坂井くんは悪霊じゃない

 
 新幹線を降りると、そこは空気からして地元とは違っていた。
 草花の匂いが一切しない。
 高架にあるホームから見えるのは、無機質な高いビル群だけ。

「スカイツリーは……まだ見えないな」

 天井から吊り下がった駅名標には『東京』とある。

 ずいぶんと遠くまで来てしまった。
 ここまでの遠出は自分一人では初めてだ。

 旅の費用は、昨日振り込まれたばかりのバイトの初任給でギリギリ賄えた。
 もともとは悪霊のお祓いにと稼ぎ始めたお金だったけれど、結果的にここで役立って良かった。

 手元のスマホで地図アプリを開き、本日の目的地を表示する。
 見慣れない街の詳細を眺めながら、僕はここに来ることになるまでの経緯を振り返った。


        ◇◆◇◆◇


「市川。やっとわかったぞ。坂井の弟の居場所」

 五月の下旬。
 じわじわと蒸し暑くなってきた教室に、二岡の上機嫌な声が響く。
 彼は僕の席までやってくると、机の上にスマホを置いて地図アプリを起動した。

「事故の一年後に親の実家へ家族で引っ越したらしいんだけどな。弟は今年から大学生で一人暮らしを始めたらしい。今は東京にいるんだって」

「東京……」

 遠いな、と思った。
 自慢じゃないが、僕らの住む町は日本の中心地から恐ろしく離れている。
 泊まりがけでもない限り、上京するには新幹線が必要だ。

 二岡は僕らの現在地と大学の位置とを地図内に表示した。
 改めて見てもかなりの距離だ。

「どうするんだ、市川? さすがに会いに行くには遠いし、電話か何かでやり取りするか?」

 遠く離れた場所から、文字や音声だけでの会話。
 それでは何かが足りないような気がした。
 誰かと大事な話をする時は、実際に顔を突き合わせてみないと、お互いの生きた体温を感じられないように思う。

「……一度、坂井くんと相談してみるよ」

 この問題は、僕一人で考えていいものじゃない。
 まずは坂井くんとちゃんと話して、これからのことを決めるべきだと思った。


        ◇◆◇◆◇


 信号が青になりました、という機械音声が耳に入って、僕は我に返った。
 途端に、足元のアスファルトから照り返される太陽の熱を感じて顔を顰める。

 東京は暑い所だ。
 人が密集するせいか、それとも無機質な人工物が建ち並んでいるせいか。
 ヒートアイランド現象なんて言葉をたまにニュースで耳にするけれど、実際にその場に立ってみれば想像以上だった。
 周りを歩く人々は誰もが時間に追われているようにせかせかと足を動かしている。

 この街のどこかに、昇くんがいるのか……。

 小学生の頃の環境とは似ても似つかないこの地で、彼は勉学に励んでいる。
 聞けば有名な大学に進学したようで、素直に感心した。

 坂井昇くんは、僕の友達だった。
 少なくとも僕が小学一年生の頃はそうだった。
 あの児童館で、僕らはよく一緒に遊んでいた。
 そして例の水着事件が起こったことで、彼は僕の前から姿を消したのだ。

 彼が今、僕のことをどう認識しているのかはわからない。
 裏切り者の元友達か、あるいは存在すら忘れてしまったどうでもいい人間か。

 東京(ここ)に来る前に、すでに連絡は入れておいた。
 簡単な自己紹介と、会って話したいという旨を伝えて、なんとか約束を取り付けることができた。

 けれどいざ今日を迎えて、僕はたまらず逃げ出したくなっている。
 彼の反応が怖い。
 あの優しかった彼に一体どんな顔を向けられるのか、想像するだけでも足が震えてくる。

 約束の時間まではまだ三時間ある。
 今はとにかく心を落ち着けようと、僕は駅近くにあった雰囲気の良いカフェに入った。


        ◇◆◇◆◇


 二岡が昇くんの居場所を突き止めた日。
 昼休みになると、僕は坂井くんの待つ旧校舎へと向かった。

 先日の放送の後から、しばらくは野次馬たちが階段の蹴上の高さを測りに来たりしていたけれど、その数も次第に減って、ここ数日はまた元の静けさに戻っていた。

 二つ目の踊り場を通り越すと、三階が見えてくる。
 例の段差だけは踏まないように飛び越して、そこから左奥にある教室へと向かった。

「よお、陸」

 扉を開けると、坂井くんはいつものように窓辺に立っていた。
 相変わらず、ここのカーテンだけは開けたままにしている。
 この三階から離れられない坂井くんにとって、この窓から見える景色は数少ない楽しみになっていたようだった。

