ゴールデンウィーク中はほぼ毎日バイトのシフトを入れて、がむしゃらに働いた。
普段よりお客の数が多くて目が回りそうだったけれど、慌ただしく体も頭も動かしていた方が余計なことを考えずに済む。
「すごいねー市川くん。今日もフルタイム? 最近は僕の倍以上働いてるんじゃない?」
たまに店で天童と一緒になると、こちらの出勤の多さに驚かれた。
もしかしてお金が必要なの? と丸眼鏡の奥から哀れみの視線を送られる。
数日前までは、確かにお金が必要だった。
例の旧校舎にいる悪霊を祓うため、お寺に依頼する費用が必要だった。
けれど今は……僕は一体なんのために働いているのだろう?
あの旧校舎には、二度と足を踏み入れるなと言われた。
顔も見たくない、迷惑だと拒絶された。
きっと今さら僕が何をしたところで、彼を傷つける結果にしかならないだろう。
「市川くん、レジ入って! 今誰も手が空いてないから!」
バックヤードで配達業者から荷物を受け取っていると、売り場にいた副店長からヘルプを頼まれた。
「わかりました。すぐ行きます!」
在庫の整理をする暇もなく、バックヤードのあちこちに靴が散乱したまま売り場へ飛び出す。
こうして忙しさに身を委ねている間は、僕は自分自身の悩みから解放された。
いわば現実逃避だ。
坂井くんと会わなくなって、僕は目標を失った。
やりたいこと、やるべきことを見失った僕は今どこへ向かっているのかもわからない。
あの旧校舎の三階で彼と過ごしていた時間が、僕の心のどれだけを占めていたのか、今さらになって気付かされる。
大事な存在を手放してしまった今の僕は、まるで生きた屍の気分だった。
◯
ゴールデンウィーク明けの登校日は、清々しいくらいに天気が良かった。
雲一つない空はどこを見ても変わり映えしなくて、僕の空っぽな胸の内にそっくりだと思う。
自転車で学校へ向かう途中、大きめの交差点の赤信号で停まると、頭上に架かっている歩道橋が目に入った。
その階段は先日、僕が雨の日に転落しかけた場所だ。
あの時は幽霊の女に驚かされて、つい足を滑らせてしまった。
たまたま二岡が駆けつけてくれたから助かったものの、そうでなけれは僕は死んでいたかもしれない。
あれから、あの女の気配はなくなった。
二岡の言った通り、例の旧校舎に近づかないようにした途端、後ろを尾けられたり襲われたりすることはなくなった。
あんなに僕のことを執拗に尾け回していたくせに、なんとも呆気なかった。
女の真意は今でもわからないけれど、あの校舎に出入りされること自体が嫌だったのかもしれない。
悪霊の脅威が去ったことで安堵した反面、代わりに失ったものが大きかった。
一日中、何をしていても空虚さが残る。
満たされない。
必要なものが足りない。
植物が水と太陽を求めるなら、僕にとってそれは彼と過ごす時間だったのかもしれない。
学校に着いて天童と顔を合わせると、「まだ元気がないんだねー」と肩をすくめられた。
彼には坂井くんと仲違いしたことは話していないけれど、僕が何かしら悩んでいることは気づいているらしい。
一体いつまで引きずるのだと、僕自身も呆れてしまう。
教室の席に着いて窓から外を眺めると、グラウンドの向こうには古びた旧校舎が見えた。
手前に立つ木々は青々としているけれど、そこに一本だけ紛れているハナミズキの花はそろそろ見納めだろう。
季節は春から初夏へと移ろい始めていた。
あの三階で坂井くんと出会った季節が、段々と過去の思い出となっていく。
◯
「市川」
授業の合間の休み時間に、二岡は僕の席までやってきた。
彼に声を掛けられるのは久しぶりだ。
それこそゴールデンウィークの期間中は顔すら合わせる機会がなかった。
久方ぶりに見た三白眼は、やけに不機嫌そうに僕を睨んでいる。
あれから結局仲直りもしていないし当前か。
嫌なら無理して話しかけてこなくてもいいのにと思っていると、彼は僕の前の席に腰掛けて、スマホの画面をこちらに提示してきた。
「……何それ?」
「地方紙のサイト。昔のニュース記事だよ。ここに書いてある坂井翼ってのが、噂の男子生徒なんじゃないのか?」
坂井翼。
二岡の口から漏れたその名前に、僕は耳を疑った。
すかさず彼の手からスマホを奪い取り、そこに書かれている内容に目を走らせる。
記事の日付は今から十年前の春だった。
この高校の階段で死亡事故が起こったことが、淡々とした文章で纏められている。
