猪鼻楽は中学校一年生のときから様々な匂いを嗅ぐことができるようになっていた。
最初はその匂いの正体がわからず、友達に「これなんの匂いだっけ?」などと質問をしたが、誰もその匂いについて答えることができない状況に若干の違和感を覚える程度であった。
人間はその匂いを嗅ぎ続けると、その匂いがどんな匂いだったかすらわからなくなるという。そのためもしかしたら自分が嗅いでいる匂いというのはその家特有の匂いなのではないかと猪鼻は考えていた。それであればいくら周りに質問してもその匂いの正体がわからないというのも頷ける。
猪鼻はそういうもんか。とこのことについてあまり気にしないようにしていた。
それもそうだろう。中学生という思春期真っ盛りな年頃であればある程度何処までなら言ってもいいかのラインが教えられることなく大体は予想が付く。急に「お前いい匂いだな」とか「なんか臭くね?」なんていくら気を許した間柄であったとしても発言するにはタイミングとうものがあるし、後者の「臭くね?」に関しては悪口になりかねない。それこそいろんな問題に発展する可能性だってある。家庭環境によってはもしかしたら良い思いをさせてもらえない家庭だってあるだろう。それを自分の言葉一つで隠していたであろう事実が広まってしまうのは御免だと、猪鼻は中学一年生にしてわかっていたのだ。
しかし匂いというものはどんなに抗っても自然と嗅いでしまうもので、好きではない匂いですらどんなに抗っても自身の鼻を突き抜けるのだ。
猪鼻はそれが我慢できずに、風邪ではないにもかかわらず毎日マスクを着けるようになった。最初周りからは「どうしたんだよ?」「なんでマスク付けてんの?」などと聞かれることもあった。それこそ友達だけではなく、教師や両親からも言われた。
まだアルバイトなど、自分でお金を稼ぐ能力の無い猪鼻にとってマスクを買ってくれるのは両親である。そのためマスクが欲しいと言っても「どうして必要なの?」と聞かれる始末だ。当然といえば当然なのだが、思春期に突入していた猪鼻はそれがめんどくさくて仕方がない。しかし理由を言わねば買ってもらえないのも事実であるため、仕方がなくテキトーな理由を付けて買ってもらっていた。
基本的には「風邪の予防」だとか「喉の調子が良くない」のようなそんなことを言い続けていた。そのおかげかマスクをつけ続けて二か月も経つことには誰も猪鼻のマスクについて質問を投げてくるものはいなくなっていた。
そんな猪鼻に転機が訪れたのは中学二年のときの修学旅行のときである。
修学旅行先で泊まった宿泊先なのだが、本来はホテルのような場所が多いだろう。しかし少子化の影響か生徒数が減った今、ホテルではなく旅館を借りても問題ない人数に落ち着いていたため、ほんの少し修学旅行費は上がってしまったものの、いい感じの旅館に泊まれることになったのだ。
旅館は中学生が修学旅行で泊まるにしては豪華すぎる造りになっており、天然温泉付きの露天風呂が各部屋に完備されていたり、寝巻きなどを持っていかずとも人数分の寝巻き浴衣が用意されていたりと中学生だけではなく、引率で来ていた教員数名全員も驚くほどのものであった。
しかしそんな旅館で事件は起こった。
――部屋が異常なほど臭いのだ。
部屋の入り口で立ち尽くしてしまい、入ることすらできないほどの悪臭が猪鼻を襲う。だがそんな猪鼻の様子を無視するように同室の生徒が次々と部屋の中に入り、その豪華さに感動の声を漏らす。
「おいラク! 何やってんだよ! お前も早く入れって!」
「もしかしてあまりの豪華さに足が動かねーのか?」
「なんだそれ! ウケるんだが」
先に部屋に入った友達からはそんなことを言われる。仕舞には背中を押され強制的に部屋に入室させられそうになる始末だ。
しかし猪鼻はその異常なほどの悪臭に耐えきれず、吐き気をもよおしてしまった。
「ごめん……ほんとごめん!」
そう言って部屋を出た猪鼻は旅館のトイレへと駆け込む。幸いにもトイレの場所は旅館に入ったときに説明を受けていたため、迷うことなくたどり着くことができた。そしてそのまま個室に入り、喉まで差し掛かっていた”ソレ”を一気に吐き出す。猪鼻の吐瀉物を吐き出す音がトイレ内に響き渡った。何度も嗚咽を繰り返し、出すものがなくなった後は力を失ったかのようにトイレにへたり込む。
胃液のせいか食道から胃にかけて何かがへばりついているかのような感覚でピリピリと手が届くことのない部分に嫌な痛みが走る。口の中はもっと最悪ですぐにでも口をゆすぎたい気分であるが、今は立ち上がる力すら残されていない。唾液なのか胃液なのかわからないそれが開いた口の隙間から流れ出し、顎まで伝っているのがわかる。本当であればそれも拭いたいのだが、なぜかあの悪臭を嗅いだだけだというのに体が思うように動かない。
「先生! 多分ここです!」
そう声が聞こえたかと思えば、その瞬間勢いよくトイレの扉が開く。そしてぞろぞろと何名かの足音と共にトイレに入ってきたのがわかった。そして個室の扉を閉めることなく、吐き倒れていた猪鼻を発見した先生が駆け寄ると「おいしっかりしろ! 大丈夫か!」と声を掛け、猪鼻の体を揺らす。
猪鼻自身、返事をしたくても声を出すことができない。何度も嘔吐を繰り返したせいで声を出す気力すら無いのだ。そんな猪鼻のことを察したのか、男性教員は猪鼻のことを抱きかかえ、同じく引率をしている養護教諭の元へと走る。
その間に猪鼻のことを先生に伝えてくれた生徒に対し、「何本か水を買ってきてくれ! そして猪鼻の荷物もできれば持ってきてくれ!」と伝えていた。それを聞いた生徒は「俺が水買ってくるわ」「じゃあ僕が荷物持っていくよ」「俺タオル余分に持ってきてるからそれも持っていくわ」など自分たちができることで役割分担を行い、それぞれの目的地へと散る。
その姿はとても中学生とは思えないほど統率の取れたものであった。人間は誰かの窮地を救うときには、自身のできることを考え行動できる生き物なのだと猪鼻はそう実感しながらも、あんな悪臭が襲ってきたとはいえ、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
二時間ほど経過し、猪鼻の顔色もだいぶ良くなっていた。
猪鼻は現在、養護教諭と同じ部屋で体を休めている真っ最中だ。他の生徒や先生はというとちょうど夕食の時間らしく、旅館と呼ぶにふさわしい大きな応接間を使って並んで食事を摂っているようだ。
「だいぶ顔色が良くなってきたね。とりあえず水飲めるかな?」
「はい……。ご迷惑おかけしてすみません」
「全然だよ。むしろ体調不良に気づかなかったから、謝るのはむしろ僕の方だよ」
「いえ……そんな……。先生はご飯食べないんですか?」
「ん? 後で食べるよ。あ、もしかしてお腹すいた? 食べられそう?」
「いえ……まだ胃がムカムカしていた食べるのは難しそうです……」
