水無月
連日外は灰色だった。雨が続くこの国には四季がある。ちょうどこの時期は梅雨にあたり、雨が止まない日はなかった。
「小春ー、もっと食えよ? おっきくなんだぞ?」
「天子様、あまり小春に食べ物を与えないでください。太ります」
「小春ちゃんはちっちゃいから、一杯食っておっきくなって美人さんになるんだよなー?」
「……小春、雄ですけど」
ぐっと、いう声を喉の中へ押し戻す音が聞こえた。くぅん? と顔を傾けながら尾を振っているのは、先ほどから「小春」と呼ばれている赤毛の子犬だった。
城の門扉前に捨てられていた彼を拾った桜雅がやって来たのは先月の話。城で育てられないという声に、美春の家で家族として迎えることになり、早一ヶ月が過ぎていた。
名前の「小春」は桜雅が命名した。雄犬だというのに小春というアンバランスさに女は首を傾げたが、それにはどうやら理由があっての命名だったらしい。
「だって、俺達が出会ったのって春じゃん」
小さな生き物が腹部を出して寝ているのを撫でている時のことだった。どんな理由と言いたくなったが、満更でもない顔をしている男を見て、彼女は何も言えなかった。どこからか拾ってきたような名前だったら、全否定をしようと考えていたからだ。
「だからといって、来るたびに小春へのお土産が多過ぎます。甘やかしはだめです。毎回言っていますよね?」
「お前のご主人様はきびちいでちゅね」
「……出禁にしますよ……ただでさえ、貴方様はここにいてはいい身分の御方ではないと何度……もう、いいです。好きにしてください」
深い溜め息を吐き美春は針をしまった。
「ところで上様」
「おうか」
「……天子様」
「中々呼んでくれないね……それで、なあに?」
小春を足の間に置き、煙管を口にする。普段なら煙草を咥えるのだが、もしものことを考え、女の家にあった煙管を咥えるようにした。
これは亡くなった彼女の父親のものだという。螺鈿の埋め込まれた細かい彫刻は、一目見ただけで上等品だとすぐにわかった。最初これを使うことに、桜雅は躊躇いの色を見せた。こんな大切なもの俺が使っていいわけがないと断りを入れたが、美春はいつもの調子で「私が使わないから埃被っているのもかわいそうですし。よかったらここにいる時だけは使っていただけませんか? その子も喜びます」と言われ無下に出来なかったのも正直なところである。こんな上等なものを使っていたということは……ますます美春の出自が気になるところだが、今はそんなことどうでもよかった。
「解決されたのですか、ご正室探しは」
「……ゲホッ……な、な……」
天子様? と女は続ける。煙が変なところへ入ったのか、美春の咳は止まりそうにない。しかしその原因を作ったであろう女は、何事もなかったかのように決して大きくない台所へと降りた。
「な、なんで、それを……」
「この国のものなら皆知っておりますよ。天子様のご正室探し。良家の才女がことごとく散っていく……ことも。そのご様子だと難航されているようですね」
「……え?」
「だってそうでしょう? ご正室の方が見つかったとなったら、こんなボロ屋に来ませんもの。それと国中お祭りになるじゃないですか。私としてはその方が仕事になるので、ありがたいんですけどね」
湯を沸かす音が聞こえる。少しだけ肌寒いからか、温かめの茶を準備しようと女は茶筒に手を伸ばした。美春の言葉に桜雅は口を閉ざす。彼女が言っている通り国の一大計画である「天子の正室探し」はお世辞にも順調であるとは言えないからだ。その原因は桜雅自身が一番わかっている。
「美春ちゃんも」
「え?」
「……美春ちゃんも、愚かだと思う? 俺のことを」
「……一体、どういう意味ですか?」
桜雅の言葉に女はそう問う。いつものおちゃらけた彼の顔はそこになかった。その一瞬で美春は悟った。この人は、誰にもわからない大きなものを抱えている……——。それは私達にも誰にもわからない、わかりえないものだと聡い彼女はすぐに察した。
「別に、今すぐお決めにならなくてもよろしいのではないのでしょうか?」
「……え?」
