一人で帰るのは久しぶりかもしれない。そんなコトを考えながら耳塚は見慣れて風景にあくびをしながら、肩に掛けたスクールバッグの中身を見ることなく手探りで愛用している黒のノイズキャンセリング機能付きワイヤレスイヤホンを探し当てると、ノールックでそのまま耳に着用する。
一人で帰るのが久々であったとは言え、下校中のときだけではなく、登校時にもイヤホンを着用しながら学校へ向かっているため、常にスクールバッグの中に入っている耳塚の生活必需品である。
耳塚の聴く音楽のジャンルは意外と思われるかもしれないがゲーム音楽が多い。特に不朽の名作と呼ばれるようなゲームは一通りプレイをしてきた耳塚にとって、ゲーム音楽こそが自身にとっての嗜好品であり、心が休まるものであると認識している。
猪鼻が耳塚のコトを御香のような匂いがし、お寺にいるような安心感であったり、心が穏やかになると発言していたが、耳塚にとってはゲーム音楽こそがそういったものに分類されるだけの話である。
そう考えると、目黒も耳塚や猪鼻と同じ様に何か心が安らぐ何かがあるのではないかと思ったのだが、耳塚にはそれに該当するものを思いつくことはできなかった。
(目黒って好きなもんあんのかな?)
耳塚はそんなことを心の何処かで思いながらも、目黒のコトを何も知らないんだと改めて痛感した。協力者などという体のいい言葉を並べ、都合のいい駒のようにこれも心の何処かで思っていたのかもしれない。
そんな自分が嫌になる。
思い返してみれば目黒から「協力者」という単語を聞いたことはない。目黒本人が耳塚のコトを協力者だなんて思ったことはないと言っていたことは嘘ではないのかもしれない。では目黒は耳塚のコトをどう思っていたのか。目黒の耳塚への態度を見るに嫌っているわけではなさそうであったが、直接どう思っているかを聞いたことがあるわけではない。だが目黒ははっきりと怒鳴るように「僕には耳塚くんしかしないんだ!」と言っていた。
(そう言えば、俺しかいないってなんだ……? ”バケモノ”ならラクも視ることはできないが、匂いで観測することはできるだろ……。俺しかいないわけじゃない。でもあの言い方は……何か執着のような……)
考えることが多い耳塚は自然と足取りが鈍くなる。
冬ということもあり、外が暗くなるのが早いためか、いつの間にかあたりは暗闇に包まれていた。また人通りの少ない道を選択して通っていたため街灯も少ない。目を凝らさなければ五メートル先に人がいるかどうかを判別することも難しいだろう。
しかしこんなにも闇が広がっているのであればそれなりの危険もあるかもしれない。
音しか”人ならざるもの”を観測することができない耳塚にとって逃げ道を判断するのも一つの安全を確保する手段である。そのためなるべく早く家に帰りたいところである。
「……あれ? 充電切れか?」
急いで帰ろうと足を早めようと思ったその瞬間、ゲーム音楽を流していたワイヤレスイヤホンの調子が悪くなった。調子というのは音が途切れ途切れで聞こえるようになり、突如として音のキーが変わったりするのだ。
思えばこのノイズキャンセリング機能付きワイヤレスイヤホンは高校の入学祝いとして両親がプレゼントしてくれたものだ。約二年間も毎日のように使っていればそれだけ消耗もするだろう。
しかしいくら毎日使用していたからといって最新型のワイヤレスイヤホンが二年間で壊れてしまうものだろうか。そのため耳塚は充電切れと判断し、一度耳に装着しているイヤホンを外してケースに戻す。イヤホンケースのランプが数回点滅していることを確認し、充電が問題なくできていることに安心する。
だが、そんな安心も一瞬にして地に落ちる感覚を耳塚は一瞬にして味わうことになる。
「ハ、ズシタ、ネッ」
壊れかけのラジオから聞こえてくるようなノイズ混じりの音に乗せながら、言葉を覚えたての九官鳥のような声が真横から聞こえてきたのだ。
