カウンターには、エスプレッソ用の小さなカップではなく、一般的な、よく見るサイズの紙カップが並んだ。「せっかくだからコーヒーじゃなくてエスプレッソにする」と譲らなかった日下部は、一口飲んだだけで「なにこれ、にっが」とギブアップした。
俺は初めからコーヒーにするつもりでカップをセットし、冷蔵庫から牛乳を取り出す。無理して格好つけるほうが格好悪い、ということを俺はすでに経験済みだった。
「俺もそれがいい」
ぽつりとつぶやいた日下部が、手元の小さなカップから俺の顔へ視線を向ける。反応が予想通り過ぎて、呆れるどころか笑いがこぼれた。
「しょうがねーな」
エスプレッソを大きめのカップに移し、お湯を加える。俺が初めて飲んだときも、母さんが同じようにしてくれたな、と思い出しながら。ふわりと浮かぶコーヒーの香りと湯気の中心へ牛乳を落とし「ほい」と差し出す。
「八神くんって……」
「なに?」
カップを受け取った日下部が、珍しいものでも見たかのように目を大きくしている。まあ、エスプレッソはエスプレッソとして飲むものだから、こんな作り方はしないだろうけど。そもそもお前が初めからちゃんと自分が飲めるものを選んでいればこんな面倒なことしなくてすんだのだけど、と心のなかで吐き出した文句を外に出そうかと口を開きかけたとき。
「笑うことあるんだな」
一瞬早く、声が触れた。
「は?」
「出会ったときからずっと睨んでくるからさあ。もう俺のなかではそれがデフォルトだったのに」
「それはお前が不審者だったからだろ」
「不審者?」
「インターホンも鳴らさずドアの前に突っ立てただろうが」
「あー、最初の。てか、またその話かよ。そんなに俺との出会いが印象的だったの?」
くるりと丸い瞳が揶揄いの色を帯びる。ざわり、と胸のなかがむず痒くなり、いつも以上に眉間に力が入る。
「最悪すぎて忘れられないんだよ」
はあ、とわかりやすくため息まで落としたが、日下部に怯えの色は一切表れない。
「いやいや、そんな顔してももうこわくないから」
「は?」
「だってもう笑った顔見ちゃったし。実は面倒見がいいやつだってわかっちゃったし」
「そんなことないし」
「そこ否定するところじゃなくない?」
なにか言い返さなきゃと構えていた体の奥、日下部の言葉が直接落ちてくる。
「新人の俺への仕事をちゃんとしたってことなんだから」
まだ飲んでいないのに、カフェオレのような緩い温かさが胸に広がっていく。
「俺は嫌いなものからはできるだけ逃げたいタイプだからさ。八神くんの好き嫌いで仕事しないって本当なんだなって感心しちゃった」
そうだ、俺は「日下部が嫌いだ」と、「教えるのは仕事だから」とはっきり伝えた。俺は日下部にできれば早く辞めてほしくて、でもだからって自分が仕事をしない理由にはしたくなくて、それで案内をしただけ。日下部の言っていることはなにも間違っていない。それどころかちゃんと仕事をしていると褒めてさえいる。
なのに、どうしてだろうか、胸がガサガサする。
そんなことを言われたかったわけじゃない、と。
「でもさあ、砂糖入れるかどうかは聞いてほしかったな」
え、と視線を向けると、日下部の意外と大きな手がエスプレッソマシンの横にあったスティックシュガーを抜き取った。さらさらと一本分をカップに落とし、マドラーでぐるぐるかき混ぜる。先に牛乳を入れてしまったので、簡単には溶けないだろう。紙カップをレンジにいれるわけにはいかないし、お湯を追加できるほどのスペースはない。
「……ごめん」
胸にあったガサガサの欠片が、剝がれ落ちる。顔を上げた日下部は「いや、そんな神妙な顔で謝らなくても」とわずかに困惑を滲ませ「でも」と手を止めると
