櫻の咲くころ、また


皐月

 国中を淡い色で染めていた桜も散り、今青々とした葉の色へと変わった五月。漂う空気の温度も過ごしやすいものへとなり、女は大きく伸びをする。そして、ひとつ溜め息を吐いた。
「……上様」
「おー、よしよし……ん? あ、俺のこと? だからさ、カミサマじゃなくて桜雅って呼んで」
「……呼べるわけがないでしょう……」
 はあ、とこれ見よがしに吐く溜め息も、彼にはこれっぽっちも届いていないようだ。それもそのはず。今桜雅の足の間には、赤毛の小さな生き物が欠伸をして気持ちよさそうに寝ているからだ。
「お前は可愛いなぁ……あー、城に連れて帰りたいくらいだ!」
「出来ないことを口になさらないでください。退けてください、ねえ!」
「ここがいいんだもんなぁー?」
 なー? と子犬に向けて顔を傾げる桜雅の姿に、美春は軽く目を閉じ目頭を押さえた。
 四月のあの日、偶然城下で出会ったふたりは何事もなく別れた。そのはずだったのに、その二日後仕立てた着物を届けようと家の玄関を開けた女の前に立っていたのは、桜雅だった。あの日と同じ青い羽織と頭巾を被り、メガネと咥え煙草姿の男に、女は開けた扉を静かに閉めた。小さな子犬を抱き抱えた男は笑っている。
「……見間違い? 子犬?」
 深く深呼吸をし、もう一度引き戸に手をかけると、そこには陽の光を存分に浴びた漆黒色に輝く髪と海を閉じ込めたような青い瞳の男が「やっ! 美春ちゃん」と女の名を呼んで立っている。
「……⁉」
 美春は桜雅の手を引くとすぐ玄関の中に押し込め、周囲に誰もいないことを確認した上で静かに引き戸を閉めた。
「な、なな……」
「遊びに来ちゃった」
 来ちゃった、じゃないでしょうと美春は肩をガクッと落とす。本来ならここにいてはいけない存在であるこの国の長である天子が、ニコニコと笑いながら自分の前に立っている。どうしたら良いかわからず、愛想笑いも出来なかった。
 それから桜雅は週に二、三回程度女の家を訪れるようになった。子犬はどうしたのかと聞いたら、城の前に捨てられていたから助けたと言う。美春ちゃんならどうにかしてくれるだろうというセリフ付きだ。
「……もう好きにしてください。私の仕事を邪魔さえしなければもういいです……」
「さっすが! それで、今日は何を仕立てるの?」
「今日は特にありません。昨日で全て仕立て終わりました」
「え……?」
 そんなあからさまに落ち込まなくてもと出そうになった言葉を飲み込み、美春は畳まれた着物を手にし、箪笥の方まで歩く。今彼女が手に持っている紅色の着物は、先の仕立てに使用したものだ。
「それも、美春ちゃんの?」
「これですか? はい。母から譲り受けたものです。私は着ませんし、箪笥の肥やしにしているのも、この子が可哀想ですしね」
 無地のそれはきっと女の肌に映えるだろうと桜雅は思った。何度か女の家を訪れるようになって、彼女の言ったことをようやく彼は理解した。着るものなんて二枚、予備を含めて三枚もあればいい……そう美春は言った。確かに彼女は色違いの同じ着物を互い違いで着ている。箪笥の中にあるものを着ればいいのにと思ってはみるも、口に出すべきことじゃないと静観するしかなかったのだ。
「その中にあるのは全部母君のものかい?」
「大半はそうですけど、買ったものもありますよ。譲っていただいたものとかも。反物もありますけど……ご覧になりますか?」
「見たい!」
 足の間にいる子犬を潰さぬよう、桜雅は前のめり気味に食らいつく。若干その勢いに押されそうになった美春は、両手を前に出し「わかりましたから!」と彼を制する。紅色の着物を仕舞い、隣の桐で出来た箪笥へ手を伸ばした。
「あまりこれを使用することはないんですけど」
「どういう意味?」
「これは一から衣服を仕立てる時だけに使用しています。あとはどうしようもない時とか、ここぞという時ですね」
「……どうしようもない時? え、美春ちゃんは一からこの布で着物を縫えるのか?」
 一反の反物を手にする。浅黄色のそれは地味なように見えてはっきりと自分を主張している。
「ええ、仕立屋ですから。婚礼衣装もご依頼があればお仕立ていたします。まあ、かみ……天子様にはお抱えの御物師《おものし》がいらっしゃるのでは?」
「まあ、いるにはいるけど……君みたいに破れたものを直すことなんてしないからなぁ……」
「……それはそうでしょうね。国を治める天子様が継接ぎをしたお衣装を身に纏うなど、天地がひっくり返っても考えられませんからね」
 美春は桜雅が羽織っている青の羽織を見る。自分が直したそれを彼は毎回羽織ってやってくる。漆黒の髪に溶け込むような青は、いつ見ても美しい色を映し出している。あの青い着物に施されてきた金の桜と同じ色が青空の下映える。
「着てみたい……」
「はい?」
「美春ちゃんが一から仕立てた着物。君が俺だけのために誂えてくれた着物」
 じっと美春を見る青い瞳はとても優しい。小さな寝息を立てている子犬を撫でる手付きも、同じくらい優しい。
「……お時間、大丈夫ですか」
「時間? うわ、もうこんな時間か! 帰りたくねぇよ」
「お戻りください。ここは本来あなたのようなご身分の方が来る場所ではないんですから」
「今度来るときは何か土産を持ってくるよ」
「……あの、失礼ですけど私の話聞いていますか?」
 離れがたいなぁと子犬を抱き上げ女へ手渡すと、桜雅は大きく腕を伸ばした。彼の頭の中では、次回来る時の計画が練られはじめている。
「上様!」
「……だから、名前で呼んでって。俺はそっちの方が嬉しい」
 ひらひらと手を振り男は引き戸を開ける。静かに閉まった部屋の中は、微かに煙草の香りが残っていた。
「……一体、なんなの……?」