イヤホンを外してすぐに声が聞こえてきたということは、もしかしたらずっと真横に”人の言葉を巧みに操る怪物”がいたのかもしれない。イヤホンをしていて気づかなかったとはいえ、改めてノイズキャンセリング機能付きワイヤレスイヤホンの性能がすごいものであることに感心しつつも、今この状況が非常に良くないことはすぐに理解した。
それはなぜか。
耳塚がその声に反応してしまったからだ。
誰だって真横から急に九官鳥から声を掛けられたら、その声に反応してしまうだろう。
案の定耳塚もその声が聞こえた瞬間身構えるように音のなる方を向く。
「アァ、キ、コエ、テ、ルン、ダ! ソッカ! オマ、エ! キコ、エテル、ン、ダ!」
同じ言葉を何度も繰り返すように奇声を発する”ソレ”は、姿は視えないのにもかかわらず、その威圧感と存在感を肌で感じることができた。耳塚は呼吸をすることを忘れる。そして瞬間的に体が反応できなかっただけで、今となって急に全身が身震いによって振るわれ、腕から耳裏にかけて鳥肌が立つ。
その感覚で呼吸を思い出した耳塚はローファーで強くアスファルトを踏みつけながらこの場から去るため全力で駆けた。まだ今日は雪は降ってはいないものの、昨夜少しだけ積もった雪は完全には溶け切っておらず耳塚の足を鈍足へと変える。
更にそれだけではない。今は闇に包まれており、目視での確認をすることは叶わないが、学校を出た直後の空は今にも恵みを齎そうとする勢いがあった。つまりいつ雨や雪が降ってもおかしくないのだ。あまりにも暗すぎると思ったが、月明かりすら届かないほど分厚い雲が空を覆っているのだろう。雨や雪が降ってしまったら、今以上に耳塚の足を遅くさせるし、更に耳塚の視界を奪うことになるだろう。
そうなる前に逃げ切るしか無い。
耳塚は走りやすいように肩にかけていたスクールバッグを抱えるように持ち方を変える。それは走りやすさを重視するのが目的であったが、耳塚は何かに縋りたい気持ちでいっぱいになり、その感情が無意識的に体に現れた結果であった。
何度も転けそうになりながらも、少しでも見晴らしを良くするためにいつもの河川敷へと足の回転を速める。
河川敷に向かう途中で、抱えているスクールバッグのジッパーを開け、スマホを探し当てる。先ほどまで音楽を聞いていたため、スマホの場所は大体把握していた関係で探し当てるまでにそんなに時間はかからなかった。
スマホのディスプレイの明かりがあたりを照らす。
そしてスマホを操作する耳塚の手が――止まった。
「俺は今、誰に連絡しようとしてんだ……?」
耳塚が協力関係であると思っていた二人は耳塚の予想に反して、耳塚のことを協力者とは思っていなかったことを思い出した。電話を掛けることは可能だろう。しかし目黒も猪鼻も助けに来てくれる保証はない。
それに耳塚は協力者とは名ばかりなほど目黒のことを自身を助けるための道具のように扱っており、そのことに対して罪悪感を募らせたばかりであった。今目黒に合わせる顔は無い。更に目黒が耳塚に対して言った「僕には耳塚くんしかいないんだ!」という言葉の真意がわからない今、目黒に連絡をするのは得策では無いだろう。
猪鼻に関してもそうだ。正直な話、猪鼻が突如として不機嫌になった理由がわからないでいた。確かに猪鼻の言う通り、この先もずっと二人に頼り続けるわけには行かないとは思っている。しかし今の耳塚には二人に頼る以外に助かる方法を知らない。それにキスという行為をすることで”この世に存在していいのかわからない奴ら”を祓えるのだが、それを観測することができない人間にキスさせてほしいなんて言えるわけがない。仮に観測できる人間が他にいたとしてもなかなか提案できるものではない。今回は相手が目黒と猪鼻であるからキスができたわけで、耳塚自身もそれ以外の相手であれば躊躇してしまうだろう。
「わぁっ!」
”人ならざるもの”に追われている最中だというのに、全く違うことを考えてしまっていたせいで、足がもつれてそのまま転んでしまったのだ。
