猪鼻を掴んだ手が汗ばんでいつの間にかすり抜けてしまうんじゃないかと無意識に猪鼻の手を握る力が強くなる。周りから見れば仲の良い高校生二人組に見えるかもしれないし、一方は金髪でもう一方はオレンジ髪と端から見たら不良男児が悪さをして何処からか逃げているようにも見えなくもないだろう。
しかし今の耳塚に周りにどんな見え方をされているかなんて考えている余裕はなかった。
「ビッチャンビチャン」と水分を含んだモップで大きめな蜘蛛を潰すような音は耳塚と猪鼻が走り始めたと同時に二人を追いかけるように背後を付けてくる。そしてその音が聞こえてくる間隔はまるで五メートル以上ある怪物が大股で歩いているような間隔で聞こえてくるのだ。
先日目黒が「雪があると視えていなくとも視えるのではないか?」のようなことを言っていた気もするが、実際には一部分だけ雪が極端に凹むこともないし、雪が空中に留まりそこを見ることで”普段は視えていないはずのものが視える様になる”なんてことはなかった。
しかし今は”不快な音の発生源”が視えていないことが問題ではない。居場所は最悪音で大体は位置を特定することは可能だし、一人であれば目黒に連絡をとってあの”バケモノ”から逃げながら合流することだってできただろう。
今の問題はこの場には現在、猪鼻もいるということだ。
そしておそらくだが、猪鼻は——耳塚や目黒と同じ様に”ヤツら”を観測する手段を持っているのだと耳塚はそう確信していた。それこそが耳塚が一番問題視している点である。
以前耳塚は目黒に”この世ならあるもの”に目黒が視えているとバレる瞬間がどんな瞬間かを聞いたことがある。その時には基本的には目を合わせてしまった場合だと説明してくれた。他には道を塞いでいる場合それを避けるような動作をしたり、ホラー映画の演出のように急に飛び出してきてそれに反応してしまうと視えていることが”ヤツら”にバレてしまうのだと言う。またバレたかどうかの判定は、目黒の場合”バケモノども”を視ることができるため向こう側の反応でバレたかどうかを判断しているようだ。
これは耳塚の場合もほとんど変わらないようで、『それ以上水分を吸えないほど重くなった靴でトマトを踏み潰すかのような音』や『水分を含んだモップで大きめな蜘蛛を潰すような音』のような不協和音が付きまとってきたり、”この世ならざるもの”が発しているであろう到底人間の出している声出はない人間の言葉が背後から聞こえてくるため、バレているかどうかを判断することができる。
しかし猪鼻の場合、臭いだけではそれがバレているのかどうかを判断することはできないだろう。もしかしたら臭いの種類がバレたのかそうでないのかが判別付くのかもしれないが、猪鼻の様子からして”人ならざるもの”から発せられる臭いを感じ取るのは今回が初めてなのだろう。それであればバレたかどうかの判断を付けることはできないに違いない。
ならばどうするか。
心優しい耳塚のすることは一つだ。
――猪鼻を助けるしかない
話は簡単だ。これ以外の選択肢は耳塚には無い。
耳塚は引かれるかもしれないという覚悟を持ったうえで息を切らしながら、後ろで手を引かれながら今の状況をさほど理解していない猪鼻に語りかける。
「ラク! これから話す内容に嘘偽りはない! いいか、よく聞けよ!」
「な、何なんだよ急に! てか、いつまで走るんだよ!」
「安全になるまで走るんだよ!」
「はぁ?」
無理もないだろう。急に走り出し、かつ猪鼻の足が遅かろうと早かろうとその手を離すことのない耳塚に動揺するのは至極当然のことだと耳塚自身感じながらも、今のこの状況を打破するためにも正直に伝えて信じてもらうしか無い。
「ラク……お前は多分”バケモノ”の臭いがわかるんだよ」
「……は? お前もしかしてスピリチュアル的ななにかか?」
「そんなんじゃないんだって! そして俺はそんな”バケモノ”どもの音がわかるんだ」
「お前……その年齢で厨二病はまずいぞっ! 誰にも言わねーからそのへんにしておけ!」
猪鼻はそんな耳塚の話を聞き、聞いていられないと感じたのか、今にも立ち止まって耳塚が掴んでいる手を振りほどこうとするも、それを阻止するかのように耳塚は強く手を握ったまま離そうとしない。
「ラクがさっき嗅いだって言ういう”放置した生ゴミにガソリンを撒いたみたいな臭い”、走ってさっきいた場所からだいぶ離れてるのに、ずっと後ろから同じ臭いがするだろ!」
「……何かのドッキリか?」
「ラクが今日一緒に帰ろうって誘ってきたんだろ! そんなドッキリとか準備してる暇があるわけ無いだろ!」
「……音ってどんな音だよ」
「掃除中のめちゃくちゃ水を含んだモップで、思いっきり虫を潰すみたいな音! 多分それが”今背後にいるヤツ”の歩く音だ!」
それを聞いて猪鼻は走りながら背後を確認する。しかし猪鼻の目には何も映らない。ただ振り返った瞬間に感じたあの鼻を刺すような腐臭に思わず振り返るのを途中で諦め、吐き気を抑えるようにまたカーディガンの袖で口と鼻を覆った。
「吐くなよ! 今は走り続けろ!」
「うっ…………。そ、それでどうするんだよ」
「……信じてくれるのか?」
「ケンジの言う通りどんなに走ってもあの鼻にこびりついて離れないあの腐臭は付いてきているようだし、今はケンジの言うことに耳を傾けるしかないだろ……」
「ありがとう」
猪鼻が耳塚の話を信じてくれたことに対し安堵の表情を一瞬垣間見せるも、今置かれている状況を思い出しすぐに絶望的な表情へと戻った。その落差はまるでジェットコースターよりも激しく蜘蛛の糸が切れた瞬間の犍陀多と同じような表情だったに違いない。
「それで逃げ続けることで撒けるのか?」
「……わからない」
「はぁ? わからないって何だよ! なにか策があるんじゃないのか?」
