【完結】聞かざる、視ざる、匂わざる

 学校へ行くことが少し楽しくなりつつあった。そう感じるようになったのは猪鼻(いのはな)と再会したことが耳塚の中で大きな転機となったからだろう。
 耳塚は今までは誰にも迷惑を掛けまいと”ヤツら”の声が聞こえるようになる前までとほぼ同じようにクラスでは賑やかし担当を行っているが、それでも特定の人物と親睦を深めたりすることはなかった。クラスでの評価はただの明るいヤンキーだ。そのため昼食は一人で取るし、目黒と関係を持つまでは学校からの帰りはいつも一人で、人気のない道を選びながら帰っていた。だからこそ心を許した訳ではないが、変に気を使わなくていい会話をしたのは目黒を除けば、猪鼻が久しぶりであった。
 耳塚にとってはそれは些細なことかもしれないが、耳塚のコトを友達だと言ってくれたことも含め、耳塚の心は徐々に温かくなっている。そんな状況だ。

「ケンジ! こっちだ」
「すまん、待たせたか?」
「全然! むしろ丁度いいくらいだ」

 そんな猪鼻とはよく昼食を共にする仲になっていた。
 最初は”バケモノども”への警戒から、最初の一回きりで終わろうと思っていた耳塚であったが、猪鼻と連絡先を交換してからというものほぼ毎日のようにメッセージが送られてくるし、それでいて昼食の時間になると耳塚の在籍している二年三組にまで足を運んで「いつもの場所で待ってるから!」と遠回しに昼食を一緒に食べようと伝えてくるのだ。
 ご飯を一緒に食べようと言われて断るほど耳塚も薄情ではない。むしろ耳塚自身、そんな猪鼻のフランクな態度が嬉しいとすら感じていた。
 しかしそれでもいつあの”人の声を模倣する怪物”に襲われるかがわからない現状、耳塚はどうにかして猪鼻との距離感について改めて考え直さなければならないとも感じていた。

「お、今日のケンジのご飯はサンドイッチか!」
「うん、昨日帰りに寄ったパン屋でワゴンセールやってて……」
「へぇー……、気を悪くしてたらごめんだけ、ケンジって家族仲悪い感じか?」
「……え?」

 猪鼻の口から発せられた言葉は、耳塚の予想もしていない問いかけであった。
 「家族仲が悪い」これは言い得て妙であると耳塚はそう感じていた。
 耳塚健司とその両親の仲は耳塚本人が意図的に悪くしており、それを耳塚の両親は耳塚に何かしらの意図があるのだろうと考えているため無理な接触はしてない。そんな関係値である。そのため周りから見れば会話をすることの無い、家族仲が冷めきっている家族。そういう風に見られてもおかしくはないだろう。
 しかし猪鼻には家族の話などしたことが無い。そんな猪鼻がどうして耳塚の家庭環境を知っているのか甚だ疑問だとそう感じていた。だがそれは猪鼻の弁明を聞くことで、すっと理解することができた。

「いや、いつもコンビニ飯とか値引きされた商品ばかりを昼食に持ってくるからさ……。別にオレもコンビニのときなんてあるし、売店で買うときもあるけど、週に一回は母親が作った弁当だぞ? でもケンジが弁当食ってるところ見たことないから……もしかしてそうなのかなって……って、ごめん! マジで失礼だよな」

 猪鼻がいうには両親の作った弁当を一度も持参したことがないから。というのが家族仲が悪いと思った理由らしい。それに加え基本的に持ってくるご飯が値引きされたモノが多いというのも理由の一つだそうだ。
 ただそれを聞いてなぜそう思ったのかを理解することはできたが、納得することはできなかった。そもそも家庭環境は人それぞれだと耳塚は考えている。両親が共働きで朝から晩まで家を空けている家は少なくないだろう。そうなった場合必然的にお弁当を作る時間なんてないだろうし、シングルで育ててくれている家庭だってあるだろう。その場合もそこに愛情が無いわけではない。
 ただ自分が言ったことに対して「失礼だよな」と謝れている時点で猪鼻も弁当がないイコール家族仲が悪いとかそんな極端な思考を持っているわけではなく、あくまで耳塚のことを心配してそういうことを聞いてくれたのだろう。
 耳塚は猪鼻も自分と同じで優しい心の持ち主なのかもしれないと思いながらも、茶化すようにして沈んだ空気を和ませる。

