駅から徒歩十五分、と聞けば「近くはないけど歩ける範囲」だと思う。実際、家から駅に向かうときは十分ちょいくらいで着けてしまう。自転車を使えばもっと早い。だけど、と改めてバスロータリーを抜け、自宅へと続く道を見上げる。すれ違った女子二人組が「登山する?」「そうだね、登山で」と軽快に言葉を交わして、横を過ぎていく。坂の先にある大学に通う学生たちだろう。駅から学校まで徒歩で行くことを「登山」と呼んでいるらしい。
「うまいこと言うわ」
吐き出した白い息を置き去りに、足を進める。
一軒家が並ぶ閑静な住宅街には平坦な道がない。住宅は坂道に沿って建てられていて、車庫が完備されている。住人の移動手段は車が基本だ。
坂道が途切れたところで、マウンテンパーカーのファスナーを下げる。首元を撫でる風が心地いい。「寒い」ではなく「涼しい」と思えるほど、体は温まっていた。息切れすらしない。それほど馴染んでしまった。着ぐるみに入っても動き回れるほど体力がついたのは、この坂道のおかげだろう。
そっと息を吐き出し、目の前の階段を見上げる。神社の石段と間違われるほど急だが、この先にあるのは鳥居ではなくレンガ造りの塀であり、社殿ではなく三角屋根と煙突が特徴的な建物だ。最近では、メルヘンチックな外観から勝手に映えスポットにもされている。宣伝になるから、と父さんは放置しているけど、俺としては邪魔なので追い払いたい。
一段飛ばしで上れば、リュックが背中で弾む。もともと荷物は少ないほうだが、土曜日の授業は午前で終わってしまうので、いつも以上に少なかった。筆記用具だけポケットに入れていけばよかったのではと思うほどだ。さすがに怒られそうだからやらないけど。
靴裏が最後の段を踏みしめたところで、くるりと体を半回転させる。駅までどころかもっと先まで景色は広がっていた。
――ね、いい場所でしょう。
初めてここに立ったときの記憶が、懐かしい声とともに蘇る。
――ここにお城ができるんだよ。
――お城?
――そう、パパとママと晴太郎と、ベア太郎のお城。みんなの幸せの家ってこと!
静かに息を吸い込み、振り返る。
母がお城と呼んだ場所、その門の前に見慣れぬ人影があった。黒のダウンジャケットに黒のキャップ――後ろ姿だけで自分と年が変わらないくらいだとわかる。わざわざ坂道と階段を上ってきたということは迷子ではないだろう。知ってるやつだろうか? そっと近づきながら記憶を探るが、俺自身に覚えはない。スマートフォンを構える気配もないから映えスポットに吸い寄せられたわけでもなさそうだ。となると、用があるのは会社のほうか。
インターホンを押した気配はなかった。目の前まで来たものの、どうしようかと躊躇っているように見える。ここまで来て? 客じゃないのだろうか? もしやマジの不審者か?
