今まで一人で”人ならざるもの”と戦ってきていた耳塚にとって、目黒との出会いはまるで四十三度のお湯を張った湯船に浸かる感覚で、ひと息つけるような安心感をもたらしてくれた。
それは目黒も同じようで、一人では解決できないコトを今後は二人で解決できるようになったことを喜んでいるようであった。
しかし学校での二人の様子はとても”人ならざるもの”を祓うためにキスをする仲になったとは思えないほど、今まで通りの関係値であった。以前に比べれば話す機会は増えたかもしれないが、だからといって授業のグループワークで同じグループになったり、毎回昼食をともにとったりしたりするわけではない。あくまで今までよりは話すコトが増えただけだ。
そもそも目黒透が誰かとつるんだり、クラスメイトや友達と話をしたりしている姿を耳塚は見たことがない。これはあくまで耳塚の主観によるもので、実は学校に友達と言えるような存在が目黒にもいるのかもしれないが、耳塚の目にはいつも一人でいるように見える。
別にそれが悪いことだとは耳塚自身思っていない。耳塚の見解では目黒も同じように”人ならざるもの”を認識できる体質のため、その体質のせいで誰かに迷惑を掛けてしまうのを恐れ、基本は一人でいるのかもしれないと、そう思うことにした。
これは耳塚も同じようなものだろう。
私立七ヶ瀬高等学校に入学したばかりの耳塚は今のような金髪ではなく地毛の茶髪だけの髪色で、今よりももっとクラスメイトとの交流を行っていた。
成績は中の上で特別頭が良いというわけでもないが、残念というわけでもない。友達もそれなりに多く、クラスでは賑やかし担当のようなポジションでふざけるときにはふざけ、真面目にするときはするといったどのクラスにも一人はいるようなそんな人物であった。
転機は夏休みに何度かある登校日の今にも雨が降り出しそうな曇天に加え、気圧の変動による片頭痛を感じるそんなある日の出来事だった。
せっかくの夏休み期間中だというのに学校にいかなければならないという憂鬱な気分に加え、片頭痛という生きていれば誰しもが経験したことがあるのではないかというほど自分の力だけではどうすることもできない痛みで若干の苛立ちを覚えていた。
登校日といってもこれと言ってやることがあるのかと問われれば特別何かをするわけではない。これはおそらく学校側の生徒の監視や管理のために行っている一種の行事のようなものだと理解する。夏休みの課題はちゃんとやっているのか。風紀を乱すような行動をとっていないかなどを確認するためだろう。
しかし私立七ヶ瀬高等学校はどちらかと言えば校則の緩い学校であると認識している。学校へのスマホの持ち込みは問題ないし、髪を染めることも禁止されてはいない。アルバイトも許可さえ取ればしても問題ないし、高校では珍しく制服の着崩しをしてもこれといって問題視されることはない。
それだけ校則の緩い高校なのだから登校日などという文化は必要無いのではないかと思うのだが、学校側も何かしらやらなければならない理由でもあるのだろう。
耳塚は大きなため息を吐き、頬杖をつくような形で片頭痛でズキズキと痛む部分を押さえながら教室の窓から外を眺める。所謂ラノベ主人公の席と呼ばれる窓際の一番後方の席に座っている耳塚はよく窓から外を眺める。これは外の景色に興味があるとかそういうわけではなく、この席に座った者の行う運命というものだろう。同じ席に座った者からは共感を得られるに違いない。
そんなことを考えながら外を眺めていると、トォントォンと雨が窓を打つ音が聞こえてきた。とうとう降り始めたかと呟き、それを確かめるかのように次は地面ではなく空を見上げる。