策がないわけじゃない。やることは簡単だ。猪鼻とキスをするだけでいい。
しかしそれが問題なのだ。
この状況でこの状況を打開する方法はキスをすることだとバカ正直に猪鼻に伝えたところで、せっかく信じてもらえつつあるこの馬鹿げた”人ならざるものに関する話”をまた振り出しに戻してしまうことになるかもしれない。
だがそんなことを言っている場合ではないこともわかっている。
「……撒けなかったならどうなるんだ?」
「ごめん、正直言ってわからない。今まで”アイツら”に捕まったことはないから……」
「……なら今まではどうしてたんだ?」
誤魔化しきれない。
真実を伝えるしか無いだろう。
引かれるかもしれないが、背に腹は代えられない。
「…………き、キスすれば払える」
「”バケモノ”とか?」
「……俺とラクが、だよ」
「………………正気か?」
「あぁ……信じられないかもしれないが。俺はそれで何度もこの状況をくぐり抜けてきた」
「わかった」
「え?」
耳塚は自分の耳が聞き間違いをしたのではないかと思い、咄嗟に振り向き猪鼻の顔を確認する。振り向いた耳塚に対し「なんだよ」とつぶやく猪鼻の表情は、そろそろ体力の限界なのか歯を食いしばり、目を細めていた。おそらく今のこの状況を打開するのはキスだろうがなんだろうが、早く終わらせたいのだろう。
耳塚は今いる場所から一番人気の少ない場所を脳内でマッピングする。
普段であれば人気の少ない道を選択して帰っているのだが、今日は猪鼻と共に帰っているという点と帰りに値引きされた商品を買いに行くというミッションを成功させるため、また例の商店街付近を通っていた。
この付近といえば、もうあそこしか無いだろう。
「ラク! まだ走れるか? 商店街を抜けたところにある廃ビルまで行くぞっ!」
「……ッ!!」
もう返事をするのもしんどいのだろう。返事をするわけでもなく相槌を打つわけでもなく、誰かを睨みつけるかのような表情で覚悟を決めたかのように走るスピードを上げる。
人は目的地やゴールがはっきりしていると力を発揮できるのかもしれない。耳塚はそんなことを考えながら猪鼻の手を引く力を更に強めた。
猪鼻の身長は一八◯センチほどだ。その分足が長くスタイルは良いといって差し支えないだろう。耳塚個人としては足が長い人は足が必然的に早いと思っていたのだが、必ずしも体力が比例するわけではないようで、足の長さを生かしたスピートは出ていない。それは猪鼻が常にマスクをしていることが原因かもしれない。取り込める酸素量が少ないのか、息切れが早い。猪鼻本人もそれを自覚しているのか覚悟を決めスピードを上げるときにはマスクを顎までズラし、口を大きく開け、酸素を取り込んでいるようだ。
廃墟ビルに入る。
もう少し時間がかかるものと思っていたが、猪鼻がスピードをあげてくれたおかげで耳塚の想定よりも早く廃墟ビルにたどり着いた。
廃墟ビルは先日とどこも変わっていない。取り壊されると噂では聞いているが今のところそんな様子は微塵も感じられない。一応立入禁止と書かれたバリケードテープが貼られているのだが、そんなものを気にする人間はそもそも廃墟ビルに近づこうとはしないだろう。
更に言えばこの廃墟ビルには”幽霊が出る”という噂もある。そんな話が広まっているからか、取り壊し工事の業者も見つからないのかもしれない。
ビル内は外よりも寒い。元はどんな施設として使用されていたビルなのかは知らないが、フローリングなどの装飾は一切なく、アスファルトが剥き出しになっている。窓ガラスや扉などもすでに撤去されたか壊されたかしたのだろう。吹き抜け状態になっており空気の入れかなどせずとも風が勝手に空気の入れ替えを行ってくれている。そのため外気よりもビル内の方が寒く感じるのだろう。
ビルの中央にある大きなアスファルトの柱まで駆けると、耳塚は猪鼻をそのアスファルトの柱に押し付ける。勢いがついていたのか、背中を少し強めに叩きつける形になってしまったが、今は猪鼻の体を心配している場合ではない。
「キスは初めてか?」
「え、あ、あぁ……」
「口開けて」
「え?」
「口、開けて」
先日までキスなんてしたことがなかった耳塚であるが、今ではキスを初めてする猪鼻をリード出来るくらいには経験を重ねていた。
耳塚の指示に従い口を開ける猪鼻。そして口が開いた瞬間に耳塚は少し背伸びをして猪鼻に口づけをする。猪鼻はオシャレさんだけあり自分の肌などには気を使っているのか、目黒よりも唇の感触が弾力があり吸い付いたものを離さないほど水分を含んでいるのがわかった。目黒の唇の感触が悪いと言っているわけではなく、目黒には目黒の。猪鼻には猪鼻の良さがあるという話だ。
そんな猪鼻はキスとはどういうものか自体は知っているものの、唇を重ねた後は何をすればいいかがわからないでいた。そんな雰囲気を耳塚も察したのか、猪鼻の首に腕を回しながら「俺に任せて」と呟くように伝え、猪鼻の咥内で何かを探すように舌を入れる。
猪鼻はキスと聞いていたため舌まで入れるとは思っておらず、急に咥内を探るように這わせられた舌の感触と流し込まれる耳塚の唾液。そしてそれと交換されるように吸われていくような感覚で減っていく自身の唾液に本当にどうすればいいかがわかっていないようで、猪鼻自身も耳塚と同じ様に腕を回したほうがいいのだろうか。こういうときは鼻で息をするんだよな。目は閉じたほうがいいのだろうか。などいろんな思考が頭をよぎる。
「んっあ……んぅぅっ……あっっぁ……」
「ッんぅ…………あっっ……うぁっあっ……」
徐々にキスの気持ちよさに気づき始めた猪鼻はくちゅくちゅという互いの舌を這わせ合う音にすら快楽を覚え始めていた頃、耳塚の心拍数は今までの比にならないほど高鳴っていた。
(音が……………………消えない!)