転んだにしては恥ずかしいほど大きな声を出してしまった耳塚がそこにはいた。河川敷まで目と鼻の先というところまで来ていたため、防波堤のような場所まで来ていたのだが、転んでしまったがために、そのまま転がるようにして河川敷へと落ちていったのだ。
履いていたローファーは右片方だけが脱げ、抱えていたスクールバッグは先ほどスマホを取り出したときにジッパーを開けっ放しにしていたため教科書やノートなどが河川敷に散乱している。制服にはすでに枯れてしまっている雑草や昨日の雪の影響で少しぬかるんだ泥がまとわりついており、そんな耳塚の姿を照らすスマホだけが光り輝いていた。
口の中に入った枯れた雑草をペッと吐き出し、すぐに立ち上がりまた走り出そうとする。この際ローファーも、スクールバッグも、スマホもどうでもいい。拾うことを諦め、耳塚はただただ前を向こうとした、そんな瞬間であった。
ドスッっという鈍い感触が腹部に伝わる。
それが痛みであると耳塚が理解する頃にはすでに耳塚の体は宙を舞っていた。
その痛みはまるで大男に腹部を蹴られたような感覚であり、その瞬間また耳塚は呼吸の仕方を忘れてしまう。中を舞った体が着地したかと思えば、そこはすでに川の中であった。
幸いにも川はそこまで深くはなく、成人男性の脹ら脛のちょうど中間くらいの水位だ。しかしその程度の水位であっても溺れる人間はいる。現に耳塚は背中から着水したのだが、寝転がっている状態の耳塚にとっての水位は体全体が隠れてしまうほどの水位だ。耳塚は足が着くのがわかっていても必死にもがく。
腹部に突如として走った鈍い痛みと、川に落とされた際の川底の石に背中を強打したため、耳塚は今まで感じたことのないほどの痛みを感じていた。
「な、ナニが……起きて……」
耳塚がどうして自分が今川に落とされるようなことになったのかと原因を確認するために先ほどまで転がっていた河川敷に目をやった瞬間であった。ドボンッドボンッと水に空気でも押し込むような音が川の中にいる耳塚目掛けて歩いてきている音が聞こえてきた。
暗すぎてその音の正体が見えないわけじゃない。
耳塚の目では視ることができないのだ。
「く、くるなぁああっ!!」
川に落とされてから二度目の発声でようやく呼吸の方法を思い出したのか、耳塚の発した声は地声と声の裏返りがビブラートするような叫びであった。
どうすることもできない恐怖が耳塚を襲う。
凍てつくような冷たさの川の水が耳塚の動きを制限するように体にまとわりつく。
逃げないといけないことは頭では理解している。
それでも身体が動かないのだ。
恐怖というものにはいくつか種類があると思っている。
それこそ閉所恐怖症。高所恐怖症。暗所恐怖症。中にはダム恐怖症であったり、黄色恐怖症なんてものも存在しているようだ。しかし今の耳塚が抱いている恐怖はそのどれにも当てはまらないだろう。
なぜなら今、耳塚が恐怖しているのは”自身を脅かす存在”が自身に触れることができることを知ってしまった恐怖だからだ。
今まで”奴ら”から逃げ延びることに成功したことはあっても、捕まった経験は無いのだ。
そのため”化け物ども”が耳塚にどんな害を齎すのか知らないままで過ごしていたため、まさか”向こう側の存在”がこちらに干渉できるだなんて微塵も思っていなかったのだ。
しかし耳塚の考えは先ほど腹部に与えられた鈍痛によって、触れられることがわかってしまった。
そうなってくると、本当に”奴ら”が自分にどんなことをするのかがわからない。耳塚の中で「怖い」という以外の感情が芽生えることはなかった。
「あああぁっぁぁああぁぁああぁぁ!! 来るな! 来るなぁぁあああっっぁぁ!!!!」
耳塚は叫びながら、恐怖で立ち上がることのできない体を後退させながら、川の水を掬っては”元凶”に向かってその水を投げる。しかしそんなことなんの意味も持たないのか、ドボンッドボンッという川の水を踏み潰しながら進む音は止まることを知らない。それどころか徐々にスピードを上げている気すらする。
