ベア太郎は妖精です

 父さんたちが帰ってくると、いままでの静けさが嘘のように室内はざわめきで溢れた。エアコンの設定温度は変わっていないはずなのに、二度ほど室温が上がった気がする。
「日下部くん、テストいける?」
「いけます」
 父さんに呼ばれ、立ち上がった日下部が俺を振り返る。なんの視線なのかわからないが、なんとなく頷いておく。それをエールだと受け取ったのか、日下部は少しだけ笑った。
 ほんの一瞬の、些細でしかないやり取りが小さく胸を鳴らし、痛みを呼ぶ。いや、だから、そういうのじゃないって。日下部は麻生さんがすきなのだから。俺はただのアルバイト仲間。それだけ。心のなかで繰り返し、ミーティングルームへと消えた背中から視線を外す。
「晴太郎、こっち手伝って」
「はい」
 呼ばれた声に応えながら「落ちるなよ」と心のなかでこっそりエールを送る。落ちたら、日下部は逃げてしまうかもしれないから。
 着ぐるみのクリーニングを手配し、撮影機材を棚に戻し、同時に管理表をつける。初めはパソコンのキーボードに触り慣れなくて入力作業だけで緊張していたが、いまでは視線を画面に固定したまま打ち込める。メールの文面は確認してもらっているけれど、最近では直す箇所がないこともある。
「晴太郎、仕事早くなった?」
 不意に近くで聞こえた声に心臓が跳ねる。振り返れば、父さんが後ろから覗き込んでいた。
「びっ……日下部は?」
「テスト中。解き終わったら出てくるように言ってある」
「そっか」
 テストはパソコンの画面に現れる問題をひたすら解く形式だ。解き終わって「完了」ボタンを押せば、すぐに結果がプリントされる。そういえば、俺のときも最初の説明以外は部屋にひとりだった。
「それにしても、あんなおっかなびっくり打ち込んでた晴太郎がねえ、成長したねえ」
「おっかなびっくりって」
「ああ、懐かしいですね。間違えても修正できるからって言っても、絶対間違えたくないってオーラがすごかったですよね」
「そうそう。眉間の皺がやばかった」
「わかる」
 いつのまにか周りのスタッフさんも会話に加わり、どこに視線を向けていいのかわからなくなる。過去の自分を恥ずかしがればいいのか、成長した自分に喜べばいいのか。みんな俺がアルバイトとして働く前から知っているので、先輩や上司というより兄や親の目線に近い気がする。
「この成長速度なら、社長の引退も早いかもですね」
「おいおい、勝手に追い出そうとするなよ」
 父さんが困ったように笑って、周りも同じように笑う。締め切り前の殺伐とした空気や、イベント直前の緊張感とは違う、穏やかな空気が室内を満たしていた。思わず「このままずっと続けばいい」と願いたくなるくらいに。「ずっと」がないことなんて痛いほど知っているのに。
「あっ! 八神くん」
 弾んだ声が飛んできて、振り返ると日下部が戻ってきていた。逃げ出したい、なんて顔はしていないから合格したのだろう。
「見て、見て」
 どうだ、と言わんばかりに、日下部がA4サイズの紙を突き出す。
「いや、俺より先に見せるひといるだろ」
 俺が父さんへと視線を向ければ、ようやく日下部も「あ、すみません。結果出ました」と父さんのほうへテスト結果をスライドさせる。微風にも満たないほど小さな風が頬に触れ、緩みそうになるのを内側から噛んで防ぐ。まっすぐ自分のところへ結果を見せに来てくれたことが嬉しかった。本当に見せたかったのは俺じゃなくて麻生さんだろうけど。
「うん、よくできてるね」
 ほら、と父さんがなぜか俺にパスするものだから、日下部が俺を見つめてくる。その両目には反応を楽しみに待つ輝きしかない。褒めてくれるのを待つ犬みたいだ。アルバイト仲間というよりは飼い主とペットみたいだな。麻生さんに褒めてもらえないからって俺に懐くなよ。
「……おめでと」
「それだけ?」
「それだけって?」
