「このマニュアル読むのと、このベア太郎の動画見ておいて。帰ってきたらテストするから。なんか聞きたいことあったら晴太郎に聞いてね」
資料を受け取った日下部が立ち尽くしているうちに、父さんを含むスタッフとアルバイトたちはいなくなった。
俺はホワイトボードにすべての予定を書き終えたところで「俺に丸投げかよ」と心のなかで呟く。まあ、当初はそういうつもりじゃなかったと知っているけど。突然の依頼だから仕方ない。俺自身はまだ慣れているからいいけど、可哀想なのは日下部だ。ろくな説明もなく、広々としたオフィスに俺とふたりで取り残されたのだから。
「えっと、これって普通?」
俺を振り返った日下部は、全身から戸惑いを発している。「普通かどうか」というのがこの会社にとっての、という意味ならならままあることではある。さすがに初日からこれはどうかと思うけど。「一般的にどうか?」という意味なら、ここでしか働いたことのない俺には答えられない。――という説明も面倒で答えずにいると、日下部は勝手にしゃべりだした。
「俺、いままで隙間バイトしかしたことなくて。決まった時間だけだから、やることもあらかじめ決まってて、だから」
えっと、と言葉を探す日下部を見つめる。時間を無駄にしてはいけない、というのはわかるらしい。てか、バイトしたことあるんだ。面接の約束すっぽかそうとしていたからないんだと思った。じゃあ、働いたことあるくせに、逃げようとしたってこと? そっちのほうがやばくない? 考えれば考えるほど、ぐぐっと目に力が入る。
「……なんでもないです、すみません」
俺の表情に気づいたらしく、きゅっと肩を縮める。いや、そこまで言ってなんでもないってなんだよ。言いたいことを言うタイプのようで、諦めが早いというか逃げ足が速いというか「逃げ癖」が見えて、イライラする。いっそもう「辞めます」って出ていってくれないだろうか。
ちら、と壁の時計を確認すれば、日下部がやってきて二十分ほどが経っていた。こうしている間も時給は発生している。辞めるなら早く辞めてほしい。秒針がひとまわりするまで待ってみたが「辞めます」も「帰ります」も聞こえない。仕方ない。このままだと俺も時給泥棒だ。
はあ、とため息を落として、初出勤のアルバイトに教えることは――と、この半年働いた記憶をたどる。新人の対応は主に麻生さんが担当していた。今日もいてくれたらよかったのに。掠めた寂しさを飲み込み、いまは俺しかいないのだから、と気合いを入れ直す。どうせ教えるなら、もっとやる気のあるやつがよかったけど、仕方ない。
はあ、ともう一度ため息を落とせば、びくっと日下部の肩が揺れる。ビビらせるつもりはなかったが、同い年だからと侮られるよりはいい。ここでは俺が先輩だし。マニュアルを抱えたままの日下部へ視線を向ける。日下部は完全に油断していたのか、下唇を尖らせていた。
「――不満そうだな」
思わず口にしてしまい、「えっ」と日下部が体ごとこちらを振り返る。
「思っていたのと違った、って顔してる」
「それは、まあ……いきなり放置されるとは思わないし」
「放置って。俺いるし」
「えっ、でも」
「なに? 俺に教わるのが不満ってこと?」
「いや、そうじゃなくて。だって」
そろり、と窺うような視線にイライラする。やっぱりこいつには着ぐるみを着せておくべきでは? 本人の希望でもあったらしいし。そもそも麻生さんの代わりなんてこいつには無理だろう。それなら、こいつじゃなくて、もっといいやつを採用するべきでは? せめて仕事中だけでも表情が取り繕えるような。……ひとのこと言えないけど。
「嫌いでしょ、八神くん。俺のこと」
怒られた子どものような顔で言われ「は?」と反射的に声が飛び出す。
「好きとか嫌いとか、いま関係なくない?」
「でも」
「俺、好き嫌いで仕事しないし」
日下部のことはハッキリ言って嫌いだ。見ていてイライラする。早く辞めてほしいと思う。でも、だからって、仕事の手を抜くなんてしない。テキトーに教えるつもりもない。俺はお前みたいないい加減なやつとは違う。
「マニュアル、そこの机に置いていいから。とりあえずついてきて」
日下部の近くの机を指差し、玄関ホールへ続く扉へと足を進める。えっと、と戸惑う声が一瞬聞こえたが、すぐに足音が追いつく。
「社内案内するから。必要ならメモして」
肩越しに振り返れば、日下部の手元にはすでに小さなメモ帳があった。
「……なに?」
「いや、べつに」
