芋虫が蝶になる時

 手脚が生えた訳だけれど、ぼんやりと覚えている〝昔〟のようにスタスタと歩くのは難しかった。

 何せまだ目が見えないので、歩くと色んな物にぶつかって転んでしまう。

「道具に頼ると癖がついてしまうから、自力で歩く練習をしてごらん。壁伝いに歩けばなんとかなるはずだから。練習をしている時は点滴を外すけど、休憩する時はもう一度つけるから、ベッドサイドにあるベルを鳴らして」

 男性は私をベッドから下ろしたあと、そう言ってパタンとドアを閉じた。

 カチリと鍵を掛ける音が聞こえたけれど、特になんとも思わない。

 私は四つん這いになって移動し、手探りをしながら部屋がどれぐらいの広さなのか確認する。

 床と壁は、クッション性のあるフカフカした材質でできていて、これなら転んでも大丈夫そうだ。

 部屋は思ったほど広くなく、八畳から十畳といったところだろうか。

 室内の隅には、便器と洗面台があるのも分かった。

 でも、手脚が生えたからと言って、私の意識にこれといった変化はない。

 ――次はどんな美味しい物を食べられるんだろう。

 脳内にはそれしかなく、歩けるようになっても、特にどこへ行こうという気持ちもない。

 けれど食事の時間までは暇なので、疲れるまで歩く練習をし、飽きたらフワフワのローベッドで眠って過ごした。





 時間の概念はないけれど、ドアの隙間から美味しそうな匂いが漂ってきて、次の食事の時間が迫っているのが分かった。

 廊下の奥からゴロゴロと何かを転がす音がし、どうやら彼はワゴンのような物に料理を載せて運んでいるようだ。

 コンコンとドアをノックする音がし、「入るよ」と彼の声がする。

「今日は麺だよ。今、テーブルと椅子を用意するね」

 そう言ったあと、彼は部屋の壁についていたテーブルを引き出し、セットする。

 椅子は別の所から持って来たようだ。

「たとえばだけど、Aという人がいて、その人は自分が何者かを忘れてしまったとする。その人はAさんだと言えるだろうか?」

 ――そんな事いいから、早くご飯を食べさせて。

 両手でバンバンと床を叩くと、彼は「分かったよ」と笑う。

「はい、手に掴まって」

 彼の手に掴まって着席すると、少しして目の前にコトンとお皿が置かれた。

 フワッと立ち上ったのは、トマトベースのパスタの匂いだ。

 この匂いは、茄子やベーコン、キノコも入っている。

 にんにくの香りは食欲を増進させるし、とろけたチーズの匂いもする。

「フォークとスプーンを渡すから、自分で食べられる?」

 彼に優しくカトラリーを渡され、私は見えないながらもぎこちなくパスタを巻いていく。

「残り少なくなったら、やってあげるからね」

 私は右手の中でフォークをクルクルと回転させ、見当をつけてスプーンで支えようとする。

 何回か空振りしたり、カチッとぶつかって未遂に終わる事があったけれど、ようやく感覚を掴めたあとは、一心不乱にパスタを食べていった。

 フォークで丸めた麺を口の中に入れ、咀嚼するとブチブチッと麺を噛み千切る。

 麺の中に何かが練り込まれているようで、ツブツブした食感が面白い。

「色んな海藻を練り込んだ麺なんだ。歯ごたえがあるだろうけど、気にしないで食べて」

 確かに、言われてみれば昆布の茎やもずく、アオサなど、色んな物が入っていそうだ。

 きっと体にいいんだろう。

 あらかた食べて、少なくなった麺がどこにあるか分からなくなったあとは、彼が手伝ってくれて完食する事ができた。





 その翌日はラーメン、次はうどん、そして蕎麦。

 どれもとても美味しかったけれど、共通して中にツブツブした物が練り込まれていた。





 数日後、ベッドで目を覚ました私の頭には、サラリとした毛髪が生えていた。



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