改良されたベア太郎の着心地はなかなかよかった。いまが冬だからというのもあるけれど、息苦しさはなく、なにより視界が広い。キャラクターによって口の開き具合が違うので、メッシュの大きさも変わる。場合によっては両手ほどの視界しかないのもあるが、今回は音楽ホールの黒いガラスが太陽の光を反射しているのも見える。首と胴体が繋がっているから頭が落ちる心配もない。ひとりでは着るのも脱ぐのも困難ではあるけれど、アテンドがつくので問題ない――はずだったのだけど。
「ん? なんだ? あの人だかり」
俺のアテンドをしてくれている麻生さんが、足を止める。手を引かれている俺も同じように足を止め、麻生さんの緩く結ばれた髪を視界の端に入れたまま視線の先を追う。俺たちがいる広大な公園と音楽ホールは隣接していて、低い植木で区切られている。その植木の向こう、ホールの裏口がある近くに親子連れと思われるひとたちが集まっていた。
メッシュ越しの視界は明瞭ではないが、子どもたちの高い声はハッキリと耳に届く。
「ニコニャンだ!」
「ニコニャンがいる!」
人混みの中心、にょきっと飛び出ていたのは丸いフォルムの黄色いネコだった。
「なんで、ここにニコニャンがいるんだ?」
麻生さんの怪訝な顔は見なくてもわかる。ベア太郎のなかにいる俺もきっと同じ表情をしている。ニコニャンは某教育テレビで放送されている番組の有名キャラクターであり、ベア太郎はインターネットにしかいないショートアニメーションのキャラクターだ。この二体が交わる世界線はない。事前にそういう打ち合わせでもない限り。
「あー、やっぱ今回のイベント会社微妙だと思ったんだよ。段取り悪いし、控室遠いし、下調べ足りなさすぎだろ」
音楽ホールの手前、掲示板にはニコニャンのポスターがあり、今日がイベント当日であることが告知されている。つまり、あっちは音楽ホールのイベント関連であり、こっちはただの通りすがり。控室と会場が遠い故のニアミス。どう考えてもこっちに問題がある。営業妨害するつもりはまったくないけど。
「あっちに見つかる前に早く行くぞ」
すでにベア太郎のなかのひとである俺は、声が出せないので頭を小さく揺らす。
「それにしても、なんであんなところでやってるんだ? アテンドいないのかよ」
早く行くぞ、と言いながらも、麻生さんはぶつぶつ呟いている。麻生さんはアテンドがメインだけど、ベア太郎のなかにも入ることができる。アテンドと着ぐるみ両方の気持ちがわかるからこそ、余計に気になってしまうのかもしれない。
足元に気をつけながら、ニコニャンのほうへ視線を向ける。
着ぐるみが転ばないように支えたり、集まってきたひとを整理したり、アテンドがいるから俺たち着ぐるみは安心して歩けるわけで。それが、あんな裏口の前で人だかりができるということは、よほど慣れていないアテンドか、アテンド自体がいないのか……。
「あっ、あれか。なんだ? あの子ども。もしや迷子か?」
麻生さんが、俺たちの目的地である公園のステージへと続く道の途中を指差す。ニコニャンのイラストが描かれたスタッフジャンパーを着た青年が、腰をかがめて子どもと手をつないでいた。うろうろと誰かを探しているようだが……。迷子なら指定された場所に送り届ければいいはずでは? あっちのスタッフなら公園ではなく音楽ホールのほうに行くべきでは? 子どもが引っ張っているのかもしれないけど。そこは大人として対応するべきだろう。
「あいつ、迷子対応マニュアル読んでないな」
ボソッと麻生さんの低い呟きが落ちる。正直なところ、ニコニャンたちがどうなろうが、俺たちには関係ない。俺たちにはベア太郎としての仕事があるし、下手に関わるのは危ない。……だけど。
