ヤクシニーの愛

 本当は一度、智也が赤ん坊の時に、夜泣きが酷くて精神的に参ってしまい、育児放棄しかけた事があった。

『どうして泣き止んでくれないのっ!』

 ヒステリックに叫んだ私は、思わず智也を打ってしまった。

 智也は火が付いたように泣き、私は両手で頭を抱えて『あああああああっ!!』と髪を掻きむしる。

 夫は当然家にいない。

 ――もう、いや!

 夜中にフラリと家を出た私は、『男の子が生まれますように』とお百度参りをした、近所の神社に向かっていた。

 晩秋の夜、境内には誰もおらず、都内だというのにザワリとする怖さがある。

 鬼子母神を奉るその神社にあやかって子供を授かったのに、私は智也から逃げて楽になろうとしている。

『……ごめんなさい。……許してください……』

 私は拝殿の前で手を合わせ、涙を流して神様に謝る。

『もう、どうしたらいいか分からないの。このままじゃ、鬼になっちゃう……っ』

 愛したいのに、愛せない。

 その苦しみに藻掻いていた時、突如として左頬を強烈な痛みが襲った。

『あああぁああぁっ!』

 私は両手で左頬を押さえ、その場に膝をつく。

 頬はジンジンと痛み、つられて頭痛までするほどだ。

 強烈な痛みに見舞われた私は、しばらく泣きながらその場にうずくまっていた。

 ――と、視線を感じる。

〝何者か〟に見られていると感じた私は、頬の痛みを我慢しながら周囲を見回した。

 誰もいない。

 だが、ようやく視線の主が見つかった。

 境内にある鬼子母神像が、じっと私を見つめている。

 鬼子母神は自分の子供を育てるために、他人の子を食らっていた鬼女だが、釈迦の教えを得て改心し、子供たちの守り神となった存在だ。

 それが今、私を見ている。

《要らないのなら、喰ってしまうぞ》

 冷たい石像が話すはずなんてないのに、そんな声が聞こえた気がした。

 ブワッと全身に冷や汗を掻いた私は、必死に謝った。

『すみませんっ! すみませんっ! 智也の事は一生かけて愛し、守りますっ!』

 そう口にしてから気づく。

 いま私が感じている痛みは、先ほど私が打ってしまった智也の左頬の痛みだ。

 ――子供を愛さなければ、母親じゃない。

 強い想いを抱いた私は、嫌な思い出ばかりの少女時代を思い出し、自分に活を入れる。

 そうだ。あんな母親になったらいけない。

 自分の思い通りにいかないからって、子供に暴力をふるって言う事を聞かせる親になったら駄目だ。

 見返りなんて求めない、無償の愛で智也を包み込み、何を言われても、暴力を振るわれても、裏切られても笑っていられる母にならなければ。

 だって私が少女時代に思い描いた〝理想の母〟は、そういう人だ。

 私はグッと目の奥に力を込め、決意を宿す。

『智也のためなら、なんだってします。鬼にだってなります』

 ただし、智也には鬼にならない。

 私が鬼になるのは、智也を害するすべてのものに対してだ。

 愛する智也が自由にのびのび、健康で幸せに育っていくなら、他の人なんてどうなっても構わない。

 神様にお願いしていただいた、たった一人の息子だもの。

 子供を守るために産休後もしっかり働ける会社に勤めたし、子供と幸せな生活を送ると思って貯金もしてきた。

 あとは全力で愛するだけじゃない!

『神様、申し訳ございません。心を改めました。すぐに帰って智也を愛します』

 私は鬼子母神像に頭を下げ、智也が一人で待っている家へ足を向ける。



 いつの間にか、頬の痛みは消えていた。



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