「気乗りがしないこともございますでしょう。そういうお相手と一緒になったとしても桜雅様が幸せになれますか? あなた様もひとりの人間なのですから、少しくらいわがままになってもいいと思いますよ」
御上相手に何無礼なことを言っているのだと思ったが、これは美春の本音だった。嘘偽りのない女の気持ちが、すっと桜雅の胸の中に落ちていく。
「今、おうか、さまって……」
「そこですか? ふふ、本当にそういうところですよ、上様?」
「あー! 元に戻った! なあ、もう一回呼んで?」
「嫌です。あ、お茶飲みます? 相変わらずの粗茶ですけど」
さあもうこの話は終わりとでもいうように、美春はいつもの呼び方に戻る。それが面白くなかったのか、桜雅は美春へ「もう一度、お願い」と手を合わせた。言いません、もう一回。そんなくだらないやりとりが、雨の降る狭い部屋の中に響いた。
*****
数枚の紙を前に綾貴は溜め息を吐いた。懇意にしている情報屋からもらった報告書という名のそれには、桜雅が城下へ降りる原因となった女の素性が書かれている。
「家族なし、数年前に死去……職業は御物師、か……一度お目に掛かりたいものだな……」
あの男が、ひとりの女に執着するなんざと興味を持ち続けもう一か月以上が経つ。一体どんな女かと探りを入れてみても、これといった彼が欲するものは得られなかった。情報屋曰く「本当に普通の女。当たり障りのない、普通の女」。だから綾貴は気になったのだ。
トントンと灰を陶器の皿の上に落とす。彼が煙草を吸うことはまずない。年に一度あるかないかの割合だ。ゆらゆらと立ち上る煙を見つめ、このあとの動きを頭の中で組み立てていた。
出掛けるぞと煙草を蒸かしていた桜雅に言うと、彼は青い瞳をさらに大きくさせ不思議そうな顔をした。
「出掛けるって、どこに」
「城下だ。たまには俺の仕事に付き合ってよね」
いつもの青い羽織とメガネ、頭巾を投げ捨て渡すと、その顔はさらに困惑した色へ染まる。
「お忍びってやつかな、俺同伴のね」
「……はぁ?」
桜雅としては願ってもいないことだったが、隣に綾貴がいたら彼女の家へ寄れないという懸念が生まれた。小春の様子も気になる。一目でも会えないかと思案しながら羽織に腕を通す。左下の裾に光るのは金の桜。傷まないようにと、羽織のメンテナンスをしてくれる美春には頭が上がらない。
「(一目だけでも、会いたいなぁ……)」
「……」
横目で桜雅を見ながら綾貴は、どうせ一目会いたいって思ってんだろうなと彼の心の中を覗いていた。
「……忘れ物」
「え? あー……いつも持ってかないんだよ、煙草」
「重度の喫煙者の桜雅が?」
「綾貴が言ったんだろう。天子だっていう痕跡見せんなって」
綾貴は知らない。彼が城下で吸っているのは煙草ではなく煙管だということを。
「(相手の女は、煙草が苦手……とか?)」
そう、勘違いしたまま綾貴も伊達メガネを手にする。どんな「普通の女」なのか、全く想像出来なかった。
*****
その日城下は賑わっていた。行き交う人達の顔は笑みが零れている。幸せそうなその雰囲気に、桜雅の心は明かりが灯ったかのように温かくなった。
「賑やかだねぇ。いつもこうなのか?」
「いや? いつもはもっと静かなんだけど……ん、誰かに聞いてみるか。おー……」
「待て、待て待て、待てって! お前はお前の正体を自分自身で晒したいのか!」
グイッと桜雅の腕を引き、声を潜めそう言う。何を言ってるんだの顔をした桜雅の目には渋い顔をした綾貴。冗談だと付け加えると掴んでいた腕を乱暴に離した。
「俺が聞いてくる。だから桜雅はなんも喋んな。黙っててください」
おうと桜雅は頷き、綾貴は子連れの親子に声をかけた。
「すごく賑わっているね……」
「市瀬様! 今日はご公務ですか?」
「ううん、そうじゃないけどね……あれだよ、お忍びってやつ」
綾貴の顔は城下に住む人達にも知れ渡っていた。天子の右腕であるこの市瀬綾貴という男は、町民にも支持されているそれだけの人物だった。
「ちょうど良い時にいらっしゃいましたね。今日は年に一度の紫陽花祭りなんですよ」
「あじさい、まつり?」
「この時期に咲く紫陽花を愛でる伝統的なお祭りなんですよ。様々な種類や色の紫陽花が市で売られるんです。ああ、紫陽花の庭に咲くのを見るのも、私達の楽しみなんですよ」