 僕は窓際の席に着いてお弁当を開けながら、弟の昇くんの居場所がわかったことを話した。

「東京か……。あいつ、そんな遠い所まで一人で行ったんだな。昔のイメージからは想像もつかない」

 確かに小学生の頃の姿しか知らない彼にとっては不思議な気分だろう。
 そして、その感覚は僕も同じだった。
 あの大人しかった昇くんが、今では立派に自立した大人になっているのだ。

「ねえ坂井くん。僕、弟さんに会いに行こうと思ってるんだ」

「会いにって、東京まで行くのか?」

 別にそこまでしなくていいぞ、と坂井くんは笑った。
 弟が元気にやっていることがわかっただけでも、彼は満足しているらしい。
 あとは自分の成仏に繋がるのならと、メッセージだけ伝えてくれたら嬉しいとのことだった。

 彼にはまだ、僕がもともと昇くんの友達だったということを教えていない。
 そして昇くんを裏切ってしまった事実についても、まだ。

「……陸?」

 急に黙り込んだ僕を、坂井くんは不思議そうに見ていた。

「どうかしたのか?」

「坂井くん。実は僕は……」

 あの時のことを誰かに正直に話すのは、これが初めてだ。
 しかも相手は当事者である昇くんの実のお兄さん。

 どんな軽蔑の目を向けられるかわからない。
 でもだからこそ、逃げるわけにはいかない。

 昇くんのことも、僕のことも大事にしてくれた坂井くんに、後ろめたい隠し事なんてしたくない。
 僕は今ここで、自分自身の罪を告白するべきだと思った。


        ◇◆◇◆◇


 東京駅近くのカフェに入り、昼食をとったものの、さすがにその場で三時間を潰すのは無理だった。
 結局一時間ほどで店を出て、再び人の波の中へ身を投じる。

 昇くんとの約束まで、残り二時間。
 東京に来たらてっきりどこからでもスカイツリーが見えると思っていたのに、周りは壁のような高層ビルが並んでいるせいでちっとも見えなかった。

 昇くんは毎日この景色を見ているのだろうか。
 そう思うと、自然に手がポケットに伸びて、そこにあるスマホを掴む。
 カメラアプリを起動して、この道を歩く様子を動画に収めた。
 地元に帰ったら、この景色を坂井くんにも見せてあげたい。

 できれば昇くんの現在の姿も見せてあげたいのだけれど、本人が撮影に応じてくれるかどうかはわからない。
 そもそも僕と会うことに嫌悪感はないのだろうか……。

 あれこれ考えているうちに、また不安が大きくなってきた。
 こんな暗い顔をしていたら昇くんに会えないな、と自虐的になっていると、不意に手元のスマホが振動した。
 着信が表示され、そこに見えた名前に僕は驚く。

「天童……?」

 まさかの天童からの電話だった。
 確か今日もバイトだったはずだけれど、休憩中だろうか。
 あるいはお客さんから僕にクレームが入ったとかそういう連絡だったら——と悪い方に考えて青ざめる。

「もしもし、天童? どうしたんだ?」

 すぐさま応答ボタンを押してスマホを耳に当てると、

「あ、やっほー市川くん! 元気!?」

 思いのほか能天気な声が返ってきて、僕はズッコケそうになった。

「……なんだよ天童。こんな時間にいきなり電話してくるから、てっきり仕事で何かあったんじゃないかと思った」

「ごめんごめん。特に用事はないんだけどさ、市川くん元気にしてるかなーって」

 元気……は、あると思う。
 少なくとも体は問題ない。
 ただ精神的な面ではちょっと脆くなっている自覚があった。

「……まあまあ元気にやってるよ。前にも言ったけど、今日は東京の方まで来てるんだ」

「だよね。弟さんと話すんでしょ? なんか市川くん、その話題になるとちょっと元気がなさそうだったからさ。大丈夫かなーって」

 意外と鋭い。
 いや、前々から天童はそうだった。
 いつもヘラヘラして何も考えていなさそうな顔をしているのに、僕が何かしら悩んでいるといち早くそれを見抜いてくる。

