も厭わない。それでいて仕事以外でも創作してたりね」
「私は残業嫌だけど」
「だから逃げた」
海辺の風で、タバコの煙が大きく揺れる。
「営業に異動させてもらって、そういう本気のデザイナーのデザインを売る方に回った」
彼のブルーグレーの理由が見えてくる。
「平日も休日もないような人間がデザイナーに向いてるんだと思ったら、割り切って働ける営業も悪くはなかったけど」
「…………」
「やっぱカッコいいもの見ると、自分も作りたいって思っちゃうんだよな。悲しい(さが)ってやつで」
彼は煙を上に向かって吐き出した。
「だからまた勉強しに来ちゃったわけだけど」
「けど……?」
「いや、いい」
私はパイン味の缶チューハイを口にした。
「カッコ悪いよな」
「え?」
「我ながらダサい。逃げてて」
「そんなことないよ。また向き合ってて偉いと思う」
缶を口につけながら、隣を見る。
「カッコいい」
照れくさいのに目を逸らしたらいけない気がして、しばらく無言で見ていた。
耳には相変わらずクラスメイトの声が聞こえているし、合間に波の音も、それに車のエンジン音も聞こえた。
直央さんの手が、タバコを消してこちらに伸びてくる。
脈拍なんてとっくにおかしくなってる。
その瞬間、なるようになれって思っていた。私は。
直後、わしゃわしゃと髪がかき混ぜられた。
「え……っ」
「いいこと言ってくれるじゃん、犬のくせに」
「犬扱いって。そっちこそ大型犬みたいな前髪してるくせに。もー! タバコ臭いし」

直央さんの核に触れられた気がしたのに、本心はまだ見えないの?
ねえ直央さん、私に話してくれたってことは、そういうことなんじゃないの?

「樹里ちゃん、私決めた」
昼休み、お昼を食べながら樹里ちゃんに耳打ちする。
「私、学祭で入賞できたら直央さんに告る」
「え? ハードル高くない?」
この話をしたのは初めてなのに、樹里ちゃんは私の気持ちよりもそこに驚くのか。
「だって、なんかイマイチつかめなくて……きっかけがないと無理だよ」
「大丈夫そうだけど、まあそんなもんか。いいね、若者」
私の弱音も、何でもないことのように流される。
「これだから社会人は」

それから八月は課題に加えてコンテストのポスター作りにも真剣に取り組んだ。
――『どうせこんなん全日制の生徒が大賞でしょ。授業時間が全然違うもん、技術が違うよ』
クラスメイトの言葉を思い出したりもしたけれど、不思議と全然気にはならなかった。
だってこんなに楽しいんだから。
「『レザボア』?」
休み時間に作業をしていたら、直央さんに覗かれる。
「似てる、全員」
私が選んだ作品は、いうまでもなく『レザボア・ドッグス』。
――『俺も好きだから』
彼と初日に話した映画だし。
「ここの色どう思う?」
ちょっとくらい、本人だって巻き込んだっていいよね。
「サーコ、すげー楽しそう」
「えへへ」

『レザボア・ドッグス』は六人の男が宝石強盗を画策するところからストーリーが展開していく作品で、彼らにはそれぞれ色のコードネームがついている。
私はそのメンバーのイラストを描いて、コードネームを目立つように大きなフォントでレイアウトしたポスターを制作した。
技術は足りないかもしれないけれど、誰よりも楽しみながら作業ができたような気がする。

九月も終わりに近づいた頃、文化祭が開催された。
私のポスターも無事搬入して、今頃は結果とともに展示されているはずだ。
受賞者に事前連絡はない。
「午後にしよっか」
「往生際が悪いよ。もうゆっくり見たって結果は変わらないんだから」
展示会場の入り口で、樹里ちゃんに腕を引っ張られる。
結果がどうであれ、ドキドキすることには変わりない。
ダメだったらって想像するのも怖いけれど、受賞していたら告白しなければいけないんだからある意味そちらの方が怖い。
「お。あったよ、サーコのやつ」
結果は氏名とタイトル入りのキャプションに付けられているらしい。
恐る恐る、ポスターの下を見る。
「あ……」

