櫻の咲くころ、また

卯月

 それは、薄いピンクに色付いた桜の花が綺麗に咲いた頃。肩から羽織った紺碧の羽織に、はらりと一枚の花弁が舞い落ちる。
「桜、ですか?」
「もう、桜の咲く季節か……」
 肩を寄せ自分の胸に引き寄せた女は、不思議そうな顔で男を見上げる。
「君と見る、二度目の桜だ」
 そしてふたりは想う。この時が永遠に続けばいいと……。そんな、子どものようなことを想い願う。誰よりも尊く想う。

 *****

 東の果てに小さな島国がある。「瑞穂国(みずほのくに)」と呼ばれるこの小国は、遥か神話の時代より他国に侵略されることなく、長く美しい歴史を築いてきた。瑞穂とは、その名の通り瑞々しい稲穂のことを指し、稲が多く取れることから、瑞穂の実るこの国にふさわしいといえる名称である。
 瑞穂国は代々「天子(てんし)」と呼ばれるこの国を治める君主がいた。神話の時代から神の血を受け継いだこの一族が、時代を経て今もなお頂点として君臨している。跡を継ぐのは直系長子と決まっているが(特別な例外を除く)、現在この瑞穂国では、国を揺るがす大きな事態に直面していた。

 *****

「余命、三年……?」
「大変、申し上げ難いのですが……」
 ああ、だからそんな人の顔色を窺う目で、俺のこと見ているのか……——玉座に深く腰を掛けていた漆黒と海のように深い青色の瞳を持つ青年は、誰にもわからぬよう息を吐いた。
「侍医|《じい》よ、それは確かなのですか⁉」
「は、はい! 天子様の最近のお加減を鑑み、先日ご診断をさせていただきました。その結果でございます故……」
 侍医を取り囲み、この国の上位官職に仕える者達があれこれ喚いている。このところの体調の悪さはそこまで深刻だったのかとひとり冷静に傍観しているのは、この場で当事者に値する男だけだ。
「少し、冷静になれないか? 婆やも血圧に障る」
「お、桜雅(おうか)様! な、なにをおひとり冷静に! おわかりですか⁉ これは国の一大事なのですよ!」
 桜雅と呼んだ初老の女は、大きな瞳をカッと開け言葉を続ける。
「桜雅様、あなたの代でこの国を終わらせるおつもりですか⁉ いい加減正室をお持ちください! この婆、後生の頼みです……‼」
「……」
 桜雅は頭を抱える。またはじまった乳母の小言と軽く流したかったが「はい、そうですか」と事態がスムーズに運ぶことは、どうやら難しいようだ。
「……ひとりだけ選ぶっていうのは、世の中の女性に対して失礼だと思わないか? (それより後生の頼み、これで何百回目だよ)」
「それなら何人でも何百人でもいいので側室もお作りなされ。そしてあなたの跡継ぎを産んでもらうのです。天子の血を継いだ御子を!」
「(そうきたか……)」
 我ながら上手い逃げ道かと思ったんだけどなあと桜雅は息を吐く。その様子を目敏く見ていた乳母は「桜雅様!」とまた声を張り上げた。
「いいですか、あなた様はこの国の天子様なのですよ⁉ 齊宮(さいのみや)家、頂点に立つ者なのですよ⁉ 皆もいいですか。国中から年頃の女達を集めるのです。これは国家存亡の危機なのです。いいですか⁉ 一刻も早く跡継ぎが必要なのです‼」
 声高々にそうこの場に控える者達に宣言する乳母の姿に、桜雅は目を閉じた。「跡継ぎ」「世継ぎ」「正室」……——ここにいる誰もがそれに対して躍起になっている。それが彼にとっては虚しかった。
「(誰も……俺自身のことを、心配なんてしてくれやしない……)」
 この世界に自分ひとりだけ取り残された、そんな虚無感が桜雅を襲った。