耳塚も追いつかれないようにと後退する速度を上げようとするも、川も比例するように深さを増していく。腰が抜けて立つことのできない耳塚にとって、これ以上進むことは溺れ死ぬことを意味していた。
『死』という今までとは少し異なる恐怖を耳塚が襲う。
「だれ゙がぁ゙! だれ゙がだずげで! だれ゙で゙も゙い゙い゙、だれ゙で゙も゙い゙い゙がら゙…………だずげで!」
人目を気にする様子もなく耳塚は涙や鼻水を垂れ流しにしている顔で喉をからしながら誰かに助けを求める。しかし赤子のように泣き叫ぶその姿を誰も見ていない。ただ一人。耳塚の目の前にいるであろう”厄災”を除いては。
「ダ、レモタ、ス、ケニ、コナイ! オマ、エハヒ、トリ! ダ、レモタ、ス、ケニ、コナイ! ヤッ、トツカマ、エタ!」
その不協和音は耳塚の首を締めるように襲いかかると、そのまま耳塚を川底へと沈めた。
先ほど呼吸の方法を思い出したばかりだというのに、また息ができなくなる。冬の川の水は想像以上に冷たく、その凍てつく冷たさに痛みを覚えるほどであった。
水中で必死に藻掻く。しかしどんなに藻掻いても首を締める力は弱まることはなく、むしろ強くなっているのではないかと思えるほどだ。
そろそろ呼吸も怪しい。首が締められている関係で酸素が脳まで行き届かず、意識が徐々に薄れていく。
死にたくない。
ただそれだけだった。
たったそれだけのことなのに、叶えることのできなかった悔しさがここで一気にこみ上げてきた。
どうして自分だけなのだろう。
音さえ聞くことがなければこんな思いをすることはなかった。
自分だって高校生らしい生活を送りたかった。
友達もたくさん作って、放課後に買い食いとかしてみたかった。
修学旅行にだって行きたかった。
もっとたくさんのことを学びたかった。
アルバイトや社会人経験を積みたかった。
恋をしたかった。
水中で涙を流したところで、その涙を誰も観測することはできない。
それこそ自分自身も泣いているのかそうでないのかの判断をすることはできないだろう。
それでも耳塚は今、自分が涙を流していると理解っている。
しかしそれが恐怖によるものなのか。後悔によるものなのか。未来を嘆いてのものなのかは、耳塚本人にもわからないでいた。
遠のいていく意識の中、最後にもう一度希望を抱いて「助けて」と手を伸ばす。
その氷のように冷たくなった耳塚の手をは温かいナニカに包まれ、水中に埋もれていた体が引き抜かれたと思いきや、青紫色にまで変色した唇をこれまた温かいナニカを押し当てられ、ほんの少しだけ体温が上がったのがわかる。
「しっかりしろ! 大丈夫か!」
「もういない! もうやつはいないから!」
その声は耳塚がいま一番手を取ってほしい人物たちの声だった。
耳塚には先ほどまで首を湿られていたあの感覚はなく、いつの間にか不協和音も聞こえなくなっていた。
その安心感と二人の顔を見た耳塚はそこで意識を手放した。
一人で帰るのが久々であったとは言え、下校中のときだけではなく、登校時にもイヤホンを着用しながら学校へ向かっているため、常にスクールバッグの中に入っている耳塚の生活必需品である。
耳塚の聴く音楽のジャンルは意外と思われるかもしれないがゲーム音楽が多い。特に不朽の名作と呼ばれるようなゲームは一通りプレイをしてきた耳塚にとって、ゲーム音楽こそが自身にとっての嗜好品であり、心が休まるものであると認識している。
猪鼻が耳塚のコトを御香のような匂いがし、お寺にいるような安心感であったり、心が穏やかになると発言していたが、耳塚にとってはゲーム音楽こそがそういったものに分類されるだけの話である。
そう考えると、目黒も耳塚や猪鼻と同じ様に何か心が安らぐ何かがあるのではないかと思ったのだが、耳塚にはそれに該当するものを思いつくことはできなかった。
(目黒って好きなもんあんのかな?)
