ドアを開くと、父さんと日下部はまだ玄関ホールにいた。大人三人は寝られるほどのスペースの正面、来訪者の目に入る位置に置かれているガラスの棚から目を逸らす。なかにはベア太郎が誕生してからいままでの絵本やグッズなどが飾られている。母さんが亡くなったあとに、父さんが設置したものだ。
「ベア太郎の歴史ですね」
「そう、ベア太郎の歴史が会社の歴史そのものだからね」
「そういえば、さっき出迎えてくれたベア太郎って」
「うちのスタッフだよ」
「会社のなかでも着ることあるんですね」
お互いどう思っているのかはわからないが、表面的には和やかな会話が続いている。まさかこのまま合格させないよな。ちら、と父さんへ視線を向けるが、父さんの顔には日下部のぺらぺらの笑顔なんて比べものにならないほどしっかりした厚みの仕事用笑顔が貼り付いている。俺が心配するまでもないな。日下部はきっと落ちるだろう。責任感のないやつが、まともな仕事なんてできるはずない。
今日はシフトも入っていないから、これ以上俺が関わる必要はない。このまま二階に上がってしまおう、と日下部の横を通り抜けようとした、そのとき。
「日下部くんはベア太郎がなにか知ってる?」
「妖精、ですよね」
不意に耳に届いた言葉に、足が止まった。
へえ、知ってるんだ。自信はなさそうな声だけど。
「そう。ベア太郎は妖精だから、複数同時に存在できるんだよ。さっきの三人もそういうこと」
妖精って便利だよな。母さんがこんな使い方を想定していたとは思えないけど。父さんは本当にうまく使っている。
「じゃあ、ベア太郎ってほかにもいるんですか?」
「もちろん。後ろの晴太郎も、ベア太郎のひとりだよ」
父さんの言葉に、日下部が俺を振り返る。「ほんとに?」と驚きの混ざった表情で。ベア太郎のなかが俺だとおかしいとでも言いたいのだろうか。ち、としかけた舌打ちを「なんだよ」と咄嗟に言葉に変える。父さんに聞かれるのはまずい。「晴太郎はしばらくベア太郎に入らなくていい」と言われかねない。
じっと見上げる目には、先ほどまであった怯えは見えない。ただ純粋に見定められている、そんな気がした。
「……違うな」
「は?」
「ベア太郎はもっと優しくて親切でヒーローみたいだったから。こんなふうに初対面で睨んでくるようなひとじゃないはず」
日下部がぶつぶつとつぶやきながら首を振る。そりゃベア太郎は睨んだりしないけど。困っているひとを放っておけない、お人好しがすぎる、心優しい妖精だけど。俺とは似ても似つかないって知ってるけど。でも、お前には言われたくない。こんな、調子がいいだけの、出会ったばかりのやつに。お前がベア太郎のなにを、俺のなにを知ってるって言うんだよ。
「お前なあ」
「晴太郎」
ピン、とまっすぐ張られた糸――決して大きくはないが、動きを止めずにいられない声に止められる。
「日下部くんはまだ『お客さま』だよ」
メガネ越しに細められた目は弧を描いているが、心のなかは笑っていない。目の前にいるのは、父さんではなくベアベアドリームの社長だった。
「――すみませんでした」
ぐっと唇を噛みしめ、頭を下げる。日下部が驚いたように体を揺らしたが、構わず横を過ぎる。左のオフィスではなく、右のプライベートと表示されたドアを開き、二階へ続く階段を上る。「なんだよ」と決してドアの向こうには聞こえない声で呟きながら。
どうして俺だけが怒られなきゃいけないのだろう。日下部は客だから、相応しい態度をとれっていうのはわかるけど、でも。ベア太郎に俺が入ることを許したのは父さんなのに。父さんは俺がどれだけベア太郎に思い入れがあるかわかっているはずなのに。それなのに、あいつは俺がベア太郎に相応しくないって言ったのも同然で。だから。
足音を立てたい衝動を我慢して、息を止めて階段を踏む。その間も「でも」「だから」と冷静に理解する頭とムカムカと沸き立つ心は反発を繰り返していた。
だって、ベア太郎は俺のために、俺だけのために母さんが作ってくれた存在だから。
「……なんだよ」
いつもならここまで波立たないのに。今日に限ってやけにムカムカするのは、胸の奥に吹いた小さな風のせいだろうか。