しかし見上げたそれはただの曇天であった。雨雲ではあるもの雨の降るあのドス黒い雲の色ではなく、まだまだ灰色の雨を貯めている状態の雲のように見える。つまり雨が降っているようには見えないのだ。加えて言えば先ほど聞いた雨が窓を打つ音だが、窓ガラスには水滴が一つも付いていない。
聞き間違いでもしたか? と思ったが再度耳塚の耳には窓を打つ音が聞こえる。そしてそれは先ほどよりも大きな音として聞こえた。それは明らかに雨が窓を打つ音ではない。ツンツンともコンコンとも聞こえる爪の先で窓を弾くようなそんな音だ。
ここまでくれは耳塚もおかしいということにはさすがに気が付くのだが、ここは学校。しかも高校ときた。同じ列の誰かが窓を突いて遊んでいるのかもしれないし、誰かのイタズラの可能性だってある。
普段であれば「うるせーよっ」なんて声を出してクラスを笑わせていたかもしれないが、頭痛が徐々に強くなっていくがわかるこの気圧の変動を直に感じる状況に置いて、耳塚は普段のような元気は残されていなかった。
この日を境に耳塚には不可解な音が聞こえるようになっていた。
ある日は粘度の高い泥水を掬っては高所からそれを地面へと叩きつけるような音。またある日は錆びたガードレールやら黒板やらを爪を立てる音とチューニングされていないヴァイオリンを幼児が楽器としてではなく遊び道具として使っている音が同時に聞こえてくるような音が聞こえる。
外出先だけではなく、自宅でも聞こえるため何かがおかしいと感じ始めていた耳塚であったが、自宅でも両親にはその不協和音は聞こえていないようで、これは単に自分自身の体調不良によるものだろうと自問自答の結果そう結論付けた。
しかしほぼ毎日聞こえてるこの不協和音に耳塚は若干のノイローゼ気味になっていた。だが不協和音が一切聞こえない日もある。それが余計に耳塚の精神を蝕んでいった。
夏休みが終わり、まだまだ半袖でなければ外は出歩けない温度が続く中、授業が再開された。秋といえば学園祭を思い浮かべる人や修学旅行を思い浮かべる人が多いかもしれないが、私立七ヶ瀬高等学校はその限りではない。私立七ヶ瀬高等学校でいう秋の行事といえば学力テストである。
学力テストをイベントごとにする学校は珍しいと思うのだが、私立七ヶ瀬高等学校は校則がかなり緩い代わりに、それなりの学力を求められる学力重視の学校である。所謂進学校と呼ばれる学校で、テストの順位が自身のアドバンテージにも関わってくる重要なイベントなのだ。
斯く言う耳塚も七ヶ瀬に入学している以上、テストが重要なものだということは理解しているし、それはクラスだけではなく、この学校に在籍している生徒全員の共通認識である。
だからこそ耳塚はテスト中に聞こえた声が生徒や先生、学校関係者のモノで無いことを瞬時に理解した。
「キコエテルデショ? コッチムイテヨ」
耳を劈くような高音をボイスチェンジャーやらで無理やり地を這うような低い音に変換したような声が耳塚の左耳が捉えた。
耳塚の席は窓際の一番後ろの席であり、耳塚の左側には窓ガラス、そしてその向こう側には外の世界が広がっている。私立七ヶ瀬高等学校の一年生は一階。二年生は二階。そして三年生は三階の教室を使うスタイルを取っている。そのため現在七ヶ瀬の一年生である耳塚は一階の教室を使っているため、真横から声が聞こえても何ら不自然では無いのだが、学力を重視しているこの七ヶ瀬でテスト中にそんなふざけたことを聞いてくる輩が居るはずがない。
それにテスト中のため、あまり周りを見渡すことはできないが雰囲気的にも誰もその”声”に反応している者はいなかった。
(やっぱり俺にしか聞こえてないんだよな……て、いうか音だけじゃねーのかよ! 今のは明らかに人間の言葉だったぞ!)
