足裏から地面の感触が規則正しく跳ね、弾む息が白く溶けていく。じわりと肌に浮かんだ汗が冷たい風に攫われる。寒さはない。むしろ涼しいくらいだ。毎日坂道に鍛えられた体は、必要なときにちゃんと動くようにできていた。
ちら、とスマートフォンを確認すれば、バスの発車時刻まではあと十分。もう少しペースを上げないと間に合わない。
信号待ちの間にネックウォーマーを外し、マウンテンパーカーのファスナーを下げる。
俺が間に合わなくてもベア太郎のステージに支障はないだろう。麻生さんがいれば十分だ。麻生さんなら俺よりもずっとうまくやってくれる。周りのスタッフだって俺より麻生さんと働けるほうがいいに決まっている。俺が行ったところで歓迎なんてされないだろう。
青信号になると同時に走り出し、ギアを一段上げる。ふくらはぎにかかる負荷が大きくなり、呼吸が速くなる。それでも前へ進む力を緩めるわけにはいかない。
誰に期待されなくても、たったひとり日下部だけは俺が来ることを信じてくれているから。走り続ける理由なんて、それだけで十分だ。間に合ってもベア太郎に入れるかはわからないけど行かないと後悔する。それだけは確かだから。
細い路地を抜けると車の流れる音が大きくなる。飲食店が増え、駅が近いことがわかる。もう少し、と開けた景色に重くなった足を前に出す。
駅舎は見えるが、バスロータリーはない。反対側の出口なのだろう。信号の色が変わり、足を止めれば一気に汗が流れていく。冬とは思えないほど暑い。あと何分だろう、とスマートフォンを確かめれば、バスの発車時刻まで二分を切っていた。ドクン、ドクン、と心臓が大きく鳴る。あと少し。あと少しで着く。もう目の前まで来ている。跳ねる鼓動を落ち着かせたくて「大丈夫」「間に合う」と言い聞かせる。
パッと信号が変わり、集団からひとり抜け出す。大丈夫。きっと、大丈夫。駅舎に飛び込み、流れてくるひとを避けながら反対出口を目指す。大丈夫。まだ間に合うはず。
駆け抜けた先で視界が明るくなる。バスロータリーの奥にバスが一台停まっていた。
あれだ、と走り出したのと同時、エンジン音が響く。あと少し。チカチカとウィンカーが点滅する。あとちょっと。
ひとつ隣のバス停を過ぎたとき、ドアが閉まった。
でも、まだ――。
希望をかけて動かし続けた足が止まる。
はあ、はあ、と荒い呼吸のまま見つめた先で、バスは遠くなっていった。
あと少し。ほんの数秒でよかったのに。走り続けた疲労が一気に体にのしかかる。次のバスなら走る必要なんてなかった。いまのバスに乗りたいから走ってきたのに。
「……意味、ないじゃん」
どんなに頑張って走っても間に合わなかったら意味なんてない。悔しさに視界が滲む。泣きたいほど悔しいのは真剣にやっているから。それだけ本気だから。でも、だからってなにも変えられなかったら、ただそれだけだ。
ぐっと強く唇を噛みしめたとき
「晴太郎!」
控えめなクラクションとともに、聞き慣れた声が響いた。
「……父さん?」
「乗りなさい」
頭で理解するより早く体が動く。見慣れた自家用車のドアを開け、助手席に滑り込む。俺がシートベルトをつけると、すっと滑らかに景色が動き出した。
「出張帰りにベア太郎の改良版を受け取ったところでさ。なんかすごい走ってる子がいるなあと思ったら、晴太郎で。びっくりしちゃった」
「たまたまってこと?」
「うん。電車が止まったのは聞いてたけど、晴太郎がここを走ってるのは知らなかったから」
「……偶然」
「うん。すごいよね」
この駅を目指したのは日下部が教えてくれたからだ。そして走り続けたから、このタイミングで出会えた。そもそも父さんが車で出張に行っていなかったら、ここを通ることもなかった。
「で、このまま僕は晴太郎を送り届ければいいのかな?」
フロントガラスの先には、乗り逃したバスが見える。
「麻生くんが代わってくれたんだよね。麻生くんなら最後までやってくれるよ」
晴太郎が行く必要はあるの? 言外に問われた意味を受け止め、飲み込む。俺が走り続けた意味。ここにいる意味。落ち着いたはずの心臓が再び緊張に揺れる。それでも声は震えなかった。
「でも、行きたいんだ。これは俺の仕事だから」
意味なんてなくても。必要とされなくても。代わってもらったら終わりになんてしたくない。
「――仕事、か」
ぽつりと父さんが俺の言葉を繰り返す。ちら、と一瞬だけ視線が繋がり、正面へと視線を戻した父さんが、ふっと表情を緩めた。
「いつのまに、そんなにしっかりしちゃったの」
停車していたバスの横を過ぎ、車は三車線の真ん中をまっすぐ進んでいく。
