結果的に、俺は麻生さんと鉢合わせにはならなかった。父さんが麻生さんに連絡している間に、控室前の廊下で日下部に会えたから。
ただ、問題がひとつ――。
「あー、すごい緊張してきた。静は? もう緊張なんてしない?」
「……」
日下部は俺と麻生さんが入れ替わったことに気づいていなかった。説明したいが、ベア太郎になった俺は控室以外で話すことを禁止されている。たとえ従業員しか通らない廊下であっても、ベア太郎の中身を意識させてはいけない。
せっかく最初のステージに間に合ったのに。日下部との初仕事なのに。終わるまで伝えられないなんて。父さんとちゃんと話せたことを日下部には伝えておきたかったのに。
「静、ありがとね」
日下部の声が静かな廊下にぽつりと落ちる。
「ずっとさ、この顔のせいでトラブル多かったじゃん? だからすぐに逃げられるように、一か所に長くいないようにしてきたけど。『ちゃんと長くいられる場所で関係を築いたほうがいい』って言ってくれてさ」
ぎゅっと繋いでいるほうとは反対の手を握りしめる。日下部がいま笑っているのが嬉しいのに、悔しい。出会う前のことなんてどうにもならないとわかってはいるけれど、麻生さんじゃなくて俺がそばにいたかった。俺が日下部を助けたかった。もっと前に出会っていたなら着ぐるみとしてじゃなくても日下部の隣に立てたかもしれないのに。
「ベア太郎に出会わなかったら、俺はいまここにいないかもしれないんだよね」
え、と顔を上げれば、メッシュ越しでも前を向く日下部の表情が明るいことがわかる。
「静の言葉に迷っていた俺が、ちゃんと踏み出そうって思えたのは、ベア太郎にもう一度会いたかったからだからさ」
言葉はなにも出てこなかった。胸に広がったあたたかさがせり上がり、目の奥が熱い。日下部の背中を押したのが俺だった。最後のほんの少しだったかもしれない、それでも、それだけでも、嬉しくてたまらなかった。
「八神くん、いまどのへんだろう」
不意に聞こえた名前に、どきっと心臓が跳ねる。
「静には悪いんだけどさ、俺はやっぱり八神くんとやりたかったな」
跳ねた心臓がそのまま揺れを保つ。日下部に引かれている手に力が入る。
「あっ、怒らないでよ」
日下部は、込められた力を抗議だと受け取ったらしい。違う。そうじゃない。説明できないのがもどかしい。
「俺がニコニャンやったときにさ、助けてくれたの、八神くんだったんだ」
えっ、と思わず声が出そうになったのを寸前で堪える。待って。なんで? なんで俺だって知ってるんだ? 俺以外には尋ねないよう言ったのに。滲んでいた涙が一瞬で引っ込む。
「八神くんは自分じゃないみたいな感じだったんだけどさ、『ニコニャン』って言ったんだよね。俺は『キャラクター』としか言ってないのに」
えっと、じゃあ、俺が自分でバラしたってこと? しかも名乗らなかったこともバレているってこと?
急にベア太郎の頭が重く感じる。改良版の最新作なのに。日下部の顔を確かめるのがこわい。ベア太郎のなかが俺だと知って怒っているだろうか。ショックを受けているだろうか。メッシュによって明瞭ではなくなっている視界にいまは感謝してしまう。
「八神くんが名乗ってくれなかったのってさ、たぶん、俺が最初に八神くんのことベア太郎らしくないって言っちゃったからだと思うんだ」
そうです、そのとおりです。でもそれは俺の態度が悪かったから仕方ないです。視界には赤く丸い足先しか映らない。
「……なんで、あんなこと言っちゃったんだろ」
ため息とともに聞こえた声に、顔を上げる。
「八神くん、本当はすっごく可愛いのにね」
――は? メッシュ越しでもわかるほど、日下部の顔には柔らかな笑みが広がっていた。整った顔が微笑んだときの破壊力。直に見ていたらやばかったかもしれない。いや、もうすでに心臓はバクバクだし、顔が熱くて仕方ない。どうして日下部がそんな表情をするのかちっともわからない。
「最初はさ、こわい顔で睨んでくるし、きっと俺のこと嫌いなんだろうなって思ったんだけど」
日下部の口を閉じさせたくても、俺には手段がない。聞きたくないと逃亡するわけにもいかない。ただじっと聞き続けるしかない。どんな拷問だよ。いや、俺に聞かれていると知らない日下部のほうが可哀想かもしれない。
「仕事は丁寧に教えてくれるし、親切だし、俺の話ちゃんと聞いてくれるし、なんか野生動物を手懐けた感じ?」
野生動物。ベア太郎も同じくくりだろうか。いや、そんなわけないか。
「笑うとすっごく可愛くてさ、なんか放っておけないっていうか、守ってあげたくなるんだよね」
振り返った日下部の顔に揶揄いの色はなくて。ただ俺を想っている優しさしかなくて。胸がぎゅっとなる。いつからこんな表情で俺を見ていたのだろう。どうして気づかなかったのだろう。俺がベア太郎だと名乗っても日下部は受け止めてくれたのかもしれない。
ちゃんと自分から言えばよかった。日下部が気づく前に。こわがらずに、日下部を信じればよかった。
「静も、そう思ってるんじゃないの?」
不意に日下部の声が冷たさを帯び、ぎゅっと握られている手に力が込められた。日下部が足を止め、じっと俺を見上げる。
「ちがう?」
俺はベア太郎だし、麻生さんじゃないからなにも答えられない。いままで見たことのない日下部の冷たい視線に、きゅっと喉が詰まる。まるで恋人の浮気を疑っているような、そんな――もしかして、日下部と麻生さんはすでに付き合っているのだろうか?