耳塚はそんなことを心の何処かで思いながらも、目黒のコトを何も知らないんだと改めて痛感した。協力者などという体のいい言葉を並べ、都合のいい駒のようにこれも心の何処かで思っていたのかもしれない。
そんな自分が嫌になる。
思い返してみれば目黒から「協力者」という単語を聞いたことはない。目黒本人が耳塚のコトを協力者だなんて思ったことはないと言っていたことは嘘ではないのかもしれない。では目黒は耳塚のコトをどう思っていたのか。目黒の耳塚への態度を見るに嫌っているわけではなさそうであったが、直接どう思っているかを聞いたことがあるわけではない。だが目黒ははっきりと怒鳴るように「僕には耳塚くんしかしないんだ!」と言っていた。
(そう言えば、俺しかいないってなんだ……? ”バケモノ”ならラクも視ることはできないが、匂いで観測することはできるだろ……。俺しかいないわけじゃない。でもあの言い方は……何か執着のような……)
考えることが多い耳塚は自然と足取りが鈍くなる。
冬ということもあり、外が暗くなるのが早いためか、いつの間にかあたりは暗闇に包まれていた。また人通りの少ない道を選択して通っていたため街灯も少ない。目を凝らさなければ五メートル先に人がいるかどうかを判別することも難しいだろう。
しかしこんなにも闇が広がっているのであればそれなりの危険もあるかもしれない。
音しか”人ならざるもの”を観測することができない耳塚にとって逃げ道を判断するのも一つの安全を確保する手段である。そのためなるべく早く家に帰りたいところである。
「……あれ? 充電切れか?」
急いで帰ろうと足を早めようと思ったその瞬間、ゲーム音楽を流していたワイヤレスイヤホンの調子が悪くなった。調子というのは音が途切れ途切れで聞こえるようになり、突如として音のキーが変わったりするのだ。
思えばこのノイズキャンセリング機能付きワイヤレスイヤホンは高校の入学祝いとして両親がプレゼントしてくれたものだ。約二年間も毎日のように使っていればそれだけ消耗もするだろう。
しかしいくら毎日使用していたからといって最新型のワイヤレスイヤホンが二年間で壊れてしまうものだろうか。そのため耳塚は充電切れと判断し、一度耳に装着しているイヤホンを外してケースに戻す。イヤホンケースのランプが数回点滅していることを確認し、充電が問題なくできていることに安心する。
だが、そんな安心も一瞬にして地に落ちる感覚を耳塚は一瞬にして味わうことになる。
「ハ、ズシタ、ネッ」
壊れかけのラジオから聞こえてくるようなノイズ混じりの音に乗せながら、言葉を覚えたての九官鳥のような声が真横から聞こえてきたのだ。
イヤホンを外してすぐに声が聞こえてきたということは、もしかしたらずっと真横に”人の言葉を巧みに操る怪物”がいたのかもしれない。イヤホンをしていて気づかなかったとはいえ、改めてノイズキャンセリング機能付きワイヤレスイヤホンの性能がすごいものであることに感心しつつも、今この状況が非常に良くないことはすぐに理解した。
それはなぜか。
耳塚がその声に反応してしまったからだ。
誰だって真横から急に九官鳥から声を掛けられたら、その声に反応してしまうだろう。
案の定耳塚もその声が聞こえた瞬間身構えるように音のなる方を向く。
「アァ、キ、コエ、テ、ルン、ダ! ソッカ! オマ、エ! キコ、エテル、ン、ダ!」
同じ言葉を何度も繰り返すように奇声を発する”ソレ”は、姿は視えないのにもかかわらず、その威圧感と存在感を肌で感じることができた。耳塚は呼吸をすることを忘れる。そして瞬間的に体が反応できなかっただけで、今となって急に全身が身震いによって振るわれ、腕から耳裏にかけて鳥肌が立つ。
その感覚で呼吸を思い出した耳塚はローファーで強くアスファルトを踏みつけながらこの場から去るため全力で駆けた。まだ今日は雪は降ってはいないものの、昨夜少しだけ積もった雪は完全には溶け切っておらず耳塚の足を鈍足へと変える。
更にそれだけではない。今は闇に包まれており、目視での確認をすることは叶わないが、学校を出た直後の空は今にも恵みを齎そうとする勢いがあった。つまりいつ雨や雪が降ってもおかしくないのだ。あまりにも暗すぎると思ったが、月明かりすら届かないほど分厚い雲が空を覆っているのだろう。雨や雪が降ってしまったら、今以上に耳塚の足を遅くさせるし、更に耳塚の視界を奪うことになるだろう。
そうなる前に逃げ切るしか無い。
