思い出さなければよかったのに

 ゆっくりと、心を込めて、丸いケーキに刃先を沈めた。

 目の前で、彩乃の肩が激しく揺れる。
『泣いてるの?』なんて今更聞くまでもないから、俺は包丁から手を離し、後ろから彩乃を抱きしめる。

「ふ……うっ……」
「………。」
「雄大……私はやっぱり寂しいよ」
「うん、俺も……」

 ――俺だってめちゃくちゃ寂しいよ。

「私も連れてって」
「それはできないよ」
「どうして?」
「大切だから」

 ――できることならおまえを連れて行きたいよ。でも、それじゃ駄目なんだ。

「馬鹿っ! 大切だったら置いて行くな!」

 彩乃がバッと振り返って抱きついてきた。
 俺はギュッと強く抱き締め返して、それからゆっくりと身体を離して視線を合わせる。

「昨日も言ったよな。俺は、自分の仕事に誇りを持って全力で取り組んでいる彩乃を尊敬している」
「雄大……」
「そんな彩乃を誇りに思っているし、同時に悔しいとも思っている」

 彩乃が有名人じゃなければ。彼女がもっと普通の女の子だったら……俺はこんな気持ちを持たなくても済んだのに。

 人気がなくなってしまえばいいのに。
 芸能界なんか辞めてしまえばいいのに。
 俺だけの彩乃でいればいいのに……。

 何度も頭に浮かんでは、首をブンブン振って掻き消した醜い感情。

 俺がなし得なかったことを叶えている人種への嫉妬や焦り、劣等感。
 仄暗い気持ちを抱えながら鬱々としている俺には、画面の向こう側の彩乃は眩しすぎて……。

 それでもやっぱり俺は、彩乃にずっと輝いていてほしいと思う。

 好きな仕事をしている彼女はキラキラしていて、俺はそんな姿をずっと近くで見ていたくて、一瞬たりとも見逃したくなくて……結局は画面に釘づけになってしまうんだ。

「要は俺はさ、森口彩乃の一番のファンなんだよ。雑誌で微笑んでいる彩乃もテレビで踊っている彩乃も大好きだし、家で半目を開けて寝てる彩乃も大好きなんだ」

「ふっ……失礼。半目でなんて寝てないし」
 彩乃が泣き笑いの顔になる。

「いいんだよ。俺は小さい頃から見慣れてるから、隣で半目の女が寝てたって驚かない」
「そっか……ふふっ、それなら安心して半目で寝られる」
「うん。そんな度胸のある男は俺くらいだから……絶対に待ってろよ」

 彩乃が唇を震わせながらうなずいた。

「彩乃は半目でも何でも可愛いからな。……そんないい女を独占しようと思ったらさ、それなりの覚悟が必要なんだよ」

 三年間の旅は、そのための自信と覚悟を得るために自分に課した試練だ。

 言葉の通じない見知らぬ土地で、バイトをしながら写真を撮りまくる。
 それをやり遂げることができたなら、たとえどんな結果であろうとも、自信と誇りを持てるような気がするんだ。
 真っさらな気持ちで彩乃との未来に踏み出せると思うんだ……。