「そっか……。一応旅館側がお弁当にしてこの部屋に届けてくれるそうだから、食べられそうだったら後で一緒に食べようか」
「はい。そうさせていただきます」
養護教諭も猪鼻が倒れてさえいなければ一緒に食べることができていたのかもしれないと考えると、猪鼻の中の罪悪感は更に強さを増していった。今回のときのような不測の事態に対応するため養護教諭も修学旅行に参加しているのは頭では理解しているものの、それでも申し訳ないという気持ちは消えることはなかった。
そんなことを考えていた猪鼻であったが、ある疑問が浮かんだ。
それは養護教諭が自分にだけ付きっきりで問題ないのかというものだった。あれだけの悪臭だ。自分以外にも体調不良者が出ていてもなんら不思議ではない。
「あの、すみません先生」
「どうしたの?」
「オレはもう大丈夫なんで、他の生徒のところに行っても大丈夫ですよ?」
「え?」
「いや、オレはもうだいぶ良くなりましたので……」
「あぁそういうこと? 大丈夫だよ! 倒れちゃったのは猪鼻くんだけだからね」
それは想像もしていない回答であった。
驚きを隠せない猪鼻は追撃するように養護教諭に質問を投げかける。
「え、倒れるまでの体調不良はオレだけだったってことですか?」
「そもそもの体調不良者は猪鼻くん以外にはいないよ?」
「……あんな悪臭だったのにですか?」
「悪臭?」
猪鼻とこの養護教諭とで認識の相違があるのだと、猪鼻はこの時点で気づいたのだが、それがどういうことかと言う事を理解することはできなかった。あれほどの悪臭があってもなお他の誰も気にしないと言うのだろうか。いやそんなことはありえないだろう。現に猪鼻はその悪臭で胃をひっくり返すほど体調不良を起こしているのだ。全員でなくとも誰か一人くらいは部屋を変えてほしいなどの提案をしているはずだ。
しかし猪鼻のそんな考えは養護教諭の一言で覆ることになる。
「そもそも悪臭なんてしてないよ?」
「……は?」
「いやだから、そもそも猪鼻くんが泊まる予定だった部屋はなんの匂いもしなかったよ。僕もさっき体調不良の原因が部屋にあったのかなって思って旅館の方と一緒に部屋を確認しに行ったけど、なんの匂いもしなかったよ。」
「……え? ……は? どういうことですか?」
理解が追いつかないと言わんばかりの表情を浮かべる猪鼻に対し、養護教諭は質問に答えるように優しく声を掛ける。
「本当に悪臭なんてしなかったし、猪鼻くん以外に体調不良を訴える生徒もいなかったよ。一応旅館側の計らいで部屋は別の部屋を用意してもらえることになったけどね。それでだけど猪鼻くん。猪鼻くんが嗅いだっていう悪臭ってどんな臭いだったのかな?」
「……えっと…………公衆トイレに長年放置された腐ったミカン……みたいな臭いって言ったら伝わりますか?」
「思っていた以上に具体的な臭いだね……。そっかぁー、なるほどねぇ」
「え、なんですか?」
養護教諭のその不穏な返事に猪鼻は不安を覚える。
まだ中学生である猪鼻にとって大人からの何か含みのあるような発言はストレスでしかなく、その真意が気になって仕方がない。
「……自分にしか臭わない臭いがあるのかもしれないって思ってね。異嗅症って呼ばれたりするんだけど、一度病院で診てもらったほうがいいかもしれないね。もしかしたら原因がわかるかもしれない」
「異嗅症…………」
「うん。でも猪鼻くんがそうだって決まったわけじゃないよ。あんまり気を悪くしないでね。今日はとりあえずゆっくり休もうか」
「…………はい」
猪鼻はそれで別に落ち込んだりしたりはしなかった。
今までも自分にだけ臭いがわかるような瞬間が多々あったため、もしかしたら自分がおかしいのではないかと少なからず悩んだことが多々あった。そのためその原因を解明できるのではないかという、一筋の光が見えたため逆に喜びさえ覚えていた。
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修学旅行から三週間ほどが経過していた。
猪鼻はもしかしたら自分が「異嗅症」ではないかと思い、両親に今まで感じてきた臭いのことについて説明をし、説得の上病院に連れて行ってもらうことになった。修学旅行の件は先生から事前に両親に説明が行われていたようでその説明が功を奏したのか、それとも今までのマスクの購入が功を奏したのかはわからないが、意外にも「連れて行くよ」の二つ返事であった。
しかし病院の結果は”異常なし”という四文字だけが無慈悲にも猪鼻に突きつけられただけであった。両親は「病気じゃなくて良かったじゃない」と前向きな意見であったが、猪鼻からしてみればその四文字はなんの解決にもならないことを意味していた。
「はぁ……」
「どうしたんだよラク! 大きなため息なんてついてさぁ」
教室から外を眺めていた猪鼻に声を掛けてきたのは修学旅行でも同じ部屋に泊まる予定であった山辺一であった。山辺は小学校からの付き合いで、中学二年の現在まで奇跡的にすべて同じクラスになるという運命的な付き合いをしている大親友である。
「いや……あの臭いの件さぁ、結局病院にも行ったけど、異常なしって言われて……」
「あぁそういえばそんなこと言ってたな。でも異常なしねぇ……」
あの日以降、親友である山辺は猪鼻のことをかなり心配していたようで、そんな山辺には隠し事をこれ以上できないと思い、誰にも伝えるはずのなかった自分にだけわかる臭いの件を伝えていたのだ。
山辺は最初こそ「ふ~ん」といった感じで聞いていたのだが、病院に行くことになったことで「大丈夫なのかよ」と態度を変えてきたのを今でも鮮明に覚えている。
そんな山辺から今まで考えもしなかったことを聞かされたのだ。
「それさ、”霊のにおい”ってやつじゃない?」
「”霊のにおい”……? ってなに?」
「ラクは聞いたことない? 幽霊にもにおいがあって、それを嗅ぎ分けられる人間もいるって話。俺も詳しいことは知らないけど幽霊の通った後とか、幽霊がいる場所とかがにおいでわかるらしいぞ」
あまりの衝撃に文字通り目から鱗が落ちるような衝撃を受けた。今までずっと悩まされていたモノの解決の糸口が見えたような気がしたからだ。
猪鼻は「ありがとう」と大きな声で山辺にお礼を伝えると、勢いよく教室を飛び出し図書室へと向かった。今まで図書室などあまり利用したことはなかったが、今は調べ物がしたくてたまらない。
猪鼻は勢いよく図書室の扉を開けたことで、図書司書をしている先生に睨まれてしまったが、今の猪鼻にとってはそんなこと些細な問題ですらなかった。そのまま目があった図書司書の先生を捕まえて猪鼻は質問を投げかける。
「幽霊やにおいに纏わる本はどこに置いてますか?」
「……え?」
「だから幽霊とかにおいに関する本はどこにありますか?」
「えぇ、聞こえてます。図書室ではもう少し静かに過ごしてください」