耳塚は走りやすいように肩にかけていたスクールバッグを抱えるように持ち方を変える。それは走りやすさを重視するのが目的であったが、耳塚は何かに縋りたい気持ちでいっぱいになり、その感情が無意識的に体に現れた結果であった。
何度も転けそうになりながらも、少しでも見晴らしを良くするためにいつもの河川敷へと足の回転を速める。
河川敷に向かう途中で、抱えているスクールバッグのジッパーを開け、スマホを探し当てる。先ほどまで音楽を聞いていたため、スマホの場所は大体把握していた関係で探し当てるまでにそんなに時間はかからなかった。
スマホのディスプレイの明かりがあたりを照らす。
そしてスマホを操作する耳塚の手が――止まった。
「俺は今、誰に連絡しようとしてんだ……?」
耳塚が協力関係であると思っていた二人は耳塚の予想に反して、耳塚のことを協力者とは思っていなかったことを思い出した。電話を掛けることは可能だろう。しかし目黒も猪鼻も助けに来てくれる保証はない。
それに耳塚は協力者とは名ばかりなほど目黒のことを自身を助けるための道具のように扱っており、そのことに対して罪悪感を募らせたばかりであった。今目黒に合わせる顔は無い。更に目黒が耳塚に対して言った「僕には耳塚くんしかいないんだ!」という言葉の真意がわからない今、目黒に連絡をするのは得策では無いだろう。
猪鼻に関してもそうだ。正直な話、猪鼻が突如として不機嫌になった理由がわからないでいた。確かに猪鼻の言う通り、この先もずっと二人に頼り続けるわけには行かないとは思っている。しかし今の耳塚には二人に頼る以外に助かる方法を知らない。それにキスという行為をすることで”この世に存在していいのかわからない奴ら”を祓えるのだが、それを観測することができない人間にキスさせてほしいなんて言えるわけがない。仮に観測できる人間が他にいたとしてもなかなか提案できるものではない。今回は相手が目黒と猪鼻であるからキスができたわけで、耳塚自身もそれ以外の相手であれば躊躇してしまうだろう。
「わぁっ!」
”人ならざるもの”に追われている最中だというのに、全く違うことを考えてしまっていたせいで、足がもつれてそのまま転んでしまったのだ。
転んだにしては恥ずかしいほど大きな声を出してしまった耳塚がそこにはいた。河川敷まで目と鼻の先というところまで来ていたため、防波堤のような場所まで来ていたのだが、転んでしまったがために、そのまま転がるようにして河川敷へと落ちていったのだ。
履いていたローファーは右片方だけが脱げ、抱えていたスクールバッグは先ほどスマホを取り出したときにジッパーを開けっ放しにしていたため教科書やノートなどが河川敷に散乱している。制服にはすでに枯れてしまっている雑草や昨日の雪の影響で少しぬかるんだ泥がまとわりついており、そんな耳塚の姿を照らすスマホだけが光り輝いていた。
口の中に入った枯れた雑草をペッと吐き出し、すぐに立ち上がりまた走り出そうとする。この際ローファーも、スクールバッグも、スマホもどうでもいい。拾うことを諦め、耳塚はただただ前を向こうとした、そんな瞬間であった。
ドスッっという鈍い感触が腹部に伝わる。
それが痛みであると耳塚が理解する頃にはすでに耳塚の体は宙を舞っていた。
その痛みはまるで大男に腹部を蹴られたような感覚であり、その瞬間また耳塚は呼吸の仕方を忘れてしまう。中を舞った体が着地したかと思えば、そこはすでに川の中であった。
幸いにも川はそこまで深くはなく、成人男性の脹ら脛のちょうど中間くらいの水位だ。しかしその程度の水位であっても溺れる人間はいる。現に耳塚は背中から着水したのだが、寝転がっている状態の耳塚にとっての水位は体全体が隠れてしまうほどの水位だ。耳塚は足が着くのがわかっていても必死にもがく。
腹部に突如として走った鈍い痛みと、川に落とされた際の川底の石に背中を強打したため、耳塚は今まで感じたことのないほどの痛みを感じていた。
「な、ナニが……起きて……」
耳塚がどうして自分が今川に落とされるようなことになったのかと原因を確認するために先ほどまで転がっていた河川敷に目をやった瞬間であった。ドボンッドボンッと水に空気でも押し込むような音が川の中にいる耳塚目掛けて歩いてきている音が聞こえてきた。
暗すぎてその音の正体が見えないわけじゃない。
耳塚の目では視ることができないのだ。
「く、くるなぁああっ!!」
川に落とされてから二度目の発声でようやく呼吸の方法を思い出したのか、耳塚の発した声は地声と声の裏返りがビブラートするような叫びであった。
どうすることもできない恐怖が耳塚を襲う。