ぎゅっと目を凝らし、見極めようと近づく。あと一歩で捕まえられるほどの距離だったが、相手はちっとも気づかない。「こんな初っ端から失敗したら終わりじゃない? もうここで逃げてしまったほうがよくない?」とぶつぶつ呟いている。なんだ? どういう意味だ? 白昼堂々の泥棒? まさかな。さらに一歩近づくのと、「うん、逃げよう」と相手が足を引くのが重なった。
どん、と軽い衝撃が胸に響き「へ?」と振り返った顔が驚きを広げて見上げてくる。幅の広い二重に、すっと通った鼻筋、小さく開いた薄い唇……無駄に整った顔だな。とはいえ、客か不審者かは、顔の良さでは判断できない。
「うちになにか用ですか?」
びくっとダウンジャケットで覆われた肩が跳ねる。
「いや、俺は」
表情は驚きから怯えに変わった。もはや見慣れた反応である。客だったらまずいだろうが、不審者の線も捨てきれないのでぐっと眉間に力を入れる。俺は普段から「目つきが悪い」と評され、着ぐるみを着ていなければ、誰も近寄らないような顔だ。効果はあるだろう。身長もこちらのほうが十センチほど上回っているし。
「その……」
ぼそぼそと口を動かしてはいるが、はっきりと言葉は続かず、視線は俺の顔から逃げていく。戸惑うように彷徨わせたあと、俺の首元で止まった。マウンテンパーカーのファスナーを下げたままだったので、ネクタイの結び目あたりだろうか。俺が高校生だとわかって、戸惑っている? それともこれなら反撃に出られると思っている? どういう反応がくるかわからず身構えれば、
「すみません、間違えちゃったみたいです」
へらへらと薄っぺらい笑顔が返ってきた。教室でよく見る、凧みたいな表情だ。風向きによってあっさりと方向を変え、常に自分が不利にならないようにする、調子のいい、そういうやつの顔。俺が一番嫌いなタイプ。
「間違えたって、どういう意味?」
じっと見つめれば、貼り付けられた笑顔が戸惑いを帯びていく。
「いや、だから、俺はここに来るべきじゃなかったっていうか……だから、とりあえず、そこどいてほし」
「いたいた! 日下部くんだよね?」
ガランガラン、と激しいドアベルの音が声を遮った。門の向こう、開け放たれた扉から父さんの大きな声が飛んでくる。
「さっき電話した八神です。いやあ、ごめんね。面接一時半からだったみたい。僕、一時だと勘違いしててさ。びっくりしちゃったよね。目の前にいるって言うから入ってきたら言おうと思ったんだけど、なかなか入って来ないからさあ」
息継ぎなくずんずん歩いてくると、あっという間に門扉の前までやってきた。
日下部、というのが彼の名前らしい。父さんと約束があるってことは不審者ではないのだろう。でも、こいつ、さっきまで逃げようとしていたよな? 面接すっぽかすつもりだったのか? 疑問が不信とともに芽を出す。父さんの言い方から察するに、自分が面接時間を勘違いしたと思って逃げようとしたってとこだろうか。無責任すぎでは?
「で、ちょうど時間になったんだけど――なにかあった?」
父さんが俺へと視線を移す。日下部と呼ばれた彼も俺を見上げる。なにを言われるのか不安そうな表情で。そんな表情をされても、俺には庇う義理なんてないし、父さんに嘘や誤魔化しは通じない。俺は自分が見聞きしたことを伝えるだけだ。
「晴太郎?」
「べつに。なにも。なんか『間違えた』とは言ってたけど」
「間違えた?」
父さんの視線が日下部へと戻る。俺を見上げていた顔からは「なんでそんなことを言うのか」という非難を感じたが、俺はなにも悪くないので無視する。
日下部は再びへらへらの笑顔を貼り付け、父さんに向き直った。
「えーっと、その、もっと会社っぽい感じを想像していたので、戸惑っちゃって」
それっぽい言い訳だけど、吹けば一瞬で飛んでしまいそうな表情では信憑性がない。信頼度ゼロ。調子がいいだけのやつにしか見えない。そんなことは俺に言われるまでもなく、父さんも思っているだろう。それなのに。
「ああ、普通の家みたいって? よく言われる。まあ、入ってよ」
父さんは門扉を開き、なかへと促した。いやいや、もうこの時点で追い払ってよくない? こんな無責任そうなやつ、門前払いにすべきだろう。約束は約束だから面接しないといけないってことか? たぶんアルバイトだよな。絶対、一緒に働きたくないんだけど。
ち、とこっそり舌打ちをすると、不意に「すご……」とつぶやく声が耳に届いた。