 *****

 あの後散々乳母の小言に付き合わされた桜雅が自室に戻ったのは、それから三時間後。存在もしない軍議があると人相の悪い右腕が助け舟を出してくれたおかげで、ようやく解放された。何故もっと早く助けなかったと聞けば「見ていて退屈しなかったよ」としたり顔を見せた。
「(そういう問題じゃねぇだろう……)」
 ベッドに寝転がり天を仰ぐ。手の甲で目を押え大きく息を吐いた。服が皺になるとまた口煩い乳母に見つかったらと思ったが、今はそれよりも他のことを考えねばならなかった。
 年老いたこの国の侍医言ったのは、なんとも残酷な言葉。

——「桜雅様は、二十三歳まで……生きられるか……」

 寿命は三年だという。ここ最近、体調が芳しくなく息苦しい時があったのは確かだ。これも血筋のせいなのか、そういう因縁なのか。どちらにせよ自分に残された時間が期限付きだということに.その運命を受け入れるしかなかった。
「正室、か……」
 周囲(まわり)の言っていることはわかる。それがこの国を治めるもの、頂に立つものへ課せられた命だということも。自分のなすべきことだということも、嫌なくらいわかっている。だけど……。
「……もう、どうでもいい……」
 大きな体を丸め、桜雅は全てから身を隠すよう暗い闇の中に溶けていった。その姿はまるで子どものようで、誰も知らない彼の本音の部分なのかもしれない。

 *****

「毎度ありー! またご贔屓に!」
 大きく手を振り綺麗にお辞儀をする。見送られた者も真似をして、深々と頭を下げている。「仕立屋」と掲げられた看板の横に立つ女の顔は、とても晴れやかだった。
「さてと、残りのものも仕上げてしまおうかな」
 うーんと両腕を伸ばし、淡い桜色に染まる袖を揺らす。彼女の白い肌に良く映えるピンクだ。
 美春はこの城下町の端で御物師|《おものし》として生計を立てている。御物師とはいわば裁縫の専門職人で、女の腕は確かなものだった。本来なら彼女のような手に職を持つ女は、ここにいるべきものではない。だが、彼女はこの街でこの城下に住む人々のため、その腕を揮っている。
「……そろそろ、桜……咲くかな」
 見上げた先には緑の葉をつけた桜の木。木々の間から垣間見られるのは、この国を治める象徴。一瞬だけ目を伏せ、美春はそこから視線を外した。