「……はーい」
「はぁ……こっちです。付いてきてください」
そう言われ付いて行った先に目当ての本は存在しなかった。
図書室にある本には一通り目を通したのだが、幽霊とそれに関するにおいの記述はどこにも見当たらなかったのである。
「先生……」
「またあなたですか。次は何のようですか?」
「図書室に置いてある本にはオレの知りたい情報は載ってませんでした。どこかおすすめの書店はありますか?」
「…………本に興味があるんですか?」
「本に興味があるというか、オレが知りたい情報が載ってる本に興味があるというか……」
「そういう年頃ですものね。オカルトに魅了される気持ちはわかりますよ。そうですね、駅前にある書店にならそういった本は置いてあるかもしれないですね」
「駅前の本屋……ありがとうございます!」
猪鼻は入室時に注意されたことをすでに忘れてしまっていたのか、図書室にいるとは思えないほどの大きな声で図書司書の先生にお礼を伝える。お礼を伝えられた図書司書の先生もお礼に対して声を抑えなさいと言うのは少し違うような気がして、何も言うことはなかった。
放課後になり早速猪鼻は駅前の書店へと向かう。
本来校則では下校中にどこかに立ち寄ってはならないとされているが、今の猪鼻にとってそれは守らなければならない校則ではなく、障子と同じように破るべき校則へと変化を遂げていた。
「幽霊の住処……幽霊との共存……幽霊はどこへ向かうのか……お化けの格好……降霊術の極意…………あ! 見つけた!」
書店に並ぶ本の背表紙を一冊一冊読み上げながら目当ての本がないかを探し回る猪鼻は、ついに目当ての本を探し出した。そんな猪鼻の手にした本は『霊のにおいについての調査報告書』というオカルト系の書籍に多そうな興味を引くタイトルであった。
シュリンクなどがされていないその本を猪鼻は立ち読みをする。
「……異臭や腐臭がする場所には霊がいる可能性が高い。それが自分だけにしかわからないにおいであれば尚更…………。やっぱりそうなんだ…………。」
猪鼻はこれ以上に無い喜びを感じていた。ずっと自身を悩ませていた臭いの正体が今わかったからだ。本を読んでいるだけだというのに興奮状態になり、自然と肩で息をする形になっていた。
猪鼻はなけなしのお小遣いでその本を購入し、急ぎ足で家に帰ると、自室に引きこもり購入したばかりの『霊のにおいについての調査報告書』というオカルト本を一気読みする。それこそ両親が帰ってきたことにも気づかず、夕飯の用意ができた旨の連絡にすら気づかないほど集中して読み上げたのだ。
そしてその本には霊のにおいについてだけではなく、においによる危険レベルの見分け方や逃げ方までもが載っていた。
「逃げ方……? なるほど。逃げ方とかを知っていればこの間みたいに倒れることは無いのか……ってことは戦い方も……ある? 別のページに載ってるのかな……あっ」
ページをめくる手がどんどん早くなる猪鼻であったが、ある文章が目に飛び込んでくると、ページをめくるのを止め、そのページに書かれている文章を声に出して読んでしまう。
「あなたが心地が良いと感じる匂いのする人物が現れたなら、その人を大事にしなさい。大事にすることであなたの世界に色が付きます……」
心地がいい匂いってどんな匂いなんだ? と文章を読み終えた猪鼻は疑問に感じるも、まだ出会っていないだけだと思うことにし、またページをめくる手が動き始める。
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高校に進学した猪鼻は皆が進むような高校を選んでも『心地が良いと感じる匂いのする人物』には出会えないだろうと思い、ここら一体では新学校と呼ばれる私立七ヶ瀬高等学校へと進学をした。
そして猪鼻は運命的な出会いを果たす。『心地が良いと感じる匂いのする人物』に出会ったのだ。彼の名前は耳塚健司。身長は猪鼻より八センチほど低いが、筋肉質な肉体が特徴的でクラスではムードメーカーのような立ち位置をしていた。
猪鼻はそんな耳塚とすぐに距離を縮める。いわゆる友達になったのだ。
猪鼻のテンションは最候補に達していた。しかしこれは何かの間違いかもしれない。もしかしたらこれは別の誰かからの移り香かもしれないし、香水かもしれない。それでも耳塚の匂いが心地よいと感じるのは事実であった。
そんなある日事件が起きる。耳塚がテスト中に倒れたのだ。
それも霊の匂いが強まった瞬間にだ。それが偶然なのかそうじゃないのかを猪鼻には判断がつかなかったが、その日以降耳塚と話す機会を失ってしまったため事の真相を聞くどころではなくなってしまったのだ。
耳塚は髪を金に染め上げ、授業中は相変わらずクラスを盛り上げようとするものの、それ以外では誰とも会話をしなくなったのだ。以前までとは別人のようになってしまった耳塚に声を掛けるものは誰もおらず、そして猪鼻もそんなクラス全体の流れには逆らうことはできず、声を掛けることもなくなってしまった。
そしてそのまま声を掛けることなく進級。耳塚と猪鼻は別のクラスへとなったわけだが、猪鼻は諦めてはいなかった。どこかタイミングは無いかと常に耳塚のことを気にかけていたのだ。
そんなときチャンスが訪れる。周りには誰もいない状況で耳塚とばったり出くわしたのだ。こんな絶好のチャンスを逃す猪鼻ではない。なんとか話をこぎつけ昼食をともにすることに成功する。
最初は余所余所しく他人行儀な耳塚であったが、話を続けていくうちに徐々に打ち解けてきた。一つ気がかりなことがあるとすればおそらく耳塚と同じクラスである『目黒徹』という人物がこちらを監視するかのように診ていることであった。そして猪鼻は直感的に目黒が自分と同じようなタイプの人間だと感じていた。
しかし今の猪鼻にはそれは些細な問題に過ぎない。
猪鼻は意を決して耳塚に対し禁断の質問をする。
それは『耳塚の匂いの正体』である。変な雰囲気にならないように言葉を慎重に選びながら猪鼻は耳塚に問いかける。結果は猪鼻の望んでいた通りの回答であった。香水などではなく、耳塚から香る香りであることが証明された瞬間であった。
(あぁやっぱりオレはケンジといるべき人間なんだ)
そしてその猪鼻の想いは思いもよらぬ形で叶うことになった。
それは耳塚と一緒に帰ることになったある日のことであった。
(あぁ、付けられてんな…………)
猪鼻は背後から近づいてくる”霊”の存在に気づきつつも、真横にいる耳塚のことを気にかけてどうするのが正解かを考えていた。そんなことを考えているとあることに気がついた。耳塚が何かに怯えるような反応をしていたのだ。言葉が詰まりそうになったり、この時期にはおかしい量の冷や汗をひどく掻いている。
(もしかして…………いや、そうだ! そうに違いない! だってオレは耳塚の運命の人なんだから!)