幼子の腕を引きながら母親は嬉しそうに話してくれた。その様子を見ながら、桜雅は何とも言えない表情で話を聞いていた。
「紫陽花……これで気に入ったものを買うといい」
「……え?」
「……ちょ……」
懐から数枚の紙幣を取り出し、桜雅は幼子に手渡す。突然の行動に驚いたのは親子だけではない。話すなと言った綾貴自身が一番驚いている。
「お兄ちゃん、いいの?」
「うん、僕が気に入ったものを買うんだ。いいね?」
きょとんとした表情で桜雅を見る幼子の頭を彼はそっと撫でた。それを小さな溜め息を吐きながら見ていた綾貴は、心の中で思う。こいつは、こういう男だったと。どこまでも優しいこの男には、幸せになってもらいたい。それが長年共にいるこの男の願いでもあり希望でもあった。
親子と別れ賑わう道から外れたふたりは、先ほど教えられた「紫陽花の庭」へ足を運んだ。郊外にあるその庭は、誰が手入れをしているかわからないが、青い紫陽花だけが咲く場所らしい。夜になると街灯の明かりに照らされ、それは美しい姿を魅せてくれるそうだ。
「本音を言えば夜に来たかったけどな」
「ダメに決まってんでしょうが」
「知ってるよ、言ってみただけ」
ンな目くじら立てて怒んなよと付け加えれば、綾貴は目を覆っていたレンズを外しその青を見た。
まるで海のような青はとても神秘的でいつまでも眺められる、そんな印象を彼らに与えた。先の親子にこの時間帯は人がいないと聞いてはいたが、その美しい青花を見ているのは彼らふたりだけだった。口が淋しいのか、煙草を求めている素振りを見せた桜雅に、隠して持ってきたそれを手渡そうと綾貴が懐に手を忍ばせた時のことだった。
「ワン、ワン!」
赤毛の子犬が桜雅目掛けて勢いよく走ってきた。突然の出来事に綾貴は一瞬何が起きたか理解出来なかったが、時間を空け「い、犬?」と何とも間抜けな声を出すだけだった。突撃された桜雅は自身の足元にまとわりつくその赤い毛玉を何度か瞬きをし眺め、そっとそれを抱き上げる。そして柔らかい笑みを零し「小春」と固有名詞を呟いた。
「こは、……?」
「お前、どうした? ひとりか? まさか脱走したのか?」
小春と呼ばれたその犬は、よほど嬉しかったのか千切れんばかりの尾の動きを見せ、桜雅の顔を舐めはじめた。
「お、おい……お前」
「ん?」
「その犬、知ってる、?」
続く言葉を遮る声が聞こえた。遠くの方から、鈴のような、この青に染まるような透明な声色が響く。
「こはるー? 小春ー?」
「……」
時間としてはほんの刹那。たった六文字の言葉にいち早く反応したのは桜雅で、子犬を見ていた顔が、その声の聞こえる方へと自然に上がっていた。その顔はまるで恋をはじめて覚えた少年のようで。幼いころから一緒にいる男がこんな顔をするんだと、綾貴は桜雅を見た。
「小春? こは……え、てん……し、さ……」
「き、み……ど、うし、て……」
「それ、はわたしの、せり、ふです……」
青みがかった黒い髪が紫陽花の海によく映える。彼らの前に現れたのはどこにでもいる「普通の女」。情報屋の言う通りだと綾貴は第一印象を答え合わせする。上品な着物を着ているわけではない、派手な化粧をしているわけでもない。ごくごく普通の町娘と言った印象だが、その奥にあるどことなく異なる香は一体何なのだろう……それが綾貴の抱いた印象だった。しばらく交差した視線を先に外したのは美春の方で、桜雅の隣に立つ綾貴の存在に気付き美しく頭を下げた。
「ご視察か何かでしたか?」
「え?」
「今日は紫陽花祭りの日で、年に一度この青を見るのが城下の者たちの楽しみなんです。小春、おいで。天子様の御羽織が汚れてしまうから」
桜雅の腕に抱かれていた赤毛の子犬は、紫色の衣に包まれる。紫陽花を想像させるそれは美春が身に纏っている衣だ。
「それ、はじめて見た」
「年に一度、この日だけ着るものです。私が仕立てたものですけどね」
「ずるい、俺にも仕立ててよ」
「ずるいって、子どもですか……以前もお断りさせていただきました。ちゃんとご専門の方にお仕立てしてもらってくださいな」