耳塚にとって想定外の事態が発生していた。
いつもと同じ様にキスをしているのにもかかわらず、”不協和音だけを発するこの世に存在してはならない物体”が祓える気配が一切ないのだ。
(なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでっ!)
今までにない状況を理解することができない耳塚はキスの仕方が悪いのか? それともキス以外にしないといけないことがあるのか? といろんな考えが一気に頭の中を駆け巡る。
徐々にモップで蜘蛛を潰したかのような「ビッチャン」という不快な音が近づいてくる。猪鼻も臭いで”この世ならざる存在”が近づいていることがわかったのだろう。恐怖のせいか回すかどうかで悩んでいたであろう腕がいつの間にか強い力で耳塚を抱きしめるかのように背中に回っていた。
「モ、ウ、ニ、ゲ、ラ、レ、ナ、イ、オ、イ、ツ、イ、タ、ッ」
耳元で聞こえるその日本語を覚えたての外国人よりも不慣れな日本語で離す”怪異”はゆっくりと耳塚の肩に手をかけようとしているのが感覚として伝わる。
もうだめかも知れない……
今日この日、俺は死ぬんだ……
ラクを巻き込んでしまった……せめて俺が……俺だけが聞こえているフリをすれば……
また自己犠牲型の考えを脳裏に巡らせながら、少しでも恐怖に打ち勝つように目を閉じ、涙を浮かべた瞬間、「あぁそういうことか……」と声が聞こえ――音が、消えた。
正確に言えば音がしなくなったといったほうが表現としては正しいのかもしれない。話すことはできても日本語が不自由な怪異の声と水分を含んだモップで大きめな蜘蛛を潰すようなあの不快な音だけが耳塚の耳には届かなくなったのだ。
それは猪鼻も同様らしく、あの放置した生ゴミにガソリンを撒いたみたいな腐臭はしなくなっているようで、耳塚と猪鼻はキスをしたまま、”バケモノ”を感じなくなったことでその場に立ち尽くしていた。
それに気づいた耳塚は、猪鼻の咥内からゆっくりと舌を引き抜く。その舌を名残惜しそうにしながらも猪鼻は舌を抜き取りやすいように口を少し開いた。舌と舌の間を細い糸が引くが耳塚はそれが恥ずかしく思えたのか袖ですぐに拭った。
「えっと……ありがとう」
「……いや、こちらこそ……」
「もう何も臭わない?」
「うん……ケンジの匂いだけ……、ケンジもえっと、何も聞こえない?」
「だい……じょうぶ……だと思う……」
「そっか……よかったよ」
気まずい。それ以外の感想は今の二人には無いだろう。
いくら”自分たちを恐怖のどん底に陥れた存在”から逃れるためとはいえ、友達同士でキスをすることなんて経験はほとんどすることはないだろう。ましてや同性同士だ。これが異性間であれば何からの進展があったのかもしれないが、今の耳塚にとってキスは今後を生き抜くためのいわば命綱的存在であり、それに準ずる行為のため、特別な感情が芽生えることはない。
しかしキスという行為自体がどういうものかというのは耳塚自身も理解しているつもりだ。だからこそ気まずさが生じているわけだが、それは猪鼻も同じらしく、ぎこちない会話を続けるしか無いようだ。
「……なぁ」
「なに?」
「ケンジってキス慣れてんの?」
「え?」
「なんかリードされた感じだったし、慣れてそうだったから……」
耳塚はもうあとには引けない状況に追い込まれていた。しかしこれ以上も隠していられないだろう。
更に協力者も二人より三人のほうが心強いかもしれない。また猪鼻も今後は”バケモノども”に襲われることもあるかもしれない。そう考えると猪鼻にも目黒のことは説明したほうがいいだろう。
だが、耳塚と目黒が身の安全を確保するためにキスをし合う関係であることを本人の了承をなく猪鼻に伝えてしまっていいのだろうかという葛藤もある。耳塚から見た目黒は周りの誰ともつるまないタイプであり、きっと耳塚との関係を知られるのは嫌なのではないだろうかと、そう考えたのだ。
「えっと……」
「……ごめん!」
「……え?」
「詮索しないっていって今日は一緒に帰ったのに、約束……破った」
「あ、いや、全然……。むしろ状況が状況だったし……それに信じてくれてありがとう」
助かった。まずはこの一言に尽きるだろう。
しかし猪鼻も詮索はしないといっただけで、憶測を立てるのは勝手である。
「……ケンジは今まであの”腐臭の原因”から逃れるためにキスをしてたってことだよな?」
これは一応詮索に当たるのかもしれないが、これに答えないわけにはいかなかった。
「……うん」
「そっか。わかった……」
「俺も聞いていいか? ”バケモノ”を祓う直前にお前『そういうことか』って言ったよな? あれってどういう意味だ?」
「…………………………そんなこと言ってたか?」
「言ってたぞ?」
猪鼻本人はそのことに一切覚えがないようだ。
しかしあの時は”この世ならざるもの”が何かを喋り続けていた状況だったため、もしかしたら耳塚の聞き間違いかもしれないと思い、すぐに「勘違いだ」であったと謝罪をした。
安全を確認した二人はすべての予定を放り出して帰路に付くことにした。
