ベア太郎は妖精です

 どうしてここに。玄関ホールの正面、ガラスの棚に俺と日下部の姿が反射する。
「これじゃない?」
 日下部が指差す先には、レインボーの服を着たベア太郎がいた。ガラスの棚の一番下で寝そべっている。毎日前を通っていたのに気づかなかった。――気づけるわけない。敢えて目に入れないようにしていたのだから。
「これは掃除しなくていいよね」
「……そうだな」
「ちなみにこれって、ベア太郎誕生の絵本?」
 日下部が棚の中央、一番目立つ位置に置かれた絵本を指差す。
「そう」
 母さんが俺のために描いた、俺が繰り返し読んだ本。色鉛筆の色は掠れ、紙の端は黄ばんでいたけれど、俺にとっては宝物だった。
 でも、もう俺だけのものじゃない。気軽に手に取ることさえできない。俺にとっては大事な思い出も、父さんにとっては会社の歴史を表すだけの、他人に見せるためのものにすぎない。
「すごいね。タイムカプセルみたい」
「タイムカプセル?」
 ガラスの向こうを見つめる眼差しは優しく、まるで日下部自身の大切なものがそこにあるかのようだった。
「一番大切にされたときのまま閉じ込めて、未来に届けたいんだろうなって」
 一番大切にされたときのまま――日下部の言葉が胸の奥にまっすぐ落ちてくる。絵本を初めて受け取ったときのことが、何度も繰り返し読んでもらったときのことが、抱えたまま寝てしまったときのことが一気に溢れ出す。まるで、おもちゃ箱をひっくり返したみたいに。
「でも、これは土に埋めてないし」
 本当に大事なものなら、ほかの誰にも見つからないようしまっておけばいい。もしも日下部の言うとおり、父さんも大切に思ってくれているなら、どうして会社なんかに置くのだろう。見世物にする必要なんてないじゃないか。
「でも、このほうが見たひとの記憶に残るよ」
「記憶?」
「ほら、よく言うじゃん。ひとは忘れられたときが本当の死なんだって」
「忘れられた、とき」
 思い出と思考が混ざり合い、言葉を繰り返すことしかできない。
「だからさ、こうやって多くのひとの目にとまれば、それだけ忘れられることはなくなるじゃん」
 キャラクターにとって「忘れられる」ことがどれだけ悲しいことなのか麻生さんとも話していたのに。どうして、いままで気づかなかったのだろう。気づかずにいられたのだろう。
「こうやってベア太郎はずっとずっと愛されていくんだね」
 ベア太郎を忘れずにいてもらうことは、俺にとって母さんを忘れずにいてもらうことと同じで。ベア太郎が愛されることは、作り手である母さんが愛されるということで。
 俺は自分の両手に閉じ込める方法で大切にしようとしたけれど。父さんは自分だけじゃなくて、もっとたくさんのひとに大切にしてもらう方法を選んだ。
 それだけのことだった――?
 方法が違うだけで、父さんも、母さんを大切に思っているのだろうか。
「八神くん?」
 滲みかけた視界を、顔を背けることで堪える。いま日下部に「どうしたの?」と聞かれたらうまく誤魔化せる気がしない。日下部の言葉は響きすぎるから。これ以上は視界が滲むだけですまなくなってしまう。
 ガランガラン、とドアベルの音が背後で鳴り響く。
「ただいまーって、あれ、どうしたの? こんなところで」
「八神さん、お疲れさまです」
「うん、お疲れさま。晴太郎? どうかした?」
 父さんの声とともに冬の冷たい空気が肌に触れる。込み上げていた熱を落ち着かせようと、そっと息を吸い込む。聞くならいましかない。ずっと目を逸らして逃げ続けてきたけど、本当は知りたかった。知るのがこわかっただけで、本当は向き合いたかった。
「あのさ、父さんに聞きたいことがあるんだ」
 声が震えずにすんだのは隣に日下部がいたからかもしれない。
「聞きたいこと?」
「どうして……ベア太郎がここにいるの?」
 自分から言い出したのに、本当に聞きたいことはうまく言葉にできなくて。ガラスの棚の中で寝そべるベア太郎へ視線を向ける。
「ああ、庭に置いておくとどうしても劣化しちゃうから。ひとりだけでもキレイに残しておきたくて。晴太郎もこのほうがいいだろう?」
 俺の名前を口にした瞬間、父さんの声が柔らかくなった気がして顔を上げる。
「俺?」
「ああ、レインボーは晴太郎のお気に入りだろう」
 レインボーの服を着たベア太郎を見つけたら母さんがおやつを豪華にしてくれる。だからいつもレインボーを探していた。
 だけど本当はおやつじゃなくて、俺がベア太郎探しをすると、母さんと父さんが笑ってくれるのが嬉しかった。
「母さんと晴太郎の思い出でもあるから、大事にとっておきたいんだ」
 大事に。言葉が耳奥で反響する。同じだった。父さんも俺と同じだったのだ。
 俺にとっては父さんと母さんと三人で過ごした時間こそが大事で――ということを伝えたいのに、言葉は喉から先に進まない。
「晴太郎」と父さんが名前を呼ぶ声に、軽快なメロディーが重なった。
 ごめんね、と父さんがジャケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップする。漏れ聞こえる会話から仕事の電話だとわかった。
 そっとガラスの表面を撫でる。冷たく隔てられた硬さが、なかにあるものを守っていた。ずっと、静かに。父さんは母さんを忘れてなんかいなくて、むしろいまも大事にしていて。ぎゅっと握った拳が、触れている場所をあたためていく。ほんの少し言葉にするだけでよかった。それだけで父さんの想いを知ることができたのに。
「日下部」
「ん?」
 ずっと静かに見守っていてくれた存在に、そっと視線を向ける。
「……ありがと」
 父さんと話せたのはベア太郎がいたから。ベア太郎を日下部が見つけてくれたから。じわりと目の奥が熱くなる。日下部がいまここにいてくれることがたまらなく嬉しかった。
「どういたしまして」
 なにも聞かないでいてくれる優しさに、心が解けていく。
 ――ああ、すきだな。
 春になったら花が咲くみたいに、とても自然に言葉が開く。報われなくてもいい。ただそばで咲いていたい。この想いに気づけたことを、俺は哀しいなんて思いたくない。
「晴太郎」
 耳を掠めていた会話が途切れ、父さんが俺に向き直る。
「ごめんね、今日はこのまま出ないといけなくて。続きは帰ってから話そう」
 申し訳なさそうに眉を下げた父さんが手を伸ばしてくる。ぽんぽんと頭の上で弾む柔らかさが懐かしさを呼ぶ。
 土曜日まで戻れないと言い残し、父さんは慌ただしく出ていった。