「俺は嫌いじゃないよ、八神くんのこと」
引き出したマドラーの先を口に入れた。白く細い棒が、薄い唇に挟まれる。
「あ、いけそう」
ようやく飲める味になったらしく、小さく頷きを繰り返し、白く長い指でカップを持ち上げる。
「あそこのテーブルでいい?」
ぱっと顔を向けられ、咄嗟に壁の時計を見上げる。視線を合わせられなかった理由を理解するよりも先に言葉が転がっていく。
「――やっぱ休憩なし」
「なんで?」
「動画とマニュアル、まだ見てないし」
「え、もう八神さん帰って来ちゃうっけ?」
「もう十分休憩しただろ」
「まだ全然飲み終わってないけど?」
「動画見ながら飲めばいいだろ。タブレット取ってくる」
「えっ、ちょっと」と戸惑う声が聞こえたが、振り返ることなく速足で出口に向かう。自動ドアを抜ける寸前「八神くんのカップも運んでおくからね」と日下部の大きな声が背中にあたった。
誰もいない廊下を進みながら、次第に大きくなる鼓動を服の上から押さえる。これは、なんだろう。家の前の階段を上ったあとですら、俺の心臓はわずかにしか弾まないのに。どうしていま、こんなにもうるさく存在を主張するのか。自分の足音だけが響く空間で、日下部の声が再生される。
――俺は嫌いじゃないよ、八神くんのこと。
マドラーをくるくる回す指先、身長は俺よりも低いのに手の大きさは変わらなくて、指が長くて。マドラーの先が唇に挟まれるところまではっきりと思い出せてしまう。見つめている自覚もないまま、目が離せなかった。おかしなのは心臓だけじゃない。じわじわと内側で熱が染みだす。
「目つきが悪い」とか「顔がこわい」とか、言われ慣れた言葉たちには「だからどうした」と開き直れる。自分はそういうものだと受け入れてしまえばいいだけだ。なのに、どうして。
――俺は嫌いじゃないよ、八神くんのこと。
日下部の言葉が何度も頭を回る。胸にじわりと染みだす熱がツン、と鼻の奥を刺激した。
俺は初めからコーヒーにするつもりでカップをセットし、冷蔵庫から牛乳を取り出す。無理して格好つけるほうが格好悪い、ということを俺はすでに経験済みだった。
「俺もそれがいい」
ぽつりとつぶやいた日下部が、手元の小さなカップから俺の顔へ視線を向ける。反応が予想通り過ぎて、呆れるどころか笑いがこぼれた。
「しょうがねーな」
エスプレッソを大きめのカップに移し、お湯を加える。俺が初めて飲んだときも、母さんが同じようにしてくれたな、と思い出しながら。ふわりと浮かぶコーヒーの香りと湯気の中心へ牛乳を落とし「ほい」と差し出す。
「八神くんって……」
「なに?」
カップを受け取った日下部が、珍しいものでも見たかのように目を大きくしている。まあ、エスプレッソはエスプレッソとして飲むものだから、こんな作り方はしないだろうけど。そもそもお前が初めからちゃんと自分が飲めるものを選んでいればこんな面倒なことしなくてすんだのだけど、と心のなかで吐き出した文句を外に出そうかと口を開きかけたとき。
「笑うことあるんだな」
一瞬早く、声が触れた。
「は?」
「出会ったときからずっと睨んでくるからさあ。もう俺のなかではそれがデフォルトだったのに」
「それはお前が不審者だったからだろ」
「不審者?」
「インターホンも鳴らさずドアの前に突っ立てただろうが」
「あー、最初の。てか、またその話かよ。そんなに俺との出会いが印象的だったの?」
くるりと丸い瞳が揶揄いの色を帯びる。ざわり、と胸のなかがむず痒くなり、いつも以上に眉間に力が入る。
「最悪すぎて忘れられないんだよ」
はあ、とわかりやすくため息まで落としたが、日下部に怯えの色は一切表れない。