子どもをたしなめるような物言いは、決して強くはないがどこか芯の通った口調に聞こえる。異性にこんな砕けた話し方をする自分の主の姿に、綾貴は小さく口角を上げた。
「(面白い女の子)」
そんなことを思われているとは露知らず、ふたりの掛け合いは続く。
「俺は美春ちゃんが仕立てた物を着たい。美春ちゃんだって御物師だ」
「私はしがない街の仕立屋です。天下を治める方のものを仕立てるなんて、烏滸がましいにもほどがあります」
「そんなことはない。美春ちゃんの腕は確かだ。いつも見てるからわかる」
「……」
美春はじっと桜雅を睨んだ。何故そんな顔をされているかわからないのは桜雅だけで、綾貴は腰に手を当て小さな声で「馬鹿」と漏らした。
「どういう意味だよ、綾貴」
「失礼、そちらのことは調べさせてもらった」
「はあ⁉」
「桜雅様も知っている情報屋です。城下から戻ってくるあなたの様子がいつもと異なっていたので。それより、何故あなたが反応するんですか……」
いくら人がいないからと言っても、危機感というものはないのかと女と綾貴は思った。そんな他人行儀な言い方をしなくてもいいのにと思いながら、灰色の瞳は自分達の前にいる女を見た。
「市瀬綾貴と申します」
「ええ、存じております。執政様」
「……天子様がお世話になりました」
「しっかりと手綱を締めていただかないと。それとも執政様も手を焼くほどなのでしょうか、天下の主様は?」
「まあ、そうとも言いますかね」
頭が切れる女だ、そうとも思った。柔らかく笑う美春の顔は、どこか優しさを感じる。桜雅が足繫く街へ降りるのも頷ける。
「紫陽花を見に来たの?」
「え? ええ、この子ははじめて見ますし……この時間なら誰もおりませんし……」
「……どういうこと? 夜が綺麗なんだって?」
「確かに夜はとても綺麗ですよ。でも、夜に紫陽花を見に来るのは、家族や好いたものがいる者同士なんです。独り身には敷居が高いんですよ」
青色の花を見つめる美春の顔はとても淋しそうだ。そういえば家族はいないと桜雅は彼女が言っていたことを思い出した。綾貴も調査を依頼した際に書かれていた「家族なし」の文言を思い出す。ぎゅっと小春を抱く美春を見て、桜雅は口を開けた。
「……お、俺が」
「……え?」
「俺が、いる……から。だ、たから……一緒に、見よう」
風がふたりの間を通り過ぎる。時間が止まったのか、何を言われたのか、何を言ったのか。何を伝えたのか。紫陽花の青が青天の空に輝いていた。
*****
深く溜息を吐き、桜雅は椅子へ深く腰を落とした。咥えた煙草に火を点け、天井へ向けて煙を吐く。
——「俺が、いる……から。だ、たから……一緒に、見よう」
「なんであんなこと言ったんだ、俺……」
前髪の掛かった顔に手を置き、もう一度吐くのはまた溜め息。無意識に出た言葉は彼女を困惑させるつもりではなかった。ならどういう意図があると問われると、適切な回答を用意することが出来ないのも事実である。
美春と会うのは彼の中で最早当たり前の日常と化していた。最初の頃は見ない壁が立ち塞がっていたが、今はそれもだいぶ薄くなっていると感じている。もっと会いたい、もっと声を聞きたい、もっともっとと会うたびにその想いが強くなっていく。
「(どうしたんだ、俺……)」
鈴のように、その名のような声でもっと自分を見てほしい。寝ても覚めても頭の中を埋め尽くすのは誰でもない彼女。
「……え、嘘だろ?」
まさか、そんな。いや、そんなことは……。
「……」
無造作に置いた青の羽織を手にする。左下の裾は、彼女が自分の着物を切って繕ってくれた部分だ。金の刺繍で施された桜の模様を指の腹で撫でる。
「あいたい……」
零れ落ちる言葉は誰に当てたものか、桜雅はわかっていた。込み上げる想いも、会いたいと願う気持ちも、はじめて抱く異性への感情も。
「厄介な感情だな……参った……」
はは、と自嘲気味に笑い大窓の外を見る。彼女が住む家はここから見えない。こんなに遠かったのかと手を伸ばす。会いたい、会いたい。そして名前を呼びたい。
「……みはる」
低く甘くささやいた彼女の名は、雨音に溶けて消えていく。彼がはじめて抱いた異性への「恋しい」という気持ちは、知らぬ間に大輪の花を咲かせていたようだ。