「なぁ、なんか臭わないか?」
「……え? 臭い?」
「そう……放置した生ゴミにガソリンを撒いたみたいな……そんな変な臭い」
「な……何も臭わないけど?」
「いや絶対臭うよ! マジで臭いって……」
「えぇ……俺はマジでわかんないけど……そんなことよりさ」
「いやマジで臭いぞ!」
「臭いなんてわかんない……ぞっ……」
(あぁやっぱり。ケンジは音が聞こえるんだぁ。倒れたときからそうなんじゃないかと思ってたけどやっぱりそうなんだぁぁぁぁ……)
そう心の中で歓喜溢れながら、耳塚を助けようとした瞬間、耳塚は猪鼻の手を掴み走り出したのだ。それに驚きつつも今は耳塚に合わせることにした猪鼻であったが、なかなかな距離を走り続ける耳塚に体力が限界を迎えようとしていた。
そろそろどこかで助けようと思っていたところに耳塚の口からとんでもないことを聞かされた。
――キスをすることで”霊”を祓うことができる
正直そんな話は聞いたことがなかった。
しかし、これはまたとないチャンスかもしれない。
運命の人とキスをする。
猪鼻は耳塚に自分が選ばれたのだと確信した。
「…………き、キスすれば払える」
「”バケモノ”とか?」
「……俺とラクが、だよ」
「………………正気か?」
「あぁ……信じられないかもしれないが。俺はそれで何度もこの状況をくぐり抜けてきた」
「わかった」
「え?」
キスできるチャンスをものにするため、猪鼻は食い気味で返事をする。
そしてキスをするために廃墟ビルに入り、耳塚とのキスをする。猪鼻は今日初めてキスをするため少しだけキスというものについてもう少し調べておけばよかったと後悔しつつも、耳塚とのキスを堪能する。
しかしキスをしてはいるものの一向に”霊”が祓われる気配がない。
「あぁそういうことか……(そろそろ匂いにも耐えられないし、この辺が限界かな)」
そう言って猪鼻を”霊”に手をかざした。
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なんとか”霊”を祓うことに成功した耳塚と猪鼻であったが、猪鼻は少し釈然としない気持ちでいっぱいであった。
一つ目は耳塚がキスに慣れていたということ。そしてもう一つはそのキスの相手が目黒であったということだ。
(ケンジの運命の人はオレなんだよ? なんで目黒何かとキスしてんの? オレだけでいいだろ! だってアイツは■■■■■■■■だから!)
心の中ではそんなことを思っていたとしても、耳塚には伝えることはできない。
ならばと、耳塚に今後もキスをしてほしいと頼むことにした。そうすればいつか耳塚は自分だけを見てくれるようになるかもしれない。目黒なんかより、自分を求めてくれるようになるかもしれない。そう考えたからだ。
結果は狙い通りであった。
翌日、猪鼻は耳塚に声を掛ける。
それはまるで昨日の出来事がなかったかのように振る舞った。耳塚としては昨日キスをした間柄で少し恥ずかしさがあるのかもしれないが、こっちとしては運命の人とキスをしたのだ。今すぐにでもこのことを全人類に報告したいほどには舞い上がっている。しかしそんな浮かれポンチのような態度をとっては耳塚が嫌がるかもしれないと思い、わざと平然を装ったのだ。
(こいつ……ケンジの後を付けてきてんのか?)
耳塚との挨拶もそこそこに耳塚の後を追うように付いてくる目黒の存在が気になってしょうがない。猪鼻はそんな目黒に耳塚との関係を見せつけるように耳塚との会話を楽しんだ。「またあとで」と耳塚に声をかけ、猪鼻は自分の教室へと向かうが、そのときの目黒の表情は今にも猪鼻を殺そうとするほどの迫力があった。
しかし猪鼻はそんなことは気にしない。耳塚が選ぶのは自分であると確信しているからだ。猪鼻には耳塚さえいてくれればいい。それ以外はいらない。そう思っているからこそ猪鼻にとって目黒という男の存在は邪魔でしかなかった。
しかし神は厄介なことをしてくるもので、楽しい楽しい耳塚との昼食の待ち合わせ場所へ急ぐと、そこには目黒の姿があった。「なにが目的だ!」と威勢だけはいい目黒に多少なり敬意を払いつつも、目黒では相手にならないと言わんばかりに軽口だけを叩く。しかしそんな猪鼻と目黒の口論を耳塚は見ていたようで、イマイチ状況が飲み込めていない耳塚に猪鼻は決定権を委ねる。
だがそんな耳塚の出した結論は猪鼻、目黒のどっちかを選ぶというものではなく、両方を取るという選択であった。
意味が理解できなかった。耳塚を運命の人と認識している猪鼻だが、そんな運命の人は自分だけではなく、別の人間も選ぶと言うのだ。「オレならいつでも守ってやれる」「オレなら不安にさせるようなことはしない」そんな言葉をぶつけそうになったが、今の自分では泊まれる保証がなかったため、今はただ自分の気持ちを抑えることに全力を注いだ。
放課後となり、耳塚と一緒に帰るために二年三組を訪れる。
しかしそこではすでに修羅場が行われていた。ホームルームが長引いてしまったとはいえ、こんな一瞬でここまでの修羅場になるものなのだろうかと思ったが、おそらく目黒は自分と同じなのだろう。耳塚がどちらか一人を選ばないことに苛立ちを覚えているのだ。
そんなヒートアップしている目黒に当てられてしまったのか、抑え込んでいたはずの言葉を耳塚に違った角度からぶつける。
「……………………ケンジはどうしたいの?」
「ど、どうしたいってどういうことだよ……」
「ケンジはこれから先ずっとオレかそこにいる目黒かと一緒に過ごしたいの?」
「何の話だよ……」
「高校を卒業しても、大学生になっても、社会人になっても、ずっと三人でいたいって思ってるの?」
「…………」
「だってそうでしょ? ケンジは今どうするべきかしか考えていないみたいだけど、オレと目黒はずっとケンジに合わせて生活してないといけないの?」
「えっと……」
「ケンジはオレ達にどうしてほしいの?」
これは耳塚に「それでも一緒にいてほしい」と言わせるためだけの言葉だ。それ以上でもそれ以下でもない。しかし耳塚はここで大きな勘違いをしてしまったのだろう。脳がパンクしてしまったのか、言葉を紡ぐことはできずに教室を飛び出してしまった。
後を追いかけようと猪鼻も教室から飛び出そうとするも、目黒に止められたのだ。
「お前だけじゃ余計混乱させるだけだ、僕も一緒にいく」
「……お前は今から先生と用事があるんだろ?」
「だから待ってろってことだよ。わかるだろ」
「イチイチ突っかかってくるなぁ……はぁ、いいぜ。早く終わらせろよ?」
一人教室に残された猪鼻は当然のように知っている耳塚の席に座ると、机に顔を伏せたまま、机に語りかけるかのように誰にも聞こえない声量でボソボソとつぶやく。
「もう少しだからね。もう少しで一緒になれるからねケンジ。オレの運命の人」
