夕飯のエビフライは少し色が濃くなってしまった。揚げすぎとまではいかないけど、ベストタイミングは過ぎてしまった、そんな感じ。
ザクッといつも以上に衣が存在を主張してくる。そんな微妙な違いなんて、父さんが気にすることはなく、いつもと変わらず「おいしい」と食べ進めている。昼間のことなんてちっとも気にしていない、どころか記憶にも残っていないかのように。俺にとってはまだ消化しきれない、ガサガサとした心地悪さの残る出来事であっても、父さんにとってはその程度のことでしかないのだろう。
自分だけが、いつも、ひとり残されてしまう。
一緒に乗っていたはずなのに、哀しみの海を渡っていたはずなのに。気づけばひとり取り残されている。俺だけがずっと船から降りられない。一体この苦しさはいつまで続くのか。考えたところで答えなんて出ない。海を埋め立てることなんて、母さんが消えた空白を埋めることなんて永遠にできない。……できなくて、いい。
塩辛い海水を飲み込んだあとみたいに、ぎゅっと縮んだ胸が落ち着くのを待って、息を吐き出す。日下部のことが話題に上らないってことは、話すほどのことはなかったということだろう。つまり日下部がアルバイトとして入ってくることはない、そういうことだ。
俺が気にすることはなにもない。今日言われたことなんて忘れてしまえばいい。
箸の先をメインの大皿へと向ける。こんがりした衣の横、レタスの上に載ったタルタルソースはなかなかすきな味付けにできた。エビフライの先で掬い取り、口へと運んでいたとき、父さんが「そういえば」と口を開いた。
「日下部くん、晴太郎のアテンドにするから」
ぼた、と欲張りすぎたタルタルソースがごはんに着地する。ごはんとマヨネーズ系が合わさるのは苦手だ。いつもなら一刻も早く掬い取るところだけど、いまは気にすることさえできない。
「なんで?」
「なんでって、アルバイトとして採用することにしたから」
「いや、だから、なんで採用なんだよ。あいつ明らかに逃げようとしてただろ。間違えたって言ってたし」
「そうそう、晴太郎が教えてくれたから、あのあとちゃんと聞いたんだよ」
建物の外観がどうのこうのという言い訳は父さんのなかでもちゃんと誤魔化しとして認識されていたということだ。それならなぜ? そもそも誤魔化そうとした時点でアウトだろ?
「自分が間違えたのかもしれないと思ったら、こわくなって逃げようとしたって」
「やっぱり逃げたんじゃん。なんでそんなやつ雇うんだよ」
沸き立つ感情ごと噛み砕きたくて、エビフライに齧りつく。バリバリと衣が口のなかで突き刺さっても構わず咀嚼した。
「うん、どんな失敗も逃げるのはよくない。仕事ならなおさら」
「じゃあ、なんで」
「晴太郎と同じ、高校一年生だから」
「は?」
「高校生なんてまだまだ子どもだ。初めからなんでもできるわけない。すべては学んでいる途中だから」
子どもで、できないことが当たり前で、中途半端。父さんのなかでは、まだ、そうなのか。日下部に対する言葉は、そのまま俺へと突き刺さった。
「それに彼が嘘をついたのは一回だけで、そのあとはちゃんと自分から謝ったから」
「それは俺が言ったからだろ」
――べつに。なにも。なんか『間違えた』とは言ってたけど。
俺が言わなかったら、あいつは自分からなにも話さなかったに違いない。
「そう、晴太郎のおかげだ。晴太郎が僕になにも言わなかったら彼もわざわざ言わなかっただろう」
全部わかっていて、その上で決めたってことかよ。しかも結果的に俺はアシストしたことになるのか? 声なんてかけなければよかった。なにも言わずに無視していれば、勝手に逃げ帰ってくれていたのに。
「……仕事中に逃げ出したらどうするんだよ」
「それだけはないようにしないとね」
すべてはこれからだよ、と父さんが小さく微笑む。俺に見せる顔とは違う、期待のこもった表情で。ぐっと奥歯を噛みしめてから、箸を持ち直す。これ以上、父さんと話したくない。