日下部は、先を歩く父さんではなく、敷石の左右に広がる庭を見渡していた。レンガ造りの塀の内側、建物との間は十分にスペースがとられ、冬でも緑の香りがする。地面は黄緑色の芝生で覆われ、丸く刈り込まれた低木がぽつぽつとバランスよく配置されている。塀に沿って並ぶ木々は葉を落としているものと茂らせているものが交互に並び、花壇には蕾こそまだついていないが、春を待つ花が植えられていた。
母さんがいなくなっても、庭の美しさは変わらない。そして木々の下や、花壇のそばから覗く置物もそのままだ。
「もしかして、あそこにいるのベア太郎?」
つぶやきとともに、日下部が足を止めた。
それは、と俺が声を出すより早く
「そう! 気づいてくれた? 小人の格好をしたベア太郎だよ。全部で二十人はいるんだ。今度探してみるといいよ」
父さんが声を弾ませながら振り返る。日下部は父さんの勢いに戸惑いを隠しきれず「そう、なんですね」と困ったように眉を下げている。
まあ、そうなるよな。小さな子どもならまだしも、男子高校生に「今度探してみるといい」はないよな。お宝ならまだしも、小人に扮したベア太郎の置物だぞ。見つけたところで景品が出るわけでもない。
俺だって楽しめたのは、小学生までだ。
それも母さんが定期的に配置を変えてくれたからで、レインボーの服を着たベア太郎を見つけたらおやつがちょっとだけ豪華になったからで、母さんと父さんが一緒に笑ってくれたから。当時の俺にとって、ここは「お城」であり、絵本のなかのようにあたたかな場所だったから。
「なんていうか、絵本のなかみたいでいいですね」
ふわりと、冬にしては珍しい柔らかな風が吹いた気がした。
思わず風上――日下部へと顔を向ける。
「冬なのにここだけ春みたいで」
その場その場に合わせて調子よく放り投げる小石みたいな言葉ではなかった。戸惑いも誤魔化しもない、なんの飾りもない言葉に、きゅっと胸の一部がつねられる。それはひさしく忘れていた感覚だった。
――すごいだろ。
――うちの自慢の庭なんだ。
そんなことを口にしていた日々が、確かにあったのに。思い出すことさえしなくなっていたと気づく。
さあ、と風が木々を撫で、冷たい温度を肌に残していく。懐かしさはわずかな痛みだけを置いて攫われた。
「わかる? わかっちゃった? いやあ、嬉しいなあ。早くなかも見てもらわないとなあ」
父さんの声は変わらず弾んでいたけど、俺は庭ではなく門へと顔を向ける。自分がいまどんな表情をしているのかわからなかった。
こちらを振り返る気配を感じたが、すぐにふたつの足音は遠ざかる。控えめにドアベルが鳴り、ドアの向こうに気配が消えたところで、大きく息を吐きだす。
この二年――母さんが亡くなってから触れずにいた胸の奥へ、小さな風が吹いた気がした。
「うまいこと言うわ」
吐き出した白い息を置き去りに、足を進める。
一軒家が並ぶ閑静な住宅街には平坦な道がない。住宅は坂道に沿って建てられていて、車庫が完備されている。住人の移動手段は車が基本だ。
坂道が途切れたところで、マウンテンパーカーのファスナーを下げる。首元を撫でる風が心地いい。「寒い」ではなく「涼しい」と思えるほど、体は温まっていた。息切れすらしない。それほど馴染んでしまった。着ぐるみに入っても動き回れるほど体力がついたのは、この坂道のおかげだろう。
そっと息を吐き出し、目の前の階段を見上げる。神社の石段と間違われるほど急だが、この先にあるのは鳥居ではなくレンガ造りの塀であり、社殿ではなく三角屋根と煙突が特徴的な建物だ。最近では、メルヘンチックな外観から勝手に映えスポットにもされている。宣伝になるから、と父さんは放置しているけど、俺としては邪魔なので追い払いたい。
一段飛ばしで上れば、リュックが背中で弾む。もともと荷物は少ないほうだが、土曜日の授業は午前で終わってしまうので、いつも以上に少なかった。筆記用具だけポケットに入れていけばよかったのではと思うほどだ。さすがに怒られそうだからやらないけど。
靴裏が最後の段を踏みしめたところで、くるりと体を半回転させる。駅までどころかもっと先まで景色は広がっていた。
――ね、いい場所でしょう。
初めてここに立ったときの記憶が、懐かしい声とともに蘇る。
――ここにお城ができるんだよ。
――お城?
――そう、パパとママと晴太郎と、ベア太郎のお城。みんなの幸せの家ってこと!