「はあー、ちょっと行ってくるわ。ベア太郎はひとりでも大丈夫だよな?」
麻生さんがぽんぽん、とベア太郎の腕を叩く。着ぐるみに入っていなければ、俺の頭を優しく叩いたに違いない。口は悪いけど面倒見はいい。ここで助けるのはニコニャンたちのためではなく、子どもたちのためだろう。迷子の子どもも、ニコニャンに群がっている子どもも、なにか事故があってはいけない。中身高校生の俺よりも優先すべきなのは明らかだ。
きゅっと微かに縮んだ胸に、そっと息を送る。ベア太郎では話すことも走ることもできない。ここは大人しく待つべきだろう。
こく、と頭を揺らせば「すぐ帰ってくるから」と麻生さんが駆けだした。
麻生さんがスタッフを助けている間、俺はニコニャンに意識を向ける。あと少し頑張れよ、とエールを送るつもりで……ところが。
――あいつ、下手だな。
ほんの数秒観察しただけで、エールはイライラに変わった。ベア太郎の顔がなかったら、睨みつけているのがバレたに違いない。見えていなくてもいまの俺はベア太郎でなくてはいけないのだけど。でも、どうしてもムカムカしてしまう。あいつはニコニャンの仕草というものがまったくわかっていない。手を振るなら全力だろうが。なに可愛らしく振ってんだ。ニコニャンお得意の非常口のマネはどうした。着ぐるみは大人しく立っていればいいとでも思ってんのか。あー、イライラする。
ち、と舌打ちしそうになり、どうにか堪える。俺はベア太郎。ベア太郎は可愛い妖精。舌打ちなんて絶対しない。俺はベア太郎。赤いクマだって言われるけど妖精。ベア太郎はみんなに優しい妖精だから、イライラなんてしない――どうにか落ち着こうと「俺はベア太郎」と頭で繰り返していると、
「ママ―、ここからなか見えるよ」
不意に子どもの元気な声が響いた。
「なに言ってるの。そんなわけないでしょう」
「だって、ほら、ここ」
声から察するにニコニャンの足元にいる子どもだろう。頭と胴体が繋がっていない、頭を被るタイプの着ぐるみに隙間ができてしまうのは当然のこと。真下から見上げられれば、なかが少し見える。そもそも真下に来られたら、視界に入らないから危ないわけで、絶対に入れてはいけない――ということを、アテンドのいないど素人(にしか見えない)ニコニャンが対応できるわけはなく。
「……ちっ」
麻生さんがいたら絶対怒られる、とわかっていても止められなかった。着ぐるみでは走れないと思っていたけど、どうやら思い込みだったらしい。改良されたベア太郎は軽く、体との隙間が少ない。視界が広く設計されているので、障害物にも気づける。万が一、転んでも頭が取れる仕様にはなっていない。安心安全設計――じゃなきゃ、きっといまこうはなっていなかった。
「ニコニャンのなか、男の子入ってるよ。ほら、ママも見て。ここから――」
ニコニャンの足元に立っていた男の子にすっと影を落とす。
え、と大きく見開いた目をメッシュ越しに見つめながら、ゆっくりとしゃがみ込む。自分より小さな存在に出会ったとき、ベア太郎は必ず相手と目線を合わせる。声は出せなくても、その仕草だけで伝わるものはある。大きくなった目を中心に、ぶわりと顔が輝きを放ち、意識がこちらへ向いたことがわかる。
「ベア太郎!」
この子がベア太郎を知っていてくれてよかった。安堵を吐き出せば、バクバクとうるさい心臓を実感する。急に走ったものの呼吸は乱れておらず、これは予想外の自分の行動に対する緊張でしかない。すべては着ぐるみに隠してもらうのだけど。周囲に映るのは笑顔を絶やさないベア太郎だけ。中身の俺は見えなくていい。
「ベア太郎だ」
「ベア太郎がニコニャンと一緒にいる」