「まあ、八神くんは静のことお兄ちゃんみたいにしか思ってないみたいだけど」
――八神くんにとっても? 静はお兄ちゃんってこと?
あれは単にライバルかどうかを確かめられていたのではなく、浮気相手として疑われていたってこと? ずん、と頭だけでなく肩まで重くなる。そうか、そうだったのか。報われなくていいと思っていたけど、いざ現実として突きつけられると胸が痛くてたまらない。
ベア太郎のなかでよかった。こんな顔、日下部には絶対見せられない。
熱を帯び始めた目をぎゅっと閉じたとき、
「俺、負けないから」
着ぐるみ越しに日下部の声が届いた。
視線を逸らした日下部が歩き出す。「負けない」とはどういう意味だろう? 浮気を疑っている俺相手に言うならわかるけど。どうして麻生さん(だと思っている俺)に言ったのだろう? 麻生さんとなにか勝負でもしているのか? 疑問に思いつつも手を引かれるまま俺も歩き出す。
「静が弟扱いしてるうちに、八神くんに『すきだ』って言うから」
「――へ?」
自分が落とした声に自分でビックリする。俺、いま声出てた? いや、それよりも。いま、なんて?
「これからは俺が八神くんと一緒にいる時間のほうが増えるしね」
日下部が振り返り、再び俺を見上げる。俺は逃げることも前に進むこともできない。ベア太郎に入っているからじゃない。聞こえた言葉が信じられなくて頭が追いつかない。
「静?」
ドクドクと弾む鼓動が耳を塞ぐのに、日下部の声だけが不思議と届いてしまう。
「なに立ち止まってるの」
ぐっと引き寄せられ、顔が近づく。いくらメッシュがあるとはいえ、完全には隠しきれない。近づきすぎたら見えてしまう。少しでも顔を遠ざけたいけど、ベア太郎の頭にそんな可動域があるはずもない。
じっと見つめられること数秒――いや、実際は一秒もなかったのかもしれない。でも、俺にはそれくらい長く感じた。
ぱっと日下部が顔を廊下の先へと戻す。
「もう行かないと」
バレなかった……? ほっと安堵がこぼれたことで、固まっていた体が動かせるようになった。とりあえずいまのは聞かなかったことにしよう。日下部は麻生さんに言ったと思っているし。
聞かなかったことに、と思いながらも顔の熱は下がらない。これからステージに上がらないといけないのに視界がぼやけていく。だって、こんなこと信じられない。絶対に無理なのだと、叶うことはないのだと思っていたのに。こんな、奇跡みたいなこと――まるで魔法にでもかけられたみたいだ。すべてのきっかけは妖精であるベア太郎だから。
通路の最後、ドアの前で日下部が立ち止まる。この先は完全なる外の世界。俺と日下部は「ベア太郎とアテンドのお兄さん」にならなくてはならない。
そっと息を吸い込み、瞼を上げる。一旦、いま起きたことのすべてを外に置く。俺はベア太郎なのだから。
「よし、行こう」
日下部が俺を見上げる。
声を出せない俺は、こく、と頭を動かす。
「返事は終わってからちょうだいね」
返事? とわずかに首を傾げれば、そっとメッシュのそばに日下部が口を寄せた。
「約束だよ――八神くん」
え、と戸惑う間もなく、開かれたドアに視界が明るくなる。
「まったく、いつのまに入れ替わったんだか……さすがベア太郎だよ」
――ベア太郎は妖精だから。
言葉にはしなくても、きっといま同じことを思ってる。そんな気がした。
「さ、行くよ。ベア太郎」
手を引かれるまま歩き出す。日下部との初仕事をしっかりやらなければ。そう思いつつも、心臓の揺れは収まらない。ベア太郎のなかにいることがもどかしくてたまらなかった。
伝えるべき言葉はもう決まっている。ちゃんと伝えられたら、俺と日下部どちらがより強くベア太郎の色を纏うだろうか。
――俺もすきだよ。
ただ、問題がひとつ――。
「あー、すごい緊張してきた。静は? もう緊張なんてしない?」
「……」
日下部は俺と麻生さんが入れ替わったことに気づいていなかった。説明したいが、ベア太郎になった俺は控室以外で話すことを禁止されている。たとえ従業員しか通らない廊下であっても、ベア太郎の中身を意識させてはいけない。
せっかく最初のステージに間に合ったのに。日下部との初仕事なのに。終わるまで伝えられないなんて。父さんとちゃんと話せたことを日下部には伝えておきたかったのに。
「静、ありがとね」
日下部の声が静かな廊下にぽつりと落ちる。
「ずっとさ、この顔のせいでトラブル多かったじゃん? だからすぐに逃げられるように、一か所に長くいないようにしてきたけど。『ちゃんと長くいられる場所で関係を築いたほうがいい』って言ってくれてさ」