「もしかして、僕を元気づけようとして電話をかけてきてくれたの?」

 スピーカー越しに尋ねると、彼は「えー?」と困ったように笑って誤魔化す。
 さりげないその気遣いは、俯きがちだった僕の心を優しく包み込んでくれた。

 僕の周りは優しい人ばかりだ。
 天童も、坂井くんも、ついでにあの二岡も。
 みんなの助けに支えられて、僕は今ここにいる。

 僕に対して注がれるこの優しさが、九年前の昇くんの周りにも少しでもあれば良かったのに……。
 今さら悔やんでも仕方のないことに、僕は思いを馳せた。


        ◇◆◇◆◇


 坂井くんには結局、僕の過去と罪を洗いざらい告白した。

 今から九年前、僕は昇くんと出会った。
 当時は僕が小学一年生、昇くんが四年生だった。

 お互いに学校で顔を合わせることはなかったけれど、放課後に寄る児童館ではいつも一緒だった。
 大人しい性格の昇くんは同学年の子たちとあまりうまくいっていなかったのか、児童館で見かけた時は僕らのような下級生に紛れて遊んでいることが多かった。

 そこで僕は彼と一緒にかくれんぼをしたり、彼におんぶをしてもらったりして楽しい時間を過ごした。
 穏やかな彼はいつもニコニコしていて、遊んでいる途中でも僕らが怪我をしないようにと注意深く見守ってくれていた。

 今思えば、彼はこの時すでに兄である坂井くんを失っていたのだ。
 僕が小学校に上がる前の年に、坂井くんはあの階段で命を落とした。
 昇くんと僕はお互いに兄弟はいないということを話した覚えがあるのだけれど、あれは元からいなかったのではなくて、亡くしたという意味だったのかもしれない。

 児童館で僕が見た昇くんは、いつもどこか寂しげな雰囲気を纏っていた。
 あれももしかしたら、大事なお兄さんを亡くしてしまったせいだったのかもしれない。

 そんな中で、例の水着事件が起きた。
 昇くんのクラスメイトの女子の自作自演で、昇くんは濡れ衣を着せられた。
 周りの誰もが彼を犯人だと決めつけて、僕もそれを否定しなかった。
 その後彼は児童館に来なくなり、ひっそりと遠くへ引っ越してしまった。


「……僕は、昇くんのことを信じてあげられなかった。助けようともしなかったんだ。キミの大事な弟を……」

 カーテンが開けられた教室。
 不規則に揺れる光に降られながら、僕は懺悔(ざんげ)した。
 悔しさと不甲斐なさと自己嫌悪とで、勝手に声が震えてしまう。

「ごめん、坂井くん。僕は酷い奴なんだ。あれだけ昇くんに優しくしてもらったのに、何も返せないで……彼のことを誤解して、酷い仕打ちをしたんだ」

 彼がいなくなって初めて、自分が取り返しのつかないことをしたのだと理解した。
 あの時なぜ彼を信じてあげられなかったのか。
 なぜ周りの反応に疑問を持たなかったのか。

 周囲が勝手に作り上げたイメージに踊らされて、僕は真実を見ようとしなかった。
 何度後悔しても、後の祭りだった。

「……陸が前に言ってた後悔してることって、昇のことだったんだな」

 そう低い声を漏らす坂井くんの顔を、僕は直視できなかった。
 足元で揺れる木漏れ日に目を落としながら、未だ震えそうになる声を絞り出す。

「今さら遅いかもしれないけど……僕は、昇くんに謝りたいんだ。だからそれも含めて、僕は東京まで昇くんに会いに行く。もちろん許してほしいなんて思ってない。拒絶されたって仕方ないと思ってる。それでも、会いに行きたいんだ」

 なるほどな、と坂井くんは納得していた。
 そして、

「陸がそれだけ本気なら、昇も話を聞いてくれるだろ」

 そんな風に背中を押してくれる言葉を、彼は僕へ投げかける。
 こんな最低な僕に。
 
「東京まで、気をつけて行ってこいよ。俺のことはついでで良いから、よろしく言っといてくれ」

 そんな安らぎの言葉をくれる彼を、僕はようやく見上げた。
 お互いの目が合うと、彼はほんのりと口元を緩める。
 そんな彼に釣られて、僕の心もやんわりと解されていく。