この日初めて耳塚は”人ならざるもの”の”声”を聞いた。
テスト中だというのに、右手が震えうまく文字を書くことができない。それどころか自分にしか聞こえないその”声”に恐怖を抱き、テストの文章問題を読み解くほど脳にリソースを割くことができなかった。
恐怖のあまり浅い呼吸を何度も繰り返す。しかし何度空気を吸おうとも吸えている気がまったくしない。――過呼吸である。対処するための紙袋などそんな都合よく持っているわけもなく、状況はさらに悪化する。
耳塚の異変に気づいた教師が駆け寄り、背中をさすりながら「ゆっくり深呼吸だ。大丈夫だ!大丈夫だから……」と声を掛けてくれたのだが、耳塚の意識は徐々に薄れていき、最終的に椅子から転げ落ち、教室の床に顔を伏せることとなった。
耳塚が次に目を覚ましたとき、不規則に虫食いがされたような正方形のタイルが並んでいるのが見えた。これはトラバーチン模様というらしく学校や病院などでよく用いられるタイルであるということを耳塚は知っていた。
そのため過呼吸になって意識を失ってからというもの、保健室に運ばれたとばかり思っていたが、俺が起きたことに気づいたのか、馴染みのある声で俺に問いかけるように優しい言葉を降らせた。
「健司! 目が覚めた? 吐き気とかない? 大丈夫?」
俺が倒れた原因となった声ではない。ちゃんと温かくそして俺の身を案じる柔らかい声だ。そう感じた耳塚は本当に声のする方を見ていいのかと一瞬考えたが、ゆっくりと音のなるほうへ首を回す。
そこには耳塚の両親の姿があった。母親は心配するように耳塚の顔を覗き込み、父親は耳塚の目が覚めたことへの安堵の表情を浮かべながら遠目に「何か欲しいものはないか?」とこちらも耳塚のことを心配する声を掛けた。
「……テストは?」
「覚えてない? 健司はテスト中に過呼吸で倒れて、そのまま病院に搬送されたんだよ」
保健室だと思っていたここは病院だったらしい。
過呼吸で倒れてしまった場合は保健室ではなく病院へ搬送されるのだろうか?それとも意識を取り戻す様子が無かったため保健室から病院に搬送されたのかは定かではないが、つい先ほど体験した恐怖から一変。毎日のように見る顔と声に耳塚は安心のせいか涙が出そうになる。そんな姿を見た耳塚の両親はさらに息子への心配を加速させることとなった。
「えっと……迷惑掛けてごめん」
落ち着きを取り戻した三人であったが、耳塚は状況を理解するために両親へととりあえずの謝罪をする。
「何を謝ることがあるのさ! 私たちこと健司の体調に気づけなくてごめんね……。夏休みごろから何かあったんだろうなって気はしてたんだけど、高校生だし誰にも言えない悩みくらいあるわよってなってね……」
「気を使ってくれてたんだよね……ありがとう。それでごめんなんだけど、テストはどうなったか聞いてる?」
「テストは一度問題に目を通してしまったことになるらしく、再受講はできないそうだよ。今回は平均点が点数になるって先生が言ってたよ……って目が覚めてすぐにテストのことは気にしなくていいんだよ!」
「いや……ごめん、成績下がるかも」
「……成績は高いに越したことはないけど、低くても私たちは何も気にしてないわ」
「そうだぞ健司! 俺たちは健司が元気で居てくれればそれでいいんだから」
両親の温かい言葉に耳塚は「ありがとう」とそう呟くように伝えることしかできなかった。それと同時に”音や声”のことはやはり両親にも相談することはできないと感じた。俺の身をここまで案じてくれている両親のことだ。”音”のことを伝えてしまえば何かしらの精神的な病を患っていると思い、別の病院に連れていかれるかもしれない。
両親のおかげて溶けかけていた耳塚の心の中の雪は、一度少し溶けた後に再度固まってしまったためより強固なものへと変わってしまった。