ぎゅっと繋いでいるほうとは反対の手を握りしめる。日下部がいま笑っているのが嬉しいのに、悔しい。出会う前のことなんてどうにもならないとわかってはいるけれど、麻生さんじゃなくて俺がそばにいたかった。俺が日下部を助けたかった。もっと前に出会っていたなら着ぐるみとしてじゃなくても日下部の隣に立てたかもしれないのに。
「ベア太郎に出会わなかったら、俺はいまここにいないかもしれないんだよね」
え、と顔を上げれば、メッシュ越しでも前を向く日下部の表情が明るいことがわかる。
「静の言葉に迷っていた俺が、ちゃんと踏み出そうって思えたのは、ベア太郎にもう一度会いたかったからだからさ」
言葉はなにも出てこなかった。胸に広がったあたたかさがせり上がり、目の奥が熱い。日下部の背中を押したのが俺だった。最後のほんの少しだったかもしれない、それでも、それだけでも、嬉しくてたまらなかった。
「八神くん、いまどのへんだろう」
不意に聞こえた名前に、どきっと心臓が跳ねる。
「静には悪いんだけどさ、俺はやっぱり八神くんとやりたかったな」
跳ねた心臓がそのまま揺れを保つ。日下部に引かれている手に力が入る。
「あっ、怒らないでよ」
日下部は、込められた力を抗議だと受け取ったらしい。違う。そうじゃない。説明できないのがもどかしい。
「俺がニコニャンやったときにさ、助けてくれたの、八神くんだったんだ」
えっ、と思わず声が出そうになったのを寸前で堪える。待って。なんで? なんで俺だって知ってるんだ? 俺以外には尋ねないよう言ったのに。滲んでいた涙が一瞬で引っ込む。
「八神くんは自分じゃないみたいな感じだったんだけどさ、『ニコニャン』って言ったんだよね。俺は『キャラクター』としか言ってないのに」
えっと、じゃあ、俺が自分でバラしたってこと? しかも名乗らなかったこともバレているってこと?
急にベア太郎の頭が重く感じる。改良版の最新作なのに。日下部の顔を確かめるのがこわい。ベア太郎のなかが俺だと知って怒っているだろうか。ショックを受けているだろうか。メッシュによって明瞭ではなくなっている視界にいまは感謝してしまう。
「八神くんが名乗ってくれなかったのってさ、たぶん、俺が最初に八神くんのことベア太郎らしくないって言っちゃったからだと思うんだ」
そうです、そのとおりです。でもそれは俺の態度が悪かったから仕方ないです。視界には赤く丸い足先しか映らない。
「……なんで、あんなこと言っちゃったんだろ」
ため息とともに聞こえた声に、顔を上げる。
「八神くん、本当はすっごく可愛いのにね」
――は? メッシュ越しでもわかるほど、日下部の顔には柔らかな笑みが広がっていた。整った顔が微笑んだときの破壊力。直に見ていたらやばかったかもしれない。いや、もうすでに心臓はバクバクだし、顔が熱くて仕方ない。どうして日下部がそんな表情をするのかちっともわからない。
「最初はさ、こわい顔で睨んでくるし、きっと俺のこと嫌いなんだろうなって思ったんだけど」
日下部の口を閉じさせたくても、俺には手段がない。聞きたくないと逃亡するわけにもいかない。ただじっと聞き続けるしかない。どんな拷問だよ。いや、俺に聞かれていると知らない日下部のほうが可哀想かもしれない。
「仕事は丁寧に教えてくれるし、親切だし、俺の話ちゃんと聞いてくれるし、なんか野生動物を手懐けた感じ?」
野生動物。ベア太郎も同じくくりだろうか。いや、そんなわけないか。
「笑うとすっごく可愛くてさ、なんか放っておけないっていうか、守ってあげたくなるんだよね」
振り返った日下部の顔に揶揄いの色はなくて。ただ俺を想っている優しさしかなくて。胸がぎゅっとなる。いつからこんな表情で俺を見ていたのだろう。どうして気づかなかったのだろう。俺がベア太郎だと名乗っても日下部は受け止めてくれたのかもしれない。
ちゃんと自分から言えばよかった。日下部が気づく前に。こわがらずに、日下部を信じればよかった。
「静も、そう思ってるんじゃないの?」
不意に日下部の声が冷たさを帯び、ぎゅっと握られている手に力が込められた。日下部が足を止め、じっと俺を見上げる。
「ちがう?」
俺はベア太郎だし、麻生さんじゃないからなにも答えられない。いままで見たことのない日下部の冷たい視線に、きゅっと喉が詰まる。まるで恋人の浮気を疑っているような、そんな――もしかして、日下部と麻生さんはすでに付き合っているのだろうか?
