ベア太郎は妖精です

 正面に座っていた日下部が、マニュアルの最後のページを閉じる。きゅっと形のいい眉を寄せ、俺よりも上、遠くを見る。
「文字が回る……」
「おつかれ」
「範囲広すぎじゃない? 八神くんいなかったら絶対くじけてた」
 そんなことないだろ、と心のなかで返しながら分厚いマニュアルの隣へと視線を向ける。真っ白だったメモにはいまやびっしり文字が並んでいる。日下部が今日来てから書き続けているものだ。
「お前、意外と真面目だよな」
「意外とって」
「面倒なことからは逃げるじゃん」
「面倒じゃなくて、嫌いなものから逃げてるだけだよ」
「どう違うわけ?」
 面倒イコール嫌い、ではないのだろうか。正面から問いかければ、色素の薄い澄んだ瞳が俺に向けられる。ぱちぱちと二度瞬きを挟み、ゆっくり唇が開く。
「失敗する自分が嫌いだから」
 え、とうまく拾いきれずにいると、日下部が言葉を繋ぐ。
「失敗したり、間違えたり、うまくできない自分って恥ずかしくて惨めじゃん。だから逃げたくなる」
「面接のときも?」
「そ、いきなり時間間違えるなんて失敗して、ああ取返しつかないな、こんな自分嫌だなって」
「さっきの『逃げたい』は?」
「バイトのテストに落ちた初めてのひとになんてなりたくないじゃん」
 そういうことか、と初めて日下部のことを理解できた気がした。日下部の基準は「嫌いかどうか」もっと言えば「自分を許せるかどうか」なのだろう。許せないとなれば嫌いになって逃げる。ようやく触れた一端に、熱くなった指先を握りしめる。少なくとも、いま俺と一緒にいることは嫌じゃないって思ってもいいのだろうか。
「八神くんは?」
「えっ」
「ないの? 逃げたくなること」
 日下部が机に頬杖をつき、顔を傾ける。長い睫毛の奥では「なんかあるよね」と瞳が光っていた。
「俺は……――もうずっと逃げてる」
 え、と手のひらから顔が浮き、驚きに丸くなった目が俺を映す。誤魔化してしまうこともできたはずなのに、なぜか言葉が落ちていた。日下部の素直さに感化されたのか、嘘をつきたくなかったのか、聞いてほしかっただけなのか。明確な理由は自分でもわからない。ただ、日下部だから言えたのだろう、ということだけはわかる。
「母さんが死んでからずっと……いや、もう少し前から、俺は」
 ガランガラン、と静かな室内に響いたドアベルの音が言葉を遮る。
 誰か帰ってきたのだろうか、と思考が入り込んだことで「なにを言おうとしているのだろう」と急に恥ずかしくなった。逃げているのは俺の問題で、日下部は関係ない。話したところで困らせてしまうだけだ。
「お疲れさまでーす」
 明るい挨拶とともに入ってきたのは、麻生さんだった。カラフルなマフラーと大きな紙袋を手に持っている。
「あれ、麻生さん、今日シフト入ってないですよね?」
「そ、お土産だけ持ってきたんだけど……晴太郎たちだけ?」
「急な仕事が入っちゃって」
「そっか。じゃあ、君たちラッキーだね」
 にっこり微笑むと、俺と日下部の前までやってきた麻生さんが「ほい、お土産」と紙袋から出した包みを机に置いた。
 包装紙には、ベア太郎ではない、クマのキャラクターが描かれている。クマの顔が焼き印された温泉まんじゅうらしい。うちの会社ではなぜかみんなクマに関係するお土産を選んでくる。規則があるわけではないのに。敵情視察みたいなものだろうか。
「クマがさあ、これしかなくて」
「これは、ご当地キャラクターかなんかですか?」
「一応そうなんだけど、いまはべつのキャラクターのほうが人気らしくて。隅っこに追いやられてた」
「そうなんですね……」
 はあ、と麻生さんとため息が重なる。何十年と愛されるキャラクターもいれば、ほんの数年で忘れられてしまうキャラクターもいる。存在自体認識されずに消えてしまうことだって。幸い、ベア太郎はまだ消える気配はない。けれど、いつどうなるかなんてわからない。
 重なったため息は俺と麻生さんが同じ思いを抱いている証拠……ということにまったく気づかない人物がひとり、この場にはいた。
(しずか)、これ開けていい?」
 日下部が包みを持ち上げ、麻生さんを見上げる。そこに憂いは一切なく、目の前のお土産にだけ興味が向けられていた。いや、それよりも……いま、静って呼んだ?
「いいよ。陽太(ようた)は今日が初日?」
「そう。まさか初日からこんな感じとは思わなかったけど」
「タイミングがなぁ」
 剥がされた包み紙を麻生さんが折り畳み、日下部が箱を開ける。ふたりの動きは不思議なほど無駄なく嚙み合っていた。お互いに下の名前で呼んでいるし、日下部にいたっては敬語すら使っていない(俺に対してもだけど)。日下部は今日が初出勤だよな? ふたりは知り合いなのだろうか?
