【完結】聞かざる、視ざる、匂わざる

 耳塚健司には”人ならざるもの”の声や”人ならざるもの”が発生源となった音が聞こえる体質である。そのことに気が付いてからはノイズキャンセリング機能付きワイヤレスイヤホンを日常的に着用するようにしていた。
 理由は単純明快、”人ならざるもの”に関する音という音をシャットアウトするためだ。
 いくら”人ならざるもの”の音だとしても直接脳内に響いてくるわけではない。普通の音と同じように空気を振動させる形で耳を介して音が聞こえてくる。そのため耳をふさいでしまえば”人ならざるもの”に音は聞こえてこないのだ。
 普段からノイズキャンセリング機能付きワイヤレスイヤホンを持ち歩くようにしている耳塚だが、ワイヤレスイヤホンには充電が必要なのだ。
 そしてその日はたまたま充電をし忘れたのだ。普段なら忘れることはないのだが、昨夜は髪を染め直したりしていたため充電することをすっかり忘れてしまっていた。本来なら美容院などに行ってプロに染めてもらうのだろうが、耳塚の場合はそういうわけにはいかない。これも理由は単純明快で、”人ならざるもの”の音が聞こえたときに美容院では逃げることもできないし、最悪周りの人間を巻き込んでしまいかねないからだ。そのため定期的に自分自身で髪を染めているのだが、染めてしまった後そのまま寝てしまったため、ワイヤレスイヤホンの充電を忘れてしまっていたのだ。

 これがその日耳塚が犯した失態の一つだ。そしてもう一つ耳塚がその日犯した失態がある。それは”人ならざるもの”に対して返事をしてしまったことだ。
 耳塚は学校が終わると、いつも人通りの少ない道を選びながら帰路に就く。それは仮に”人ならざるもの”に遭遇した場合でも周りの人を気にすることなく逃げられるためなのだが、今日に関してはその行為が逆にダメだったのかもしれない。
 ”人ならざるもの”は基本的に聞こえていることが相手にバレなければ何もしてくることはない。そのためいつもはどんな音が聞こえても無視することを徹底しているのだが、普段は聞こえていない音が聞こえてしまったら誰だって振り向いてしまうものだろう。
 それは耳塚も同様であった。

「コンニチハ」

 目の前には誰の姿も見えない。つまり後ろから耳塚に対して声を掛けたのだと、そう思った。女性にしては低く、男性にしては高いなんとも言えない声帯の持ち主に返事をするべく耳塚は振り返った。
 だがそこには――誰もいなかった。
 聞き間違いではない。耳塚はそう確信していた。このようなことは今までも何度も経験している。

「オマエキコエテルダロ?」

 その異様な声は耳塚の顔の正面から聞こえた。いつもの耳塚ならこのような状況に陥っても冷静さを保って「聞き間違いか?」なんて言葉をこぼしながら何事もなかったかのように過ごすことだろう。しかしこの状況はホラーゲームでいうところのジャンプスケアに近いのだ。静かな状態から急に音が聞こえてしまったら誰だって驚くだろう。
 まさに今の耳塚はそんな状態で”人ならざるもの”の音に二度も反応してしまったのだ。もう言い逃れはできない。
 耳塚は踵を返し逃げる。それはまるで脱兎のごとく……と言いたいところではるが一瞬とはいえ”人ならざるもの”を前にして怖気着いてしまったため初速は遅く、体と心が追いついていないのか、逃げ出す直前でこけそうになる。しかし体もようやく逃げるのだと理解したのか、地面を強く踏み込み何とか体勢を立て直し、アーケード商店街へと走り出した。


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「――っていうのが今回の経緯(いきさつ)だ」

 耳塚はなぜあの日”人ならざるもの”に追われることになったのかの経緯(けいい)を目黒に説明していた。目黒を呼び出して助けてもらった手前、ただただ感謝だけ伝えて廃墟ビルを去るのは少し人として薄情じゃないかと考え、説明するに至ったのだ。
 目黒は耳塚の説明を一通り聞いた後「まぁ充電してなかった耳塚くんが悪いよね」と軽くあしらう。それに対し耳塚はぐうの音も出ないのか「また呼び出して悪かったよ……」と申し訳なさそうにそう呟いた。