「想像力豊か過ぎるだろ! 俺はやっすいご飯が好きなだけ!」

 こうは言ってみたが耳塚は嘘を付いているわけではない。
 耳塚自身は本当に安いご飯が好きなのだ。安いと言ってももともと値段の安いものという意味ではなく、値引きされたという意味での安いだ。
 ここでも耳塚の優しい心が発揮されるのだが、値引きされるということは、このまま売れなければ廃棄されてしまうということだ。まだ食べられるものを廃棄するなんてと感じており、耳塚はそんな食べ物を救いたいと考えている。その結果耳塚は値引きされた商品やコンビニで多く仕入れられてしまいこのままでは売れ残ってしまうであろう商品を手に取っているのだ。
 またやっすいご飯が好きというのは、別の意味もある。それはコストパフォーマンスが高いことだ。家族仲を悪くしたい耳塚にとって食事の手段と言えば両親から毎月部屋の前に置かれる一万円札のみだ。最初こそアルバイトでもはじめて自身の食費に当てようかと考えたこともあったが、いつ音が聞こえるかがわからない状況でアルバイトなどできるわけがない。それにアルバイト中に何か不測の事態が発生した場合、両親や学校側にも連絡が行くかもしれないと考え、両親から渡される一万円のみで生活することを選んだのだ。
 そのため耳塚は食べるご飯の金額が低ければ低いほどありがたいと考え、値引きされた食品をよく買うのだ。
 実は耳塚の両親からは何度か増額の打診であったり、夕食だけでも一緒に取らないかと話をされることはあったのだが、両親だけは巻き込むわけにもいかないと考え、さらに耳塚の変なわがままに付き合ってくれている両親の負担にはなりたくないとお小遣いの増額も断っている。

「……なぁ、大丈夫か?」
「…………な、何がだよ?」

 猪鼻が明らかに何かを探ろうとしてきているのだと耳塚は本能的に理解する。

「オレにはケンジが日に日に(やつ)れていっているように見えるぞ……ちゃんと食べてんのか?」

 目黒という強力な助っ人ができた耳塚であったが、それは下校中のときだけだ。それ以外の時間は今まで通りとなんら変わらない。むしろ下校時には目黒がいるという安心感からかそれ以外の時間が怖くて仕方がない。
 まだ学校にいるときは目黒がもしかしたら助けてくれるかもしれないという想いから何とか正気を保っていられるが、登校中や家では自分の力だけではどうすることもできない恐怖を常に戦い続けているわけで、そんな状況でまともに食事ができるわけもなく、学校以外で食事を取ることはほとんどないのだ。
 そのため一万円という食べ盛りの高校生の一ヶ月分の食費としては破格でありながらも、現在までその一万円を使い切ることなく生活ができている。それでも煮卵が好物である耳塚は節約しなくてはとは心のどこかで思いつつも、先日のようにコンビニのおにぎりとしては高額な煮卵のおにぎりを買ったりすることもある。
 そんな耳塚だが、食べ盛りの高校生が一日一食しか口にせず、挙句の果てには日常生活において本来抱えるはずのないストレスを抱えながら生活を送っている。そんな生活を続けていればやせ細っていくのは必然ではないだろうか。

「ま、まぁ……俺もともと少食だし?」
「嘘つくなよ……。金がないのか?」
「いや! まじで! そんなんじゃないから!」

 ここで強く否定をしなければ、猪鼻は今後無駄に耳塚のことを心配するかもしれない。そうなれば”人によって観測の仕方が変わる生命体なのかどうかすら危うい存在”から遠ざけるどころか、近づいていってしまうかもしれない。そう考え不自然でもいいからと強めに否定するも、耳塚のそれは逆に猪鼻を刺激することとなった。