元はといえば値引きされた商品やワゴンセールされている商品を購入するというミッションがあったのだが、”怪異”から逃げ回っている間に日は疾うに暮れていた。
もちろん季節が冬であり、日が沈むのが早いというのも理由にあげられるだろうが、それだけの時間”人ならざすもの”から逃げ回っていたと考えると、猪鼻のあの体力の消費も頷ける。原因はマスクをつけていたことだけではなく、シンプルに逃げ回っていた時間が長かったということだろう。
しかしそんなに時間が経ってしまっているのであれば、すでにミッションをクリアすることは難しいだろう。そのため今日は諦めて帰ることにしたのだ。
雪が降るような季節とはいえ、マフラーやカイロなどはつけているものの、何かあったときのためにと手袋はつけていないし、コートも重くなるからと着ることはない。
そのためあまりの寒さに、身を縮こませるしか耐える方法がない耳塚に「なにか温かい飲み物でもいるか?」と猪鼻は声を掛ける。それに対し「じゃあ一杯だけ」と少し申し訳なさそうに伝え、この日は大人しく猪鼻に奢ってもらうことにした。
自動販売機が近くに設置されているタイプの公園に立ち寄り、ベンチに座りながら先ほどのことについての話をする。
「ココアありがとう」
「どういたしましてっ!」
無言の時間が続く。
なにか温かいものでも……と提案をしてきたのは猪鼻のほうだ。なにか話があるのだろうと耳塚は猪鼻が口を開くのを待っているのだが、なかなか開く気配がない。
「……なにか追加で聞きたいことでもあるんじゃないのか?」
痺れを切らした耳塚から話を振る。
猪鼻がどんなことを聞きたいのかに興味があると言うのもあるが、シンプルにこの寒さに耐え続ける自信が無いため早く終わってほしいという意図もある。
「……ごめん、詮索しないって言ったのに……」
「いいって! 流石にあんなことがあったあとじゃ気になるだろ」
「じゃあ…………。ケンジが今までキスしてた相手って、目黒?」
「…………なんで?」
これは精一杯の強がりだ。
いきなり目黒の名前が出てきて正直ビビっている耳塚であるが、必死に平然を装う。
「やっぱりそうなんだ。なんかそんな感じしてたんだよね」
「え、いや、俺はまだ何も……」
「目黒徹からケンジと同じ匂いがする」
耳塚が言い終える前に被せるように猪鼻は声を出す。
そんな猪鼻の目は前から気づいていましたと言わんばかりの目力を放っていた。
「……匂いってお寺みたいなってやつ?」
「そう」
「そっか……」
「……否定しないんだね」
「……うん」
「……いつも二人で祓ってるの?」
「まぁ……いつもは俺が”バケモノ”に気づかれてそれで目黒を呼ぶって感じが多いか……な……」
耳塚はここまで言葉にして初めて気づいたことがある。
今まで一度も目黒から呼ばれたことがないということに。
(どういうことだ……? いつも俺だけが連絡をしてるよな? 一度も目黒から要請を受けたことがない。いやあいつは実際に視ることができるんだ……。それであれば一人で逃げることも容易なのかもしれない。俺だけが頼っている……? いやまさか、そんなことあるはずが……)
「――ぶか? おい! 大丈夫か?」
「えっ!」
「顔色悪いぞ? 大丈夫か?」
「え、あぁ、うん、大丈夫。ごめん」
つい考え事をしてしまったせいで、余計なことを考えてしまっていたのかもしれない。そう思いながら耳塚は一度大きく深呼吸をする。
時間も老けてきたことだし、そろそろ解散にしようと猪鼻に話を切り出そうとしたときだった。
耳塚より先に猪鼻が声を紡ぐ。
「それで何だけどさ、オレとも……今後はキスしてくれないか? 祓い方はわかったけど、こんなの誰でも頼めるようなものじゃない。できれば同じ境遇の人にお願いしたいし、経験があるのならそれに越したことはないだろ? だから、お願いできないか?」
それは耳塚にとっても悪い話ではない。
協力者が増えると言う事は願ったりかなったりだ。
「俺からもよろしく頼む!」
そう差し出した耳塚の右手を猪鼻は「ありがとう」と微笑みかけながら握り返した。
そんな二人を自販機の明かりに照らされながら睨む目黒の存在に、誰も気づけなかった。
しかし今の耳塚に周りにどんな見え方をされているかなんて考えている余裕はなかった。
「ビッチャンビチャン」と水分を含んだモップで大きめな蜘蛛を潰すような音は耳塚と猪鼻が走り始めたと同時に二人を追いかけるように背後を付けてくる。そしてその音が聞こえてくる間隔はまるで五メートル以上ある怪物が大股で歩いているような間隔で聞こえてくるのだ。
先日目黒が「雪があると視えていなくとも視えるのではないか?」のようなことを言っていた気もするが、実際には一部分だけ雪が極端に凹むこともないし、雪が空中に留まりそこを見ることで”普段は視えていないはずのものが視える様になる”なんてことはなかった。
しかし今は”不快な音の発生源”が視えていないことが問題ではない。居場所は最悪音で大体は位置を特定することは可能だし、一人であれば目黒に連絡をとってあの”バケモノ”から逃げながら合流することだってできただろう。