「ありがとう……坂井くん」

 本当に、彼にはずっと感謝してばかりだ。
 今日もこうして彼に励ましてもらったおかげで、僕の胸にも希望の光が差す。

「……にしても、なんか()けるな。俺のことは苗字で呼ぶくせに、昇のことは下の名前で呼ぶんだもんな」

 急に、坂井くんは拗ねたように唇を尖らせた。

「え? だってそれは……」

 昇くんと出会ったのは子どもの頃だったから、それは自然の成り行きで——と説明しても、彼はまだ納得していないような顔をする。

「なら、俺のことも下の名前で呼んでみろよ。翼くんって」

「つ……、ぅえっ……?」

 思わずヘンな声が出た。
 改めて呼べと言われると、なんだか妙に意識してしまう。

「なんつー声出してんだよ……。ほら、ちゃんと呼んでみろって」

「う……その……。……つ、翼くん……」

 言われた通りに名前を呼んでみると、妙な空気が僕らを包んだ。

「……はは。何赤くなってんだよ」

「そ、そういう翼くんこそ!」

 坂井くん改め翼くんは、まるで二岡のようなニヤニヤとした目で僕を見る。
 その視線も、会話の内容も、その場に流れる空気も、全てがむずがゆくて、僕はたまらず階段を駆け下りたくなった。


        ◇◆◇◆◇


 東京駅から徒歩十分のファミレス。
 そこが昇くんとの待ち合わせ場所だった。

 約束の三十分前に僕はそこに到着した。
 まだ夕方の四時半なので席は空いていると思いきや、こんな時間帯でも店内は人で溢れていた。

 さすがは東京。
 僕の地元では大型連休中の御飯時ぐらいしかこんな混雑は見たことがない。
 結局そこから十五分ほど待たされて、僕は席に案内された。

 ようやく椅子に腰を落ち着けると、スマホで昇くんにメッセージを送った。
 席の場所を送信して、一度深呼吸する。

 もうじき、彼に会えるんだ。
 実に九年ぶりの再会になる。

 とはいえ、最後に会ったのがあの水着事件の日だったことを考えると、また胃が痛くなってくる。
 不安と期待とが交互に胸を襲って、情緒が安定しない。

 ただ、そんな緊張感に苛まれる僕の脳裏で、翼くんの
言葉がそっと背中を支えてくれる。

『陸がそれだけ本気なら、昇も話を聞いてくれるだろ』

 彼にそう言われると、胸の奥にほのかな希望の光が灯る。
 あの一言を思い出すだけで、それまで不安に押し潰されそうだった僕の心はたちまち活力を取り戻す。

「……陸くん?」

 不意打ちで、そんな声が頭上から降ってきた。
 低音の、落ち着いた品のある声。
 
 まさかと思って顔を上げると、そこにはすらりと背の高い青年が立っていた。
 白いシャツにスキニーパンツ姿で、その顔は——どことなく翼くんに似ている。

「えっ……。も、もしかして昇くん!?」

 あまりの変貌ぶりにびっくりして、勢いのまま僕は立ち上がった。
 どこぞのモデルかと思うようなイケメンが目の前にいる。

「やっぱり陸くんか。大きくなったね。見違えたよ」

 いやそれはこっちのセリフ、と言うのを飲み込んで、僕は再び腰を下ろした。
 テーブルを隔てて正面に座るこの爽やかな青年が、まさかあの昇くんだなんて。

 とりあえずメニューを注文しよう、と昇くんはテーブルの端のタッチパネルに手を伸ばす。
 よくよく見ると指も長い。
 大学に進学したとは聞いていたけれど、大学生ってこんなにも大人っぽいのか。

 昇くんはパスタ、僕はまだお腹が空いていなかったのでイチゴのパフェを注文する。
 ついでにドリンクバーを付けて、それぞれ紅茶とコーヒーを淹れたところで改めて会話を再開した。

「最初に連絡をもらった時は驚いたよ。まさかあの時の陸くんが、僕のことをまだ覚えてくれてたなんてね」

 覚えてたも何も、忘れるはずがない。
 僕はこの九年間ずっと、あの日のことを後悔してきた。

「昇くんも、覚えててくれたんだね。僕のこと……」

 彼にとっての僕は、一体どんな人間として記憶に残っているのだろう。
 それを聞き出す勇気を出せないまま、お互いの近況を伝え合った。
 そして思い出話に花を咲かせる内に、あの水着事件の日にたどり着く。

