ベア太郎は妖精です

「――で、こっちが休憩室」
 資料室や編集ブースなどをひととおりまわり、最後にたどりついたのは、中庭へと続く大きな窓が特徴的な部屋だ。床には芝生を模した絨毯が敷かれ、部屋のあちこちに切り株型の椅子や丸太を切った机が置いてある。
「えっ、本物?」
 部屋の中央で伸びる枝に触れ、日下部が驚きの声をあげる。
「ほかにもあれとかこれとか本物がいくつかある」
「マジか。わかんなかった」
「こいつは週二回、あっちは週三回。水の量はこっちが五百ミリリットルで、あれは二百ミリリットル。いまは冬だから少なめで」
「待って、待って、メモするから」
 部屋の見取り図をざっくり書き、植物の位置と水やりの内容を書き加えている。ちゃんと書いてるじゃん、と感心したところで、ここまで教える必要あったっけ? と疑問が掠める。まあ、教え足りないよりはいいだろう。
「週末しかシフト入らないなら、基本的には霧吹きだけだけど」
「えっ」
「なに?」
「……なんでもないです」
 日下部は途中で放り出すことなく、教えたことを全部メモしたらしい。意外と真面目だな。もっと調子のいいテキトー無責任野郎かと思ったのに。ここに来るまでに、メモ帳の四分の一のページを消費している。
「中庭の手入れは必要ないから」
 窓を開け放てば境界がなくなり、完全に中庭と室内が一体化する。緑の澄んだ香りが室内を駆けていく。吸い込んだ空気は冷たいが、すっきりと頭の奥まで冴え渡る。母さんがこだわったベア太郎の森だ。
「休憩室っていうか、森だな」
 不意に触れた声が、鼓膜の奥、懐かしさを引っ張り出す。
 ――ここは会社だけど、ベア太郎のおうちでもあるからね。
 ――おうち?
 ――そう。ここに来ればいつでもベア太郎に会えるの。ね、寂しくないでしょ。
 ――いつでもベア太郎と遊べるってこと?
 ――そう。でも、大切にしないと出てきてくれなくなるから気をつけてね。
 ざざ、と木々が葉を揺らし、薄曇りの空から光が差し込む。
 中庭に置かれた小さなベア太郎が思い思いの場所でくつろいでいた。
 母さんがいなくなっても、ずっと。俺が探さなくなっても、ずっと。
 ベア太郎たちはここにいた。
 当たり前に庭にいるのを知っていた。でも、いつからか「知っていた」だけで「見て」はいなかったのかもしれない。
「すごいな、ここ。自然がいっぱいすぎてびっくりなんだけど」
「――いいだろ」
 言葉がこぼれ落ちる。自然と、なんの引っかかりもなく。
 両手を広げて深呼吸をしていた日下部が、俺を見上げる。
「うん、すっごくいい」
 ぶわりと、風が、吹く。
 庭から部屋に向かって。まだ息を吸っていないのに、胸の奥まで、風が届く。冷たい冬の風ではなく、丸みを帯びた柔らかな春みたいな風が。
「ここで着ぐるみ着たら、マジでベア太郎の世界じゃん」
 光を、見た気がした。
 冬の薄暗さのなかにいるのに、なぜか眩しくて。それが太陽のせいなのか、日下部のせいなのかはわからなくて。だけど、出会ってから初めて、日下部がつくりものではない笑顔を見せたことだけはわかった。
「うわ、風つめたっ。小人のベア太郎探しは今度だな」
「やるつもりだったのかよ」
「当然。あ、こっち窓閉めるな」
 カラカラと境界線にガラスが差し込まれ、行き場を失った風が静かに落ちていく。それなのに、どうしてだろう。俺の胸のなかの風はまだ消えない。ふわふわと落ち着きなく存在を主張してくる。なんだ、これ。
「八神くん?」
 振り返った日下部に、なぜか顔を見られたくなくて天井へと視線を逃がす。背が高くてよかった、といまさらながらに思う。
「……これで案内終わりだけど、休憩する?」
「いいの? 俺、あれやりたい」
 あれ、と日下部が指し示したのは、休憩室の端に置かれたエスプレッソマシンだった。すきに飲んでいいことになっているから問題はないけど。
「お前、コーヒー飲めるの?」
 俺のなかの日下部はコーラを飲んでいるイメージだ。コーヒーはコーヒーでもコーヒー牛乳が似合いそうな。
「全然。でも、あれで飲んだら美味しいかもしれないじゃん」
「コーヒーはコーヒーだぞ」
「そうだけど、わかんないじゃん」
 いや、わかるだろ。全然すきじゃないものが、突然すきに変わることなんてないのだから。
「なんかかっこいいし」
「かっこいいのは関係ないだろ」
 言いたいことはなんとなくわかってしまうけど。休憩中、小さなカップでエスプレッソを飲みながら話しているスタッフさんたちを「いいな」と思ったことなら俺にもある。そもそもエスプレッソマシンなんて高校生が触る機会はあまりないし(少なくとも俺はここでしか触ったことがない)。憧れる気持ちはわかる。
「あ、ほら、まだ案内残ってる。使い方教えてよ」
「お前が使うことはないと思うけど」
「週末に必要ない水やりを教えたのは誰だよ」
「あれはうっかり」
「うっかりだったの? 俺、てっきり意地悪されたのかと思ったんだけど」
 まじかあ、と日下部がコロコロ声を転がす。こんな明るいやつだったっけ? と首を傾げていると「てか、俺、八神くんってもっとこわいやつだと思ってたんだけど」と逆に言われてしまった。
「不真面目なやつ嫌いだから」
「俺のこと? あー、最初に逃げようとしたから?」
 エスプレッソのカプセルひとつひとつの説明が書かれた紙を手渡せば「まあ、そうなるか」と日下部が俺ではなくカプセルへ視線を向ける。
「んー、どれにしようかな。八神くんはどれがおすすめ?」
 なめらかに切り替えられた会話に、あれ、と肩透かしを食らった気がした。いま、もう少し話すところじゃなかった? 俺に不真面目なやつって思われたことを否定しないのだろうか。しないなら、しないで、いいけど。なんか、急に手を引っ込められたみたいな感じで、もやっとする。
 そっと息を吐き出し、
「俺はこれ」
 ベア太郎の赤色に一番近いカプセルを手に取る。
 おすすめと言えるほど飲み比べたことはないし、このカプセルの名前すらわからない。ただ、初めてエスプレッソマシンを置いたときに、母さんが「ベア太郎の色だね」と言っていたから。それだけの理由でずっと選んでいる。美味しいなんて思ったことは一度もないけど。
 ふっと、空気が揺れた気がして視線を向ける。
「じゃあ、俺も同じのにしよ」
 日下部が同じ色を手に取り、俺に向かって笑った。
「ベア太郎色じゃん」と。