「高校生同士、仲良くしてあげてよ」
「仲良くって小学生じゃないし」
早く食べ終わりたくて、機械的に手を動かす。タルタルソースとごはんが一緒に口に入っても構うことなく食べ進める。聞きたくない。見たくない。自分には与えられないものに気づきたくなんてない。バクバクと味を感じ取らないまま、食事を終わらせることだけに集中する。「ゆっくり食べなさい」と注意する母さんはここにいない。
父さんは自分のペースを保ったまま「そうそう」と話を続ける。
「日下部くん、着ぐるみ希望でさ『着ぐるみの仕事じゃないなら辞退します』って言われちゃったんだけど」
「は? それなのに引き留めたの? こっちから?」
「そういうはっきり言うのがいいじゃない」
「よくないだろ」
ひと呼吸の間もなく言い返せば、お味噌汁へと向かっていた視線が俺の顔で止まる。俺もまっすぐ視線を受け止める。
「だって、それって、やりたくない仕事はやりません、ってことだろ。俺はそんなワガママなやつと働きたくない」
やっぱりちっとも納得いかない。だってもしアテンド中だったら? それはやりたくない、ですまされない。今度こそ本当に逃げ出したら? 事故だってあり得るんだぞ。それこそ、この前のニコニャンのように。父さんがそこまで考えていないなんてことは絶対ないだろうけど、でも、俺はそんなやつにアテンドなんてされたくない。
「俺のアテンドは麻生さんがいてくれればそれで」
「それこそ晴太郎のワガママだよ」
すっと一度静かに傾けたお椀をテーブルに戻し、父さんが箸を置いた。寝そべっているベア太郎の箸置きがしっかり受け止めている。
「麻生くんは来年四年生になるから、いまみたいにシフトに入るのは難しくなる。晴太郎のことばかり構っていられないんだよ」
「それは」
「晴太郎にとっては仕事の先輩っていうよりお兄さんって感じだから寂しいと思うけど。でも、晴太郎は自分が望んだひと以外とはやりたくない、なんてワガママ言わないよね」
自分が放った言葉で返され、口をつぐむことしかできない。麻生さんとやりたい、というのはたしかに俺のワガママだ。麻生さんも俺もアルバイトでしかないのだから、社長である父さんの意向に反対はできない。それは、わかる。わかるのだけど。
――そういうはっきり言うのがいいじゃない。
日下部のワガママにはそう言ったのに。どうして俺の場合は違うのだろう。日下部も辞めさせてもらえなかったのだから、希望を聞いてもらったわけではない。結果としてはどちらのワガママも通ってはいない。だけど、俺のは嗜められて、日下部のは「いい」と言われる。その差はなんだよ。
贔屓してほしいわけじゃない。息子だからって特別扱いされるなんて絶対に嫌だ。だけど、どうしても、うまく飲み込めない。尖った衣が胸に引っかかる。
「それに、彼とってもいい顔してるでしょ」
「顔?」
「着ぐるみで隠しちゃ勿体ないよね。ベア太郎と一緒に動画撮るのもいいと思うんだよね」
怒りが先行して忘れていたが、たしかに日下部の顔は整っていた。身長はそれほど高くないし、肩幅も広くなく、威圧感とは無縁。アテンドとして表に出したほうが集客力は上がるだろう。ベア太郎も日下部も、父さんにとってはただの商品にすぎない。使えるものは使う、ただそれだけのこと。「ベア太郎はこの先もっと売れるようになる」と笑顔で語っていた頃からなにも変わってはいない。
「日下部くんには来週から来てもらうことになったから、よろしくね」
再び箸を持ち上げた父さんは、食事を再開する。最初から俺の返事なんて必要ないとばかりに。俺の言葉はワガママでしかないから。だからこれは相談でも、家族の会話でもない。ただの報告であり、確認。それだけだ。俺が作ったごはんに毎回ただ「おいしい」と言うのと変わらない。
ここは父さんにとって家なのか会社なのか、どちらなのだろう。ふたりでごはんを食べていても、俺にはわからない。少なくとも俺にはもう「お城」だなんて思えなかった。