「あの時は色々あったね。陸くんは覚えてるかな? 僕が最後に児童館に行った日のこと」

 緊張で、口に含んだイチゴの味がしなかった。

「うん……覚えてる」

 今まで一度だって忘れたことはなかった。
 もしかしたら昇くんもそうだったのかもしれない。

 彼はあの時のことを、どんな思いで見つめているのだろう。
 あの日を思い出す度に、怒りや悲しみを抱いているのだろうか。
 僕のことを、今でも恨んでいるだろうか。

 そんな後ろ向きなことばかり考えていた僕の前で、昇くんは思いも寄らない言葉を発した。

「あの時は悪かったね。不甲斐ないところを見せてしまって」

「え……?」

 悪かった、と彼は謝る。
 誰よりも理不尽な思いをしたはずの彼が。

「ちょ、ちょっと待って。なんで昇くんが謝るの?」

「あの時は陸くんたちにも嫌な思いをさせてしまっただろうからね。今でも恥ずかしいよ、あの日のことを思い出すと」

「でもそれは! あの意地悪な女の子が悪いんでしょ。昇くんは何もしてないのに、あの子が一芝居打って、昇くんに濡れ衣を着せたから」

 普段から陸くんを「キモい」と言って見下していた女の子が、彼を水着の窃盗犯に仕立て上げた。
 彼女が全面的に悪いのであって、昇くんが謝る必要なんてどこにもない。

「そうか。陸くんは知ってるんだね、あの子がやったこと」

 昇くんの様子からすると、どうやら彼もあの子が犯人であることには気づいていたらしい。

「昇くんは最初から気づいてたの? あの子が自分でやったって」

「まあね。あの子は……学校で僕以外にもああいうことはよくやっていたから」

 聞けば聞くほど、その女の子の悪事はいくらでも出てくる。
 元からそういう子だったのか。
 なのに僕は、そんな彼女の罠にまんまと嵌められてしまったなんて。

「……ごめん、昇くん。僕はあの時、昇くんが無実だってことを信じられなかった。もちろん、女の子の水着が目当てであんなことをしたとは思わなかったけど。でも、あの子への腹いせに水着を隠したんじゃないかって、僕はキミを疑ってた」

 包み隠さず、僕は白状した。
 視線も肩もどんどん下がって、半ば無意識のうちに頭を垂れる格好になる。

「本当にごめん。許してほしいなんて言わない。だから、ただ謝らせてほしい。僕は、周りの意見に流されて、キミを疑った。勝手なイメージだけで決めつけた。本当にごめん……」

 ドリンクバーへ向かう他の客が、チラチラとこちらを窺っているのを感じた。
 さすがにこんな人の多い場所で話すべき内容ではなかったかもしれない。

 それに何より、これでは僕が一方的に彼に対して思いをぶつけているだけだった。
 まるで自分だけ心の整理を付けようとしている気がして、ますます自分が嫌になってくる。

「陸くん。顔を上げて」

 彼の穏やかな声に促されて、僕はゆっくりとその通りにした。
 再び正面から向き合った彼の表情は、特に変わっていなかった。

「今までずっと、そんな風に僕のことを思ってくれてたんだね」

 ありがとう——と、彼は口にした。
 そんな言葉を受け取るなんて露にも思っていなかった僕は、調子を狂わされてしまう。

「な、なんで……? 僕は、昇くんにお礼を言ってもらうようなことなんて何も」

「そんなことないよ。陸くんがそうやってずっと僕のことを思ってくれていたのは、陸くんの優しさだ」

「でも、僕は結局あの時、昇くんを庇ったりしなかった。何もせずにその場の流れを静観していただけだった。昇くんだって、それが嫌だったから遠い所へ引っ越しちゃったんじゃないの? 児童館に来たのも、あの日が最後だったよね」

 あの日以降、彼が児童館に姿を見せることはなかった。
 僕らに何も言わずに、彼は転校してしまった。

「児童館に行きにくかった、という気持ちは確かにあったよ。でも、引っ越しはその前から決まってたんだ」

「……そうなの?」

 初耳の情報に、僕は面食らった。

「僕には年の離れた兄がいたんだけどね。あの一年前に、事故で亡くなったんだ。その頃から母の様子がおかしくなって。家族で母の実家に引っ越すことが決まってたんだよ。だから、あの水着のことと引っ越しにはなんの因果関係もないんだ」