「……オレ、友達が弱っていくところは見たくないんだけど。オレってそんなに頼りない?」
「そういうことじゃないって! 本当に大丈夫だから!」

 耳塚の言葉を聞いた猪鼻は少し考えたあと、やっぱりと言わんばかりに耳塚に問いかける。

「なぁ今日一緒に帰らね?」
「え……」
「別にそれくらいならいいだろ? これ以上変な詮索はしないからさ」

 耳塚は顔を引き攣らせながらも猪鼻の提案にただただ賛同するしかなかった。


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 耳塚にとって、目黒と一緒にいることのできる下校時が一番安心できる瞬間である。"それは人の声を模倣し人間に語りかけてくるあの怪異”から身を守る手段である協力者といっしょに行動できるからだ。
 しかしそれには一緒に帰る必要があるのだが、それができない今日は不安で胸がいっぱいになる。それどころか心做しか心臓の鼓動がスピードを上げ、勝手に両肩が上下する感覚に陥る。これは恐怖だ。安心材料が一つ減るだけで、こうなってしまうほど今の耳塚は目黒に依存しきっているのだ。
 だが今までも毎日一緒に目黒と下校していたのかと問われればそうではない。お互いに用事はあるもので、先日の廃墟ビルで"おばけと呼ぶには異質すぎる存在”を祓ったときも耳塚は目黒をおいて先に帰っていた。
 実はこれはよくあることで、目黒は割と頻繁に担任から呼び出しを食らっている。本人の表情を盗み見るたびに「またですか……」といった気だるさと苛立ちが入り混じった表情を浮かべているのをよく見かける。
 なら目黒の用事が終わるまで待っていればいいじゃないかと質問を受けそうなものであるが、耳塚はパン屋のワゴンセールであったり、コンビニで値引きシールの貼られた弁当を購入する必要があるため目黒を待つにも限界があるのだ。

 耳塚:ごめん。今日は一緒に帰れない
 目黒:わかった。何かあるの?
 耳塚:友達と一緒に帰ることになって
 目黒:友達?
 耳塚:そう、友達
 目黒:あぁいつもお昼一緒に食べてる子?
 耳塚:……なんで知ってんだよ
 目黒:たまたま見かけたんだよ
 耳塚:なら声くらいかけろよ……まぁそういうことだから、わりぃな
 目黒:わかったよ、気をつけて
 耳塚:おう

 学校では会話をすることのない二人はメッセージアプリを通して普段連絡を取り合っている。
 耳塚は目黒が猪鼻と共に昼食を取っていたことを知っていたことに多少の驚きを覚えながらも、猪鼻と一緒に下校するため、目黒とは今日は一緒に帰ることができない旨を伝えた。
 「気をつけて」がなんのことを指しているのかはわからなかったが、きっと”人間の言葉を流暢に話せる異次元の怪物”に気をつけろということだと結論付けた。

 目黒以外の人間と下校の時間を共にするのは初めてな耳塚であったが、案外話が尽きることはないことに若干の安心感を覚えていた。というのも目黒と下校するときはあくまで協力関係であることがお互い念頭にあるのか「テストどうだった?」や「課題は終わっているか?」のような同じクラスであるがゆえの会話こそあるものの、互いを詮索するような会話は一切しないため、学校の会話が終わればそれ以外の時間は無言になる。そのため会話が途中で途切れてしまうのではないかと不安視していたが、猪鼻は耳塚と話をするのが楽しいのか次々に話題を提示してくる。
 そんな猪鼻に助けられつつ、二人の会話が最高峰に盛り上がりを見せた瞬間であった。
 耳塚の背後から「ビッチャンビチャン」と水分を含んだモップで大きめな蜘蛛を潰すような人に不快感しか与えない音が聞こえてきた。
 その音が聞こえた瞬間、耳塚の心拍数は一気に跳ね上がる。先程までの楽しい会話から一変。耳塚は目を泳がせながら、この寒い時期にかくことのない量の汗を額に滲ませていた。

(こんな日に限って…………とにかく反応しないように……そして猪鼻から離れないと!)

 そう瞬時に考えた耳塚が猪鼻に今日はここで解散しようと声をかけようとした瞬間であった。耳塚が言葉を発するよりも先に猪鼻が先に口を開いた。

「なぁ、なんか臭わないか?」
「……え? 臭い?」
「そう……放置した生ゴミにガソリンを撒いたみたいな……そんな変な臭い」
「な……何も臭わないけど?」

 耳塚は猪鼻がいうその独特の臭いを感じることはできなかった。しかし猪鼻はブレザーの中に着込んでいるカーディガンの袖を伸ばし、それを自身の鼻を覆うように顔の前に持ってくる。

「いや絶対臭うよ! マジで臭いって……」
「えぇ……俺はマジでわかんないけど……そんなことよりさ」
「いやマジで臭いぞ!」
「ニ、オ、イ、ワ、カッ、チャ、ウ、ン、ダ」
「臭いなんてわかんない……ぞっ……」

 会話のラリーを続けるように口を開いてしまっていたことが仇となった瞬間だった。
 とにかく反応しないようにと注意を祓っていたのにもかかわらず、猪鼻との会話の間で聞こえた”テレビなどでよく聞くプライバシー保護のため加工され低くなった声をヘリウムガスで無理やり高くしたような声”に返事をするように返してしまったのだ。
 それに気づいた耳塚の顔からは血の気がサッと引いていく。

「キコエルニンゲントニオイガワカルニンゲン……キコエルニンゲントニオイガワカルニンゲン……キコエルニンゲントニオイガワカルニンゲン……ミィツゥケェタァ!!!!」

 怒号のように鳴り響くその声に耳塚は猪鼻の手を掴み、全力で逃げる道を選択した。