最初はその匂いの正体がわからず、友達に「これなんの匂いだっけ?」などと質問をしたが、誰もその匂いについて答えることができない状況に若干の違和感を覚える程度であった。
人間はその匂いを嗅ぎ続けると、その匂いがどんな匂いだったかすらわからなくなるという。そのためもしかしたら自分が嗅いでいる匂いというのはその家特有の匂いなのではないかと猪鼻は考えていた。それであればいくら周りに質問してもその匂いの正体がわからないというのも頷ける。
猪鼻はそういうもんか。とこのことについてあまり気にしないようにしていた。
それもそうだろう。中学生という思春期真っ盛りな年頃であればある程度何処までなら言ってもいいかのラインが教えられることなく大体は予想が付く。急に「お前いい匂いだな」とか「なんか臭くね?」なんていくら気を許した間柄であったとしても発言するにはタイミングとうものがあるし、後者の「臭くね?」に関しては悪口になりかねない。それこそいろんな問題に発展する可能性だってある。家庭環境によってはもしかしたら良い思いをさせてもらえない家庭だってあるだろう。それを自分の言葉一つで隠していたであろう事実が広まってしまうのは御免だと、猪鼻は中学一年生にしてわかっていたのだ。
しかし匂いというものはどんなに抗っても自然と嗅いでしまうもので、好きではない匂いですらどんなに抗っても自身の鼻を突き抜けるのだ。
猪鼻はそれが我慢できずに、風邪ではないにもかかわらず毎日マスクを着けるようになった。最初周りからは「どうしたんだよ?」「なんでマスク付けてんの?」などと聞かれることもあった。それこそ友達だけではなく、教師や両親からも言われた。
まだアルバイトなど、自分でお金を稼ぐ能力の無い猪鼻にとってマスクを買ってくれるのは両親である。そのためマスクが欲しいと言っても「どうして必要なの?」と聞かれる始末だ。当然といえば当然なのだが、思春期に突入していた猪鼻はそれがめんどくさくて仕方がない。しかし理由を言わねば買ってもらえないのも事実であるため、仕方がなくテキトーな理由を付けて買ってもらっていた。
基本的には「風邪の予防」だとか「喉の調子が良くない」のようなそんなことを言い続けていた。そのおかげかマスクをつけ続けて二か月も経つことには誰も猪鼻のマスクについて質問を投げてくるものはいなくなっていた。
そんな猪鼻に転機が訪れたのは中学二年のときの修学旅行のときである。
修学旅行先で泊まった宿泊先なのだが、本来はホテルのような場所が多いだろう。しかし少子化の影響か生徒数が減った今、ホテルではなく旅館を借りても問題ない人数に落ち着いていたため、ほんの少し修学旅行費は上がってしまったものの、いい感じの旅館に泊まれることになったのだ。
旅館は中学生が修学旅行で泊まるにしては豪華すぎる造りになっており、天然温泉付きの露天風呂が各部屋に完備されていたり、寝巻きなどを持っていかずとも人数分の寝巻き浴衣が用意されていたりと中学生だけではなく、引率で来ていた教員数名全員も驚くほどのものであった。
しかしそんな旅館で事件は起こった。
――部屋が異常なほど臭いのだ。
部屋の入り口で立ち尽くしてしまい、入ることすらできないほどの悪臭が猪鼻を襲う。だがそんな猪鼻の様子を無視するように同室の生徒が次々と部屋の中に入り、その豪華さに感動の声を漏らす。
「おいラク! 何やってんだよ! お前も早く入れって!」
「もしかしてあまりの豪華さに足が動かねーのか?」
「なんだそれ! ウケるんだが」
先に部屋に入った友達からはそんなことを言われる。仕舞には背中を押され強制的に部屋に入室させられそうになる始末だ。
しかし猪鼻はその異常なほどの悪臭に耐えきれず、吐き気をもよおしてしまった。
「ごめん……ほんとごめん!」
そう言って部屋を出た猪鼻は旅館のトイレへと駆け込む。幸いにもトイレの場所は旅館に入ったときに説明を受けていたため、迷うことなくたどり着くことができた。そしてそのまま個室に入り、喉まで差し掛かっていた”ソレ”を一気に吐き出す。猪鼻の吐瀉物を吐き出す音がトイレ内に響き渡った。何度も嗚咽を繰り返し、出すものがなくなった後は力を失ったかのようにトイレにへたり込む。
胃液のせいか食道から胃にかけて何かがへばりついているかのような感覚でピリピリと手が届くことのない部分に嫌な痛みが走る。口の中はもっと最悪ですぐにでも口をゆすぎたい気分であるが、今は立ち上がる力すら残されていない。唾液なのか胃液なのかわからないそれが開いた口の隙間から流れ出し、顎まで伝っているのがわかる。本当であればそれも拭いたいのだが、なぜかあの悪臭を嗅いだだけだというのに体が思うように動かない。
「先生! 多分ここです!」
そう声が聞こえたかと思えば、その瞬間勢いよくトイレの扉が開く。そしてぞろぞろと何名かの足音と共にトイレに入ってきたのがわかった。そして個室の扉を閉めることなく、吐き倒れていた猪鼻を発見した先生が駆け寄ると「おいしっかりしろ! 大丈夫か!」と声を掛け、猪鼻の体を揺らす。
猪鼻自身、返事をしたくても声を出すことができない。何度も嘔吐を繰り返したせいで声を出す気力すら無いのだ。そんな猪鼻のことを察したのか、男性教員は猪鼻のことを抱きかかえ、同じく引率をしている養護教諭の元へと走る。
その間に猪鼻のことを先生に伝えてくれた生徒に対し、「何本か水を買ってきてくれ! そして猪鼻の荷物もできれば持ってきてくれ!」と伝えていた。それを聞いた生徒は「俺が水買ってくるわ」「じゃあ僕が荷物持っていくよ」「俺タオル余分に持ってきてるからそれも持っていくわ」など自分たちができることで役割分担を行い、それぞれの目的地へと散る。
その姿はとても中学生とは思えないほど統率の取れたものであった。人間は誰かの窮地を救うときには、自身のできることを考え行動できる生き物なのだと猪鼻はそう実感しながらも、あんな悪臭が襲ってきたとはいえ、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
二時間ほど経過し、猪鼻の顔色もだいぶ良くなっていた。
猪鼻は現在、養護教諭と同じ部屋で体を休めている真っ最中だ。他の生徒や先生はというとちょうど夕食の時間らしく、旅館と呼ぶにふさわしい大きな応接間を使って並んで食事を摂っているようだ。
「だいぶ顔色が良くなってきたね。とりあえず水飲めるかな?」
「はい……。ご迷惑おかけしてすみません」
「全然だよ。むしろ体調不良に気づかなかったから、謝るのはむしろ僕の方だよ」
「いえ……そんな……。先生はご飯食べないんですか?」
「ん? 後で食べるよ。あ、もしかしてお腹すいた? 食べられそう?」
「いえ……まだ胃がムカムカしていた食べるのは難しそうです……」