十月の校舎、もう肌寒さも出てきてあまり人が来なくなっている夕方の屋上に直央さんを呼び出した。
「ごめんね、寒いのに呼び出して」
「や、平気」
そう、呼び出しているということはつまり
「ポスター、受賞したの。大きい賞はダメだったんだけど、特別賞だって」
「知ってる、おめでとう。良かったもんな、あれ。iPad残念だったけど」
ちなみに賞品は五千円のギフトカードだった。
「でね、その……受賞したらって思ってたことがあって――」
「ごめん」
私が言い終える前に何かが聞こえた。
「聞けない、サーコが言おうとしてること」
「え……?」
「ごめん」
「待って、なんで? 聞けないって何?」
私、フラれた?
「俺、サーコのこと好きだけど」
「あ……友だちとしてってこと……?」
「いや、女の子として」
「え、じゃあ」
直央さんは申し訳なさそうに首を横に振った。
「サーコと付き合ったら、多分俺、自分のデザインがまた嫌いになる」
「どういう意味?」
「サーコって本当に楽しんでデザインしてるのが伝わってきて、作品も良くて……」
彼は一瞬口篭った。
「この先ずっと横でそれ見て笑ってられる自信がない」
「何それ。私がデザイン好きなのがダメってこと?」
「……ごめん」
「何それ」
言っている意味が全然理解できない。
だってそんなの、私にとっては天秤にかけるようなことじゃなかった。
「だから、サーコの言葉は口に出さないでしまっといて」
それから「友だちでいよう」って言って、また「ごめん」って言って彼は屋上を後にした。

「言わせもしないって何?」
「サイテーだな、米津! 飲め飲め!」
その日、居酒屋で樹里ちゃんが励ます会を開いてくれた。
「思えば、なんかずっと、なにもかも濁してるような人だったな」
直央さんとのあれこれを思い出す。
「ヘナチョコ野郎にサーコは勿体無い! サイテー米津ー」
価値観の根本がはじめからずっと噛み合っていなかったのかもしれない。
でも。
「だけど、好きだったんだよ。せめて言わせろよー!」
泣きながらハイボールを煽った。
彼がいたから学校が楽しくなって、デザインを頑張れたのは悔しいけど事実だ。
「でも言わせろぉ」

気まずくなるかと思った十月からは、就活用の作品集(ポートフォリオ)をの自由制作と面接対策、それに実際の就活がメインになって、クラス単位で集まることがほとんどなくなった。お陰様で、余計なことは考えないように就活にのめり込めた。

そして卒業の日を迎えた。
「久しぶり」
大きな彼の背中を見つけて、こちらから声をかける。
「久しぶり……」
少し驚いたようなスーツ姿の直央さんが、それでも普通に返してくれて少しほっとした。
「就職、映画関係のデザイン会社だって?」
「うん、あのポスターも評価してもらえた」
直央さんはバツが悪そうに苦笑いを浮かべた。
「安心して。もう吹っ切れてるから」
「…………」
「今は仕事のことでドキドキしてて、それどころじゃないよ」
「そっか」
直央さんはデザイン事務所への就職が決まったらしい。
「直央さんって、本当に煙みたいだったね」
「え?」
「本音が全然つかめなかった」
「なんかごめん……」
幻みたいにゆらって消えるのに、匂いがまとわりついてなかなか消えない。傷跡みたいに。
安心した顔しちゃってさ。
そう簡単に吹っ切れるわけないじゃない。
浅くったってつけられた傷は傷なんだから。
「直央さん」
「ん?」
彼のネクタイをグイッと引っ張る。

「本当に好きだった。もう、次の場所からは逃げちゃダメだよ」

バイバイ。

fin.