(これ以上心配は掛けられない……迷惑も掛けたくない……)
そう心に誓った耳塚は、一日様子見ということで一晩入院することとなり、両親が帰った後の静まり返った病院で一人今後のことについて考えていた。
今までは音を発するだけだと思っていた”耳塚には視えない存在”に言葉を発することができることがわかった。それはつまり奴らには知性があるということだ。
知性があるとわかった以上、こちらが奴らの音や声が聞こえるとわかったら、何をしてくるかわかったもんじゃない。それに俺の周りにいる人にも被害を被る可能性だってある。
「自分のせいで誰かを危険に晒すわけにはいかない……!」
耳塚は一人で戦い続けることを選択した。
⫘⫘⫘⫘⫘⫘⫘⫘⫘⫘
翌日退院の手続きや耳塚を迎えに来ていた両親に対して、少し緊張しながらも耳塚はゆっくりと口を開く。
「俺、か、髪染めたいんだけど……い、いいかな?」
見た目を変えれば、見た目を怖くすれば俺の周りから人は居なくなる。耳塚はそう考えたのだ。もともと心優しい耳塚だ。誰かを傷つけたりすることは得意ではない。ならば自分自身を犠牲にすることで誰かを傷つけずに済むならそれに越したことは無いと思ったのだ。
「……いいんじゃないかしら?」
「うん、俺もいいと思うよ」
「あら!なら今から美容院行きましょうか?」
「いいね! もう何色にしたいとは決まってるのか?」
優しい両親のことだ。二つ返事で了承してくれるとは思っていたが、耳塚の予想以上に話がとんとん拍子に進んでいく。それ自体は嬉しい反面、耳塚は両親とも距離を置くために髪色を変えることを伝えていないため罪悪感を覚えていた。
「ありがとう。でも自分で染めようと思って……お風呂場使っていい? まずは色を抜いて金にしようかと思ってる……」
「そう? じゃあ薬局に寄って帰りましょうか? 健司は他に何か欲しいものとか食べたいものとかある?」
「ううん。大丈夫だよ。ありがとう」
募った罪悪感は耳塚の心の雪を氷へと変えてしまうほど、耳塚の感情を蝕んでいった。
それは目黒も同じようで、一人では解決できないコトを今後は二人で解決できるようになったことを喜んでいるようであった。
しかし学校での二人の様子はとても”人ならざるもの”を祓うためにキスをする仲になったとは思えないほど、今まで通りの関係値であった。以前に比べれば話す機会は増えたかもしれないが、だからといって授業のグループワークで同じグループになったり、毎回昼食をともにとったりしたりするわけではない。あくまで今までよりは話すコトが増えただけだ。
そもそも目黒透が誰かとつるんだり、クラスメイトや友達と話をしたりしている姿を耳塚は見たことがない。これはあくまで耳塚の主観によるもので、実は学校に友達と言えるような存在が目黒にもいるのかもしれないが、耳塚の目にはいつも一人でいるように見える。
別にそれが悪いことだとは耳塚自身思っていない。耳塚の見解では目黒も同じように”人ならざるもの”を認識できる体質のため、その体質のせいで誰かに迷惑を掛けてしまうのを恐れ、基本は一人でいるのかもしれないと、そう思うことにした。
これは耳塚も同じようなものだろう。
私立七ヶ瀬高等学校に入学したばかりの耳塚は今のような金髪ではなく地毛の茶髪だけの髪色で、今よりももっとクラスメイトとの交流を行っていた。
成績は中の上で特別頭が良いというわけでもないが、残念というわけでもない。友達もそれなりに多く、クラスでは賑やかし担当のようなポジションでふざけるときにはふざけ、真面目にするときはするといったどのクラスにも一人はいるようなそんな人物であった。
転機は夏休みに何度かある登校日の今にも雨が降り出しそうな曇天に加え、気圧の変動による片頭痛を感じるそんなある日の出来事だった。