静かに息を吸い込み、振り返る。
母がお城と呼んだ場所、その門の前に見慣れぬ人影があった。黒のダウンジャケットに黒のキャップ――後ろ姿だけで自分と年が変わらないくらいだとわかる。わざわざ坂道と階段を上ってきたということは迷子ではないだろう。知ってるやつだろうか? そっと近づきながら記憶を探るが、俺自身に覚えはない。スマートフォンを構える気配もないから映えスポットに吸い寄せられたわけでもなさそうだ。となると、用があるのは会社のほうか。
インターホンを押した気配はなかった。目の前まで来たものの、どうしようかと躊躇っているように見える。ここまで来て? 客じゃないのだろうか? もしやマジの不審者か?
ぎゅっと目を凝らし、見極めようと近づく。あと一歩で捕まえられるほどの距離だったが、相手はちっとも気づかない。「こんな初っ端から失敗したら終わりじゃない? もうここで逃げてしまったほうがよくない?」とぶつぶつ呟いている。なんだ? どういう意味だ? 白昼堂々の泥棒? まさかな。さらに一歩近づくのと、「うん、逃げよう」と相手が足を引くのが重なった。
どん、と軽い衝撃が胸に響き「へ?」と振り返った顔が驚きを広げて見上げてくる。幅の広い二重に、すっと通った鼻筋、小さく開いた薄い唇……無駄に整った顔だな。とはいえ、客か不審者かは、顔の良さでは判断できない。
「うちになにか用ですか?」
びくっとダウンジャケットで覆われた肩が跳ねる。
「いや、俺は」
表情は驚きから怯えに変わった。もはや見慣れた反応である。客だったらまずいだろうが、不審者の線も捨てきれないのでぐっと眉間に力を入れる。俺は普段から「目つきが悪い」と評され、着ぐるみを着ていなければ、誰も近寄らないような顔だ。効果はあるだろう。身長もこちらのほうが十センチほど上回っているし。
「その……」
ぼそぼそと口を動かしてはいるが、はっきりと言葉は続かず、視線は俺の顔から逃げていく。戸惑うように彷徨わせたあと、俺の首元で止まった。マウンテンパーカーのファスナーを下げたままだったので、ネクタイの結び目あたりだろうか。俺が高校生だとわかって、戸惑っている? それともこれなら反撃に出られると思っている? どういう反応がくるかわからず身構えれば、
「すみません、間違えちゃったみたいです」
へらへらと薄っぺらい笑顔が返ってきた。教室でよく見る、凧みたいな表情だ。風向きによってあっさりと方向を変え、常に自分が不利にならないようにする、調子のいい、そういうやつの顔。俺が一番嫌いなタイプ。
「間違えたって、どういう意味?」
じっと見つめれば、貼り付けられた笑顔が戸惑いを帯びていく。
「いや、だから、俺はここに来るべきじゃなかったっていうか……だから、とりあえず、そこどいてほし」
「いたいた! 日下部くんだよね?」
ガランガラン、と激しいドアベルの音が声を遮った。門の向こう、開け放たれた扉から父さんの大きな声が飛んでくる。
「さっき電話した八神です。いやあ、ごめんね。面接一時半からだったみたい。僕、一時だと勘違いしててさ。びっくりしちゃったよね。目の前にいるって言うから入ってきたら言おうと思ったんだけど、なかなか入って来ないからさあ」
息継ぎなくずんずん歩いてくると、あっという間に門扉の前までやってきた。
日下部、というのが彼の名前らしい。父さんと約束があるってことは不審者ではないのだろう。でも、こいつ、さっきまで逃げようとしていたよな? 面接すっぽかすつもりだったのか? 疑問が不信とともに芽を出す。父さんの言い方から察するに、自分が面接時間を勘違いしたと思って逃げようとしたってとこだろうか。無責任すぎでは?