 その事実は、僕にとって青天の霹靂(へきれき)だった。
 彼が転校してしまったのは、あの日児童館にいた僕らが原因ではなかったのだ。

「みんなにお別れを言えなかったのは悪かったと思うけど……やっぱり児童館には行きにくかったから」

 彼が言うには、あの児童館では犯人扱いされて居心地が悪くなってしまったけれど、学校のクラスでは例の女の子の悪事が白日の下に晒され、昇くんの濡れ衣も解消されたという。

「僕はもともと友達が多い方じゃなかったけど、それでも学校では仲良くしていたメンバーもいたんだ。だから、あの事件のせいで追い出される形で転校したわけじゃない。陸くんだって、僕の連絡先は僕の友達から聞いたんだろう?」

 思えば確かに、昇くんの連絡先が手に入ったのは、今でも彼と懇意にしている友達がいたからだ。
 間に二岡が入ってくれていたから、情報源について僕はそこまで深く考えていなかった。

「僕は孤独な人間じゃない。だからそんなに心配しなくても大丈夫だよ。そこは理解してね」

 やんわりと棘を刺すように言って、彼は笑った。

 言われてみれば僕は、彼に対して勝手に孤独なイメージを持っていた。
 これもまた自分の思い込みから生まれた誤解だったと気づいた僕は、自身の未熟さを恥じて「ごめん」と再び謝った。

「それで? わざわざ東京まで僕に会いに来たのは、他にも何か話したいことがあったんじゃないのかい」

 いつのまにかパスタを平らげた昇くんは、ここからが本題だろうというように僕の目を覗き込む。
 児童館の話ももちろん大事だったけれど、これから話す翼くんのことも同じくらい重要だった。

 「驚かないで聞いてほしいんだけど」と前置きしてから、僕は話し始めた。

「僕、キミのお兄さんの幽霊に会ったんだ」

 最初、その言葉を受けた昇くんは無反応だった。
 あまりにも突飛な話題すぎて、すぐにはリアクションできなかったのかもしれない。

「翼くんっていうんでしょ? 野球部に入ってて、日焼けしててさ」

 僕が構わず進めると、昇くんはようやく眉をぴくりと動かして怪訝な顔をする。

「そういう冗談は……」

 これには彼も反応に困っていた。
 さすがに幽霊なんて非現実的な存在を受け入れるのは難しいだろう。
 僕だって、翼くんと出会う前は幽霊がいるなんて信じていなかった。

 だからこんな時のためにと、僕は前々から翼くんと一緒に用意していた奥の手を使う。

「昇くん、見て。これ、何かわかる?」

 テーブルの上に右手を差し出して、親指と人差し指だけを伸ばす形にする。
 それから数秒の後、今度は中指も伸ばす。

「それは、野球の……バッテリーサインか?」

 昇くんの声が、わずかに鋭さを帯びる。

 今僕が手で示しているのは、野球でキャッチャーが投球指示を送る時のサインだ。
 翼くんがまだ生きていた頃、幼い昇くんと一緒に野球の練習をする際に出し合った秘密のサインだった。

「これがストレート、こっちがカーブ、それからインコースはこれでしょ?」

 次々とサインを出していけば、昇くんのこちらを見つめる目の色が変わった。

「それ、兄ちゃんに教えてもらった……」

 当時を思い出したように、彼は呟く。
 僕が見せたサインは全て、翼くんと昇くんの兄弟二人しか知らないはずのものだった。

「翼くんはさ、昇くんと一緒に練習するのが好きだったんだって。昇くんがもうちょっと大きくなったら、みんなで試合をするのも楽しみだったって」

 当時は小学四年生だった昇くんは、すでに高校生だった翼くんと一緒に試合に出ることはできなかった。
 だからいつか、昇くんがもっと大きくなった時に、二人で試合に出られることを翼くんは夢見ていた。