「晴太郎」
前を見据えたまま、父さんが静かに俺の名前を呼んだ。
「この前の話の続き、しようか」
ちら、とスマートフォンを確認すれば、バスの発車時刻まではあと十分。もう少しペースを上げないと間に合わない。
信号待ちの間にネックウォーマーを外し、マウンテンパーカーのファスナーを下げる。
俺が間に合わなくてもベア太郎のステージに支障はないだろう。麻生さんがいれば十分だ。麻生さんなら俺よりもずっとうまくやってくれる。周りのスタッフだって俺より麻生さんと働けるほうがいいに決まっている。俺が行ったところで歓迎なんてされないだろう。
青信号になると同時に走り出し、ギアを一段上げる。ふくらはぎにかかる負荷が大きくなり、呼吸が速くなる。それでも前へ進む力を緩めるわけにはいかない。
誰に期待されなくても、たったひとり日下部だけは俺が来ることを信じてくれているから。走り続ける理由なんて、それだけで十分だ。間に合ってもベア太郎に入れるかはわからないけど行かないと後悔する。それだけは確かだから。
細い路地を抜けると車の流れる音が大きくなる。飲食店が増え、駅が近いことがわかる。もう少し、と開けた景色に重くなった足を前に出す。
駅舎は見えるが、バスロータリーはない。反対側の出口なのだろう。信号の色が変わり、足を止めれば一気に汗が流れていく。冬とは思えないほど暑い。あと何分だろう、とスマートフォンを確かめれば、バスの発車時刻まで二分を切っていた。ドクン、ドクン、と心臓が大きく鳴る。あと少し。あと少しで着く。もう目の前まで来ている。跳ねる鼓動を落ち着かせたくて「大丈夫」「間に合う」と言い聞かせる。
パッと信号が変わり、集団からひとり抜け出す。大丈夫。きっと、大丈夫。駅舎に飛び込み、流れてくるひとを避けながら反対出口を目指す。大丈夫。まだ間に合うはず。
駆け抜けた先で視界が明るくなる。バスロータリーの奥にバスが一台停まっていた。
あれだ、と走り出したのと同時、エンジン音が響く。あと少し。チカチカとウィンカーが点滅する。あとちょっと。
ひとつ隣のバス停を過ぎたとき、ドアが閉まった。
でも、まだ――。
希望をかけて動かし続けた足が止まる。
はあ、はあ、と荒い呼吸のまま見つめた先で、バスは遠くなっていった。
あと少し。ほんの数秒でよかったのに。走り続けた疲労が一気に体にのしかかる。次のバスなら走る必要なんてなかった。いまのバスに乗りたいから走ってきたのに。
「……意味、ないじゃん」
どんなに頑張って走っても間に合わなかったら意味なんてない。悔しさに視界が滲む。泣きたいほど悔しいのは真剣にやっているから。それだけ本気だから。でも、だからってなにも変えられなかったら、ただそれだけだ。
ぐっと強く唇を噛みしめたとき
「晴太郎!」
控えめなクラクションとともに、聞き慣れた声が響いた。
「……父さん?」
「乗りなさい」
頭で理解するより早く体が動く。見慣れた自家用車のドアを開け、助手席に滑り込む。俺がシートベルトをつけると、すっと滑らかに景色が動き出した。
「出張帰りにベア太郎の改良版を受け取ったところでさ。なんかすごい走ってる子がいるなあと思ったら、晴太郎で。びっくりしちゃった」
「たまたまってこと?」
「うん。電車が止まったのは聞いてたけど、晴太郎がここを走ってるのは知らなかったから」
「……偶然」
「うん。すごいよね」
この駅を目指したのは日下部が教えてくれたからだ。そして走り続けたから、このタイミングで出会えた。そもそも父さんが車で出張に行っていなかったら、ここを通ることもなかった。
「で、このまま僕は晴太郎を送り届ければいいのかな?」
フロントガラスの先には、乗り逃したバスが見える。
「麻生くんが代わってくれたんだよね。麻生くんなら最後までやってくれるよ」
晴太郎が行く必要はあるの? 言外に問われた意味を受け止め、飲み込む。俺が走り続けた意味。ここにいる意味。落ち着いたはずの心臓が再び緊張に揺れる。それでも声は震えなかった。
「でも、行きたいんだ。これは俺の仕事だから」
意味なんてなくても。必要とされなくても。代わってもらったら終わりになんてしたくない。
「――仕事、か」
ぽつりと父さんが俺の言葉を繰り返す。ちら、と一瞬だけ視線が繋がり、正面へと視線を戻した父さんが、ふっと表情を緩めた。
「いつのまに、そんなにしっかりしちゃったの」
停車していたバスの横を過ぎ、車は三車線の真ん中をまっすぐ進んでいく。
「晴太郎」
前を見据えたまま、父さんが静かに俺の名前を呼んだ。
「この前の話の続き、しようか」