「そっか……。一応旅館側がお弁当にしてこの部屋に届けてくれるそうだから、食べられそうだったら後で一緒に食べようか」
「はい。そうさせていただきます」
養護教諭も猪鼻が倒れてさえいなければ一緒に食べることができていたのかもしれないと考えると、猪鼻の中の罪悪感は更に強さを増していった。今回のときのような不測の事態に対応するため養護教諭も修学旅行に参加しているのは頭では理解しているものの、それでも申し訳ないという気持ちは消えることはなかった。
そんなことを考えていた猪鼻であったが、ある疑問が浮かんだ。
それは養護教諭が自分にだけ付きっきりで問題ないのかというものだった。あれだけの悪臭だ。自分以外にも体調不良者が出ていてもなんら不思議ではない。
「あの、すみません先生」
「どうしたの?」
「オレはもう大丈夫なんで、他の生徒のところに行っても大丈夫ですよ?」
「え?」
「いや、オレはもうだいぶ良くなりましたので……」
「あぁそういうこと? 大丈夫だよ! 倒れちゃったのは猪鼻くんだけだからね」
それは想像もしていない回答であった。
驚きを隠せない猪鼻は追撃するように養護教諭に質問を投げかける。
「え、倒れるまでの体調不良はオレだけだったってことですか?」
「そもそもの体調不良者は猪鼻くん以外にはいないよ?」
「……あんな悪臭だったのにですか?」
「悪臭?」
猪鼻とこの養護教諭とで認識の相違があるのだと、猪鼻はこの時点で気づいたのだが、それがどういうことかと言う事を理解することはできなかった。あれほどの悪臭があってもなお他の誰も気にしないと言うのだろうか。いやそんなことはありえないだろう。現に猪鼻はその悪臭で胃をひっくり返すほど体調不良を起こしているのだ。全員でなくとも誰か一人くらいは部屋を変えてほしいなどの提案をしているはずだ。
しかし猪鼻のそんな考えは養護教諭の一言で覆ることになる。
「そもそも悪臭なんてしてないよ?」
「……は?」
「いやだから、そもそも猪鼻くんが泊まる予定だった部屋はなんの匂いもしなかったよ。僕もさっき体調不良の原因が部屋にあったのかなって思って旅館の方と一緒に部屋を確認しに行ったけど、なんの匂いもしなかったよ。」
「……え? ……は? どういうことですか?」
理解が追いつかないと言わんばかりの表情を浮かべる猪鼻に対し、養護教諭は質問に答えるように優しく声を掛ける。
「本当に悪臭なんてしなかったし、猪鼻くん以外に体調不良を訴える生徒もいなかったよ。一応旅館側の計らいで部屋は別の部屋を用意してもらえることになったけどね。それでだけど猪鼻くん。猪鼻くんが嗅いだっていう悪臭ってどんな臭いだったのかな?」
「……えっと…………公衆トイレに長年放置された腐ったミカン……みたいな臭いって言ったら伝わりますか?」
「思っていた以上に具体的な臭いだね……。そっかぁー、なるほどねぇ」
「え、なんですか?」
養護教諭のその不穏な返事に猪鼻は不安を覚える。
まだ中学生である猪鼻にとって大人からの何か含みのあるような発言はストレスでしかなく、その真意が気になって仕方がない。
「……自分にしか臭わない臭いがあるのかもしれないって思ってね。異嗅症って呼ばれたりするんだけど、一度病院で診てもらったほうがいいかもしれないね。もしかしたら原因がわかるかもしれない」
「異嗅症…………」
「うん。でも猪鼻くんがそうだって決まったわけじゃないよ。あんまり気を悪くしないでね。今日はとりあえずゆっくり休もうか」
「…………はい」
猪鼻はそれで別に落ち込んだりしたりはしなかった。
今までも自分にだけ臭いがわかるような瞬間が多々あったため、もしかしたら自分がおかしいのではないかと少なからず悩んだことが多々あった。そのためその原因を解明できるのではないかという、一筋の光が見えたため逆に喜びさえ覚えていた。
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修学旅行から三週間ほどが経過していた。
猪鼻はもしかしたら自分が「異嗅症」ではないかと思い、両親に今まで感じてきた臭いのことについて説明をし、説得の上病院に連れて行ってもらうことになった。修学旅行の件は先生から事前に両親に説明が行われていたようでその説明が功を奏したのか、それとも今までのマスクの購入が功を奏したのかはわからないが、意外にも「連れて行くよ」の二つ返事であった。
しかし病院の結果は”異常なし”という四文字だけが無慈悲にも猪鼻に突きつけられただけであった。両親は「病気じゃなくて良かったじゃない」と前向きな意見であったが、猪鼻からしてみればその四文字はなんの解決にもならないことを意味していた。
「はぁ……」
「どうしたんだよラク! 大きなため息なんてついてさぁ」
教室から外を眺めていた猪鼻に声を掛けてきたのは修学旅行でも同じ部屋に泊まる予定であった山辺一であった。山辺は小学校からの付き合いで、中学二年の現在まで奇跡的にすべて同じクラスになるという運命的な付き合いをしている大親友である。
「いや……あの臭いの件さぁ、結局病院にも行ったけど、異常なしって言われて……」
「あぁそういえばそんなこと言ってたな。でも異常なしねぇ……」
あの日以降、親友である山辺は猪鼻のことをかなり心配していたようで、そんな山辺には隠し事をこれ以上できないと思い、誰にも伝えるはずのなかった自分にだけわかる臭いの件を伝えていたのだ。
山辺は最初こそ「ふ~ん」といった感じで聞いていたのだが、病院に行くことになったことで「大丈夫なのかよ」と態度を変えてきたのを今でも鮮明に覚えている。
そんな山辺から今まで考えもしなかったことを聞かされたのだ。
「それさ、”霊のにおい”ってやつじゃない?」
「”霊のにおい”……? ってなに?」
「ラクは聞いたことない? 幽霊にもにおいがあって、それを嗅ぎ分けられる人間もいるって話。俺も詳しいことは知らないけど幽霊の通った後とか、幽霊がいる場所とかがにおいでわかるらしいぞ」
あまりの衝撃に文字通り目から鱗が落ちるような衝撃を受けた。今までずっと悩まされていたモノの解決の糸口が見えたような気がしたからだ。
猪鼻は「ありがとう」と大きな声で山辺にお礼を伝えると、勢いよく教室を飛び出し図書室へと向かった。今まで図書室などあまり利用したことはなかったが、今は調べ物がしたくてたまらない。
猪鼻は勢いよく図書室の扉を開けたことで、図書司書をしている先生に睨まれてしまったが、今の猪鼻にとってはそんなこと些細な問題ですらなかった。そのまま目があった図書司書の先生を捕まえて猪鼻は質問を投げかける。
「幽霊やにおいに纏わる本はどこに置いてますか?」
「……え?」
「だから幽霊とかにおいに関する本はどこにありますか?」
「えぇ、聞こえてます。図書室ではもう少し静かに過ごしてください」
