ドアが開くと同時、車内に張りつめていた空気が一気に緩む。冷たい外の風でさえ、安堵を連れてくる。ようやくホームに降り立てば、運転見合わせのアナウンスと改札へと向かうひとのざわめきが一気に耳を覆う。
緊急停車の理由は三駅先で起きた人身事故だった。俺が乗っていた電車はたまたま駅に近かったため、そこまで動いてくれたにすぎず、いまや完全にストップしていた。
目的地まではあと六駅。三駅先の事故ならしばらく動かないだろう。
「マジか……」
ホームに設置された時計は午後一時を示す。ベア太郎の出演時間まであと一時間しかない。電車が止まったことだけは先に連絡しているが、ここからどうやって向かえばいいのか。走っていける距離ではない。電車がダメならバスだろうか。経路を調べたくても、改札へと向かうひとの流れは密集していて、歩きスマホなんてできるゆとりはない。
改札を抜けてから、画面を確認すれば麻生さんから着信が入っていた。
『――晴太郎?』
「すみません、着信気づかなくて」
『いや、そっちどう?』
聞かれて周囲を見渡す。
「運転再開の見込みは立ってないです」
『バスは?』
バスロータリーの表示がある方向へと視線を向ければ、最後尾がどこかわからないほど列ができている。
「すごい列です」
『タクシーも?』
タクシーという発想自体なかったので、慌ててロータリーの端を確認するが、こちらも同じように長い列ができていた。
「……はい」
あと一時間で本当に着けるのだろうか。漠然としか捉えられていなかった不安が、急に明確な重さを持ってのしかかる。どうして、よりによって今日なのだろう。
『晴太郎』
「はい」
『心配しなくていいよ。俺が行くから』
「えっ、でも」
『いまあっちにいるスタッフじゃ代わりは無理だし、俺はまだ会社だけど、ここからなら地下鉄で行けるし、ベア太郎の出演時間にも間に合うから』
「いえ、俺がちゃんと間に合わせるので」
今日は、今日だけは俺が出たい。誰にも譲りたくない。せめて仕事だけでも、日下部の隣に立ちたかった。
「俺が行きます」
晴太郎、と麻生さんの声が静かなため息とともに吐き出される。
『ベア太郎の出演時間はずらせない。万が一でも間に合わないなんてことは許されない。それがわかったうえで言ってる?』
まわりのざわめきに掻き消されることなく、麻生さんの声が胸の奥まで落ちてくる。
「それ、は……」
『晴太郎がわからないはずないよね』
決められた時間にそこに立つこと。それが着ぐるみ仕事の基本だ。遅刻は許されない。それは俺個人の問題ではなく会社の問題になる。ベア太郎の問題になる。父さんと母さんが守ってきたものを傷つけることになる。
『晴太郎が間に合ったとして、打ち合わせの時間もない。落ち着く時間もない。そんな状態でできるほど簡単な仕事じゃないよね』
麻生さんの言葉に唇を噛みしめることしかできない。いまの俺がなにを言ってもワガママにしかならない。俺ひとりのワガママで台無しにしていいはずがない。どんなに悔しくても、優先すべきなのは俺の気持ちなんかじゃない。ぐっとお腹に力を入れ、見えないとわかっていてもその場で頭を下げた。
「――よろしく、お願いします」
『うん。八神さんには俺から連絡入れておくから。晴太郎は陽太に連絡してあげて』
「はい」
通話終了とともに、止めていた息を吐き出す。胸の震えが収まるまで強く深く。悔しい。悔しくてたまらない。どうして、と言葉が湧き続ける。どうして今日なのだろう。どうしていまなのだろう。どうして日下部を助けるのは、俺じゃないのだろう。
「……日下部に連絡しないと」
俺は行けないけど、麻生さんが来てくれる。日下部は喜ぶだろう。俺より麻生さんのほうがいいに決まっているのだから。
「悔しいな」
俺が来られなくなって残念がる姿より、麻生さんが来ることになって嬉しそうにする日下部の姿のほうが容易に想像できてしまう。
はあ、と再び深く息を吐き出し、スマートフォンの画面と向き直る。落ち込むより連絡が先だ。
日下部の名前を表示させ、通話ボタンをタップする。呼び出し音は聞こえなかった。一瞬の間もおかず、日下部の声が耳に触れる。
『もしもし? 八神くん?』
こちらからかけておきながら、あまりにも早く繋がってしまってすぐに言葉が出ない。
『いまどこ? 電車止まってるんだよね』
日下部への連絡は俺からすることになっていたけど。麻生さんが連絡したのだろうか。俺は本当になにも役に立たない。
「ああ、そう。だから」
『大丈夫? 間に合いそう?』
心配そうな響きに「え」と心臓が跳ねる。
『八神くん早めに来そうだなって思ってたのに来ないからさ、調べたら電車止まってるじゃん?』
「調べたの?」
日下部が? 誰に聞いたわけでもなく? そして、いまも俺を待っているのか?