今の問題はこの場には現在、猪鼻もいるということだ。
そしておそらくだが、猪鼻は——耳塚や目黒と同じ様に”ヤツら”を観測する手段を持っているのだと耳塚はそう確信していた。それこそが耳塚が一番問題視している点である。
以前耳塚は目黒に”この世ならあるもの”に目黒が視えているとバレる瞬間がどんな瞬間かを聞いたことがある。その時には基本的には目を合わせてしまった場合だと説明してくれた。他には道を塞いでいる場合それを避けるような動作をしたり、ホラー映画の演出のように急に飛び出してきてそれに反応してしまうと視えていることが”ヤツら”にバレてしまうのだと言う。またバレたかどうかの判定は、目黒の場合”バケモノども”を視ることができるため向こう側の反応でバレたかどうかを判断しているようだ。
これは耳塚の場合もほとんど変わらないようで、『それ以上水分を吸えないほど重くなった靴でトマトを踏み潰すかのような音』や『水分を含んだモップで大きめな蜘蛛を潰すような音』のような不協和音が付きまとってきたり、”この世ならざるもの”が発しているであろう到底人間の出している声出はない人間の言葉が背後から聞こえてくるため、バレているかどうかを判断することができる。
しかし猪鼻の場合、臭いだけではそれがバレているのかどうかを判断することはできないだろう。もしかしたら臭いの種類がバレたのかそうでないのかが判別付くのかもしれないが、猪鼻の様子からして”人ならざるもの”から発せられる臭いを感じ取るのは今回が初めてなのだろう。それであればバレたかどうかの判断を付けることはできないに違いない。
ならばどうするか。
心優しい耳塚のすることは一つだ。
――猪鼻を助けるしかない
話は簡単だ。これ以外の選択肢は耳塚には無い。
耳塚は引かれるかもしれないという覚悟を持ったうえで息を切らしながら、後ろで手を引かれながら今の状況をさほど理解していない猪鼻に語りかける。
「ラク! これから話す内容に嘘偽りはない! いいか、よく聞けよ!」
「な、何なんだよ急に! てか、いつまで走るんだよ!」
「安全になるまで走るんだよ!」
「はぁ?」
無理もないだろう。急に走り出し、かつ猪鼻の足が遅かろうと早かろうとその手を離すことのない耳塚に動揺するのは至極当然のことだと耳塚自身感じながらも、今のこの状況を打破するためにも正直に伝えて信じてもらうしか無い。
「ラク……お前は多分”バケモノ”の臭いがわかるんだよ」
「……は? お前もしかしてスピリチュアル的ななにかか?」
「そんなんじゃないんだって! そして俺はそんな”バケモノ”どもの音がわかるんだ」
「お前……その年齢で厨二病はまずいぞっ! 誰にも言わねーからそのへんにしておけ!」
猪鼻はそんな耳塚の話を聞き、聞いていられないと感じたのか、今にも立ち止まって耳塚が掴んでいる手を振りほどこうとするも、それを阻止するかのように耳塚は強く手を握ったまま離そうとしない。
「ラクがさっき嗅いだって言ういう”放置した生ゴミにガソリンを撒いたみたいな臭い”、走ってさっきいた場所からだいぶ離れてるのに、ずっと後ろから同じ臭いがするだろ!」
「……何かのドッキリか?」
「ラクが今日一緒に帰ろうって誘ってきたんだろ! そんなドッキリとか準備してる暇があるわけ無いだろ!」
「……音ってどんな音だよ」
「掃除中のめちゃくちゃ水を含んだモップで、思いっきり虫を潰すみたいな音! 多分それが”今背後にいるヤツ”の歩く音だ!」
それを聞いて猪鼻は走りながら背後を確認する。しかし猪鼻の目には何も映らない。ただ振り返った瞬間に感じたあの鼻を刺すような腐臭に思わず振り返るのを途中で諦め、吐き気を抑えるようにまたカーディガンの袖で口と鼻を覆った。
「吐くなよ! 今は走り続けろ!」
「うっ…………。そ、それでどうするんだよ」
「……信じてくれるのか?」
「ケンジの言う通りどんなに走ってもあの鼻にこびりついて離れないあの腐臭は付いてきているようだし、今はケンジの言うことに耳を傾けるしかないだろ……」
「ありがとう」
猪鼻が耳塚の話を信じてくれたことに対し安堵の表情を一瞬垣間見せるも、今置かれている状況を思い出しすぐに絶望的な表情へと戻った。その落差はまるでジェットコースターよりも激しく蜘蛛の糸が切れた瞬間の犍陀多と同じような表情だったに違いない。
「それで逃げ続けることで撒けるのか?」
「……わからない」
「はぁ? わからないって何だよ! なにか策があるんじゃないのか?」
策がないわけじゃない。やることは簡単だ。猪鼻とキスをするだけでいい。
しかしそれが問題なのだ。
この状況でこの状況を打開する方法はキスをすることだとバカ正直に猪鼻に伝えたところで、せっかく信じてもらえつつあるこの馬鹿げた”人ならざるものに関する話”をまた振り出しに戻してしまうことになるかもしれない。
だがそんなことを言っている場合ではないこともわかっている。
「……撒けなかったならどうなるんだ?」
「ごめん、正直言ってわからない。今まで”アイツら”に捕まったことはないから……」
「……なら今まではどうしてたんだ?」
誤魔化しきれない。