「で、ちょうど時間になったんだけど――なにかあった?」
父さんが俺へと視線を移す。日下部と呼ばれた彼も俺を見上げる。なにを言われるのか不安そうな表情で。そんな表情をされても、俺には庇う義理なんてないし、父さんに嘘や誤魔化しは通じない。俺は自分が見聞きしたことを伝えるだけだ。
「晴太郎?」
「べつに。なにも。なんか『間違えた』とは言ってたけど」
「間違えた?」
父さんの視線が日下部へと戻る。俺を見上げていた顔からは「なんでそんなことを言うのか」という非難を感じたが、俺はなにも悪くないので無視する。
日下部は再びへらへらの笑顔を貼り付け、父さんに向き直った。
「えーっと、その、もっと会社っぽい感じを想像していたので、戸惑っちゃって」
それっぽい言い訳だけど、吹けば一瞬で飛んでしまいそうな表情では信憑性がない。信頼度ゼロ。調子がいいだけのやつにしか見えない。そんなことは俺に言われるまでもなく、父さんも思っているだろう。それなのに。
「ああ、普通の家みたいって? よく言われる。まあ、入ってよ」
父さんは門扉を開き、なかへと促した。いやいや、もうこの時点で追い払ってよくない? こんな無責任そうなやつ、門前払いにすべきだろう。約束は約束だから面接しないといけないってことか? たぶんアルバイトだよな。絶対、一緒に働きたくないんだけど。
ち、とこっそり舌打ちをすると、不意に「すご……」とつぶやく声が耳に届いた。
日下部は、先を歩く父さんではなく、敷石の左右に広がる庭を見渡していた。レンガ造りの塀の内側、建物との間は十分にスペースがとられ、冬でも緑の香りがする。地面は黄緑色の芝生で覆われ、丸く刈り込まれた低木がぽつぽつとバランスよく配置されている。塀に沿って並ぶ木々は葉を落としているものと茂らせているものが交互に並び、花壇には蕾こそまだついていないが、春を待つ花が植えられていた。
母さんがいなくなっても、庭の美しさは変わらない。そして木々の下や、花壇のそばから覗く置物もそのままだ。
「もしかして、あそこにいるのベア太郎?」
つぶやきとともに、日下部が足を止めた。
それは、と俺が声を出すより早く
「そう! 気づいてくれた? 小人の格好をしたベア太郎だよ。全部で二十人はいるんだ。今度探してみるといいよ」
父さんが声を弾ませながら振り返る。日下部は父さんの勢いに戸惑いを隠しきれず「そう、なんですね」と困ったように眉を下げている。
まあ、そうなるよな。小さな子どもならまだしも、男子高校生に「今度探してみるといい」はないよな。お宝ならまだしも、小人に扮したベア太郎の置物だぞ。見つけたところで景品が出るわけでもない。
俺だって楽しめたのは、小学生までだ。
それも母さんが定期的に配置を変えてくれたからで、レインボーの服を着たベア太郎を見つけたらおやつがちょっとだけ豪華になったからで、母さんと父さんが一緒に笑ってくれたから。当時の俺にとって、ここは「お城」であり、絵本のなかのようにあたたかな場所だったから。
「なんていうか、絵本のなかみたいでいいですね」
ふわりと、冬にしては珍しい柔らかな風が吹いた気がした。
思わず風上――日下部へと顔を向ける。
「冬なのにここだけ春みたいで」
その場その場に合わせて調子よく放り投げる小石みたいな言葉ではなかった。戸惑いも誤魔化しもない、なんの飾りもない言葉に、きゅっと胸の一部がつねられる。それはひさしく忘れていた感覚だった。
――すごいだろ。
――うちの自慢の庭なんだ。
そんなことを口にしていた日々が、確かにあったのに。思い出すことさえしなくなっていたと気づく。
さあ、と風が木々を撫で、冷たい温度を肌に残していく。懐かしさはわずかな痛みだけを置いて攫われた。
「わかる? わかっちゃった? いやあ、嬉しいなあ。早くなかも見てもらわないとなあ」
父さんの声は変わらず弾んでいたけど、俺は庭ではなく門へと顔を向ける。自分がいまどんな表情をしているのかわからなかった。
こちらを振り返る気配を感じたが、すぐにふたつの足音は遠ざかる。控えめにドアベルが鳴り、ドアの向こうに気配が消えたところで、大きく息を吐きだす。
この二年――母さんが亡くなってから触れずにいた胸の奥へ、小さな風が吹いた気がした。