こく、と唾が喉を通る。もしかしたら、と期待が鳴る。
「あのさ、俺間に合わないかもしれないから、麻生さんが代わってくれたんだ」
『静が?』
「そう」
声からでは悲しんでいるのか喜んでいるのかわからない。もしかしたら残念に思ってくれるかもと期待した心が不安に揺れる。
『そっか。でも、最後のステージは間に合うよね?』
俺が来ることを疑っていない、あまりにも自然な声だった。それは、と否定する言葉が喉奥で止まる。
『今日の出演って二回だろ? 最初は無理でも最後の、二時四十五分の回は間に合うんじゃないの?』
きっと麻生さんは両方とも出るつもりでいてくれる。俺が行ったところで役には立たない。俺が行っても行かなくてもなにも変わらない。
でも、本当にそれでいいのだろうか。たとえ無駄になったとしても、このままなにもせずに終わって本当にいいのか? 少なくとも日下部は俺を待っているのに。
『あっ、徒歩で三十分くらい歩いたところにある駅からならここまでバスで来られるみたいだよ』
「えっ、いま調べたの?」
『うん。調べるのすきなんだよね、俺』
「……逃げ道を確保する的な?」
『あー、そうかも。いつでもどこからでも逃げられるように? って、おい』
ふっと漏れた笑いに強張りが解ける。
行きたい。たどり着きたい。解けた心から自然と想いが溢れる。自分にできることがなくても、誰にも必要とされなくても。日下部が待っていてくれる場所にたどり着きたい。
「ありがと。最後の時間には必ず間に合わせるから」
『うん。待ってるね』
うん、と通話を終了させ、地図アプリを起動させる。日下部が教えてくれた駅までは徒歩三十六分。その先のバスの時刻表も開けば、次の発車は二十分後だった。その次は四十五分後。先のバスに乗らなくても最終回には間に合うだろう。でも――。
薄曇りの空の下、バスやタクシーを待つ列は伸び続ける。ロータリーを出た先の道路も混み始めている。
鼓動を落ち着けるようにゆっくり息を吸い込む。冷たい空気が肺に広がっていき、指先まで輪郭が鮮やかになる。駅までの経路を頭に叩き込み、スマートフォンをポケットにしまう。大丈夫、走れる。
バスロータリーを抜けた先にある住宅街を見据え、強く地面を蹴った。
緊急停車の理由は三駅先で起きた人身事故だった。俺が乗っていた電車はたまたま駅に近かったため、そこまで動いてくれたにすぎず、いまや完全にストップしていた。
目的地まではあと六駅。三駅先の事故ならしばらく動かないだろう。
「マジか……」
ホームに設置された時計は午後一時を示す。ベア太郎の出演時間まであと一時間しかない。電車が止まったことだけは先に連絡しているが、ここからどうやって向かえばいいのか。走っていける距離ではない。電車がダメならバスだろうか。経路を調べたくても、改札へと向かうひとの流れは密集していて、歩きスマホなんてできるゆとりはない。
改札を抜けてから、画面を確認すれば麻生さんから着信が入っていた。
『――晴太郎?』
「すみません、着信気づかなくて」
『いや、そっちどう?』
聞かれて周囲を見渡す。
「運転再開の見込みは立ってないです」
『バスは?』
バスロータリーの表示がある方向へと視線を向ければ、最後尾がどこかわからないほど列ができている。
「すごい列です」
『タクシーも?』
タクシーという発想自体なかったので、慌ててロータリーの端を確認するが、こちらも同じように長い列ができていた。
「……はい」
あと一時間で本当に着けるのだろうか。漠然としか捉えられていなかった不安が、急に明確な重さを持ってのしかかる。どうして、よりによって今日なのだろう。
『晴太郎』
「はい」
『心配しなくていいよ。俺が行くから』
「えっ、でも」
『いまあっちにいるスタッフじゃ代わりは無理だし、俺はまだ会社だけど、ここからなら地下鉄で行けるし、ベア太郎の出演時間にも間に合うから』
「いえ、俺がちゃんと間に合わせるので」
今日は、今日だけは俺が出たい。誰にも譲りたくない。せめて仕事だけでも、日下部の隣に立ちたかった。
「俺が行きます」
晴太郎、と麻生さんの声が静かなため息とともに吐き出される。
『ベア太郎の出演時間はずらせない。万が一でも間に合わないなんてことは許されない。それがわかったうえで言ってる?』
まわりのざわめきに掻き消されることなく、麻生さんの声が胸の奥まで落ちてくる。
「それ、は……」
『晴太郎がわからないはずないよね』