転落したのは坂井翼さん(16)とあり、搬送先の病院で死亡が確認されたとのことだった。
「十年前にあの旧校舎で死んだ男子生徒って、そいつだろ。幽霊になったかどうかはともかく、事故が起こったって噂は本当だったんだな」
「二岡、わざわざ調べたの? でもなんで……」
「天童に詰められたんだよ。最近なんで市川が落ち込んでるのか知ってるんだろって。わかってるならなんとかしろってさ」
「天童が?」
意外な名前が挙がって、僕は呆気に取られた。
すかさず教室を見渡して彼を捜したが、今はトイレにでも行っているのか不在だった。
「あいつ、お前のことかなり好きだよな。バイトが同じだとは聞いてたけど、あんな天然野郎を一体どうやってたらしこんだんだよ?」
「べ、別にたらしこんでなんか」
話が逸れそうになったところで、「ま、それはいいや」と二岡が仕切り直す。
「で、こっからは天童にも協力を仰いだんだが、放送部の先輩の繋がりで、この高校の卒業生たちに話を聞いて回ったんだよ。あの幽霊の噂はいつから存在するのかとか、実際に幽霊の姿を見た奴はいるのかとか」
僕の知らないところで、想像以上に大変な作業が行われていたらしい。
まさかこの二岡と天童が、僕のためにそこまでしてくれていたなんて。
「それで……どうだった?」
「ここ十年くらいの間に卒業した生徒は、幽霊の噂についてはほぼみんな知ってる感じだった。ただ、悪霊の正体は男子生徒だっていう説と、女子生徒だっていう説に分かれてるんだよな」
「女子生徒? それって……」
悪霊の正体が女子生徒、というと、例のあの女の幽霊のことを思い出す。
「市川も言ってたよな。あの旧校舎には幽霊が二人いて、男子生徒の方は無害だって」
「そ、そうだよ。坂井くんは優しい幽霊で……だから、その女の幽霊の方が悪霊で、僕を襲ってきたんだよ!」
僕が思わず熱くなると、二岡は「まあ待て」と宥めてくる。
「女の霊はともかく、その坂井って男子生徒の幽霊が悪霊じゃない可能性は、俺も考え始めてる。あの旧校舎で起こる祟りは、そこを訪れた人間が階段から転落するって話だろ? 悪霊に足を引っ張られたって。でも実はそれ、あの旧校舎の階段自体にカラクリがあったんだよ」
「カラクリ?」
妙な言い方をされて、僕は首を捻った。
「あの階段。旧校舎の三階付近には、致命的な設計ミスがある。普通、階段の段差ってのは高さが一定だろ? でも、あの校舎の階段は違う。二階から三階へ上がる時の、最後から二番目の段。その一段だけは、他の段差と高さが違うんだ。一センチだけ、他より低いんだよ」
これも卒業生からの証言らしい。
実際に二岡もあの旧校舎の階段で、高さを測って確認したとのことだった。
「高さが違う? そんなことあるの? でも一センチって……」
その小さなズレがどれだけの影響をもたらすのか、僕にはピンと来なかった。
「たかが一センチと思ってるだろ。でもな、人間は階段を上り下りする時に無意識に自分でリズムを作ってる。たった一センチのズレでも、リズムを崩されたら人間は簡単に転倒するんだよ」
僕は頭の中で、自分が階段を上がる時のことをシミュレーションしてみた。
一段一段、一定のリズムで上っていくと、やがて最上段が見えてくる。
あと少しでゴールだ、と思っていたところで、最後から二番目の段を踏んだ時に妙な違和感を覚える。
些細な、ほんの小さな異変。
たった一センチのズレが、僕の足のリズムを崩す。
それから最後の一段を上ろうとした時、感覚の狂った僕の足は段差に蹴つまずいて、たまらず前のめりになる。
「……そういえば」
脳内でのシミュレーションを終えて、僕は思い出した。
あの旧校舎の階段で、僕も何度かつまずいたことがある。
思えば二岡も、最初に二人で肝試しに向かった時、三階に到達する直前で転倒しかけていた。
あの時はてっきりその場の雰囲気に怖気付いていたせいかと思っていたけれど、あれももしかしたら、その段差のズレのせいだったのかもしれない。
「階段の一段一段の高さのことは蹴上って呼ぶらしい。その蹴上が、設計ミスで一段だけズレてるんだ。あの校舎が使われなくなったのもそれが原因なんだよ。もともとあの場所で転倒する生徒が多くて、ついには死者が出ちまったわけだから」
今から十年前、あの場所で坂井くんが亡くなったのはその設計ミスのせいだったのかもしれない。