 季節は、春。桜が咲くのはもうすぐだ。

 *****

「……」
「て、天子……様……」
 重臣のひとりが天子と呼ばれた男の様子を垣間見る。椅子に深く座っていた男——桜雅は穏やかな顔で微笑みを浮かべ、席を立った。
「桜雅様!」
「急用を思い出した。綾貴に、そう綾貴に呼ばれていたんだった」
 人相の悪い男の名を出すと、彼は顔色を変え「い、市瀬殿でしたら……」と渋い顔をする。
「(相変わらず、効果てき面だな)」
 こんなことバレたらあいつはどんな顔をするだろう……そんなことを思いながら自分に仕える家臣達の間を拭っていく。ここにはいない右腕に心の中で感謝しつつ、桜雅は誰にもわからぬよう口角を上げた。通り過ぎていく主君の背を眺めながら、誰かが小さく息を吐いた。これで何度目の溜め息だろう。
 国の存亡をかけた一大計画と言ってもいい天子の「正室探し」。まずは国の中でも良家の娘を数人ピックアップし、直接桜雅に会わせた。しかし桜雅はというと、にこにこと笑うだけでその顔合わせはすぐに終了する。声が掛かり呼ばれた娘達にしてみれば玉の輿の機会だと意気揚々とやって来たが、彼女達の帰り姿に覇気は感じられなかった。なんとも申し訳ない気がして、重臣達は掛ける言葉すら見つからなかったという。
 別に桜雅は女が嫌いというわけではない。極一般的な感覚である。だから皆思っていたのだ。この「正室探し」がスムーズに進むという変な自信が、それぞれあった。しかし、実際蓋を開けてみるとこの有様。一体彼女達の何がいけなかったというのだろう。
「全員帰したんだってぇ?」
「……その気がないのに縛り付けるのは残酷だろ?」
 腕を組みながら桜雅の自室前に立っているのは、彼の右腕である市瀬綾貴|《いちのせりょうき》。大変優秀な男である。
市瀬家は代々天子に仕える一族で、長子の綾貴は医師の資格も持っている参謀だった。しかし桜雅に仕える侍医の存在を消さないよう、敢えて彼は腹心として彼の傍にいることを選んだ。
「はぁ、そういうところだよね」
「どういう意味だよ」
「さあ? 自分で考えてみたら? 女嫌いじゃないなら正室のひとりやふたりすぐ作ればいいのに?」
 綾貴の鋭い眼光が桜雅を射抜く。他の家臣達が恐れるそれは、どういうわけか彼だけに効くことはなかった。
「それは違うだろ」
「……」
 綾貴の前をすり抜け、桜雅は自室の扉を開く。口調が少しだけ砕けたのは、彼が本当に心から気を許しているという証拠だ。桜雅は羽織ってきた黒の羽織をソファーの上に投げ捨て、懐の中に手を入れた。
「跡継ぎのことは考えてねぇわけじゃない。それが俺の役割であり宿命だってのも十分理解している。でも、なんていうのかな……」
「なんか違うんでしょ。オーカの中でこの女だっていうのと他の女共とが違うんでしょ。良家の娘が悪いってわけじゃないけど……つまり、そういうこと、違う?」
「さすが綾貴。そうなんだよな……。こんなこと言ったらばあやがぶっ倒れっちまう。どうしたもんかなぁ……」
 腕を伸ばし、桜雅は高い高い天井を見上げた。
 桜雅はわかっていた。そう、わかっている。彼自身の身分も置かれている状況も己がしなければならないことも、今一番優先すべきことも、何をしなくてはならないかも、役割も全て。全て理解はしている。彼に残された命の短さも、やらねばならない使命も。
 だけど、今の彼にとってみたらそれはどうでもいいことなのである。
「……なあ、りょーき」
「ん?」
「俺、あと三年で死ぬんだってさ……」
「……そっか」
 そんなことはさせない……そう言えたらどんなに楽だろう。言えないのはそれを綾貴自身嫌なほどわかっているから。彼に残された時間はもう三年を切っていた。

 *****

 大きな窓は太陽の光を満遍なく部屋の中へ通す。桜雅はひとり息を吐いた。こんな天気のいい日は城に引き篭っているのもアレだ。かといって街へ出るとなると周りが煩い。どうしたものかと懐へ手を伸ばし「あ」と声を上げた。
「(……そうだ)」
 どうやら妙案が浮かんだようで、彼はにやりと口角を上げる。そうだ、あとは口煩い腹心に伝えておけばどうにかしてくれるだろうという変な自信を持ち、この国の天子は立ち上がり部屋を後にした。
「……ふざけんな」
「まだ何にも言ってないだろうが。綾貴、言葉が乱れてる」
「顔に出てんだよ」
 そんなはずはないと首を傾げてみるも、目の前の男は研ぎ澄まされた目を背けることはしなかった。桜雅ははぁ、とわざとらしく息を吐き、頭を搔く。
「少しだけ。夕暮れ前には戻る」
「人の話、聞いてんのか?」
「別にいいだろう? これも天子様のツトメってやつ」
 何がツトメだと言い返してやろうかとした綾貴は、大袈裟過ぎるほどの溜め息を吐き、くるりと背を向けた。
「……綾貴?」
「夕暮れ前までには必ず戻ってくること。条件。頭巾(フード)を必ず被っていくこと。齊宮の天子はこの国中の奴らが全員知ってるんだ」
「……もちろんだ!」
 ありがとうと笑みを零す桜雅に対し、綾貴はわざと目を外し窓の外に広がる晴天を灰色の瞳に投影した。