不思議そうな表情を振り切り、ずんずん進む。やる気があるのかないのかよくわかんないやつだな。まあ、格好だけかもしれないけど。
資料を受け取った日下部が立ち尽くしているうちに、父さんを含むスタッフとアルバイトたちはいなくなった。
俺はホワイトボードにすべての予定を書き終えたところで「俺に丸投げかよ」と心のなかで呟く。まあ、当初はそういうつもりじゃなかったと知っているけど。突然の依頼だから仕方ない。俺自身はまだ慣れているからいいけど、可哀想なのは日下部だ。ろくな説明もなく、広々としたオフィスに俺とふたりで取り残されたのだから。
「えっと、これって普通?」
俺を振り返った日下部は、全身から戸惑いを発している。「普通かどうか」というのがこの会社にとっての、という意味ならならままあることではある。さすがに初日からこれはどうかと思うけど。「一般的にどうか?」という意味なら、ここでしか働いたことのない俺には答えられない。――という説明も面倒で答えずにいると、日下部は勝手にしゃべりだした。
「俺、いままで隙間バイトしかしたことなくて。決まった時間だけだから、やることもあらかじめ決まってて、だから」
えっと、と言葉を探す日下部を見つめる。時間を無駄にしてはいけない、というのはわかるらしい。てか、バイトしたことあるんだ。面接の約束すっぽかそうとしていたからないんだと思った。じゃあ、働いたことあるくせに、逃げようとしたってこと? そっちのほうがやばくない? 考えれば考えるほど、ぐぐっと目に力が入る。
「……なんでもないです、すみません」
俺の表情に気づいたらしく、きゅっと肩を縮める。いや、そこまで言ってなんでもないってなんだよ。言いたいことを言うタイプのようで、諦めが早いというか逃げ足が速いというか「逃げ癖」が見えて、イライラする。いっそもう「辞めます」って出ていってくれないだろうか。
ちら、と壁の時計を確認すれば、日下部がやってきて二十分ほどが経っていた。こうしている間も時給は発生している。辞めるなら早く辞めてほしい。秒針がひとまわりするまで待ってみたが「辞めます」も「帰ります」も聞こえない。仕方ない。このままだと俺も時給泥棒だ。
はあ、とため息を落として、初出勤のアルバイトに教えることは――と、この半年働いた記憶をたどる。新人の対応は主に麻生さんが担当していた。今日もいてくれたらよかったのに。掠めた寂しさを飲み込み、いまは俺しかいないのだから、と気合いを入れ直す。どうせ教えるなら、もっとやる気のあるやつがよかったけど、仕方ない。
はあ、ともう一度ため息を落とせば、びくっと日下部の肩が揺れる。ビビらせるつもりはなかったが、同い年だからと侮られるよりはいい。ここでは俺が先輩だし。マニュアルを抱えたままの日下部へ視線を向ける。日下部は完全に油断していたのか、下唇を尖らせていた。
「――不満そうだな」
思わず口にしてしまい、「えっ」と日下部が体ごとこちらを振り返る。
「思っていたのと違った、って顔してる」
「それは、まあ……いきなり放置されるとは思わないし」
「放置って。俺いるし」
「えっ、でも」
「なに? 俺に教わるのが不満ってこと?」
「いや、そうじゃなくて。だって」
そろり、と窺うような視線にイライラする。やっぱりこいつには着ぐるみを着せておくべきでは? 本人の希望でもあったらしいし。そもそも麻生さんの代わりなんてこいつには無理だろう。それなら、こいつじゃなくて、もっといいやつを採用するべきでは? せめて仕事中だけでも表情が取り繕えるような。……ひとのこと言えないけど。
「嫌いでしょ、八神くん。俺のこと」
怒られた子どものような顔で言われ「は?」と反射的に声が飛び出す。
「好きとか嫌いとか、いま関係なくない?」
「でも」
「俺、好き嫌いで仕事しないし」
日下部のことはハッキリ言って嫌いだ。見ていてイライラする。早く辞めてほしいと思う。でも、だからって、仕事の手を抜くなんてしない。テキトーに教えるつもりもない。俺はお前みたいないい加減なやつとは違う。
「マニュアル、そこの机に置いていいから。とりあえずついてきて」
日下部の近くの机を指差し、玄関ホールへ続く扉へと足を進める。えっと、と戸惑う声が一瞬聞こえたが、すぐに足音が追いつく。
「社内案内するから。必要ならメモして」
肩越しに振り返れば、日下部の手元にはすでに小さなメモ帳があった。
「……なに?」
「いや、べつに」
不思議そうな表情を振り切り、ずんずん進む。やる気があるのかないのかよくわかんないやつだな。まあ、格好だけかもしれないけど。



