聞かざる、視ざる、匂わざる

 それ以上水分を吸えないほど重くなった靴でトマトを踏み潰すかのような不協和音が耳塚健司(みみづかけんじ)を追いかけるようにしてその背後を付きまとっていた。
 その正体に気が付いている耳塚は自身の犯した失態を悔やみながらも、不協和音に追いつかれないように人でごった返しているアーケード商店街の中を危険を顧みずに駆けていく。途中そんな耳塚の危険行為に対して、声を上げる者も居たようだが今の耳塚にはそれに構っているような余裕はなかった。

 「クソッ……なんで俺だけなんだよ!」

 耳塚のそんな叫びは誰にも届かない。それどころか耳塚を追いかけている不協和音はまるで耳塚以外には聞こえていないのか商店街にいる誰もがその音に対して気にしている様子はなかった。
 耳塚はカバンの中に手を突っ込み手探りでスマホを取り出すと、少し躊躇しながらも電話をかける。スマホを耳に当て無慈悲にも相手を呼び出すコール音だけが鳴り響く。普段電話に出るのが早い相手でもこういった緊迫した状態なときに限って電話に出るのが遅いのはどういうことなのだろうか。
 耳塚はイラつきながらも、今頼れるのは電話を掛けている相手だけのため、どうすることもできず電話を掛け続けることしかできない。もうすぐで呼び出し回数の上限に達するという手前で相手が電話に出た。

 「遅い! 目黒! お前今どこにいる?」
 『えぇー、電話に出ただけで怒られるの?』

 電話に出た目黒は電話に出るのが遅かっただけで怒られたことに対し、やれやれといった様子で軽くあしらう。その感じからして耳塚はよくこのような態度を目黒に取っているに違いない。しかしそんな態度の目黒のことを気にしていないのか、耳塚は相手の都合などお構い無しに話を続ける。

 「今はどうでもいい! それで何処にいるんだ?」
 『……今学校を出たところって、もしかして”また”追われてるの?』
 「あぁそうだよ! お前に電話するときはそのときしかねーだろ!」
 『……そうだね。でもそれって僕も危険な目に合うんだけど』
 「知るか! 最初に提案してきたのはお前だろ!」

 目黒のため息が電話越しでもはっきりと聞こえてくる。そんな目黒は耳塚の声に耳を傾けたのか、渋々ながら少しだらけたような声で問いかける。

 『で? 耳塚くんは今何処にいるの?』
 「アーケード商店街だ!」
 『わかった……今そっちに向かってる。商店街を脇道に逸れたところに廃墟ビルがあるでしょ? そこを待ち合わせでもいい?』

 電話越しに聞こえる風を切る音と地面を強く蹴る音で目黒がこちらに向かって走り出しているコトはすぐに分かった。それに対し耳塚は若干の安心感を覚えるも、それが簡単な話ではないことは理解している。

 「わかった……早く来いよ」

 そう言って耳塚は電話を切る。それと同時にチラッと自身の背後を見る。今もずっと例の不協和音は聞こえているのだが、耳塚はその音の正体を観測することはできないでいた。しかし耳塚はその音の正体こそ観測することはできないものの、その音が何から発せられているかは理解をしている。
 だからこそ今の状態を解決する方法が無いことを知っている耳塚は今の状態を打開する策として目黒に連絡をしたのだ。
 しかし問題はある。耳塚と目黒が通っている私立七ヶ瀬高等学校から現在の目的地である廃墟ビルまでは走っても二十分以上かかる。今いる商店街から廃墟ビルは目と鼻の先のため、先に廃墟ビルに行くことはやぶさかではないのだが、先に廃墟ビルに入ったところでビルは音が反響してしまうため、耳塚にだけ聞こえるあの不協和音が今何処にいるのかがわかりづらくなってしまう。そのため目黒が到着するまで不協和音から逃げながらここら周辺で時間を潰さないといけないわけだ。

 「クソッ……俺も目黒の方に向かう提案すればよかった!」

 電話を切ってしまった以上今更そんなコトを言っても仕方がない。今日はとことん運がないというか考えなしだと自分でもそう思いながら耳塚は不協和音に警戒しながら素早くあたりを見渡す。
 この不協和音が聞こえない人にどのような影響をもたらすのかがわからない今、このアーケード商店街に居る人を危険に晒すわけにはいかないと耳塚は考えているようだ。
 耳塚は見た目で勘違いされてしまうが、案外優しい心の持ち主である。一七二センチほどの身長で金髪。刈り上げている部分からは地毛である茶髪が見え隠れしている。運動神経はフツーだが筋肉質な体系で腹筋は割れている。私立七ヶ瀬高等学校の二年三組に在籍している耳塚はクラスではカースト上位に入るような陽キャであり、クラス全体を盛り上げるため周りの空気を読みながら日々生活をしている。
 ピアスなどは開けていないが、周りからはヤンキーやら不良やら思われているらしい。だが実際のところは一切そんなことはなく、金髪した理由もあの不協和音から周りの人を遠ざけるためにわざと色を抜いたのだ。
 そのおかげか耳塚はクラスメイトとはそれなりに会話をすることはあっても、特定の人物とつるんだりすることはない。また学校以外では常にイヤホンを着けているため、見た目も相まって話しかけられることもない。つまりあの不協和音から周りの人間を遠ざけるというミッションは成功していると言っても過言ではないだろう。

 「少し遠回りするしかない……か!」

 耳塚は一度アーケード商店街から離れ、一度人通りの少ない場所へと向かう。
 このとき、狭い路地裏などには入ってはいけない。これは耳塚の経験上だが、追われている最中に狭い道に入ってしまうと、正面からも不協和音が聞こえてしまったときに逃げ道がなくなってしまうからである。
 耳塚はそんなことを考えながら、できるだけ人通りこそ少ないもののあまり狭くはない道を選択し続け、目黒が到着するであろう頃合いを見計らって廃墟ビルへ入る。

 廃墟ビルにはすでに目黒が到着していたようで、入ってきた耳塚を見るなり目黒は恐ろしいものでも視たような様子で眼球のみが痙攣したかのように小刻みに揺れ動いていた。一瞬怖気付いた目黒であったが、耳塚の必死な険相を前に今時分がやるべきことを思い出す。
 目黒は耳塚に向かって手を差し出し、それを耳塚が掴む。
 そしてそのまま二人は――唇を重ねた。

 それも単に重ねただけではない。お互いに口を開け、互いの粘膜でも交換するかのように舌を絡めあう。口で呼吸することがままならないため鼻で呼吸をするのだが、漏れた鼻息が妙に色っぽく聞こえる。廃墟ビルは音の反響がかなりあるようで、深いキスをするたびに聞こえるくちゅくちゅとした舌を絡めあう音が振動からではなく、音として耳に直接聞こえてくる。
 二人はキスをすることに慣れてるのか互いの手を取り、快楽を求めあうように。そして相手の存在を確かめるかのようにキスを続ける。
 しかし不協和音の正体はそんな二人のことはお構いなしに二人に距離を詰めていく。耳塚にはすでに真横にいるように聞こえ、目黒には今から襲い掛かりそうな不協和音の正体が視えているのだが、キスをし続けるそんな二人に触れた瞬間不協和音の正体は散々と散った。それはまるで枯れた葉に触れた瞬間粉々に散っていくようであった。

 「……っあぁ……んふぅ……目黒、俺にはもう何も聞こえない」
 「んっ……僕ももう何も視えてないよ」

 互いの安全を確認するために唇を離す二人だが、舌から伸びた唾液がまだ二人が離れるのを拒んでいるようであった。