 素ガラスの眼鏡を掛け口には咥え煙草、漆黒色に輝く美しい髪をすっぽりと覆う青色の羽織と頭巾は、海のように真っ青だった。
 城下へ立つ際の約束事として、決して他人と触れることはないように、決して天子だと気付かれることのないようにと再三注意を受けた。はいはいと軽い返事をする桜雅に対して綾貴の顔は相変わらずの眼光だったが、それを痛いとも痒いとも思わないのが桜雅のいう男である。何も騒動が起きなければと願う男の苦労は、耐えることがない。
「……いつぶりだ? いや、はじめて?」
 茶色の地面を踏みしめながら、桜雅はそんなことを口にする。ゆらゆらと立ち上る紫煙は青空へと吸い込まれていく。
 実際、街へ降りたのははじめてのことだった。幼い時父達と一度だけ降りたことがあったが、それは遥か遠い朧気な記憶。うっすらと消えているモノクロの写真は、彼の記憶という箱の中の奥の奥にいる。
「(空気が、うまい……)」
 深く息を肺の中へ吸い込み、ゆっくりと吐き出す。それだけの当たり前のことなのに、この男にとっては新鮮で仕方ないものに見えた。
 雲ひとつない青空を見上げると、どこからかピンク色に染まった小さな紙吹雪のようなものが飛んでくる。桜雅は手を伸ばしそれを掴もうとした。あと少し、というところでその正体がこの季節特有のものだとわかった彼は、ふっと口角を上げた。その時だった。
「……」
 ふわりと舞うそれに包まれたかのようでいて、少しだけ馨うのは甘い香り。
「……っ、ごめんなさ……」
 柔らかい感触が桜雅の胸の中に飛び込んで来た。はらりと桜雅の漆黒色が青色の布からはみ出る。そして青色の瞳に映り込んできたのは、小さな春だった。
「き、君は、大丈夫? 怪我はない?」
「え、あ……」
 自分の胸に飛び込んで来た女に、そう桜雅は声をかける。一瞬言葉に詰まってしまったのは、どう声を掛ければいいか彼自身わからなかったからだ。太陽の光に映える黒髪は、反射によって青くも見える。青みがかった黒髪は、とても惹かれるものがあった。すっぽりと埋もれてしまう女の体は、少しだけ痩せているようにも感じた。
「ごめんなさい、あなたの方こそ、お怪我はありませんか?」
「お、……わ、わたしは、大丈夫、だ……で、す……」
「よかった……」
 とっさに出た一人称を彼は改めて言い直す。街に出る前、綾貴から散々注意された小言のひとつに「自分のことは俺じゃなく私と言うこと」というものがあった。別にそれくらいいいだろうと思っていたが、念には念を押せという彼の圧に根負けしたというわけだ。
「(バレないと思うんだけどな……)」
 たった一人称だけで、と思いながら違和感の残像を噛み締め安心した顔をしている女を見る。商家の娘か、それとも寺社の娘か。言葉遣いの丁寧さにおよその生まれが見え隠れしている。体の肉はないが、身に着けている衣服はしっかりしているものだ。少し触れただけだが仕立てもしっかりしていると、僅かな時間で桜雅は女に対するおおよそのイメージを算段した。
「……あの……」
「……え?」
「手……」
「……手?」
 うん? と首を傾げ桜雅は女が発した言葉を繰り返す。手が一体どうしたというのだ。さらりと流れる漆黒色が眩しく輝いている。
「背中、そろそろ離していただけると……」
「せな……あっ! 悪い!」
 女の背中を支えていた手を退ける。ふわりと離れる温度(ぬくもり)と少しだけ甘い香りが、名残惜しい。
「もしかして、旅の御方ですか?」
「え?」
「この国では珍しい身なりをされていますし、それにその御羽織物とても上質な糸が使われていますから。瑞穂では、位の高い方しかそのようなもの身に着けませんし」