連日外は灰色だった。雨が続くこの国には四季がある。ちょうどこの時期は梅雨にあたり、雨が止まない日はなかった。
「小春ー、もっと食えよ? おっきくなんだぞ?」
「天子様、あまり小春に食べ物を与えないでください。太ります」
「小春ちゃんはちっちゃいから、一杯食っておっきくなって美人さんになるんだよなー?」
「……小春、雄ですけど」
ぐっと、いう声を喉の中へ押し戻す音が聞こえた。くぅん? と顔を傾けながら尾を振っているのは、先ほどから「小春」と呼ばれている赤毛の子犬だった。
城の門扉前に捨てられていた彼を拾った桜雅がやって来たのは先月の話。城で育てられないという声に、美春の家で家族として迎えることになり、早一ヶ月が過ぎていた。
名前の「小春」は桜雅が命名した。雄犬だというのに小春というアンバランスさに女は首を傾げたが、それにはどうやら理由があっての命名だったらしい。
「だって、俺達が出会ったのって春じゃん」
小さな生き物が腹部を出して寝ているのを撫でている時のことだった。どんな理由と言いたくなったが、満更でもない顔をしている男を見て、彼女は何も言えなかった。どこからか拾ってきたような名前だったら、全否定をしようと考えていたからだ。
「だからといって、来るたびに小春へのお土産が多過ぎます。甘やかしはだめです。毎回言っていますよね?」
「お前のご主人様はきびちいでちゅね」
「……出禁にしますよ……ただでさえ、貴方様はここにいてはいい身分の御方ではないと何度……もう、いいです。好きにしてください」
深い溜め息を吐き美春は針をしまった。
「ところで上様」
「おうか」
「……天子様」
「中々呼んでくれないね……それで、なあに?」
小春を足の間に置き、煙管を口にする。普段なら煙草を咥えるのだが、もしものことを考え、女の家にあった煙管を咥えるようにした。
これは亡くなった彼女の父親のものだという。螺鈿の埋め込まれた細かい彫刻は、一目見ただけで上等品だとすぐにわかった。最初これを使うことに、桜雅は躊躇いの色を見せた。こんな大切なもの俺が使っていいわけがないと断りを入れたが、美春はいつもの調子で「私が使わないから埃被っているのもかわいそうですし。よかったらここにいる時だけは使っていただけませんか? その子も喜びます」と言われ無下に出来なかったのも正直なところである。こんな上等なものを使っていたということは……ますます美春の出自が気になるところだが、今はそんなことどうでもよかった。
「解決されたのですか、ご正室探しは」
「……ゲホッ……な、な……」
天子様? と女は続ける。煙が変なところへ入ったのか、美春の咳は止まりそうにない。しかしその原因を作ったであろう女は、何事もなかったかのように決して大きくない台所へと降りた。
「な、なんで、それを……」
「この国のものなら皆知っておりますよ。天子様のご正室探し。良家の才女がことごとく散っていく……ことも。そのご様子だと難航されているようですね」
「……え?」
「だってそうでしょう? ご正室の方が見つかったとなったら、こんなボロ屋に来ませんもの。それと国中お祭りになるじゃないですか。私としてはその方が仕事になるので、ありがたいんですけどね」
湯を沸かす音が聞こえる。少しだけ肌寒いからか、温かめの茶を準備しようと女は茶筒に手を伸ばした。美春の言葉に桜雅は口を閉ざす。彼女が言っている通り国の一大計画である「天子の正室探し」はお世辞にも順調であるとは言えないからだ。その原因は桜雅自身が一番わかっている。
「美春ちゃんも」
「え?」
「……美春ちゃんも、愚かだと思う? 俺のことを」
「……一体、どういう意味ですか?」
桜雅の言葉に女はそう問う。いつものおちゃらけた彼の顔はそこになかった。その一瞬で美春は悟った。この人は、誰にもわからない大きなものを抱えている……——。それは私達にも誰にもわからない、わかりえないものだと聡い彼女はすぐに察した。
「別に、今すぐお決めにならなくてもよろしいのではないのでしょうか?」
「……え?」