真実を伝えるしか無いだろう。
引かれるかもしれないが、背に腹は代えられない。
「…………き、キスすれば払える」
「”バケモノ”とか?」
「……俺とラクが、だよ」
「………………正気か?」
「あぁ……信じられないかもしれないが。俺はそれで何度もこの状況をくぐり抜けてきた」
「わかった」
「え?」
耳塚は自分の耳が聞き間違いをしたのではないかと思い、咄嗟に振り向き猪鼻の顔を確認する。振り向いた耳塚に対し「なんだよ」とつぶやく猪鼻の表情は、そろそろ体力の限界なのか歯を食いしばり、目を細めていた。おそらく今のこの状況を打開するのはキスだろうがなんだろうが、早く終わらせたいのだろう。
耳塚は今いる場所から一番人気の少ない場所を脳内でマッピングする。
普段であれば人気の少ない道を選択して帰っているのだが、今日は猪鼻と共に帰っているという点と帰りに値引きされた商品を買いに行くというミッションを成功させるため、また例の商店街付近を通っていた。
この付近といえば、もうあそこしか無いだろう。
「ラク! まだ走れるか? 商店街を抜けたところにある廃ビルまで行くぞっ!」
「……ッ!!」
もう返事をするのもしんどいのだろう。返事をするわけでもなく相槌を打つわけでもなく、誰かを睨みつけるかのような表情で覚悟を決めたかのように走るスピードを上げる。
人は目的地やゴールがはっきりしていると力を発揮できるのかもしれない。耳塚はそんなことを考えながら猪鼻の手を引く力を更に強めた。
猪鼻の身長は一八◯センチほどだ。その分足が長くスタイルは良いといって差し支えないだろう。耳塚個人としては足が長い人は足が必然的に早いと思っていたのだが、必ずしも体力が比例するわけではないようで、足の長さを生かしたスピートは出ていない。それは猪鼻が常にマスクをしていることが原因かもしれない。取り込める酸素量が少ないのか、息切れが早い。猪鼻本人もそれを自覚しているのか覚悟を決めスピードを上げるときにはマスクを顎までズラし、口を大きく開け、酸素を取り込んでいるようだ。
廃墟ビルに入る。
もう少し時間がかかるものと思っていたが、猪鼻がスピードをあげてくれたおかげで耳塚の想定よりも早く廃墟ビルにたどり着いた。
廃墟ビルは先日とどこも変わっていない。取り壊されると噂では聞いているが今のところそんな様子は微塵も感じられない。一応立入禁止と書かれたバリケードテープが貼られているのだが、そんなものを気にする人間はそもそも廃墟ビルに近づこうとはしないだろう。
更に言えばこの廃墟ビルには”幽霊が出る”という噂もある。そんな話が広まっているからか、取り壊し工事の業者も見つからないのかもしれない。
ビル内は外よりも寒い。元はどんな施設として使用されていたビルなのかは知らないが、フローリングなどの装飾は一切なく、アスファルトが剥き出しになっている。窓ガラスや扉などもすでに撤去されたか壊されたかしたのだろう。吹き抜け状態になっており空気の入れかなどせずとも風が勝手に空気の入れ替えを行ってくれている。そのため外気よりもビル内の方が寒く感じるのだろう。
ビルの中央にある大きなアスファルトの柱まで駆けると、耳塚は猪鼻をそのアスファルトの柱に押し付ける。勢いがついていたのか、背中を少し強めに叩きつける形になってしまったが、今は猪鼻の体を心配している場合ではない。
「キスは初めてか?」
「え、あ、あぁ……」
「口開けて」
「え?」
「口、開けて」
先日までキスなんてしたことがなかった耳塚であるが、今ではキスを初めてする猪鼻をリード出来るくらいには経験を重ねていた。
耳塚の指示に従い口を開ける猪鼻。そして口が開いた瞬間に耳塚は少し背伸びをして猪鼻に口づけをする。猪鼻はオシャレさんだけあり自分の肌などには気を使っているのか、目黒よりも唇の感触が弾力があり吸い付いたものを離さないほど水分を含んでいるのがわかった。目黒の唇の感触が悪いと言っているわけではなく、目黒には目黒の。猪鼻には猪鼻の良さがあるという話だ。
そんな猪鼻はキスとはどういうものか自体は知っているものの、唇を重ねた後は何をすればいいかがわからないでいた。そんな雰囲気を耳塚も察したのか、猪鼻の首に腕を回しながら「俺に任せて」と呟くように伝え、猪鼻の咥内で何かを探すように舌を入れる。
猪鼻はキスと聞いていたため舌まで入れるとは思っておらず、急に咥内を探るように這わせられた舌の感触と流し込まれる耳塚の唾液。そしてそれと交換されるように吸われていくような感覚で減っていく自身の唾液に本当にどうすればいいかがわかっていないようで、猪鼻自身も耳塚と同じ様に腕を回したほうがいいのだろうか。こういうときは鼻で息をするんだよな。目は閉じたほうがいいのだろうか。などいろんな思考が頭をよぎる。
「んっあ……んぅぅっ……あっっぁ……」
「ッんぅ…………あっっ……うぁっあっ……」
徐々にキスの気持ちよさに気づき始めた猪鼻はくちゅくちゅという互いの舌を這わせ合う音にすら快楽を覚え始めていた頃、耳塚の心拍数は今までの比にならないほど高鳴っていた。
(音が……………………消えない!)