「俺頑張ったんだからさ、もっとちゃんと見てよ」
「なんでだよ。受かったんだからもういいだろ」
 ほら、と突き返してパソコンへと向き直る。けれど、俺がキーボードに触るよりも早く、画面と顔の間に紙が差し込まれた。焦点の合わない距離だったので、ラインを作るベア太郎が赤い毛玉にしか見えない。
「お前なあ」
「八神くんは今日、俺の先生なんだから、ちゃんと生徒の結果見ないと」
 ほらほら、と揺らされ、余計に焦点が合わなくなる。
「あーもう、邪魔するなよ」
 振り返るのと同時に睨み上げれば、思った以上に顔が近くにあった。わ、と思わず心の声が転がり落ちそうになる。日下部はそんな俺の様子には気づくことなく、柔軟剤みたいな柔らかい香りを漂わせ「ちゃんと見てってば」と見つめてくる。
 少し怒ったような声は不思議なほど耳に心地よく――といままで意識していなかった情報が流れ込んだ。
 じわり、と胸に熱が染みだし「あー、もう、わかったから。見ればいいんだろ」と差し出されていた紙を受け取る。
「ね、すごいでしょ?」
 さっき父さんが「よくできている」と言っていたくらいだ、それなりにいい点数なのだろう、と視線を右下に向ける。
「……九十二点」
「百点中九十二点! すごいでしょ」
 俺が読み上げれば、日下部がにっと頬を上げた。「褒めていいよ」「誇っていいよ」と目を輝かせている。直前までマニュアルを読み込んでいたことも、俺の案内をしっかりメモしていたことも知っているから褒めてやりたい気持ちはある。でも、麻生さんの代わりでしかないのかもしれない、と思ったら素直な言葉は消えていた。
「俺は満点だったけど?」
「ええ……そうくる?」
 無駄に整った顔がきらきらの笑顔から、しょんぼり顔へと変わる。くるくると表情の忙しいやつだ。ついでに尻尾と耳が下がるのも見える気がする。こういう姿も麻生さんは知っているんだろうな。
「八神くん?」
「ずいぶん仲良くなったんだねえ」
 日下部の声と父さんの声が重なった。
 ふたり同時に振り返れば、父さんがにこにこと笑顔を見せていて――察した。これはいい笑顔じゃない。そうだ、いまは休憩時間じゃない。勤務時間中でも、軽い談笑は許される。だけど、きっと、俺と日下部のそれは限度を超えていたのだろう。
「晴太郎」
「はい」
「この前のベア太郎、さらに改良したいからアンケートやっておいて」
「はい」
「こっちのデータも入力しておいて」
「……はい」
 こういうときは逆らってはいけない。
「日下部くん」
「はいっ」
 まだ気づいていないのか、日下部の声は明るく響く。気づいていてやっているなら、たいしたものだけど。
「申し訳ないのだけど、明日の午後も晴太郎とふたりになっちゃうんだ」
「そうなんですね」
「うん。それで、ふたりには中庭の掃除を頼めるかな?」
「あれ、それって」
 ちら、と日下部が俺に視線を送る。俺が「中庭の手入れは必要ないから」と言ったのをちゃんと覚えていたらしい。こく、と小さく頷き返す。覚えているなら、いまの父さんの言葉の意味もわかるだろう。
 父さんは尋ねているのではない、俺たちに罰掃除を命じているのだ、と。
「「わかりました」」
 揃って頷けば、父さんは「じゃあ、よろしくね」と最後まで笑顔を崩さない。父さんは着ぐるみ以上に着ぐるみらしい。
「八神くん、ごめんね」
 ぽそっと、俺だけに聞こえる声を落とし、日下部が申し訳なさそうに肩を縮める。そうだ、日下部のせいで仕事は追加され、罰掃除まで言い渡された。それなのに、悔しいことにちっとも怒りが湧いてこない。
「明日、逃げたら許さないからな」と不機嫌な声を作るのが精一杯だ。
「逃げないよ」
 視線の先、日下部が柔らかな表情を見せる。
「逃げるわけない」
 それは麻生さんと同じ職場だから? 喉元にせり上がった言葉を飲み下し「言質とったからな」とパソコンの画面へと顔を向けた。