「気乗りがしないこともございますでしょう。そういうお相手と一緒になったとしても桜雅様が幸せになれますか? あなた様もひとりの人間なのですから、少しくらいわがままになってもいいと思いますよ」
御上相手に何無礼なことを言っているのだと思ったが、これは美春の本音だった。嘘偽りのない女の気持ちが、すっと桜雅の胸の中に落ちていく。
「今、おうか、さまって……」
「そこですか? ふふ、本当にそういうところですよ、上様?」
「あー! 元に戻った! なあ、もう一回呼んで?」
「嫌です。あ、お茶飲みます? 相変わらずの粗茶ですけど」
さあもうこの話は終わりとでもいうように、美春はいつもの呼び方に戻る。それが面白くなかったのか、桜雅は美春へ「もう一度、お願い」と手を合わせた。言いません、もう一回。そんなくだらないやりとりが、雨の降る狭い部屋の中に響いた。
*****
数枚の紙を前に綾貴は溜め息を吐いた。懇意にしている情報屋からもらった報告書という名のそれには、桜雅が城下へ降りる原因となった女の素性が書かれている。
「家族なし、数年前に死去……職業は御物師、か……一度お目に掛かりたいものだな……」
あの男が、ひとりの女に執着するなんざと興味を持ち続けもう一か月以上が経つ。一体どんな女かと探りを入れてみても、これといった彼が欲するものは得られなかった。情報屋曰く「本当に普通の女。当たり障りのない、普通の女」。だから綾貴は気になったのだ。
トントンと灰を陶器の皿の上に落とす。彼が煙草を吸うことはまずない。年に一度あるかないかの割合だ。ゆらゆらと立ち上る煙を見つめ、このあとの動きを頭の中で組み立てていた。
出掛けるぞと煙草を蒸かしていた桜雅に言うと、彼は青い瞳をさらに大きくさせ不思議そうな顔をした。
「出掛けるって、どこに」
「城下だ。たまには俺の仕事に付き合ってよね」
いつもの青い羽織とメガネ、頭巾を投げ捨て渡すと、その顔はさらに困惑した色へ染まる。
「お忍びってやつかな、俺同伴のね」
「……はぁ?」
桜雅としては願ってもいないことだったが、隣に綾貴がいたら彼女の家へ寄れないという懸念が生まれた。小春の様子も気になる。一目でも会えないかと思案しながら羽織に腕を通す。左下の裾に光るのは金の桜。傷まないようにと、羽織のメンテナンスをしてくれる美春には頭が上がらない。
「(一目だけでも、会いたいなぁ……)」
「……」
横目で桜雅を見ながら綾貴は、どうせ一目会いたいって思ってんだろうなと彼の心の中を覗いていた。
「……忘れ物」
「え? あー……いつも持ってかないんだよ、煙草」
「重度の喫煙者の桜雅が?」
「綾貴が言ったんだろう。天子だっていう痕跡見せんなって」
綾貴は知らない。彼が城下で吸っているのは煙草ではなく煙管だということを。
「(相手の女は、煙草が苦手……とか?)」
そう、勘違いしたまま綾貴も伊達メガネを手にする。どんな「普通の女」なのか、全く想像出来なかった。
*****
その日城下は賑わっていた。行き交う人達の顔は笑みが零れている。幸せそうなその雰囲気に、桜雅の心は明かりが灯ったかのように温かくなった。
「賑やかだねぇ。いつもこうなのか?」
「いや? いつもはもっと静かなんだけど……ん、誰かに聞いてみるか。おー……」
「待て、待て待て、待てって! お前はお前の正体を自分自身で晒したいのか!」
グイッと桜雅の腕を引き、声を潜めそう言う。何を言ってるんだの顔をした桜雅の目には渋い顔をした綾貴。冗談だと付け加えると掴んでいた腕を乱暴に離した。
「俺が聞いてくる。だから桜雅はなんも喋んな。黙っててください」
おうと桜雅は頷き、綾貴は子連れの親子に声をかけた。
「すごく賑わっているね……」
「市瀬様! 今日はご公務ですか?」
「ううん、そうじゃないけどね……あれだよ、お忍びってやつ」
綾貴の顔は城下に住む人達にも知れ渡っていた。天子の右腕であるこの市瀬綾貴という男は、町民にも支持されているそれだけの人物だった。
「ちょうど良い時にいらっしゃいましたね。今日は年に一度の紫陽花祭りなんですよ」
「あじさい、まつり?」
「この時期に咲く紫陽花を愛でる伝統的なお祭りなんですよ。様々な種類や色の紫陽花が市で売られるんです。ああ、紫陽花の庭に咲くのを見るのも、私達の楽しみなんですよ」