 桜雅の顔色が一瞬青くなる。身に纏う衣服も考えたのにと、背中に流れる冷汗が気持ち悪く感じた。自分が持っているもので、一番街の者達と大差ないものを選んだつもりだ。値段も質も上等より少し劣る羽織を選んだはずなのに、おい綾貴! そんな届かぬ声が彼の中をぐるぐる駆け巡る。それより、この女は一体何者なんだ。ほんの僅かな時間触れただけで布の質がわかるのか? 呉服関係の家の者かと取引のある呉服商達の顔を思い出してみる。
「君、一体……何者……?」
「私、ですか? 私は……あー!」
「……⁉」
 突然大きな声を出したかと思えば、女はものすごい速さで桜雅の服を掴んだ。
「な、な、なに……⁉」
「脱いでください!」
「……は、はあ?」
「羽織が、裂けてる……! 直さないと!」
 桜雅の青い羽織に手をかけた女は、追い剥ぐ勢いだ。女に迫られるなんて経験したことのない彼にしてみれば、天にも昇るほどの幸福だが、それを素直に喜べない事情がある。
「(ま、まずい……! バレる!)」
 そう、桜雅は自分の身分が明らかになってしまうのは、何がなんでも避けなければいけなかった。どうにかして彼女を傷付けないよう抵抗せねばと考える桜雅の頭を覆っていた膜が、ふと消えた感覚がした。
「……ッ……」
 はらりと頭巾が外れる。青の布に隠れていた漆黒色の髪が青空の下姿を現す。終わった……——桜雅は絶望に落とされる。騒ぎになってしまったら全ての終わりだと目を瞑った。
「こっち、私の家で直しますから! 今なら誰もいないから、走れますか?」
「……え?」
「元々ここは人が寄らない場所だから大丈夫だとは思いますけど、念には念を入れて。あの家です。走りますよ?」
「ちょ、……き、君……⁉」
 女は桜雅の手を掴み駆け出した。一瞬足がもつれて転びそうになったが、その衝撃で彼女まで巻き添えを食らうと踏ん張り、女に引かれ走った。彼女が指を指した家までは一町半(一町が百九メートル)ほどだ。遠いわけではないが、城に篭もりきり、ましてや「御身に触れます!」と運動まで制限されている桜雅だ。体力には自信があるが久しぶりの全力疾走に近い足の動きに、腹の中の臓物が出そうになっている。
「もう少しなので!」
「あ、あぁ……」
 彼の青い瞳に見えて来たのは、小さな一軒家。「仕立屋」と書かれた看板の下には、桜の彫物が施されている。
「(桜……?)」
 桜が好きなのかとぼんやりした頭の中で桜雅は考える。女が着ている着物も、裾の方に桜の模様が見える。あとで聞いてみるのもいいと改めて脳内で組み立てる。それのもうひとつ、彼には気になっていることがあった。
「(手の荒れ具合がひどいな……ところどころ小さいけど傷がある。まさか……)」
 アップデートされた情報を上手く再構築させていると、自分の少し前を走る女が「着きます!」と一言桜雅に向かって言い、思い切り引き戸を開けすぐさま閉めた。
「……はぁ、はぁ……く、くる、し……」
「そのわり、には……息、乱れて……ない……とおも、う……けど……っ……」
「町民のこと舐めないでください、上様(かみさま)
「……え……? か、かみさ……?」
「お水でいいですか? 今お茶葉切らしてて」
 掴んでいた桜雅の腕から自分の手を離し、女は玄関のすぐのところに備え付けられている小さな台所へ足を向ける。桜雅はぐるりと家の中を見る。決して大きな造りではないが、どこかほっとするそんな雰囲気のある空気が立ち込めていた。
「お城の入口より小さいんじゃないですか? はい、どうぞ」
「え、あ……ありがとう」
 受け取ったのは透明の硝子で作られたグラス。喉の乾きに耐えられなかった桜雅は、それをグイッと一気に流し込んだ。