凍てつくような冷たさの川の水が耳塚の動きを制限するように体にまとわりつく。
逃げないといけないことは頭では理解している。
それでも身体が動かないのだ。
恐怖というものにはいくつか種類があると思っている。
それこそ閉所恐怖症。高所恐怖症。暗所恐怖症。中にはダム恐怖症であったり、黄色恐怖症なんてものも存在しているようだ。しかし今の耳塚が抱いている恐怖はそのどれにも当てはまらないだろう。
なぜなら今、耳塚が恐怖しているのは”自身を脅かす存在”が自身に触れることができることを知ってしまった恐怖だからだ。
今まで”奴ら”から逃げ延びることに成功したことはあっても、捕まった経験は無いのだ。
そのため”化け物ども”が耳塚にどんな害を齎すのか知らないままで過ごしていたため、まさか”向こう側の存在”がこちらに干渉できるだなんて微塵も思っていなかったのだ。
しかし耳塚の考えは先ほど腹部に与えられた鈍痛によって、触れられることがわかってしまった。
そうなってくると、本当に”奴ら”が自分にどんなことをするのかがわからない。耳塚の中で「怖い」という以外の感情が芽生えることはなかった。
「あああぁっぁぁああぁぁああぁぁ!! 来るな! 来るなぁぁあああっっぁぁ!!!!」
耳塚は叫びながら、恐怖で立ち上がることのできない体を後退させながら、川の水を掬っては”元凶”に向かってその水を投げる。しかしそんなことなんの意味も持たないのか、ドボンッドボンッという川の水を踏み潰しながら進む音は止まることを知らない。それどころか徐々にスピードを上げている気すらする。
耳塚も追いつかれないようにと後退する速度を上げようとするも、川も比例するように深さを増していく。腰が抜けて立つことのできない耳塚にとって、これ以上進むことは溺れ死ぬことを意味していた。
『死』という今までとは少し異なる恐怖を耳塚が襲う。
「だれ゙がぁ゙! だれ゙がだずげで! だれ゙で゙も゙い゙い゙、だれ゙で゙も゙い゙い゙がら゙…………だずげで!」
人目を気にする様子もなく耳塚は涙や鼻水を垂れ流しにしている顔で喉をからしながら誰かに助けを求める。しかし赤子のように泣き叫ぶその姿を誰も見ていない。ただ一人。耳塚の目の前にいるであろう”厄災”を除いては。
「ダ、レモタ、ス、ケニ、コナイ! オマ、エハヒ、トリ! ダ、レモタ、ス、ケニ、コナイ! ヤッ、トツカマ、エタ!」
その不協和音は耳塚の首を締めるように襲いかかると、そのまま耳塚を川底へと沈めた。
先ほど呼吸の方法を思い出したばかりだというのに、また息ができなくなる。冬の川の水は想像以上に冷たく、その凍てつく冷たさに痛みを覚えるほどであった。
水中で必死に藻掻く。しかしどんなに藻掻いても首を締める力は弱まることはなく、むしろ強くなっているのではないかと思えるほどだ。
そろそろ呼吸も怪しい。首が締められている関係で酸素が脳まで行き届かず、意識が徐々に薄れていく。
死にたくない。
ただそれだけだった。
たったそれだけのことなのに、叶えることのできなかった悔しさがここで一気にこみ上げてきた。
どうして自分だけなのだろう。
音さえ聞くことがなければこんな思いをすることはなかった。
自分だって高校生らしい生活を送りたかった。
友達もたくさん作って、放課後に買い食いとかしてみたかった。
修学旅行にだって行きたかった。
もっとたくさんのことを学びたかった。
アルバイトや社会人経験を積みたかった。
恋をしたかった。
水中で涙を流したところで、その涙を誰も観測することはできない。
それこそ自分自身も泣いているのかそうでないのかの判断をすることはできないだろう。
それでも耳塚は今、自分が涙を流していると理解っている。
しかしそれが恐怖によるものなのか。後悔によるものなのか。未来を嘆いてのものなのかは、耳塚本人にもわからないでいた。
遠のいていく意識の中、最後にもう一度希望を抱いて「助けて」と手を伸ばす。
その氷のように冷たくなった耳塚の手をは温かいナニカに包まれ、水中に埋もれていた体が引き抜かれたと思いきや、青紫色にまで変色した唇をこれまた温かいナニカを押し当てられ、ほんの少しだけ体温が上がったのがわかる。
「しっかりしろ! 大丈夫か!」
「もういない! もうやつはいないから!」
その声は耳塚がいま一番手を取ってほしい人物たちの声だった。
耳塚には先ほどまで首を湿られていたあの感覚はなく、いつの間にか不協和音も聞こえなくなっていた。
その安心感と二人の顔を見た耳塚はそこで意識を手放した。