幼子の腕を引きながら母親は嬉しそうに話してくれた。その様子を見ながら、桜雅は何とも言えない表情で話を聞いていた。
「紫陽花……これで気に入ったものを買うといい」
「……え?」
「……ちょ……」
懐から数枚の紙幣を取り出し、桜雅は幼子に手渡す。突然の行動に驚いたのは親子だけではない。話すなと言った綾貴自身が一番驚いている。
「お兄ちゃん、いいの?」
「うん、僕が気に入ったものを買うんだ。いいね?」
きょとんとした表情で桜雅を見る幼子の頭を彼はそっと撫でた。それを小さな溜め息を吐きながら見ていた綾貴は、心の中で思う。こいつは、こういう男だったと。どこまでも優しいこの男には、幸せになってもらいたい。それが長年共にいるこの男の願いでもあり希望でもあった。
親子と別れ賑わう道から外れたふたりは、先ほど教えられた「紫陽花の庭」へ足を運んだ。郊外にあるその庭は、誰が手入れをしているかわからないが、青い紫陽花だけが咲く場所らしい。夜になると街灯の明かりに照らされ、それは美しい姿を魅せてくれるそうだ。
「本音を言えば夜に来たかったけどな」
「ダメに決まってんでしょうが」
「知ってるよ、言ってみただけ」
ンな目くじら立てて怒んなよと付け加えれば、綾貴は目を覆っていたレンズを外しその青を見た。
まるで海のような青はとても神秘的でいつまでも眺められる、そんな印象を彼らに与えた。先の親子にこの時間帯は人がいないと聞いてはいたが、その美しい青花を見ているのは彼らふたりだけだった。口が淋しいのか、煙草を求めている素振りを見せた桜雅に、隠して持ってきたそれを手渡そうと綾貴が懐に手を忍ばせた時のことだった。
「ワン、ワン!」
赤毛の子犬が桜雅目掛けて勢いよく走ってきた。突然の出来事に綾貴は一瞬何が起きたか理解出来なかったが、時間を空け「い、犬?」と何とも間抜けな声を出すだけだった。突撃された桜雅は自身の足元にまとわりつくその赤い毛玉を何度か瞬きをし眺め、そっとそれを抱き上げる。そして柔らかい笑みを零し「小春」と固有名詞を呟いた。
「こは、……?」
「お前、どうした? ひとりか? まさか脱走したのか?」
小春と呼ばれたその犬は、よほど嬉しかったのか千切れんばかりの尾の動きを見せ、桜雅の顔を舐めはじめた。
「お、おい……お前」
「ん?」
「その犬、知ってる、?」
続く言葉を遮る声が聞こえた。遠くの方から、鈴のような、この青に染まるような透明な声色が響く。
「こはるー? 小春ー?」
「……」
時間としてはほんの刹那。たった六文字の言葉にいち早く反応したのは桜雅で、子犬を見ていた顔が、その声の聞こえる方へと自然に上がっていた。その顔はまるで恋をはじめて覚えた少年のようで。幼いころから一緒にいる男がこんな顔をするんだと、綾貴は桜雅を見た。
「小春? こは……え、てん……し、さ……」
「き、み……ど、うし、て……」
「それ、はわたしの、せり、ふです……」
青みがかった黒い髪が紫陽花の海によく映える。彼らの前に現れたのはどこにでもいる「普通の女」。情報屋の言う通りだと綾貴は第一印象を答え合わせする。上品な着物を着ているわけではない、派手な化粧をしているわけでもない。ごくごく普通の町娘と言った印象だが、その奥にあるどことなく異なる香は一体何なのだろう……それが綾貴の抱いた印象だった。しばらく交差した視線を先に外したのは美春の方で、桜雅の隣に立つ綾貴の存在に気付き美しく頭を下げた。
「ご視察か何かでしたか?」
「え?」
「今日は紫陽花祭りの日で、年に一度この青を見るのが城下の者たちの楽しみなんです。小春、おいで。天子様の御羽織が汚れてしまうから」
桜雅の腕に抱かれていた赤毛の子犬は、紫色の衣に包まれる。紫陽花を想像させるそれは美春が身に纏っている衣だ。
「それ、はじめて見た」
「年に一度、この日だけ着るものです。私が仕立てたものですけどね」
「ずるい、俺にも仕立ててよ」
「ずるいって、子どもですか……以前もお断りさせていただきました。ちゃんとご専門の方にお仕立てしてもらってくださいな」