せっかくの夏休み期間中だというのに学校にいかなければならないという憂鬱な気分に加え、片頭痛という生きていれば誰しもが経験したことがあるのではないかというほど自分の力だけではどうすることもできない痛みで若干の苛立ちを覚えていた。
登校日といってもこれと言ってやることがあるのかと問われれば特別何かをするわけではない。これはおそらく学校側の生徒の監視や管理のために行っている一種の行事のようなものだと理解する。夏休みの課題はちゃんとやっているのか。風紀を乱すような行動をとっていないかなどを確認するためだろう。
しかし私立七ヶ瀬高等学校はどちらかと言えば校則の緩い学校であると認識している。学校へのスマホの持ち込みは問題ないし、髪を染めることも禁止されてはいない。アルバイトも許可さえ取ればしても問題ないし、高校では珍しく制服の着崩しをしてもこれといって問題視されることはない。
それだけ校則の緩い高校なのだから登校日などという文化は必要無いのではないかと思うのだが、学校側も何かしらやらなければならない理由でもあるのだろう。
耳塚は大きなため息を吐き、頬杖をつくような形で片頭痛でズキズキと痛む部分を押さえながら教室の窓から外を眺める。所謂ラノベ主人公の席と呼ばれる窓際の一番後方の席に座っている耳塚はよく窓から外を眺める。これは外の景色に興味があるとかそういうわけではなく、この席に座った者の行う運命というものだろう。同じ席に座った者からは共感を得られるに違いない。
そんなことを考えながら外を眺めていると、トォントォンと雨が窓を打つ音が聞こえてきた。とうとう降り始めたかと呟き、それを確かめるかのように次は地面ではなく空を見上げる。
しかし見上げたそれはただの曇天であった。雨雲ではあるもの雨の降るあのドス黒い雲の色ではなく、まだまだ灰色の雨を貯めている状態の雲のように見える。つまり雨が降っているようには見えないのだ。加えて言えば先ほど聞いた雨が窓を打つ音だが、窓ガラスには水滴が一つも付いていない。
聞き間違いでもしたか? と思ったが再度耳塚の耳には窓を打つ音が聞こえる。そしてそれは先ほどよりも大きな音として聞こえた。それは明らかに雨が窓を打つ音ではない。ツンツンともコンコンとも聞こえる爪の先で窓を弾くようなそんな音だ。
ここまでくれは耳塚もおかしいということにはさすがに気が付くのだが、ここは学校。しかも高校ときた。同じ列の誰かが窓を突いて遊んでいるのかもしれないし、誰かのイタズラの可能性だってある。
普段であれば「うるせーよっ」なんて声を出してクラスを笑わせていたかもしれないが、頭痛が徐々に強くなっていくがわかるこの気圧の変動を直に感じる状況に置いて、耳塚は普段のような元気は残されていなかった。
この日を境に耳塚には不可解な音が聞こえるようになっていた。
ある日は粘度の高い泥水を掬っては高所からそれを地面へと叩きつけるような音。またある日は錆びたガードレールやら黒板やらを爪を立てる音とチューニングされていないヴァイオリンを幼児が楽器としてではなく遊び道具として使っている音が同時に聞こえてくるような音が聞こえる。
外出先だけではなく、自宅でも聞こえるため何かがおかしいと感じ始めていた耳塚であったが、自宅でも両親にはその不協和音は聞こえていないようで、これは単に自分自身の体調不良によるものだろうと自問自答の結果そう結論付けた。
しかしほぼ毎日聞こえてるこの不協和音に耳塚は若干のノイローゼ気味になっていた。だが不協和音が一切聞こえない日もある。それが余計に耳塚の精神を蝕んでいった。
夏休みが終わり、まだまだ半袖でなければ外は出歩けない温度が続く中、授業が再開された。秋といえば学園祭を思い浮かべる人や修学旅行を思い浮かべる人が多いかもしれないが、私立七ヶ瀬高等学校はその限りではない。私立七ヶ瀬高等学校でいう秋の行事といえば学力テストである。