「山から引いてる湧き水なんで、綺麗ですよ」
「……え?」
「上がってください。じゃないとお直し出来ないです。狭くて汚いところですけど」
 どうぞと客用のだろうか、紅色の座布団を畳の上にそっと置く。汚いなんてそんなことないのに……そう思ったが、口から言葉が出ることはなかった。
「さあ、上様。脱いでください」
「い、いや、君⁉ だからいきなり……」
「そんな格好でお城へ帰るんですか? 何言われるかわかったもんじゃありませんよ」
 ほら、早くと言わんばかりの態度で女は手を差し出す。戸惑いながら、桜雅はゆっくりと紺碧色の羽織を脱ぎ女に手渡した。
「素敵な青……これは、西国(にしのくに)の糸ですね……綺麗……」
「そんなことまで、わかるのか……?」
「私は仕立てを生業としている御物師《おものし》です。これくらいわからなきゃ、商売なんて出来ませんよ」
「おも、のし……」
 そういえば城にもいたなと桜雅は思い出す。自分のところにいるのは名家出身の中年の女だったと、記憶から引っ張り出した。
「……あ、ほら。やっぱり」
「……ん? やっぱり?」
「上様、切られていますよ。意図的に」
「切られて……いや! それより!」
「はい?」
 女は桜雅の顔を見る。その視線にドキッと心臓の音がなった。まっすぐに自分を見つめるその瞳は、少しだけ色素の薄い茶色だ。くっきりとした二重に真っ赤に染った唇。そして青みがかった黒髪。この女、相当美しい。こんなに美しい女がなんでこんなところにと、また疑問が浮かぶ。
「……上様?」
「……あ、ああ……あ、そうじゃねえ! そのカミサマってのは一体なんなんだ⁉」
「……へ?」
 今度は女が不思議そうな顔をする。そんな顔をさせるようなことを言ったかと眉を顰めると、意外な答えが彼女から帰ってきた。
「簡単なことです。城下の者は皆そう呼んでいます。天子様は上にお住いになっているでしょ?」
「……うえ?」
「はい。私達は下々の者。だから上と書いてかみさま。神を文字ってもいますけどね。ご存知なかったんですか?」
 ご存知も何も、そんな風に呼ばれているなんて想像すらしていなかった。自分はそんな立場の人間ではないのに。ただ天子の家系に生まれただけだというのに、なんて皮肉なことなんだと目を伏せた。
「……直してしまいますね」
 何かあったのかと女は感じた。きっと自分達には想像すらつかない大きな悩みでもあるのだろうと、桜雅が着ていた羽織を裏返す。ちょうど左下の裾が縦に切れていた。
「城下へお降りになるのでしたら、もう少しお召し物を考えてみてはいかがですか?」
「……え?」
「誰もあなたが天子様だと気付いてはおりません。これは単なる嫌がらせです。一目見ただけで高価なものだと、庶民は見てわかるものです」
「いや、これは……」
 女は羽織を起き立ち上がる。その背中を追いながらなんて言葉を出せばいいか迷っていた。数歩歩いた女は一竿《ひとさお》の箪笥の前で立ち止まる。引き出しを開け何やら探しているようだ。その様子を興味深く見ていた桜雅の目に入ったのは、一枚の青。吸い込まれそうなその色を綺麗だと見ていた桜雅の視線を感じた女は、それを手に元の位置へ腰を下ろす。
「なにするん……⁉」
「何って、切るんですけど」
「は⁉ お、おい、早まるな‼」
 鋏を手にした女は桜雅の静止を無視し、その目の覚めるような青の着物を裁断していく。シャキ、シャキと布の切れる音がする。真っ青な布から、小さな四角の切れが生まれた。
「あ……そ、それ……」
「これを後ろからあて布にします。私が着なくなったもので申し訳ないんですけど、これならこの西国のものと合うと思うんです」
