ベア太郎は妖精です

 細く開けた窓から冷たい風が流れ込む。カーナビの左上、表示された現在時刻は午後一時三十二分。景色は一定のスピードで後ろへと流れていく。
「母さんとね、約束したんだよ」
「約束?」
「そう、ベア太郎を守るって」
 信号が青から黄色に変わり、車がゆっくりと止まる。
「自分が晴太郎に残せるのはこれだけだから、守ってほしいって」
 父さんの静かな声が鼓膜に触れた瞬間、振り向かずにはいられなかった。
 繋がった視線の先、眼鏡の向こう、父さんがそっと目を細める。
「晴太郎、ごめん。あの頃は会社も仕事も止めるわけにはいかなくて、余裕がなくて。寂しい思いをさせているのに気づいていたのに、なにもしてあげられなくて」
 本当はもうわかっていた。ガラスの棚を前に話した、あのときに。それでも父さんの口から、父さんの言葉でちゃんと聞けたことが嬉しかった。俺はずっと父さんを仕事しか見ていないひとだと思ってきたから。母さんが亡くなっても悲しんでいるようには見えなくて。……見せないようにしてきたのだろう。見せられないくらい忙しく働くことが、父さんにとっての守る方法だったから。父さんは、母さんが残したいと願ったものをただ必死に守っていただけだった。
 ――全部、俺のために。
「ベア太郎は、これからも僕と母さんが守るから」
 座面から振動が伝わり、再び景色が動き出す。
「晴太郎は自分のすきな道を選んでいいんだよ」
「すきな道?」
「うん、晴太郎はまだ高校生なんだから。仕事なんてもっとたくさんあるし、やりたいことだってきっと」
「俺はこれがいい」
 父さんの声を遮り、シートベルトをぎゅっと両手で握りしめる。
「先のことなんてわからないけど、少なくともいまの俺はここで働きたいって思ってるよ」
「それは」
「父さんが言ったんだよ。高校生なんてまだまだ子どもだって。学んでいる途中だって。だったら、子どもの俺が、いまの俺の気持ちだけで選んだっていいだろ」
 先のことなんてわからない。わかるのはいまと過去だけ。母さんが作ったものを父さんが守り続けている。日下部が見つけてくれたタイムカプセルを、俺は大切に磨いて繋いでいきたい。
「お願いします。俺にベア太郎をやらせてください」
 俺も守りたい。母さんのため、父さんのため、そして――気づかせてくれた、見つけてくれた日下部のために。
 晴太郎、と呼ぶ声が柔らかく響く。
「晴太郎がいまベア太郎になりたい理由は、それだけ?」
「えっ」
「あんなに必死に走って、子どもらしくワガママまで言って、高校生の手に入れたいものが、仕事や責任だけなんて僕には思えないな」
 仕事や責任、自分の将来。いま絶対に走らないと手が届かないものなのかと問われれば、違う。俺が、どうしても今日、手に入れたかったもの。
 ――待ってるね。
 耳奥で蘇った声に、ぶわりと顔が熱くなる。敢えて口にしなかったのに。どうして気づかれてしまったのだろう。
「七分だな」
「えっ」
「後部座席に新しいベア太郎の着ぐるみがあるから、駐車場に入ったらすぐ着替えて。それなら最初のステージに間に合うから」
「でも、控室に寄らないと麻生さんと鉢合わせることになるよ」
「それのどこが問題なの?」
 カーブを曲がると、目的地である商業施設が視界に入った。あと五分もかからないだろう。
「だって、そんなの」
 打ち合わせにないし、呼ばれているのはベア太郎ひとりだし、なにより日下部が混乱しそうだし……と浮かんだ理由を口にするより早く、父さんが笑って言った。
「晴太郎、ベア太郎は妖精なんだよ」と。