「それから、これも伝えてほしいって言われたんだけど……甲子園に連れてってやれなくてごめんな、って」

 翼くんが亡くなったのは、十年前の春。
 夏の甲子園を目指して、野球部の練習に励んでいた頃だった。

 昇くんはしばらく僕の手を見つめて黙っていた。
 僕の言葉を咀嚼(そしゃく)しながら、記憶の中にあるお兄さんのことを思い出していたのかもしれない。

 それから彼は自分の手も動かして、兄弟だけの秘密のサインを確かめるように形作っていく。

「……兄ちゃん」

 指先が震えている。
 わずかに充血した瞳から、涙が零れることはなかった。
 兄に大事にされていた幼い弟は、すでに泣き虫を卒業して一人の大人になっていた。


          ◯


 翌朝、日曜日の午前中。
 野球部がグラウンドで声出しをする中、僕は一人で旧校舎に向かっていた。

 本当は昨日のうちにここへ来たかったのだけれど、新幹線で帰ってきた時にはすでに夜だったので泣く泣く断念した。
 真っ暗闇の中を訪れて階段から転落でもしたらシャレにならない。

 校舎の入口の手前には、相変わらず大木が青々と茂っている。
 そこに一本だけ交じるハナミズキの木も、今は花を落として緑だけを残していた。

 六月を目前に控え、最近は汗ばむ程の陽気が続いている。
 制服も夏服への移行期間を迎えて、僕を含めたほとんどの生徒がすでに半袖になっていた。

 相変わらず立ち入り禁止の張り紙が意味もなくくっついたままの扉をスライドさせ、カビ臭い校舎へ入る。
 春に最初に来た時はひんやりとしていた空気も、今ではじとっとした蒸し暑さに変わっていた。

 階段を上って三階が見える所まで来ると、最上段には翼くんの姿はなかった。
 まさかもう成仏してしまったのでは……と不安になりながらも進み、左にある教室の扉を開ける。

 すると、いつも以上に強い光に出迎えられて、僕は目を細めた。
 カーテンが開けられた窓辺から、太陽の熱を感じる。
 東向きの窓はこの時間が一番日差しを受けやすいらしい。

「……陸!」

 待ち望んでいた声が聞こえた。
 光で溢れる教室の真ん中に、翼くんが立っていた。
 彼は相変わらずブレザー姿で、夏服に衣替えすることはない。
 ただ、その姿はある部分でいつもとは違っていた。

「あれ……翼くん。なんか、体が薄くなってない?」

 彼の全身が、はっきりと見えなかった。
 肌も、服も、全体的に半透明になっていて、向こうの景色が透けて見える。

「ああ。俺もそろそろみたいだ」

 何が、とは聞かなくてもわかっていた。
 いよいよその時が来たのだ。

「実は昨日の時点でもう消えかかってたんだけどさ。最後に陸の顔が見たかったから、なんとか保ってた」

「翼くん……」

 鼻の奥がツンとした。
 校舎がカビ臭いからとかじゃない。
 最後まで笑顔で送り出してあげなきゃと、僕は(はな)をすすってスマホを取り出す。

「そうだ、翼くん。東京で写真と動画を撮ってきたんだよ。ほら」

 写真アプリを立ち上げて、昨日撮ったものを最初からスライドさせていく。

「へえ。やっぱり街中はでかいビルばっかりなんだな。昇の奴、今はこんな都会に住んでるのか」

 風景写真と動画がいくつも続いた後、やがて画面には一枚の人物写真が表示された。

「……これは」

 その写真を目にした瞬間、翼くんが息を呑む気配があった。
 映し出されていたのは、僕と昇くんの姿だった。
 あのファミレスで、お互いに肩を組んで並んでいる写真だ。

「もしかして、これが昇か?」

 翼くんの問いに僕が頷くと、彼は途端に「ははは!」と声を上げて笑った。

「そうかそうか。昇の奴、こんなに立派になって……。あんなに小さくて泣き虫だったのに、なかなかの男前に育ったんだな。でも、顔は母さんにそっくりだ」

 僕からすれば、昇くんは兄である翼くんにも少しだけ似ている。
 やっぱり兄弟なんだなと、二人の顔を見て改めて思う。

「はー、笑った笑った。ありがとな、陸。最後にこんなに笑えるなんて、俺は幸せ者だよ」

 最後、なんて言葉は聞きたくなかった。
 けれど本当にこれが最後なのだ。

 悪霊の噂のことも、弟の昇くんのことも、未練を晴らした翼くんにとってはもう、ここに留まる理由がない。

「陸も昇と仲直りできたみたいだし、安心したよ。そんじゃ、そろそろ行くわ。天童と二岡にもよろしく言っといてくれ」

「翼くん」

 たまらず彼の袖を引っ張って止めようとして、触れられなかった。
 僕の手は彼の肌をすり抜けて、何もない空間で宙ぶらりんになる。

「翼くん、僕は……キミとここで過ごす時間が好きだった。どんなにくだらない話をしてても楽しかった。キミがそばにいてくれたから。だから……」

 行かないで——とは、言えるはずがなかった。
 今さらこんなことを言ったって、彼を困らせてしまうだけだ。

 そのまま俯いてしまった僕の頭に、彼はふわりと手を乗せる。
 乗せたられた、ような気がした。
 触れられないはずなのに、なぜかその時だけは、彼が僕の頭を撫でてくれたのだと感覚でわかった。