「君の……⁉」
「これは北の方で織られたものなんです。今はほとんど残っていないんですけどね。これなら、ほら! 色合いがぴったり!」
 桜雅の羽織と女が切った着物の切れ布の色合いはぴたりと重なった。よく見ると金色で桜が刺繍されている。大事なものじゃないのかと桜雅は嬉しそうに笑っている女をじっと見つめる。
「君の着るものがなくなってしまった……」
「え? 二枚もあれば十分ですよ」
「……は⁉」
「予備も入れたら三枚で生きていけますよ。着回しすれば十分ですし」
 眩暈がしそうだった。桜雅の知っている女という生き物は、着飾るのが大好きだと思っていた。それを目の前の女は見ず知らずの男(知らないわけではないが)の破れた着物を直すために自身のものを躊躇うことなく断ち切るなんて、はじめての人種だ。しかも三枚もあれば生きていけるという。
「……」
 丁寧にひと針ひと針縫う女の横顔は、とても綺麗だった。そのしなやかで例えようのない動きに、彼はいつの間にか魅了されていた。
「……つまらないでしょう、上様には」
「……え?」
「それとも気になります? お針仕事なんてしたことないでしょう?」
「したことは、ない……」
 ふふ、と笑い女は糸を(しご)く。みるみるうちに元の姿に戻っていく自身の羽織が、なんだか新しいものに見えてしょうがなかった。
「私も小さい時はつまんないなーって見ていたんです。でも結局気になっちゃって、気が付いた時には針と糸持っていたんですよね」
「……へぇ……」
 楽しそうにそう語る女の顔は、本当に幸せそうに見えて、桜雅の顔も自然に綻ぶ。静かな空気とあたたかな音がふたりだけの部屋を包む。なんて穏やかな時間だろう、男はそっと目を瞑る。こんなに穏やかで心が落ち着くのはいつぶりだろう。もしかしたらはじめてかもしれない。
「……あったかい、ここは……」
「……日当たりだけはいいですからね」
「……フッ……」
「出来ましたよ、上様」
 女の声に桜雅は目を開ける。そこにはキラリと輝く金色の桜刺繍が、彼を見ていた。
「……綺麗だな……すごい……全然破れてるなんてわかんねぇよ……」
「まあ、それで食べていますからね。それより」
「ん?」
「上様って、随分砕けた口調でお話されるんですね。ああ、普段は猫を被ってるんですか? 私はそっちの方がいいと思いますよ」
 道具入れに針や鋏などをしまい、女は腕を伸ばす。仕立ての終えた羽織を見ている桜雅を眺め、口元を緩めた。
「お戻りにならなくていいのですか?」
「……え?」
「日が落ちる前に戻られた方がいいのではと思いまして」
「……あ! 夕刻前に戻るって言ってたの忘れてた!」
「……呆れた……変な、人……ふっ……ふふっ……」
 口に手を当て女は笑う。桜雅は羽織をもう一度見、口を開いた。
「俺は齊宮桜雅(さいのみやおうか)
「……はあ……存じ上げておりますけど……」
「天子でも上でもない、俺のことは名前で呼んでくれない?」
「……えっと……仰る意味が?」
 桜雅は青の羽織を腕に落とし、懐から煙草を一本取り出し口に咥える。
「君の名前は?」
「……わたし、ですか?」
「そう。教えて、君の名前」
 空じゃなく海のように深い青の瞳が女を優しく見る。逃れることの出来ないその熱はとてもあたたかい。まるで春のようだ。
「私は……美春と申します」
 女は「美春」と名を紡ぐ。桜雅はそれを反芻し笑みを零す。
「美春ちゃん……春みたいな名前で、素敵だ。君にぴったりだよ」
 そう言い彼女の名前を呼ぶ。語尾についた「ちゃん」付けは砂糖菓子のように甘く感じた。

——君とはじめて出会ったのは、桜の舞うあの晴れた青空の下……。