 *****

 城へ戻った桜雅を出迎えたのは、無言の圧を掛けている綾貴だった。
「お前、いい加減にしろよ」
「なんだよ、出迎えの声がそれか? 味気ないの。そして猫かぶり剥がれてんぞ」
 ポイッと伊達メガネと頭巾をソファーの上に投げ、いつも自分が座る椅子に腰を下ろす。
「ほざいてろ。あのな、毎回誤魔化す俺の身にもなってみろ」
「あ? これくらい朝飯前だろう?」
 言ってのける桜雅の言葉に、綾貴は深く溜め息を吐く。連日の頭痛の原因はコイツだと、こめかみを押えた。
「あ、そうだ」
「今度はなんだよ」
「これ揃えて欲しいんだけど」
 手渡された紙を指で挟み受け取った綾貴は、眉間の皺を益々深くさせた。
「自分で買ってこい」
「それが出来たら綾貴に頼まねぇって! 明後日までなんとか都合つかねぇかな?」
「寝言は寝て言え。第一、何に使うんだよ。ついに頭でも打ったか?」
 呆れた顔で桜雅を見るのは、彼だから出来ること。他の人間には出来ないことだ。
「……やっぱりさ、いろんな色着たとこ見たいんだよね」
「……は?」
「絶対似合うのに……」
「(……女でも出来た?……)」
 紫煙を吐きながら天井を見上げる桜雅の姿に、綾貴はそんなことを思った。何やら面白いことが起きていると思いたいが、これが面倒なことにならなければいいと思うのも、天子の右腕である彼だからなのかもしれない。上質な紙に書かれた文字をもう一度眺め、綾貴はそれを四つ折りにし懐へしまった。

 *****

 その日はすこぶる桜雅の機嫌が悪かった。
「……お、おう、か……さま? お加減でも……」
「いや、なんともない」
 そう返事をするも、桜雅の声は冷たかった。その様子を脇に控え見ていた綾貴は、誰にも気付かれぬよう溜め息を吐く。日頃の行いだと嘲笑ってやりたがったが、それはふたりきりの時にしようと口角を上げた。
 彼にはわかっていた。何故この漆黒色の男の機嫌が悪いのかを。
「それで? 緊急の事案と聞いたが?」
「はい、ようやく見つけました!」
「ようやく……? 何か探していたのか?」
 足を組み替え桜雅はそう問う。問いかけられた家臣は一度唾を飲み込み、口を開いた。
「桜雅様のご正室にぴったりの方ですよ!」
「……は?」
「ですから、ご正室にふさわしい女人が見つかったのですよ! 生まれも育ちも申し分ございません。是非一度お顔合わせの方をと思いまして!」
 男の声に周りは小さく沸き立つ。天子の正室問題は難航も難航で、彼ら重臣の悩みの種だった。
「気乗りしないんだよね」
「天子様!」
「そういう問題ですか!」
「会うのは別にいいけど、今日じゃなくてもいいだろう? 追って綾貴と日程調整する。はい、今日はここまで」
 はい解散とでもいうように桜雅は玉座から立ち上がり、自室へ戻ろうとした。今日は美春の家に行く日だ。特に約束はしていないが、いつも決まった曜日に行くことにしている。会える時間が短いというのに、さらにそれが短くなったことへ対してこの桜雅は苛立ちを覚えていた。
「いい加減にしてくださいっ!」
「……」
 立ち上がった桜雅の背に向かって、叫び声が響く。声を上げたのは中枢を担う綾貴の部下に当たる真面目な男だ。
「……どういう意味だ?」
「あなた様に残された時間は限られているんですよ? 今、この国は国家の存亡にかかわる重大な危機に陥っているのです。それをあなた様はおわかりですか? お願いです、早く皆を安心させてください……」
「……それ、は……」
 わかっている。自分がしなくてはいけないこと、課せられた運命も全てこの男は理解している。

——「上様」

「(どうしてだろう、彼女に……会いたい……)」

 桜雅は男の方を見、淋しそうに笑った。
「苦労かけさせて、本当にすまない」
 そう一言、言った。

 *****

 大きく伸びをして美春は息を吐いた。
「雨、降りそうな空……」
 女の声に足元から「くぅん?」と鳴き声がする。赤毛の彼は、零れそうな瞳をさらに大きくさせ、彼女を見上げた。
「今日はもう店仕舞いかな。そういえば、来ないね。いつもなら二日後には必ず来ていたのに……」
 子犬をひと撫でし、美春はこの街で一番に目立つ建物を見る。
「でも、普通に考えたらここにいてはいけない御方なんだけどね……さ、家の中に入ろう」
 彼が落ちないよう抱き直し、美春は草履を脱ぎ部屋の雨戸を閉める。今日はもうじき雨が降るだろう。雨の日は何もしたくない、ただじっと大人しくしていようと、あたたかい子犬の温度を抱きしめるのだった。

 雨は、嫌いだ。好きになれない。

 結局その日、美春の元へ桜雅が現れることはなかった。