「……はーい」
「はぁ……こっちです。付いてきてください」
そう言われ付いて行った先に目当ての本は存在しなかった。
図書室にある本には一通り目を通したのだが、幽霊とそれに関するにおいの記述はどこにも見当たらなかったのである。
「先生……」
「またあなたですか。次は何のようですか?」
「図書室に置いてある本にはオレの知りたい情報は載ってませんでした。どこかおすすめの書店はありますか?」
「…………本に興味があるんですか?」
「本に興味があるというか、オレが知りたい情報が載ってる本に興味があるというか……」
「そういう年頃ですものね。オカルトに魅了される気持ちはわかりますよ。そうですね、駅前にある書店にならそういった本は置いてあるかもしれないですね」
「駅前の本屋……ありがとうございます!」
猪鼻は入室時に注意されたことをすでに忘れてしまっていたのか、図書室にいるとは思えないほどの大きな声で図書司書の先生にお礼を伝える。お礼を伝えられた図書司書の先生もお礼に対して声を抑えなさいと言うのは少し違うような気がして、何も言うことはなかった。
放課後になり早速猪鼻は駅前の書店へと向かう。
本来校則では下校中にどこかに立ち寄ってはならないとされているが、今の猪鼻にとってそれは守らなければならない校則ではなく、障子と同じように破るべき校則へと変化を遂げていた。
「幽霊の住処……幽霊との共存……幽霊はどこへ向かうのか……お化けの格好……降霊術の極意…………あ! 見つけた!」
書店に並ぶ本の背表紙を一冊一冊読み上げながら目当ての本がないかを探し回る猪鼻は、ついに目当ての本を探し出した。そんな猪鼻の手にした本は『霊のにおいについての調査報告書』というオカルト系の書籍に多そうな興味を引くタイトルであった。
シュリンクなどがされていないその本を猪鼻は立ち読みをする。
「……異臭や腐臭がする場所には霊がいる可能性が高い。それが自分だけにしかわからないにおいであれば尚更…………。やっぱりそうなんだ…………。」
猪鼻はこれ以上に無い喜びを感じていた。ずっと自身を悩ませていた臭いの正体が今わかったからだ。本を読んでいるだけだというのに興奮状態になり、自然と肩で息をする形になっていた。
猪鼻はなけなしのお小遣いでその本を購入し、急ぎ足で家に帰ると、自室に引きこもり購入したばかりの『霊のにおいについての調査報告書』というオカルト本を一気読みする。それこそ両親が帰ってきたことにも気づかず、夕飯の用意ができた旨の連絡にすら気づかないほど集中して読み上げたのだ。
そしてその本には霊のにおいについてだけではなく、においによる危険レベルの見分け方や逃げ方までもが載っていた。
「逃げ方……? なるほど。逃げ方とかを知っていればこの間みたいに倒れることは無いのか……ってことは戦い方も……ある? 別のページに載ってるのかな……あっ」
ページをめくる手がどんどん早くなる猪鼻であったが、ある文章が目に飛び込んでくると、ページをめくるのを止め、そのページに書かれている文章を声に出して読んでしまう。
「あなたが心地が良いと感じる匂いのする人物が現れたなら、その人を大事にしなさい。大事にすることであなたの世界に色が付きます……」
心地がいい匂いってどんな匂いなんだ? と文章を読み終えた猪鼻は疑問に感じるも、まだ出会っていないだけだと思うことにし、またページをめくる手が動き始める。
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高校に進学した猪鼻は皆が進むような高校を選んでも『心地が良いと感じる匂いのする人物』には出会えないだろうと思い、ここら一体では新学校と呼ばれる私立七ヶ瀬高等学校へと進学をした。
そして猪鼻は運命的な出会いを果たす。『心地が良いと感じる匂いのする人物』に出会ったのだ。彼の名前は耳塚健司。身長は猪鼻より八センチほど低いが、筋肉質な肉体が特徴的でクラスではムードメーカーのような立ち位置をしていた。
猪鼻はそんな耳塚とすぐに距離を縮める。いわゆる友達になったのだ。
猪鼻のテンションは最候補に達していた。しかしこれは何かの間違いかもしれない。もしかしたらこれは別の誰かからの移り香かもしれないし、香水かもしれない。それでも耳塚の匂いが心地よいと感じるのは事実であった。
そんなある日事件が起きる。耳塚がテスト中に倒れたのだ。
それも霊の匂いが強まった瞬間にだ。それが偶然なのかそうじゃないのかを猪鼻には判断がつかなかったが、その日以降耳塚と話す機会を失ってしまったため事の真相を聞くどころではなくなってしまったのだ。
耳塚は髪を金に染め上げ、授業中は相変わらずクラスを盛り上げようとするものの、それ以外では誰とも会話をしなくなったのだ。以前までとは別人のようになってしまった耳塚に声を掛けるものは誰もおらず、そして猪鼻もそんなクラス全体の流れには逆らうことはできず、声を掛けることもなくなってしまった。
そしてそのまま声を掛けることなく進級。耳塚と猪鼻は別のクラスへとなったわけだが、猪鼻は諦めてはいなかった。どこかタイミングは無いかと常に耳塚のことを気にかけていたのだ。
そんなときチャンスが訪れる。周りには誰もいない状況で耳塚とばったり出くわしたのだ。こんな絶好のチャンスを逃す猪鼻ではない。なんとか話をこぎつけ昼食をともにすることに成功する。
最初は余所余所しく他人行儀な耳塚であったが、話を続けていくうちに徐々に打ち解けてきた。一つ気がかりなことがあるとすればおそらく耳塚と同じクラスである『目黒徹』という人物がこちらを監視するかのように診ていることであった。そして猪鼻は直感的に目黒が自分と同じようなタイプの人間だと感じていた。
しかし今の猪鼻にはそれは些細な問題に過ぎない。
猪鼻は意を決して耳塚に対し禁断の質問をする。
それは『耳塚の匂いの正体』である。変な雰囲気にならないように言葉を慎重に選びながら猪鼻は耳塚に問いかける。結果は猪鼻の望んでいた通りの回答であった。香水などではなく、耳塚から香る香りであることが証明された瞬間であった。
(あぁやっぱりオレはケンジといるべき人間なんだ)
そしてその猪鼻の想いは思いもよらぬ形で叶うことになった。
それは耳塚と一緒に帰ることになったある日のことであった。
(あぁ、付けられてんな…………)
猪鼻は背後から近づいてくる”霊”の存在に気づきつつも、真横にいる耳塚のことを気にかけてどうするのが正解かを考えていた。そんなことを考えているとあることに気がついた。耳塚が何かに怯えるような反応をしていたのだ。言葉が詰まりそうになったり、この時期にはおかしい量の冷や汗をひどく掻いている。
(もしかして…………いや、そうだ! そうに違いない! だってオレは耳塚の運命の人なんだから!)