耳塚にとって想定外の事態が発生していた。
いつもと同じ様にキスをしているのにもかかわらず、”不協和音だけを発するこの世に存在してはならない物体”が祓える気配が一切ないのだ。
(なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでっ!)
今までにない状況を理解することができない耳塚はキスの仕方が悪いのか? それともキス以外にしないといけないことがあるのか? といろんな考えが一気に頭の中を駆け巡る。
徐々にモップで蜘蛛を潰したかのような「ビッチャン」という不快な音が近づいてくる。猪鼻も臭いで”この世ならざる存在”が近づいていることがわかったのだろう。恐怖のせいか回すかどうかで悩んでいたであろう腕がいつの間にか強い力で耳塚を抱きしめるかのように背中に回っていた。
「モ、ウ、ニ、ゲ、ラ、レ、ナ、イ、オ、イ、ツ、イ、タ、ッ」
耳元で聞こえるその日本語を覚えたての外国人よりも不慣れな日本語で離す”怪異”はゆっくりと耳塚の肩に手をかけようとしているのが感覚として伝わる。
もうだめかも知れない……
今日この日、俺は死ぬんだ……
ラクを巻き込んでしまった……せめて俺が……俺だけが聞こえているフリをすれば……
また自己犠牲型の考えを脳裏に巡らせながら、少しでも恐怖に打ち勝つように目を閉じ、涙を浮かべた瞬間、「あぁそういうことか……」と声が聞こえ――音が、消えた。
正確に言えば音がしなくなったといったほうが表現としては正しいのかもしれない。話すことはできても日本語が不自由な怪異の声と水分を含んだモップで大きめな蜘蛛を潰すようなあの不快な音だけが耳塚の耳には届かなくなったのだ。
それは猪鼻も同様らしく、あの放置した生ゴミにガソリンを撒いたみたいな腐臭はしなくなっているようで、耳塚と猪鼻はキスをしたまま、”バケモノ”を感じなくなったことでその場に立ち尽くしていた。
それに気づいた耳塚は、猪鼻の咥内からゆっくりと舌を引き抜く。その舌を名残惜しそうにしながらも猪鼻は舌を抜き取りやすいように口を少し開いた。舌と舌の間を細い糸が引くが耳塚はそれが恥ずかしく思えたのか袖ですぐに拭った。
「えっと……ありがとう」
「……いや、こちらこそ……」
「もう何も臭わない?」
「うん……ケンジの匂いだけ……、ケンジもえっと、何も聞こえない?」
「だい……じょうぶ……だと思う……」
「そっか……よかったよ」
気まずい。それ以外の感想は今の二人には無いだろう。
いくら”自分たちを恐怖のどん底に陥れた存在”から逃れるためとはいえ、友達同士でキスをすることなんて経験はほとんどすることはないだろう。ましてや同性同士だ。これが異性間であれば何からの進展があったのかもしれないが、今の耳塚にとってキスは今後を生き抜くためのいわば命綱的存在であり、それに準ずる行為のため、特別な感情が芽生えることはない。
しかしキスという行為自体がどういうものかというのは耳塚自身も理解しているつもりだ。だからこそ気まずさが生じているわけだが、それは猪鼻も同じらしく、ぎこちない会話を続けるしか無いようだ。
「……なぁ」
「なに?」
「ケンジってキス慣れてんの?」
「え?」
「なんかリードされた感じだったし、慣れてそうだったから……」
耳塚はもうあとには引けない状況に追い込まれていた。しかしこれ以上も隠していられないだろう。
更に協力者も二人より三人のほうが心強いかもしれない。また猪鼻も今後は”バケモノども”に襲われることもあるかもしれない。そう考えると猪鼻にも目黒のことは説明したほうがいいだろう。
だが、耳塚と目黒が身の安全を確保するためにキスをし合う関係であることを本人の了承をなく猪鼻に伝えてしまっていいのだろうかという葛藤もある。耳塚から見た目黒は周りの誰ともつるまないタイプであり、きっと耳塚との関係を知られるのは嫌なのではないだろうかと、そう考えたのだ。
「えっと……」
「……ごめん!」
「……え?」
「詮索しないっていって今日は一緒に帰ったのに、約束……破った」
「あ、いや、全然……。むしろ状況が状況だったし……それに信じてくれてありがとう」
助かった。まずはこの一言に尽きるだろう。
しかし猪鼻も詮索はしないといっただけで、憶測を立てるのは勝手である。
「……ケンジは今まであの”腐臭の原因”から逃れるためにキスをしてたってことだよな?」
これは一応詮索に当たるのかもしれないが、これに答えないわけにはいかなかった。
「……うん」
「そっか。わかった……」
「俺も聞いていいか? ”バケモノ”を祓う直前にお前『そういうことか』って言ったよな? あれってどういう意味だ?」