決められた時間にそこに立つこと。それが着ぐるみ仕事の基本だ。遅刻は許されない。それは俺個人の問題ではなく会社の問題になる。ベア太郎の問題になる。父さんと母さんが守ってきたものを傷つけることになる。
『晴太郎が間に合ったとして、打ち合わせの時間もない。落ち着く時間もない。そんな状態でできるほど簡単な仕事じゃないよね』
麻生さんの言葉に唇を噛みしめることしかできない。いまの俺がなにを言ってもワガママにしかならない。俺ひとりのワガママで台無しにしていいはずがない。どんなに悔しくても、優先すべきなのは俺の気持ちなんかじゃない。ぐっとお腹に力を入れ、見えないとわかっていてもその場で頭を下げた。
「――よろしく、お願いします」
『うん。八神さんには俺から連絡入れておくから。晴太郎は陽太に連絡してあげて』
「はい」
通話終了とともに、止めていた息を吐き出す。胸の震えが収まるまで強く深く。悔しい。悔しくてたまらない。どうして、と言葉が湧き続ける。どうして今日なのだろう。どうしていまなのだろう。どうして日下部を助けるのは、俺じゃないのだろう。
「……日下部に連絡しないと」
俺は行けないけど、麻生さんが来てくれる。日下部は喜ぶだろう。俺より麻生さんのほうがいいに決まっているのだから。
「悔しいな」
俺が来られなくなって残念がる姿より、麻生さんが来ることになって嬉しそうにする日下部の姿のほうが容易に想像できてしまう。
はあ、と再び深く息を吐き出し、スマートフォンの画面と向き直る。落ち込むより連絡が先だ。
日下部の名前を表示させ、通話ボタンをタップする。呼び出し音は聞こえなかった。一瞬の間もおかず、日下部の声が耳に触れる。
『もしもし? 八神くん?』
こちらからかけておきながら、あまりにも早く繋がってしまってすぐに言葉が出ない。
『いまどこ? 電車止まってるんだよね』
日下部への連絡は俺からすることになっていたけど。麻生さんが連絡したのだろうか。俺は本当になにも役に立たない。
「ああ、そう。だから」
『大丈夫? 間に合いそう?』
心配そうな響きに「え」と心臓が跳ねる。
『八神くん早めに来そうだなって思ってたのに来ないからさ、調べたら電車止まってるじゃん?』
「調べたの?」
日下部が? 誰に聞いたわけでもなく? そして、いまも俺を待っているのか?
こく、と唾が喉を通る。もしかしたら、と期待が鳴る。
「あのさ、俺間に合わないかもしれないから、麻生さんが代わってくれたんだ」
『静が?』
「そう」
声からでは悲しんでいるのか喜んでいるのかわからない。もしかしたら残念に思ってくれるかもと期待した心が不安に揺れる。
『そっか。でも、最後のステージは間に合うよね?』
俺が来ることを疑っていない、あまりにも自然な声だった。それは、と否定する言葉が喉奥で止まる。
『今日の出演って二回だろ? 最初は無理でも最後の、二時四十五分の回は間に合うんじゃないの?』
きっと麻生さんは両方とも出るつもりでいてくれる。俺が行ったところで役には立たない。俺が行っても行かなくてもなにも変わらない。
でも、本当にそれでいいのだろうか。たとえ無駄になったとしても、このままなにもせずに終わって本当にいいのか? 少なくとも日下部は俺を待っているのに。
『あっ、徒歩で三十分くらい歩いたところにある駅からならここまでバスで来られるみたいだよ』
「えっ、いま調べたの?」
『うん。調べるのすきなんだよね、俺』
「……逃げ道を確保する的な?」
『あー、そうかも。いつでもどこからでも逃げられるように? って、おい』
ふっと漏れた笑いに強張りが解ける。
行きたい。たどり着きたい。解けた心から自然と想いが溢れる。自分にできることがなくても、誰にも必要とされなくても。日下部が待っていてくれる場所にたどり着きたい。
「ありがと。最後の時間には必ず間に合わせるから」
『うん。待ってるね』
うん、と通話を終了させ、地図アプリを起動させる。日下部が教えてくれた駅までは徒歩三十六分。その先のバスの時刻表も開けば、次の発車は二十分後だった。その次は四十五分後。先のバスに乗らなくても最終回には間に合うだろう。でも――。
薄曇りの空の下、バスやタクシーを待つ列は伸び続ける。ロータリーを出た先の道路も混み始めている。
鼓動を落ち着けるようにゆっくり息を吸い込む。冷たい空気が肺に広がっていき、指先まで輪郭が鮮やかになる。駅までの経路を頭に叩き込み、スマートフォンをポケットにしまう。大丈夫、走れる。
バスロータリーを抜けた先にある住宅街を見据え、強く地面を蹴った。