「いやいや、そんな顔してももうこわくないから」
「は?」
「だってもう笑った顔見ちゃったし。実は面倒見がいいやつだってわかっちゃったし」
「そんなことないし」
「そこ否定するところじゃなくない?」
なにか言い返さなきゃと構えていた体の奥、日下部の言葉が直接落ちてくる。
「新人の俺への仕事をちゃんとしたってことなんだから」
まだ飲んでいないのに、カフェオレのような緩い温かさが胸に広がっていく。
「俺は嫌いなものからはできるだけ逃げたいタイプだからさ。八神くんの好き嫌いで仕事しないって本当なんだなって感心しちゃった」
そうだ、俺は「日下部が嫌いだ」と、「教えるのは仕事だから」とはっきり伝えた。俺は日下部にできれば早く辞めてほしくて、でもだからって自分が仕事をしない理由にはしたくなくて、それで案内をしただけ。日下部の言っていることはなにも間違っていない。それどころかちゃんと仕事をしていると褒めてさえいる。
なのに、どうしてだろうか、胸がガサガサする。
そんなことを言われたかったわけじゃない、と。
「でもさあ、砂糖入れるかどうかは聞いてほしかったな」
え、と視線を向けると、日下部の意外と大きな手がエスプレッソマシンの横にあったスティックシュガーを抜き取った。さらさらと一本分をカップに落とし、マドラーでぐるぐるかき混ぜる。先に牛乳を入れてしまったので、簡単には溶けないだろう。紙カップをレンジにいれるわけにはいかないし、お湯を追加できるほどのスペースはない。
「……ごめん」
胸にあったガサガサの欠片が、剝がれ落ちる。顔を上げた日下部は「いや、そんな神妙な顔で謝らなくても」とわずかに困惑を滲ませ「でも」と手を止めると
「俺は嫌いじゃないよ、八神くんのこと」
引き出したマドラーの先を口に入れた。白く細い棒が、薄い唇に挟まれる。
「あ、いけそう」
ようやく飲める味になったらしく、小さく頷きを繰り返し、白く長い指でカップを持ち上げる。
「あそこのテーブルでいい?」
ぱっと顔を向けられ、咄嗟に壁の時計を見上げる。視線を合わせられなかった理由を理解するよりも先に言葉が転がっていく。
「――やっぱ休憩なし」
「なんで?」
「動画とマニュアル、まだ見てないし」
「え、もう八神さん帰って来ちゃうっけ?」
「もう十分休憩しただろ」
「まだ全然飲み終わってないけど?」
「動画見ながら飲めばいいだろ。タブレット取ってくる」
「えっ、ちょっと」と戸惑う声が聞こえたが、振り返ることなく速足で出口に向かう。自動ドアを抜ける寸前「八神くんのカップも運んでおくからね」と日下部の大きな声が背中にあたった。
誰もいない廊下を進みながら、次第に大きくなる鼓動を服の上から押さえる。これは、なんだろう。家の前の階段を上ったあとですら、俺の心臓はわずかにしか弾まないのに。どうしていま、こんなにもうるさく存在を主張するのか。自分の足音だけが響く空間で、日下部の声が再生される。
――俺は嫌いじゃないよ、八神くんのこと。
マドラーをくるくる回す指先、身長は俺よりも低いのに手の大きさは変わらなくて、指が長くて。マドラーの先が唇に挟まれるところまではっきりと思い出せてしまう。見つめている自覚もないまま、目が離せなかった。おかしなのは心臓だけじゃない。じわじわと内側で熱が染みだす。
「目つきが悪い」とか「顔がこわい」とか、言われ慣れた言葉たちには「だからどうした」と開き直れる。自分はそういうものだと受け入れてしまえばいいだけだ。なのに、どうして。
――俺は嫌いじゃないよ、八神くんのこと。
日下部の言葉が何度も頭を回る。胸にじわりと染みだす熱がツン、と鼻の奥を刺激した。