ザクッといつも以上に衣が存在を主張してくる。そんな微妙な違いなんて、父さんが気にすることはなく、いつもと変わらず「おいしい」と食べ進めている。昼間のことなんてちっとも気にしていない、どころか記憶にも残っていないかのように。俺にとってはまだ消化しきれない、ガサガサとした心地悪さの残る出来事であっても、父さんにとってはその程度のことでしかないのだろう。
自分だけが、いつも、ひとり残されてしまう。
一緒に乗っていたはずなのに、哀しみの海を渡っていたはずなのに。気づけばひとり取り残されている。俺だけがずっと船から降りられない。一体この苦しさはいつまで続くのか。考えたところで答えなんて出ない。海を埋め立てることなんて、母さんが消えた空白を埋めることなんて永遠にできない。……できなくて、いい。
塩辛い海水を飲み込んだあとみたいに、ぎゅっと縮んだ胸が落ち着くのを待って、息を吐き出す。日下部のことが話題に上らないってことは、話すほどのことはなかったということだろう。つまり日下部がアルバイトとして入ってくることはない、そういうことだ。
俺が気にすることはなにもない。今日言われたことなんて忘れてしまえばいい。
箸の先をメインの大皿へと向ける。こんがりした衣の横、レタスの上に載ったタルタルソースはなかなかすきな味付けにできた。エビフライの先で掬い取り、口へと運んでいたとき、父さんが「そういえば」と口を開いた。
「日下部くん、晴太郎のアテンドにするから」
ぼた、と欲張りすぎたタルタルソースがごはんに着地する。ごはんとマヨネーズ系が合わさるのは苦手だ。いつもなら一刻も早く掬い取るところだけど、いまは気にすることさえできない。
「なんで?」
「なんでって、アルバイトとして採用することにしたから」
「いや、だから、なんで採用なんだよ。あいつ明らかに逃げようとしてただろ。間違えたって言ってたし」
「そうそう、晴太郎が教えてくれたから、あのあとちゃんと聞いたんだよ」
建物の外観がどうのこうのという言い訳は父さんのなかでもちゃんと誤魔化しとして認識されていたということだ。それならなぜ? そもそも誤魔化そうとした時点でアウトだろ?
「自分が間違えたのかもしれないと思ったら、こわくなって逃げようとしたって」
「やっぱり逃げたんじゃん。なんでそんなやつ雇うんだよ」
沸き立つ感情ごと噛み砕きたくて、エビフライに齧りつく。バリバリと衣が口のなかで突き刺さっても構わず咀嚼した。
「うん、どんな失敗も逃げるのはよくない。仕事ならなおさら」
「じゃあ、なんで」
「晴太郎と同じ、高校一年生だから」
「は?」
「高校生なんてまだまだ子どもだ。初めからなんでもできるわけない。すべては学んでいる途中だから」
子どもで、できないことが当たり前で、中途半端。父さんのなかでは、まだ、そうなのか。日下部に対する言葉は、そのまま俺へと突き刺さった。
「それに彼が嘘をついたのは一回だけで、そのあとはちゃんと自分から謝ったから」
「それは俺が言ったからだろ」
――べつに。なにも。なんか『間違えた』とは言ってたけど。
俺が言わなかったら、あいつは自分からなにも話さなかったに違いない。
「そう、晴太郎のおかげだ。晴太郎が僕になにも言わなかったら彼もわざわざ言わなかっただろう」
全部わかっていて、その上で決めたってことかよ。しかも結果的に俺はアシストしたことになるのか? 声なんてかけなければよかった。なにも言わずに無視していれば、勝手に逃げ帰ってくれていたのに。
「……仕事中に逃げ出したらどうするんだよ」
「それだけはないようにしないとね」
すべてはこれからだよ、と父さんが小さく微笑む。俺に見せる顔とは違う、期待のこもった表情で。ぐっと奥歯を噛みしめてから、箸を持ち直す。これ以上、父さんと話したくない。
「高校生同士、仲良くしてあげてよ」