 耳塚が目黒を呼び出してキスをするのは今回が初めてではない。
 二人がこのような関係になったのは、この日のように耳塚が”人ならざるもの”に追われているところをたまたま目黒が目の当たりにしたところから始まる。
 高校一年のとき、今回と同じように学校からの帰り道にて”人ならざるもの”に声を掛けられたのだ。それまでも何度か同じような経験をしていたため聞こえてはいけない音だと自分に言い聞かせていたのだが、それだけではどうしようもないことは世の中にはある。
 いつものようにノイズキャンセリング機能付きワイヤレスイヤホンを着用していたのだが、耳塚を追い抜かすような勢いで走り回っていた小学生の集団にぶつかられてしまい、その衝撃でワイヤレスイヤホンが耳から零れ落ちてしまったのだ。
 これは完全なる不可抗力と言えるだろう。
 最近の小学生はませていると聞いていたが、今回ぶつかってきた小学生は耳塚が思っていた以上に礼儀正しく、ぶつかってしまったことへの謝罪をしてきたのだ。耳塚もそんな些細な事で怒るようなことはしないため「気を付けろよ」と一声かけ小学生を解放する。
 その後落ちてしまったワイヤレスイヤホンを拾おうと屈んだ瞬間に事件は起きた。

「オトシチャッタノ?」

 それは小学生高学年くらいの男の子の声だろうか。声変わりしそうな時期のあの不安定な声質で屈んだ耳塚と同じ高さからその声は聞こえてくる。
 先ほども小学生とぶつかったばかりの耳塚はここで完全に気を抜いてしまっていた。声の主が生身の人間であることを疑わなかった。

「そうなんだよ。ぶつかっちゃってね……」

 そう言いながら声のした方を向く。
 血の気が引き、自身の体温が一気に下がっていくのがわかる。瞳孔は開き、肩で呼吸をしてしまうほど緊張のせいかまともに息を吸うことができない。額から流れ出た冷や汗が頬を伝い、固い灰色のアスファルトの色を黒く変色させる。
 それもそうだろう。――声のした方を向いても、そこには何もなかったのだがら。

 油断していた。
 耳塚の今の心理状態を一言で表すならこの言葉が最適だろう。普段であれば警戒していたはずだ。それを案外礼儀正しい小学生と少し会話をしたことでいつもはピンと張っている緊張の糸がほつれてしまったのかもしれない。
 ”人ならざるもの”に反応してしまった以上、逃げるしかない。今までも何度か逃げることで難を逃れたことがある。しかし今は前に向かって走るわけにはいかない。先ほどの小学生たちがいるからだ。”人ならざるもの”に反応したことでどんなことが怒るかわからない以上知らない人を危険な目に合わせるわけにはいかない。
 耳塚は動かない足を思いっきり叩き、鞭とする。自身を奮い立たせ先ほど通ってきた道を戻るかのように走り出す。しかし来た道を戻るだけでは別の小学生に出くわすかもしれないし、同じ高校に通っている生徒もこの道を通るかもしれない。
 耳塚はこの一瞬でどのルートを通ることで人通りが少なく、”人ならざるもの”から逃げられるかを考え、河川敷へと向かうことにした。
 走り出した耳塚の後ろを”人ならざるもの”がケチャップをまとわせたスライムを思いっきり地面に叩きつけたような音を発しながら逃げるなと言わんばかりに追いかけてくる。耳塚はそれに追いつかれないように風切るように駆ける。学校帰りである耳塚はスニーカーではなくローファーを履いているため若干走りづらそうにしているが、それでも早い。しかしその早さにくらいついてくるのが”人ならざるもの”である。どれだけ急いでもあの不協和音から距離を離すことができない。それどころが徐々に近づいている気がする。このままでは追いつかれてしまうため、直線ではなくわざとジグザグの道を選んで河川敷へと急ぐ。

 河川敷に向かって走っている最中、耳塚のことを呼ぶような声が聞こえる。
 最初は”人ならざるもの”が惑わすために発している音かとも思ったが、先ほど聞いていた声変わりの不安定な小学校高学年の声ではなく、普段は大声を出さない男が今だけ頑張って声を張り上げているような声でハッキリと耳塚のことを呼んでいるのだ。

「……ん! ……かくん! こっち! 耳塚くんこっち!」

 耳塚は今度は警戒しつつ音のする方を見る。
 そこには河川敷の防波堤から耳塚に向かって手を振る人物が居た。耳塚には”人ならざるもの”を視認することはできないため、それだけで”人ならざるもの”ではないことはわかった。
 耳塚は防波堤の上で自分のことを呼ぶ者の正体を確認するために目を凝らす。
 耳塚と同じ制服を着用しているため私立七ヶ瀬高等学校の生徒であることはわかった。身長は百七十センチ後半くらいの背丈で、男子高校生にしては長いその黒髪は前髪で目が隠れてしまうほどの長さだ。そしてあまり外に出ることは無いのかやせ型の体系でやや色白の肌の色をしている。耳塚はそんな彼に見覚えがあった。
 同じクラスの目黒徹(めぐろとおる)だ。
 同じクラスというだけで接点があるかと問われれば、そこまでの接点は無い。移動教室でたまに隣の席になる程度の仲だと認識している。つまり友達と呼べるかどうかすら怪しいラインだ。
 そんな目黒が俺に何の用があるのかと少し気になるところではあるが、”人ならざるもの”に追われている今、目黒の近くに行って彼を巻き込む分けにはいかない。