ほかの子どもたちにも認識されているという事実にじわりと胸が温かくなる。ベア太郎がどうやって生まれたかを俺は知っているから。
「あれ、ニコニャン?」
「ニコニャン寒いの?」
振り返れば、ニコニャンが小刻みに揺れている。震えているように見えるけど、着ぐるみのなかが寒いことはないだろう。これだけ続くってことは、咳か? いつからここにいるのかはわからないが、裏口の近くであることを考えると本来の出演時間は過ぎているのかもしれない。そして水分補給すら自分ではできない状況が続いているということだ。
「ニコニャン、大丈夫?」
ニコニャンとしては下手すぎて文句を言いたいけど、声を出さないようにしていることだけは認めてやらなくもない。
ち、とこぼれそうになった舌打ちを寸前でやめ、立ち上がる。あのアテンドが戻ってくるのを待ちたいところだけど、これ以上は待てない。
ニコニャンの黄色い腕を抱きしめ、くいくいと引っ張る。着ぐるみ越しでも振動がハッキリ伝わってくる。辛そうだな。
「ベア太郎が助けてくれるの?」
子どもの声に、こっくり頷く。それだけで、子どもたちが道を開けてくれた。
「ニコニャン、お大事にね」
「ベア太郎、バイバイ」
子どもの声に手を振りながら、ニコニャンをアテンドする。俺よりもずっと視界が狭いだろうから、ゆっくりしか進めない。もどかしいけど、仕方ない。俺は事故が起こらないようにするだけだ。
ようやく裏口のドアにたどり着き、ドアノブを捻る。指が動く仕様でよかった。ニコニャンの手をちら、と見れば指はすべて繋がっている。これではひとりで開けるのは難しかっただろう。
ニコニャンをドアの向こうに押し込める。振り返られたが、言葉を交わすことすらお互いできないのだ、そのままドアを閉めて遮った。
早く戻らねば。幸い、ニコニャンの退場によって人だかりは消えていた。
あとは麻生さんが戻るまでに元の位置に――と公園側へ顔を向けたとき。
ばっちり目が合った。ベア太郎の目ではなく、なかに入っている俺の目と。
「ベア太郎」
決して大きくはないのに、はっきりと声が届く。やばい。にこにこと微笑んだまま麻生さんが手招きしている。これは絶対怒られるやつ。逃げたい。逃げてしまいたいけど、ベア太郎にはこれから公園のステージに立つお仕事がある。……逃げることはできない。俺はいまベア太郎だから。そうだ、ここはもうベア太郎として堂々と振る舞おう。ベア太郎としてはひと(ニコニャンだからネコ?)助けをしたのだから。
一歩一歩踏みしめ、麻生さんに近づく。崩れない笑顔がこわいけど、笑顔が崩れないのはこっちも同じ(中身の俺はビビっているけど)。どん、と麻生さんの前に立つ。ベア太郎はなにも悪くないから謝りません、と伝わるように。まあ、脱いだらちゃんと謝るんだけど。
「――共犯だな」
ふっと表情を崩した麻生さんが、ベア太郎の手を取る。
「俺もベア太郎から離れちゃったし。八神さんには内緒にしておこう」
他人には「怒る姿が想像できない」と言われる穏やかな父さんの顔を思い浮かべ、コクコクと頭を揺らす。普段怒らないひとほど怒らせるとこわいものだ。
「さっき助けたアテンドの兄ちゃんにも言っておいたし、まあ大丈夫だろう」
写真は撮られないように気をつけたし、そもそもはニコニャンサイドの問題だし、こちらに文句がくることはないだろう。ニコニャンのなかがどんなやつかはわからないが、もう会うこともないだろうし。会ったところでお互いの顔もわからないし。なにより麻生さんも共犯になってくれたし。うん、大丈夫。
「よし、今日も働きますか」
麻生さんの声に、俺はベア太郎の大きな頭を上に向けた。