「仲良くって小学生じゃないし」
早く食べ終わりたくて、機械的に手を動かす。タルタルソースとごはんが一緒に口に入っても構うことなく食べ進める。聞きたくない。見たくない。自分には与えられないものに気づきたくなんてない。バクバクと味を感じ取らないまま、食事を終わらせることだけに集中する。「ゆっくり食べなさい」と注意する母さんはここにいない。
父さんは自分のペースを保ったまま「そうそう」と話を続ける。
「日下部くん、着ぐるみ希望でさ『着ぐるみの仕事じゃないなら辞退します』って言われちゃったんだけど」
「は? それなのに引き留めたの? こっちから?」
「そういうはっきり言うのがいいじゃない」
「よくないだろ」
ひと呼吸の間もなく言い返せば、お味噌汁へと向かっていた視線が俺の顔で止まる。俺もまっすぐ視線を受け止める。
「だって、それって、やりたくない仕事はやりません、ってことだろ。俺はそんなワガママなやつと働きたくない」
やっぱりちっとも納得いかない。だってもしアテンド中だったら? それはやりたくない、ですまされない。今度こそ本当に逃げ出したら? 事故だってあり得るんだぞ。それこそ、この前のニコニャンのように。父さんがそこまで考えていないなんてことは絶対ないだろうけど、でも、俺はそんなやつにアテンドなんてされたくない。
「俺のアテンドは麻生さんがいてくれればそれで」
「それこそ晴太郎のワガママだよ」
すっと一度静かに傾けたお椀をテーブルに戻し、父さんが箸を置いた。寝そべっているベア太郎の箸置きがしっかり受け止めている。
「麻生くんは来年四年生になるから、いまみたいにシフトに入るのは難しくなる。晴太郎のことばかり構っていられないんだよ」
「それは」
「晴太郎にとっては仕事の先輩っていうよりお兄さんって感じだから寂しいと思うけど。でも、晴太郎は自分が望んだひと以外とはやりたくない、なんてワガママ言わないよね」
自分が放った言葉で返され、口をつぐむことしかできない。麻生さんとやりたい、というのはたしかに俺のワガママだ。麻生さんも俺もアルバイトでしかないのだから、社長である父さんの意向に反対はできない。それは、わかる。わかるのだけど。
――そういうはっきり言うのがいいじゃない。
日下部のワガママにはそう言ったのに。どうして俺の場合は違うのだろう。日下部も辞めさせてもらえなかったのだから、希望を聞いてもらったわけではない。結果としてはどちらのワガママも通ってはいない。だけど、俺のは嗜められて、日下部のは「いい」と言われる。その差はなんだよ。
贔屓してほしいわけじゃない。息子だからって特別扱いされるなんて絶対に嫌だ。だけど、どうしても、うまく飲み込めない。尖った衣が胸に引っかかる。
「それに、彼とってもいい顔してるでしょ」
「顔?」
「着ぐるみで隠しちゃ勿体ないよね。ベア太郎と一緒に動画撮るのもいいと思うんだよね」
怒りが先行して忘れていたが、たしかに日下部の顔は整っていた。身長はそれほど高くないし、肩幅も広くなく、威圧感とは無縁。アテンドとして表に出したほうが集客力は上がるだろう。ベア太郎も日下部も、父さんにとってはただの商品にすぎない。使えるものは使う、ただそれだけのこと。「ベア太郎はこの先もっと売れるようになる」と笑顔で語っていた頃からなにも変わってはいない。
「日下部くんには来週から来てもらうことになったから、よろしくね」
再び箸を持ち上げた父さんは、食事を再開する。最初から俺の返事なんて必要ないとばかりに。俺の言葉はワガママでしかないから。だからこれは相談でも、家族の会話でもない。ただの報告であり、確認。それだけだ。俺が作ったごはんに毎回ただ「おいしい」と言うのと変わらない。
ここは父さんにとって家なのか会社なのか、どちらなのだろう。ふたりでごはんを食べていても、俺にはわからない。少なくとも俺にはもう「お城」だなんて思えなかった。