「…………………………そんなこと言ってたか?」
「言ってたぞ?」
猪鼻本人はそのことに一切覚えがないようだ。
しかしあの時は”この世ならざるもの”が何かを喋り続けていた状況だったため、もしかしたら耳塚の聞き間違いかもしれないと思い、すぐに「勘違いだ」であったと謝罪をした。
安全を確認した二人はすべての予定を放り出して帰路に付くことにした。
元はといえば値引きされた商品やワゴンセールされている商品を購入するというミッションがあったのだが、”怪異”から逃げ回っている間に日は疾うに暮れていた。
もちろん季節が冬であり、日が沈むのが早いというのも理由にあげられるだろうが、それだけの時間”人ならざすもの”から逃げ回っていたと考えると、猪鼻のあの体力の消費も頷ける。原因はマスクをつけていたことだけではなく、シンプルに逃げ回っていた時間が長かったということだろう。
しかしそんなに時間が経ってしまっているのであれば、すでにミッションをクリアすることは難しいだろう。そのため今日は諦めて帰ることにしたのだ。
雪が降るような季節とはいえ、マフラーやカイロなどはつけているものの、何かあったときのためにと手袋はつけていないし、コートも重くなるからと着ることはない。
そのためあまりの寒さに、身を縮こませるしか耐える方法がない耳塚に「なにか温かい飲み物でもいるか?」と猪鼻は声を掛ける。それに対し「じゃあ一杯だけ」と少し申し訳なさそうに伝え、この日は大人しく猪鼻に奢ってもらうことにした。
自動販売機が近くに設置されているタイプの公園に立ち寄り、ベンチに座りながら先ほどのことについての話をする。
「ココアありがとう」
「どういたしましてっ!」
無言の時間が続く。
なにか温かいものでも……と提案をしてきたのは猪鼻のほうだ。なにか話があるのだろうと耳塚は猪鼻が口を開くのを待っているのだが、なかなか開く気配がない。
「……なにか追加で聞きたいことでもあるんじゃないのか?」
痺れを切らした耳塚から話を振る。
猪鼻がどんなことを聞きたいのかに興味があると言うのもあるが、シンプルにこの寒さに耐え続ける自信が無いため早く終わってほしいという意図もある。
「……ごめん、詮索しないって言ったのに……」
「いいって! 流石にあんなことがあったあとじゃ気になるだろ」
「じゃあ…………。ケンジが今までキスしてた相手って、目黒?」
「…………なんで?」
これは精一杯の強がりだ。
いきなり目黒の名前が出てきて正直ビビっている耳塚であるが、必死に平然を装う。
「やっぱりそうなんだ。なんかそんな感じしてたんだよね」
「え、いや、俺はまだ何も……」
「目黒徹からケンジと同じ匂いがする」
耳塚が言い終える前に被せるように猪鼻は声を出す。
そんな猪鼻の目は前から気づいていましたと言わんばかりの目力を放っていた。
「……匂いってお寺みたいなってやつ?」
「そう」
「そっか……」
「……否定しないんだね」
「……うん」
「……いつも二人で祓ってるの?」
「まぁ……いつもは俺が”バケモノ”に気づかれてそれで目黒を呼ぶって感じが多いか……な……」
耳塚はここまで言葉にして初めて気づいたことがある。
今まで一度も目黒から呼ばれたことがないということに。
(どういうことだ……? いつも俺だけが連絡をしてるよな? 一度も目黒から要請を受けたことがない。いやあいつは実際に視ることができるんだ……。それであれば一人で逃げることも容易なのかもしれない。俺だけが頼っている……? いやまさか、そんなことあるはずが……)
「――ぶか? おい! 大丈夫か?」
「えっ!」
「顔色悪いぞ? 大丈夫か?」
「え、あぁ、うん、大丈夫。ごめん」
つい考え事をしてしまったせいで、余計なことを考えてしまっていたのかもしれない。そう思いながら耳塚は一度大きく深呼吸をする。
時間も老けてきたことだし、そろそろ解散にしようと猪鼻に話を切り出そうとしたときだった。
耳塚より先に猪鼻が声を紡ぐ。
「それで何だけどさ、オレとも……今後はキスしてくれないか? 祓い方はわかったけど、こんなの誰でも頼めるようなものじゃない。できれば同じ境遇の人にお願いしたいし、経験があるのならそれに越したことはないだろ? だから、お願いできないか?」
それは耳塚にとっても悪い話ではない。
協力者が増えると言う事は願ったりかなったりだ。
「俺からもよろしく頼む!」
そう差し出した耳塚の右手を猪鼻は「ありがとう」と微笑みかけながら握り返した。
そんな二人を自販機の明かりに照らされながら睨む目黒の存在に、誰も気づけなかった。