学力テストをイベントごとにする学校は珍しいと思うのだが、私立七ヶ瀬高等学校は校則がかなり緩い代わりに、それなりの学力を求められる学力重視の学校である。所謂進学校と呼ばれる学校で、テストの順位が自身のアドバンテージにも関わってくる重要なイベントなのだ。
斯く言う耳塚も七ヶ瀬に入学している以上、テストが重要なものだということは理解しているし、それはクラスだけではなく、この学校に在籍している生徒全員の共通認識である。
だからこそ耳塚はテスト中に聞こえた声が生徒や先生、学校関係者のモノで無いことを瞬時に理解した。
「キコエテルデショ? コッチムイテヨ」
耳を劈くような高音をボイスチェンジャーやらで無理やり地を這うような低い音に変換したような声が耳塚の左耳が捉えた。
耳塚の席は窓際の一番後ろの席であり、耳塚の左側には窓ガラス、そしてその向こう側には外の世界が広がっている。私立七ヶ瀬高等学校の一年生は一階。二年生は二階。そして三年生は三階の教室を使うスタイルを取っている。そのため現在七ヶ瀬の一年生である耳塚は一階の教室を使っているため、真横から声が聞こえても何ら不自然では無いのだが、学力を重視しているこの七ヶ瀬でテスト中にそんなふざけたことを聞いてくる輩が居るはずがない。
それにテスト中のため、あまり周りを見渡すことはできないが雰囲気的にも誰もその”声”に反応している者はいなかった。
(やっぱり俺にしか聞こえてないんだよな……て、いうか音だけじゃねーのかよ! 今のは明らかに人間の言葉だったぞ!)
この日初めて耳塚は”人ならざるもの”の”声”を聞いた。
テスト中だというのに、右手が震えうまく文字を書くことができない。それどころか自分にしか聞こえないその”声”に恐怖を抱き、テストの文章問題を読み解くほど脳にリソースを割くことができなかった。
恐怖のあまり浅い呼吸を何度も繰り返す。しかし何度空気を吸おうとも吸えている気がまったくしない。――過呼吸である。対処するための紙袋などそんな都合よく持っているわけもなく、状況はさらに悪化する。
耳塚の異変に気づいた教師が駆け寄り、背中をさすりながら「ゆっくり深呼吸だ。大丈夫だ!大丈夫だから……」と声を掛けてくれたのだが、耳塚の意識は徐々に薄れていき、最終的に椅子から転げ落ち、教室の床に顔を伏せることとなった。
耳塚が次に目を覚ましたとき、不規則に虫食いがされたような正方形のタイルが並んでいるのが見えた。これはトラバーチン模様というらしく学校や病院などでよく用いられるタイルであるということを耳塚は知っていた。
そのため過呼吸になって意識を失ってからというもの、保健室に運ばれたとばかり思っていたが、俺が起きたことに気づいたのか、馴染みのある声で俺に問いかけるように優しい言葉を降らせた。
「健司! 目が覚めた? 吐き気とかない? 大丈夫?」
俺が倒れた原因となった声ではない。ちゃんと温かくそして俺の身を案じる柔らかい声だ。そう感じた耳塚は本当に声のする方を見ていいのかと一瞬考えたが、ゆっくりと音のなるほうへ首を回す。
そこには耳塚の両親の姿があった。母親は心配するように耳塚の顔を覗き込み、父親は耳塚の目が覚めたことへの安堵の表情を浮かべながら遠目に「何か欲しいものはないか?」とこちらも耳塚のことを心配する声を掛けた。
「……テストは?」
「覚えてない? 健司はテスト中に過呼吸で倒れて、そのまま病院に搬送されたんだよ」
保健室だと思っていたここは病院だったらしい。