「なぁ、なんか臭わないか?」
「……え? 臭い?」
「そう……放置した生ゴミにガソリンを撒いたみたいな……そんな変な臭い」
「な……何も臭わないけど?」
「いや絶対臭うよ! マジで臭いって……」
「えぇ……俺はマジでわかんないけど……そんなことよりさ」
「いやマジで臭いぞ!」
「臭いなんてわかんない……ぞっ……」
(あぁやっぱり。ケンジは音が聞こえるんだぁ。倒れたときからそうなんじゃないかと思ってたけどやっぱりそうなんだぁぁぁぁ……)
そう心の中で歓喜溢れながら、耳塚を助けようとした瞬間、耳塚は猪鼻の手を掴み走り出したのだ。それに驚きつつも今は耳塚に合わせることにした猪鼻であったが、なかなかな距離を走り続ける耳塚に体力が限界を迎えようとしていた。
そろそろどこかで助けようと思っていたところに耳塚の口からとんでもないことを聞かされた。
――キスをすることで”霊”を祓うことができる
正直そんな話は聞いたことがなかった。
しかし、これはまたとないチャンスかもしれない。
運命の人とキスをする。
猪鼻は耳塚に自分が選ばれたのだと確信した。
「…………き、キスすれば払える」
「”バケモノ”とか?」
「……俺とラクが、だよ」
「………………正気か?」
「あぁ……信じられないかもしれないが。俺はそれで何度もこの状況をくぐり抜けてきた」
「わかった」
「え?」
キスできるチャンスをものにするため、猪鼻は食い気味で返事をする。
そしてキスをするために廃墟ビルに入り、耳塚とのキスをする。猪鼻は今日初めてキスをするため少しだけキスというものについてもう少し調べておけばよかったと後悔しつつも、耳塚とのキスを堪能する。
しかしキスをしてはいるものの一向に”霊”が祓われる気配がない。
「あぁそういうことか……(そろそろ匂いにも耐えられないし、この辺が限界かな)」
そう言って猪鼻を”霊”に手をかざした。
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なんとか”霊”を祓うことに成功した耳塚と猪鼻であったが、猪鼻は少し釈然としない気持ちでいっぱいであった。
一つ目は耳塚がキスに慣れていたということ。そしてもう一つはそのキスの相手が目黒であったということだ。
(ケンジの運命の人はオレなんだよ? なんで目黒何かとキスしてんの? オレだけでいいだろ! だってアイツは■■■■■■■■だから!)
心の中ではそんなことを思っていたとしても、耳塚には伝えることはできない。
ならばと、耳塚に今後もキスをしてほしいと頼むことにした。そうすればいつか耳塚は自分だけを見てくれるようになるかもしれない。目黒なんかより、自分を求めてくれるようになるかもしれない。そう考えたからだ。
結果は狙い通りであった。
翌日、猪鼻は耳塚に声を掛ける。
それはまるで昨日の出来事がなかったかのように振る舞った。耳塚としては昨日キスをした間柄で少し恥ずかしさがあるのかもしれないが、こっちとしては運命の人とキスをしたのだ。今すぐにでもこのことを全人類に報告したいほどには舞い上がっている。しかしそんな浮かれポンチのような態度をとっては耳塚が嫌がるかもしれないと思い、わざと平然を装ったのだ。
(こいつ……ケンジの後を付けてきてんのか?)
耳塚との挨拶もそこそこに耳塚の後を追うように付いてくる目黒の存在が気になってしょうがない。猪鼻はそんな目黒に耳塚との関係を見せつけるように耳塚との会話を楽しんだ。「またあとで」と耳塚に声をかけ、猪鼻は自分の教室へと向かうが、そのときの目黒の表情は今にも猪鼻を殺そうとするほどの迫力があった。
しかし猪鼻はそんなことは気にしない。耳塚が選ぶのは自分であると確信しているからだ。猪鼻には耳塚さえいてくれればいい。それ以外はいらない。そう思っているからこそ猪鼻にとって目黒という男の存在は邪魔でしかなかった。
しかし神は厄介なことをしてくるもので、楽しい楽しい耳塚との昼食の待ち合わせ場所へ急ぐと、そこには目黒の姿があった。「なにが目的だ!」と威勢だけはいい目黒に多少なり敬意を払いつつも、目黒では相手にならないと言わんばかりに軽口だけを叩く。しかしそんな猪鼻と目黒の口論を耳塚は見ていたようで、イマイチ状況が飲み込めていない耳塚に猪鼻は決定権を委ねる。
だがそんな耳塚の出した結論は猪鼻、目黒のどっちかを選ぶというものではなく、両方を取るという選択であった。
意味が理解できなかった。耳塚を運命の人と認識している猪鼻だが、そんな運命の人は自分だけではなく、別の人間も選ぶと言うのだ。「オレならいつでも守ってやれる」「オレなら不安にさせるようなことはしない」そんな言葉をぶつけそうになったが、今の自分では泊まれる保証がなかったため、今はただ自分の気持ちを抑えることに全力を注いだ。
放課後となり、耳塚と一緒に帰るために二年三組を訪れる。
しかしそこではすでに修羅場が行われていた。ホームルームが長引いてしまったとはいえ、こんな一瞬でここまでの修羅場になるものなのだろうかと思ったが、おそらく目黒は自分と同じなのだろう。耳塚がどちらか一人を選ばないことに苛立ちを覚えているのだ。
そんなヒートアップしている目黒に当てられてしまったのか、抑え込んでいたはずの言葉を耳塚に違った角度からぶつける。
「……………………ケンジはどうしたいの?」
「ど、どうしたいってどういうことだよ……」
「ケンジはこれから先ずっとオレかそこにいる目黒かと一緒に過ごしたいの?」
「何の話だよ……」
「高校を卒業しても、大学生になっても、社会人になっても、ずっと三人でいたいって思ってるの?」
「…………」
「だってそうでしょ? ケンジは今どうするべきかしか考えていないみたいだけど、オレと目黒はずっとケンジに合わせて生活してないといけないの?」
「えっと……」
「ケンジはオレ達にどうしてほしいの?」
これは耳塚に「それでも一緒にいてほしい」と言わせるためだけの言葉だ。それ以上でもそれ以下でもない。しかし耳塚はここで大きな勘違いをしてしまったのだろう。脳がパンクしてしまったのか、言葉を紡ぐことはできずに教室を飛び出してしまった。
後を追いかけようと猪鼻も教室から飛び出そうとするも、目黒に止められたのだ。
「お前だけじゃ余計混乱させるだけだ、僕も一緒にいく」
「……お前は今から先生と用事があるんだろ?」
「だから待ってろってことだよ。わかるだろ」
「イチイチ突っかかってくるなぁ……はぁ、いいぜ。早く終わらせろよ?」
一人教室に残された猪鼻は当然のように知っている耳塚の席に座ると、机に顔を伏せたまま、机に語りかけるかのように誰にも聞こえない声量でボソボソとつぶやく。
「もう少しだからね。もう少しで一緒になれるからねケンジ。オレの運命の人」



