ベア太郎は妖精です

 タブレットの画面にエンドロールが流れ、視界がゆっくりと広がっていく。隣に座る日下部のことも忘れて見入ってしまった。何度見ても「いいな」と思える。特に初期のベア太郎が俺はすきだ。
 日下部はどう思っただろう、と視線を向ける。
「日下部……泣いてんの?」
「えっ、あ、ほんとだ」
「気づいてなかったのかよ」
 思わずハンカチを差し出せば、日下部は「なんか集中しちゃって」と照れくさそうに笑った。
 本当にいまのいままでベア太郎の世界にいたのだろう。日下部はまだ何度か瞬きを繰り返している。まるで現実世界にチャンネルを合わせるかのように。
 ――晴太郎、また観てるの?
 懐かしい声が耳奥で蘇る。自分にもあった。現実との境界線が曖昧になるほど見入っていた時期が。どうしてだか、日下部と出会ってから母さんをよく思い出す。できるだけ遠ざけていたはずなのに。母さんとの思い出は懐かしさだけでなく失った痛みもあるから。でも、いまは痛みよりもあたたかさを強く感じる気がした。
「ベア太郎、最初の頃とはやっぱり違うんだね」
「まあ、アニメーションになってから十年経つし」
 この十年の間にベア太郎も少しずつ改良されている。母さんが描いたときより体つきは丸くなり、体の赤色は鮮やかになった。
「そっか。でも妖精って設定は最初からずっとあるよね」
「ちっとも活かされてないけどな」
 着ぐるみとして複数同時に存在できるという都合のいい設定の使い方はあるけど。でも、絵本でもアニメーションでも、ベア太郎が妖精らしさを発揮したことはない。羽がないから飛べないし、魔法が使えないから物理的に解決するしかない。
「いやいや、そんなことないでしょ」
 日下部が「なに言ってんの」と笑い、観終わったばかりの動画を再生させた。
「ほら、ここ」
 一時停止された場面は物語の冒頭、ベア太郎が森のなかで鳥の雛に出会うところだ。
『どうしてこんなところにいるんだい?』
『巣から落ちちゃったの』
 字幕にはベア太郎と雛の会話が表示されている。
 ベア太郎が雛を巣に戻すために奮闘する回だ。巣を探し、はしごを作り、短い腕を必死に伸ばして巣に戻してあげる。ベア太郎の優しさは伝わるが、妖精要素は発揮されない。
「これのどこに妖精要素があるんだよ」
「よく見てよ。ここ、しゃべってる」
 日下部が画面の下の字幕を指差す。
「それが?」
「ベア太郎が熊だったら、鳥と話せるわけがない」
 冗談を言っている雰囲気は一切なく、日下部の顔は真剣だった。
「これは鳥だけど、ウサギとか鹿とか虫とかとも話すんだよ、ベア太郎は。すごくない? なんでほかの生き物の言葉わかんの? 言葉の壁あるでしょ、普通。こんなの妖精しかあり得ないじゃん」
 言葉を重ねるうちに早口になり、透き通った瞳を丸く輝かせる。日下部の興奮度合いが伝わってきて――ダメだった。
 ふっと糸が解けるように自然と笑いがこぼれる。
「ふ、ふは、そこ? そこなの?」
 動物同士が話すことなんて物語のなかでは当たり前なのに。そこに妖精要素を見出すとは。俺だって「言葉が通じることは当たり前じゃない」と知っていたはずなのに、ちっとも疑問に思わなかった。それは読んでいたのが子どものときだったからかもしれないけど。
 いまも疑問に思わないのは、物語が現実世界ではないと知っているからだ。日下部がアニメーションの世界を現実と繋げて考えていることのほうがきっと珍しい。成長するにつれ、都合よく作られていることを受け入れてしまうものなのに。
「ちょっと、なんで笑うの?」
「だって、お前、すごい」
「なにが?」
「作られた物語を当たり前に受け止めないの、すごすぎるだろ」
「……それ、褒めてる?」
 父さんがどうして日下部を落とさなかったのかわかった気がする。みんなが当たり前に手放してしまうものを、日下部は持っているのだろう。
 ――そういうはっきり言うのがいいじゃない。
 自分の気持ちを伝えるのも、失敗から逃げようとするのも、ワガママとも言えるけど、ただの素直な反応とも言える。
 ――高校生なんてまだまだ子どもだ。初めからなんでもできるわけない。すべては学んでいる途中だから。
 不意に思い出された言葉に、心臓がトクと鼓動を大きくする。
 もしかして、あの言葉は。父さんが言いたかったことは。
「八神くん?」
 俺を「まだ大人になれない子ども」だと呆れていたのではなく「無理して大人にならなくていい」と言ったのだろうか。父さんはいまのままの俺を認めてくれているのだろうか。
 じわりと熱がせり上がる。
 俺と父さんの間に言葉の壁なんてないはずなのに、全然わからない。父さんの考えていることがわからなくて……違う、わかろうとしなかった。だって本当に必要とされていなかったら? 呆れられていたら? 母さんはもうそばにいない。ベア太郎はもう俺だけのものじゃない。そんな世界で、俺はひとりになってしまう。
 触れなければ、知ろうとしなければ、傷つかなくてすむ。そうだ、俺はずっと父さんと向き合うことから逃げていたんだ。
「大丈夫?」
 心配そうな声のあと「よかったら、これ使って」と差し出されたのは、さっき俺が渡したハンカチだった。
「それ俺のだし、っていうか、泣いてないし」
「泣きそうな顔してるじゃん」
「……してないし」
 えー、と不満そうな声を出しながらも、日下部は優しく目を細める。予想外に柔らかな表情を向けられ、ドク、とさっきよりもずっと大きな音で心臓が鳴った。こいつの顔が良すぎるのが悪い。きっとそう。俺のまわりにここまで顔が整っているやついないし、見慣れないから、だからきっといちいち心臓が反応してしまうのだ。そうに違いない。
「まあ、いいや。これ貸してくれてありがと」
 ん、とハンカチを受け取り、端に避けていたカップへと手を伸ばす。動画を観始めてから集中してしまい、まったく飲めていなかった。ぐいっと傾ければ火傷の心配なんてこれっぽっちもない温度が喉を過ぎていく。
 ちら、と横目で窺えば、日下部は両手でカップを包んでいる。大事なものを持つかのように。もうとっくに冷えているはずなのに。
「マニュアルちゃんと読まないとテストやばいと思うぞ」
「えっ、そんな難しいの?」
「それなりに」
 ベア太郎やベアベアドリームに関する基礎知識のほか、着ぐるみやアテンドといった職種ごとの問題もある。いずれもマニュアルに書いてある基本的なことばかりだけど、全部で百問ある。つまり問題数がえげつない。
「それって落ちることあるの?」
「落ちたってひとは聞いたことないけど、合格ラインはあるよ」
「つまり俺が落ちたら史上初ってこと?」
「そうなるな」
「うわあ……逃げたい」
 日下部が不安そうに顔を歪ませる。思えば、俺の前では、ぺらぺらの笑顔すら見せていない。父さんの前ではそれなりに頑張って取り繕っていたのに。――こっちのほうがいいな。着ぐるみに入って子どもと接しているときと同じ。素直すぎる反応はわかりやすいからこそ、変に身構えなくていい。
「逃げたいって。いまさらなに言ってんの」
 そう、いまさらだ。あんなに辞めてほしいと思っていたはずなのに。
 俺は日下部が逃げないように「出るポイント教えてやるから、戻るぞ」と立ち上がった。