「その気持ち、よかったら昇にも伝えといてくれ。俺の自慢になるから。それじゃ」

「翼くん……!」

 僕が再び顔を上げた時には、目の前にはもう誰もいなかった。
 いつもより強い太陽の光が、宙ぶらりんになった僕の手を照らしていた。

 ざあっと窓の外の木々が風に揺れて、鳥たちが一斉に羽ばたいて遠ざかっていく。
 天に昇っていく。

「……さよなら、翼くん」

 誰もいない部屋の中で、お別れの挨拶をした。
 鼻の奥がツンとする。
 窓の向こうでは相変わらず、野球部員たちの活気ある声が響いていた。


          ◯
          

 数日後、旧校舎は完全に閉鎖されることになった。
 噂を聞きつけて昼休みに訪れてみると、入口の扉はすでに鍵が閉まっていた。

「ついにこの校舎ともおさらばか。噂だと今年中には取り壊しになるらしいぞ」

 僕の隣から二岡が言った。
 彼は特徴的な三白眼で校舎眺めると、スマホのカメラで写真に収めた。

「なんだか寂しいよねえ。やっぱりこの間の放送が決定打になったのかなー?」

 間延びしたこの声は天童だ。
 僕らは三人、示し合わせたわけでもなく自然とここへ集まっていた。

 先日、僕らが企画したあの悪霊と階段についての放送があってから、ここを訪れる生徒の数が一時的に増えた。
 興味本位でやって来る者、蹴上の高さを確かめに来る者、未だに悪霊との遭遇を求めてやって来る者……。
 様々な理由でここへ人が集まったことで、教師陣もついにここを放っておけなくなったのだろう。

 むしろ今までずっと放置されていたことの方が異常だったのだ。
 ここを取り壊そうとする度に悪霊の祟りが起こる、なんて噂されていたけれど、祟りの正体が階段の設計ミスだとわかった今、悪霊を怖れる必要もない。

 翼くんと一緒に過ごした、僕にとって特別な場所。
 それがなくなってしまうのは少し寂しいけれど、生徒たちの身の安全を考えれば、きっとこれで良かったのだ。

 三階の窓を見上げると、例の教室だけ未だカーテンが開いたままだった。
 あの窓辺で、僕らは毎日のように肩を並べて話した。
 他愛もない、くだらない話ばかりしていたけれど、それでも僕は幸せだった。
 彼と一緒に過ごした日々は、きっとこの先もずっと忘れることはないだろう。

 彼との思い出が詰まったこの場所を眺めていると、つい名残惜しくなってしまう。
 二岡たちの前で情けない顔を晒したくなかったので、僕はそろそろ戻ることにした。

「お? なんだよ市川。もう行くのか?」

「うん。入口はもう施錠されてるし、中には入れないからね」

「それもそうだな」

 旧校舎に背を向けて、三人で歩き出す。
 背後から生ぬるい風が吹いて、足元からタンポポの綿毛が舞い上がる。

「なあ市川。今さらだけどさ、一緒にどっか部活に入らねえか?」

 二岡に誘われて、僕はあいまいに首を傾げた。

「部活か……。どうしようかな、靴屋のバイトもあるし」

「あっ、部活なら放送部に入ってよ! また三人で新しい企画を考えようよ!」

「うーん、迷いどころ。実は野球部もちょっと気になってるんだよね」

 そろそろ本格的な夏が始まる。
 何かに対して一所懸命に熱くなるのも悪くない気がした。

 最後に一度だけ、僕は後ろを振り返った。
 閉鎖された旧校舎は、もはや人の気配を完全に失ってそこに佇んでいた。

 三階の教室を見上げると、そこだけカーテンが開けられたままになっている。
 その窓辺から、見知らぬ生徒が一人、青白い顔でこちらを見下ろしていた。




(終)