「まあ、八神くんは静のことお兄ちゃんみたいにしか思ってないみたいだけど」
――八神くんにとっても? 静はお兄ちゃんってこと?
あれは単にライバルかどうかを確かめられていたのではなく、浮気相手として疑われていたってこと? ずん、と頭だけでなく肩まで重くなる。そうか、そうだったのか。報われなくていいと思っていたけど、いざ現実として突きつけられると胸が痛くてたまらない。
ベア太郎のなかでよかった。こんな顔、日下部には絶対見せられない。
熱を帯び始めた目をぎゅっと閉じたとき、
「俺、負けないから」
着ぐるみ越しに日下部の声が届いた。
視線を逸らした日下部が歩き出す。「負けない」とはどういう意味だろう? 浮気を疑っている俺相手に言うならわかるけど。どうして麻生さん(だと思っている俺)に言ったのだろう? 麻生さんとなにか勝負でもしているのか? 疑問に思いつつも手を引かれるまま俺も歩き出す。
「静が弟扱いしてるうちに、八神くんに『すきだ』って言うから」
「――へ?」
自分が落とした声に自分でビックリする。俺、いま声出てた? いや、それよりも。いま、なんて?
「これからは俺が八神くんと一緒にいる時間のほうが増えるしね」
日下部が振り返り、再び俺を見上げる。俺は逃げることも前に進むこともできない。ベア太郎に入っているからじゃない。聞こえた言葉が信じられなくて頭が追いつかない。
「静?」
ドクドクと弾む鼓動が耳を塞ぐのに、日下部の声だけが不思議と届いてしまう。
「なに立ち止まってるの」
ぐっと引き寄せられ、顔が近づく。いくらメッシュがあるとはいえ、完全には隠しきれない。近づきすぎたら見えてしまう。少しでも顔を遠ざけたいけど、ベア太郎の頭にそんな可動域があるはずもない。
じっと見つめられること数秒――いや、実際は一秒もなかったのかもしれない。でも、俺にはそれくらい長く感じた。
ぱっと日下部が顔を廊下の先へと戻す。
「もう行かないと」
バレなかった……? ほっと安堵がこぼれたことで、固まっていた体が動かせるようになった。とりあえずいまのは聞かなかったことにしよう。日下部は麻生さんに言ったと思っているし。
聞かなかったことに、と思いながらも顔の熱は下がらない。これからステージに上がらないといけないのに視界がぼやけていく。だって、こんなこと信じられない。絶対に無理なのだと、叶うことはないのだと思っていたのに。こんな、奇跡みたいなこと――まるで魔法にでもかけられたみたいだ。すべてのきっかけは妖精であるベア太郎だから。
通路の最後、ドアの前で日下部が立ち止まる。この先は完全なる外の世界。俺と日下部は「ベア太郎とアテンドのお兄さん」にならなくてはならない。
そっと息を吸い込み、瞼を上げる。一旦、いま起きたことのすべてを外に置く。俺はベア太郎なのだから。
「よし、行こう」
日下部が俺を見上げる。
声を出せない俺は、こく、と頭を動かす。
「返事は終わってからちょうだいね」
返事? とわずかに首を傾げれば、そっとメッシュのそばに日下部が口を寄せた。
「約束だよ――八神くん」
え、と戸惑う間もなく、開かれたドアに視界が明るくなる。
「まったく、いつのまに入れ替わったんだか……さすがベア太郎だよ」
――ベア太郎は妖精だから。
言葉にはしなくても、きっといま同じことを思ってる。そんな気がした。
「さ、行くよ。ベア太郎」
手を引かれるまま歩き出す。日下部との初仕事をしっかりやらなければ。そう思いつつも、心臓の揺れは収まらない。ベア太郎のなかにいることがもどかしくてたまらなかった。
伝えるべき言葉はもう決まっている。ちゃんと伝えられたら、俺と日下部どちらがより強くベア太郎の色を纏うだろうか。
――俺もすきだよ。