過呼吸で倒れてしまった場合は保健室ではなく病院へ搬送されるのだろうか?それとも意識を取り戻す様子が無かったため保健室から病院に搬送されたのかは定かではないが、つい先ほど体験した恐怖から一変。毎日のように見る顔と声に耳塚は安心のせいか涙が出そうになる。そんな姿を見た耳塚の両親はさらに息子への心配を加速させることとなった。
「えっと……迷惑掛けてごめん」
落ち着きを取り戻した三人であったが、耳塚は状況を理解するために両親へととりあえずの謝罪をする。
「何を謝ることがあるのさ! 私たちこと健司の体調に気づけなくてごめんね……。夏休みごろから何かあったんだろうなって気はしてたんだけど、高校生だし誰にも言えない悩みくらいあるわよってなってね……」
「気を使ってくれてたんだよね……ありがとう。それでごめんなんだけど、テストはどうなったか聞いてる?」
「テストは一度問題に目を通してしまったことになるらしく、再受講はできないそうだよ。今回は平均点が点数になるって先生が言ってたよ……って目が覚めてすぐにテストのことは気にしなくていいんだよ!」
「いや……ごめん、成績下がるかも」
「……成績は高いに越したことはないけど、低くても私たちは何も気にしてないわ」
「そうだぞ健司! 俺たちは健司が元気で居てくれればそれでいいんだから」
両親の温かい言葉に耳塚は「ありがとう」とそう呟くように伝えることしかできなかった。それと同時に”音や声”のことはやはり両親にも相談することはできないと感じた。俺の身をここまで案じてくれている両親のことだ。”音”のことを伝えてしまえば何かしらの精神的な病を患っていると思い、別の病院に連れていかれるかもしれない。
両親のおかげて溶けかけていた耳塚の心の中の雪は、一度少し溶けた後に再度固まってしまったためより強固なものへと変わってしまった。
(これ以上心配は掛けられない……迷惑も掛けたくない……)
そう心に誓った耳塚は、一日様子見ということで一晩入院することとなり、両親が帰った後の静まり返った病院で一人今後のことについて考えていた。
今までは音を発するだけだと思っていた”耳塚には視えない存在”に言葉を発することができることがわかった。それはつまり奴らには知性があるということだ。
知性があるとわかった以上、こちらが奴らの音や声が聞こえるとわかったら、何をしてくるかわかったもんじゃない。それに俺の周りにいる人にも被害を被る可能性だってある。
「自分のせいで誰かを危険に晒すわけにはいかない……!」
耳塚は一人で戦い続けることを選択した。
⫘⫘⫘⫘⫘⫘⫘⫘⫘⫘
翌日退院の手続きや耳塚を迎えに来ていた両親に対して、少し緊張しながらも耳塚はゆっくりと口を開く。
「俺、か、髪染めたいんだけど……い、いいかな?」
見た目を変えれば、見た目を怖くすれば俺の周りから人は居なくなる。耳塚はそう考えたのだ。もともと心優しい耳塚だ。誰かを傷つけたりすることは得意ではない。ならば自分自身を犠牲にすることで誰かを傷つけずに済むならそれに越したことは無いと思ったのだ。
「……いいんじゃないかしら?」
「うん、俺もいいと思うよ」
「あら!なら今から美容院行きましょうか?」
「いいね! もう何色にしたいとは決まってるのか?」
優しい両親のことだ。二つ返事で了承してくれるとは思っていたが、耳塚の予想以上に話がとんとん拍子に進んでいく。それ自体は嬉しい反面、耳塚は両親とも距離を置くために髪色を変えることを伝えていないため罪悪感を覚えていた。
「ありがとう。でも自分で染めようと思って……お風呂場使っていい? まずは色を抜いて金にしようかと思ってる……」
「そう? じゃあ薬局に寄って帰りましょうか? 健司は他に何か欲しいものとか食べたいものとかある?」
「ううん。大丈夫だよ。ありがとう」
募った罪悪感は耳塚の心の雪を氷へと変えてしまうほど、耳塚の感情を蝕んでいった。