子どもをたしなめるような物言いは、決して強くはないがどこか芯の通った口調に聞こえる。異性にこんな砕けた話し方をする自分の主の姿に、綾貴は小さく口角を上げた。
「(面白い女の子)」
そんなことを思われているとは露知らず、ふたりの掛け合いは続く。
「俺は美春ちゃんが仕立てた物を着たい。美春ちゃんだって御物師だ」
「私はしがない街の仕立屋です。天下を治める方のものを仕立てるなんて、烏滸がましいにもほどがあります」
「そんなことはない。美春ちゃんの腕は確かだ。いつも見てるからわかる」
「……」
美春はじっと桜雅を睨んだ。何故そんな顔をされているかわからないのは桜雅だけで、綾貴は腰に手を当て小さな声で「馬鹿」と漏らした。
「どういう意味だよ、綾貴」
「失礼、そちらのことは調べさせてもらった」
「はあ⁉」
「桜雅様も知っている情報屋です。城下から戻ってくるあなたの様子がいつもと異なっていたので。それより、何故あなたが反応するんですか……」
いくら人がいないからと言っても、危機感というものはないのかと女と綾貴は思った。そんな他人行儀な言い方をしなくてもいいのにと思いながら、灰色の瞳は自分達の前にいる女を見た。
「市瀬綾貴と申します」
「ええ、存じております。執政様」
「……天子様がお世話になりました」
「しっかりと手綱を締めていただかないと。それとも執政様も手を焼くほどなのでしょうか、天下の主様は?」
「まあ、そうとも言いますかね」
頭が切れる女だ、そうとも思った。柔らかく笑う美春の顔は、どこか優しさを感じる。桜雅が足繫く街へ降りるのも頷ける。
「紫陽花を見に来たの?」
「え? ええ、この子ははじめて見ますし……この時間なら誰もおりませんし……」
「……どういうこと? 夜が綺麗なんだって?」
「確かに夜はとても綺麗ですよ。でも、夜に紫陽花を見に来るのは、家族や好いたものがいる者同士なんです。独り身には敷居が高いんですよ」
青色の花を見つめる美春の顔はとても淋しそうだ。そういえば家族はいないと桜雅は彼女が言っていたことを思い出した。綾貴も調査を依頼した際に書かれていた「家族なし」の文言を思い出す。ぎゅっと小春を抱く美春を見て、桜雅は口を開けた。
「……お、俺が」
「……え?」
「俺が、いる……から。だ、たから……一緒に、見よう」
風がふたりの間を通り過ぎる。時間が止まったのか、何を言われたのか、何を言ったのか。何を伝えたのか。紫陽花の青が青天の空に輝いていた。
*****
深く溜息を吐き、桜雅は椅子へ深く腰を落とした。咥えた煙草に火を点け、天井へ向けて煙を吐く。
——「俺が、いる……から。だ、たから……一緒に、見よう」
「なんであんなこと言ったんだ、俺……」
前髪の掛かった顔に手を置き、もう一度吐くのはまた溜め息。無意識に出た言葉は彼女を困惑させるつもりではなかった。ならどういう意図があると問われると、適切な回答を用意することが出来ないのも事実である。
美春と会うのは彼の中で最早当たり前の日常と化していた。最初の頃は見ない壁が立ち塞がっていたが、今はそれもだいぶ薄くなっていると感じている。もっと会いたい、もっと声を聞きたい、もっともっとと会うたびにその想いが強くなっていく。
「(どうしたんだ、俺……)」
鈴のように、その名のような声でもっと自分を見てほしい。寝ても覚めても頭の中を埋め尽くすのは誰でもない彼女。
「……え、嘘だろ?」
まさか、そんな。いや、そんなことは……。
「……」
無造作に置いた青の羽織を手にする。左下の裾は、彼女が自分の着物を切って繕ってくれた部分だ。金の刺繍で施された桜の模様を指の腹で撫でる。
「あいたい……」
零れ落ちる言葉は誰に当てたものか、桜雅はわかっていた。込み上げる想いも、会いたいと願う気持ちも、はじめて抱く異性への感情も。
「厄介な感情だな……参った……」
はは、と自嘲気味に笑い大窓の外を見る。彼女が住む家はここから見えない。こんなに遠かったのかと手を伸ばす。会いたい、会いたい。そして名前を呼びたい。
「……みはる」
低く甘くささやいた彼女の名は、雨音に溶けて消えていく。彼がはじめて抱いた異性への「恋しい」という気持ちは、知らぬ間に大輪の花を咲かせていたようだ。

