思い出さなければよかったのに

 結局ケーキはあまり喉を通らなくて、半分近く余ってしまった。

「こんなの一人じゃ食べきれないよ……」と彩乃がポツリと呟く。
「胃下垂なんだから大丈夫だよ。デブっても可愛いって」

 俺が笑いながら言ってやったら、馬鹿にしてると背中をバシッと叩かれた。

 旅行の疲れがあるはずなのに、その夜は全く眠くならなくて、結局また抱き合って、冗談を言い合って、また抱き合って。
 そうしているうちに夜が明けて、薄っすらと陽が差し始めた。

 カーテンを開けると、窓の外には濃紺と紫と淡いオレンジの絶妙なグラデーション。

 ――カシャッ! この景色もちゃんと覚えておこう。

 振り向くと、ベッドからこちらをジッと見つめている彩乃と目が合った。
 頬を流れる(しずく)が朝日を反射して輝いている。

 ――綺麗だな……本当に。

「彩乃……俺、行くよ」

 彼女の顔がグニャッと崩れて、バッと布団に覆われた。
 俺はゆっくり近づいて、そっと布団をめくって顔を覗き込んで……。

「彩乃、愛してる……行ってきます」

 俺を潤んだ瞳で見上げる彩乃のおでこに、頬に、そして唇にキスをして、バックパックとカメラケースを肩に掛ける。

 小さなスーツケースを持って玄関で振り返ると、ベッドから身体を起こした彩乃が、涙でぐちゃぐちゃの顔で小さく手を振っていた。
 俺も小さく手を振って玄関のドアを開けて……ドアを閉める前にもう一度振り向いたら、アイツは両手で顔を覆って号泣していた。

 パタンとドアを閉めて、鍵をかけて。
 胸ポケットに入っている彩乃の写真三枚をポケットの上からポンと叩いてエレベーターに乗り込む。

 建物の外に出た俺は、最後にもう一度アパートの部屋を見上げて目に焼き付けると、朝焼けの眩しい朝の街へと踏みだしていった。

 十月二十六日、彩乃の二十六歳の誕生日の翌朝だった。