「目黒か! 申し訳ないが今お前に構っている余裕は無いんだ!」
「後ろの”ソレ”に追われてるんでしょ?」

 耳塚は思わず自分の耳を疑った。
 目黒は確かにソレに追われているのではないかと耳塚に問いかけたのだ。
 耳塚は今まで自分以外に”人ならざるもの”を観測できる人物にであったことが無い。そのため目黒の口から発せられた言葉はあまりにも予想外な文字の羅列であり、すぐに理解することはできなかった。

「……え? お前も聞こえるのか?」
「僕には何も聞こえない! でも”視る”ことはできる! そして――僕はそれを祓う方法を知ってる!」

 目黒のその言葉はさらに耳塚を困惑させた。
 祓う方法。それを聞いて耳塚はやはり”人ならざるもの”は霊的なモノだということは理解した。しかし祓う方法とはどういうことだろうか。そして目黒は視ることができるとも言っていた。それはつまり”人ならざるもの”には実態があり、耳塚はそれから発生した音だけが聞こえるということだ。目黒が何も聞こえないと言っているということは人それぞれ体質が違うのだろうと決めつけた。

「は、祓えるってなんだ?」
「言葉の意味そのままだよ。僕なら……いや僕たちなら祓える!」

 今の耳塚にはその本当かどうかわからない藁に縋るしかなかった。

「ほ、本当なんだろうな……!」
「この状況で嘘は付かないよ」

 耳塚は目黒の言葉を信じて、河川敷の防波堤を駆け上がり目黒と合流する。そして二人は河川敷に降り、並走しながら話し合いもとい”人ならざるもの”を祓う方法について談義を始めたのだが、目黒から聞かされた”人ならざるもの”を祓う方法に耳塚は今日何度目かわからない自分の耳を疑うという経験をすることとなった。

「……は? お前今はふざけてる場合じゃないって!」
「ふざけてないよ! ふざけるもんか……この状況で嘘なんか付くわけないでしょ」

 目黒から聞かされた”人ならざるもの”を祓う方法とはキスをすることだ。
 それもただ唇を重ねるだけのキスではなく、舌を絡め合い唾液を交換しあうような大人のキスだと目黒は必死に説いている。目黒の言う通りこの状況で嘘を付くメリットは一切なく、今は半信半疑でも目黒に従うしか道は残されていなかった。
 しかしどうこう言っているような状況では無いことはわかっているが、さすがに同性相手。それもクラスメイトとは言え友達とは言えないような関係値の相手とキスをすることには抵抗がある。ましてやここは河川敷。開けている場所なためキスしているところを誰かに見られてもおかしくはない。

「せ、せめて橋の下までいかないか? そう言ってられる状況じゃないのはわかってはいるんだが……」
「……そうだね。急ごう!」

 目黒は思いのほかあっさりと耳塚の提案を受け入れる。目黒は耳塚より運動神経が良いらしく耳塚より若干早く走れるようで、途中から耳塚の腕を取り引っ張るようにして橋の下まで急ぐ。
 橋の下まで着くと、目黒は掴んだ耳塚の腕を離すことはなく、むしろそのまま自身の方へと抱き寄せる。そして空いているもう片方の手で耳塚の後頭部に手を置くと「口開けて」と低い声で耳塚に指示を出す。
 その低い声に驚き、咄嗟に指示に従う耳塚であったがその瞬間を目黒は見逃さなかった。
 耳塚の後頭部に置いた手を自身に寄せる形で力を入れる。そのまま必然的に二人の唇は重なった。
 最初は触れるだけのキス。耳塚はキスが初めてなのかどうすればいいかわからないようで歯を閉じてしまっており、舌を絡めあうことができない。
 目黒は耳塚が初めてであることを察したのか、自身の舌で耳塚の閉じた歯をノックする。開けろという合図であると判断した耳塚はゆっくりと開けていくのだが、少しの隙間からにゅるりと侵入してくる目黒の分厚い舌先が咥内で耳塚の戸惑っている舌を探し始める。
 咥内でいくら逃げたところですぐに場所は割れてしまう。
 耳塚の舌を見つけた目黒は早速絡めるようにして自分の唾液を流し込みながら、交換するように相手の唾液を飲む。
 突然の刺激の強すぎる快楽に耳塚は少し放心状態になってしまったようで、開いた口の隙間から顎にかけて唾液が流れ落ちていっている。