「あっ、あんこだけじゃないんだ」
「そうそう、こっちがクリームで」
「あの、ふたりって知り合いなんですか?」
 おまんじゅうへ向いていたふたつの視線が、ぱっと俺のほうへ向けられる。
「晴太郎、八神さんから聞いてない?」
 麻生さんの大きな手が、俺ではなく日下部の頭に伸び、なんの躊躇いもなく触れる。
「陽太は俺の幼馴染なんだわ。で、俺から八神さんに紹介したの」
 ぽんぽんと麻生さんの手が、日下部の頭の上で跳ねる。自分に触れたわけではないのに、何度と繰り返された感覚の記憶が、きゅっと心臓をつねる。
「そうだったんですね」
「まあ、紹介はしたけど、無理そうなら断ってくれていいですからって言ったんだけど」
 再び手を弾ませた麻生さんが「とりあえず面接受かってなにより」と笑った。
「やめろ。身長縮むだろ」
「こんなんで縮むならそれは本物じゃないから縮んだほうがいいよ」
「やめろって」
 迷惑そうに振り払おうとする日下部と、楽しそうに微笑む麻生さんと。それはふたりにとってひどく慣れたやり取りなのだと、初めて目にするのにわかってしまう。
 だからって、俺がなにを思う必要はないはずなのに。どうしてだか胸の奥からもやもやと嫌な心地が広がっていく。ふたりが知り合いだからって俺には関係ないのに。
 ――晴太郎にとっては仕事の先輩っていうよりお兄さんって感じだから寂しいと思うけど。
 不意に父さんの言葉を思い出した。
 俺は麻生さんを兄のように慕っているから、だからこんなにも嫌な気持ちになるのだろうか。麻生さんを日下部にとられたとでも思っているのか?
「静、しつこい」
「なんだよ、せっかく協力してやったのに」
「それは感謝してるけど。でもまだ見つけられてないし」
 ふたりにしかわからない会話の隙間、わずかに頬を赤くした日下部が唇を尖らせる。顔を反対に背けるから、耳の縁まで赤いのが見えてしまった。
 なんだろう、これ。胸の内側ががさつく。疎外感? 寂しさ? 言葉は浮かぶが、どれもしっくりこない。そういう哀しさに似たものではなくて、ここにあるのはもっと、もっとどうしようもなく、強くて、熱い――。
「陽太の耳赤くない?」
「そんなことないし」
「でも、ここ……――晴太郎?」
 気づけば、麻生さんの手首を掴んでいた。麻生さんの指が日下部の耳に触れそうだったから。触れそうで、それで、嫌だって思って、どうしても止めずにはいられなくて。
「八神くん?」
 日下部が振り返った瞬間、体の内側で熱が弾けるように広がった。胸のがさつきは一瞬で焼き払われ、嫌な心地さえ掻き消える。代わりに恥ずかしさでいっぱいになった。
「あっ、と、すみません。なんか付いてるように見えたんですけど、気のせいだったみたいです」
 パッと手を離し、なにか聞かれる前にと立ち上がる。いま自分がどんな顔をしているのかわからなくて、見られたくなくてふたりの顔が見られない。
「ちょっと飲み物買ってきます」
 どうにか思いついた言い訳を残し、ドアへと急ぐ。麻生さんが名前を呼んだ気がしたけど、振り返らなかった。ドクドクと弾み続ける心臓が内側から耳を塞ぐ。なんで。どうして。繰り返し問いかけながら、自動販売機ではなくプライベート表示のあるドアへと向かう。ここなら誰にも見つからない。
 ドアを背中で閉じれば、安堵の息が漏れた。堪えていた体温が一気に上がる。
 心臓はうるさいまま「なんで」「どうして」と思考だけが忙しく回り続けている。
 麻生さんが日下部に触れるのが嫌だった。麻生さんが自分以外に触れるのが嫌だったわけじゃない。兄のように慕っているけど、そんな独占欲はない。麻生さんが誰と仲良くしようと俺には関係ない、だから……そうじゃなくて、そうじゃなくて……俺は、日下部が誰かに触れられるのが嫌だった。
 なんの躊躇いもなく触れてしまえる麻生さんに――嫉妬した?
 日下部とまともに話したのなんて、今日がほぼ初めてだ。それなのに、オセロがひっくり返るように、心がまったく違う色を見せる。全然すきじゃなかったはずなのに。いやいや、嫉妬したからって日下部のことがすきってことにはならないのでは? 仲のいい友人同士であっても嫉妬することはあるし。
「そう、べつにすきとかそういうのじゃなくて、だから……」
 呟きが静かな空間に落ちていく。俺は誰になんの言い訳をしているのか。冷静になろうと、深く息を吸い込めば、冷えた空気が肺に広がっていく。それでも顔を上げた先、鏡にはベア太郎みたいな、真っ赤な自分の顔があって、なにかを認めなくてはいけない気がした。