「もしかして初めてだった?」

 少し休憩のためか、目黒はキスを一時中断し耳塚に問いかける。
 その問いかけに耳塚はゆっくりと頷く。快楽のせいで頭が正常に働いていないのか本来なら恥ずかしがって口にはできないようなこともジェスチャーでなら伝えてしまうようだ。
 それを聞いた目黒は微笑みながら「キスしてるときは鼻で息するんだよ。ほら頑張って」とだけ伝え、もう一度耳塚の咥内へと侵入する。
 最初は無理に口で呼吸しようとしていた耳塚だが、その激しい快楽にも少しずつ慣れてきたのか、空いていた自分の片腕を目黒の背中に回し、鼻で呼吸しながらキスをする。
 漏れている鼻息は徐々に荒くなっていき、それだけで興奮していることがわかるほどであったが、一度快楽の味を覚えてしまった男子高校生というのはそれしか考えられなくなるもので、いつしかお互いに抱き合うようにして、お互いを激しく求め合っていた。

「ん……んっ……ぅあっ……」
「あっ……んぅ……ふふっ……っぅん……も、もう大丈夫だよ」

 目黒は何度か唇を離そうとしていたようだが、耳塚はキスしたさで離れていく目黒の柔らかくそして温かい唇を無意識に追いかけていたようだ。

「えっ……あ! ご、ごめん!」
「ううん、大丈夫。それよりもう”アイツ”はいないよ」

 目黒にそういわれ、耳塚は思い出したかのようにあたりを見渡す。目黒のいう通りあの不協和音は一切聞こえてこない。その安心感からか耳塚は糸の切れた操り人形のようにその場にへたり込んだ。

「だ、大丈夫? 水持ってるからとりあえず飲んで!」

 目黒はそういってバッグから一度もキャップを開けていないペットボトルに入ったミネラルウォーターを差し出した。耳塚は「ありがとう」とだけ伝えペットボトルの三分の一を一気に飲み干す。
 初めてのキスで呼吸も絶え絶えになっており、さらに恐怖からの解放で震えたような呼吸をしていた耳塚であったが徐々に落ち着きを取り戻し始めていた。
 目黒はへたり込んだ耳塚の横に座り込むと少しだけ話始めた。

「初めてのキスだったのにごめんね」
「……いや、いい。本当に助かった。ありがとう」
「全然だよ。耳塚くんの力になれてよかったよ」
「……おう」
「……ねぇ、キス気持ちよかった?」
「は、はぁ? いや、そんなこと…………ま、まぁ悪くはなかった」
「ほんと? よかった……それで提案なんだけどさ……」

 キスまでしてしまい、挙句の果てにはそのキスが気持ちよかったと認めてしまった相手だ。今更どんな提案が来ても大抵は受け入れるだろう。
 耳塚はある程度の覚悟を持って目黒からの提案に耳を傾ける。

「僕も”アイツ”には困ってるんだ……キスは一人じゃできないし…………。だから耳塚くんさえ良ければなんだけど、また僕とキスしてくれませんか?」

 それは耳塚にとっても悪くない提案であった。
 最初こそ半信半疑であった”人ならざるもの”を祓う方法であったが実際に体験したことで目黒と目黒とするキスにはかなりの信頼を置いている。
 それに気持ちよかったのだから正直断る理由もない。

「俺の方からもよろしく頼む」
「ありがとう」

 そういってすでに祓ったというのに目黒は耳塚に再度口づけをした。今回のキスは触れるだけでお互いの唇の柔らかさを確かめ合うようなそんなキスであった。

「な、何やってんだよ」
「これからよろしくって意味のチューだよ」
「別にしなくてもいいだろ!」
「……嫌だった?」
「い、嫌じゃねーけど…………少し練習したいから、もう一度……」
「ん?」
「……もう一度キスしていいか?」

 一度覚えてしまったキスの気持ちよさは耳塚には刺激が強すぎたようで、同性だとか人目だとかそんなことは気にせず、目黒にもう一度キスをねだっていた。
 これが耳塚健司と目黒徹の不思議な関係の始まりであった。