だとすれば、彼を殺したのはあの階段自身ということになる。
「俺たちみたいにあの場所へ肝試しに行った生徒の中にも、階段で転倒した奴はいたんだろうな。怯えたそいつらは口々に悪霊が出たと言う。誰かに足を引っ張られた、足に違和感があったって」
もともとは設計ミスの階段がもたらした事故。
それがいつしか、悪霊の噂へとすり替わっていった。
「じゃあ坂井くんは……その階段のせいで死んでしまって、挙げ句の果てには悪霊に仕立て上げられてるってこと?」
「かもな。それが事実なら、お前がその坂井って奴を庇うのもわからなくはない。悪霊の祟りの噂は階段から落とされたとか、足を取られたって話ばかりだ。階段自体がそういう危険な構造をしてるのなら、そこで起こる事故に悪霊は関係ないだろ」
噂の祟りは悪霊のせいじゃない。
坂井くんのせいじゃない。
それを二岡も理解してくれている。
「二岡……僕の話を信じてくれるの?」
「まあ、まだ全面的に納得してるわけじゃないけどな。一つの可能性としては考えてやってもいい」
まだ意地を張っているような返答だったけれど、それでも僕は嬉しかった。
あの二岡が、こうして僕のことを信じようとしてくれているなんて。
「ありがとう二岡。坂井くんもきっと喜ぶと思う」
それから、もう一つ。
できるなら僕は叶えたい願いがあった。
「できればこの階段の話、お昼の放送のネタに使えないかな?」
「は? なんだそれ」
さすがに天童も、お昼の放送についての話は二岡に伝えていなかったらしい。
僕が説明すると、二岡は「なるほどなぁ」と顎をさすった。
「でも、そんなにうまくいくか? 昼休みなんてどこの教室もうるさくしてるし、いちいち真剣に放送を聞いてる奴の方が少ないんじゃないのか?」
「やってみなきゃわかんないよ。それに僕一人だけが周りに訴えるより、ちゃんと整理された文章で放送を流してもらって、みんなに届けた方がよっぽど影響力はあると思う」
僕一人の力では、坂井くんを救うことはできない。
けれど協力してくれる人が増えればその分だけ、可能性は広がると思う。
「ま、そこんとこは好きにすればいいけどな。天童もお前のことは心配してるみたいだし、本気でお願いすればあいつも協力してくれるかも……」
「もちろん、協力させてもらうよー!!」
声量MAXの天童が横から割り込んできて、僕らは勢いで吹っ飛ばされそうになった。
「て、天童。戻ってきてたのか」
「うん。途中から二人の会話を聞いてた! 階段の設計ミスの話はびっくりなネタだし、それなら先輩に放送の許可をもらえるかも!」
放送内容はできるだけ校内の生徒たちの興味を引くもので、わかりやすいものにしなければいけない。
この案が通るのかどうかはまだわからないけれど、先輩たちに相談してみると天童は約束してくれた。
「天童。お前、本当に市川のことが好きだよな。こいつのどこがそんなに気に入ったんだよ?」
「えー? そういう二岡くんこそ。市川くんのことになると目の色変えるじゃん!」
賑やかな二人に挟まれて、僕はいつのまに彼らとこんな関係になったんだっけと振り返った。
最初はこのクラスで誰も僕の話を聞いてはくれなかった。
彼らにいくら訴えても、坂井くんの無実を信じてもらえなかった。
それが今では、こうして二人とも僕に協力してくれている。
坂井くんのことも、この調子でいけば近いうちに成仏させてあげられるかもしれない。
本音を言えば、彼と会えなくなるのは寂しいけれど……。
僕の身勝手な思いを、一方的に押し付けるわけにはいかない。
今僕らの前に開けた道は、きっと良い方向へ続いているのだと、そう信じたかった。
◯
それから暇さえあれば、三人で何度も話し合った。
お昼の放送で話す予定の、幽霊と階段との関係性について。
「やっぱ『悪霊の噂』ってのを最初に持ってきて注意を引いた方がいいと思うんだよな。みんな好きだろ? 怖い話」
三限目と四限目の間に早弁する二岡は、鼻の下にご飯粒を付けたまま放送内容の構成について熱く語る。
「でも悪霊の話をメインに置くのか、それとも階段の説明を目玉にするのかでも印象が変わってこない?」
「どっちもちゃんと説明したいなー! 情報を出す順番って大事だよね。最初の掴みで失敗したらその後は誰も放送を聞いてくれないだろうし」
あーでもないこーでもないと意見をぶつけ合う時間は、意外にも楽しかった。
素人なりに頭を使って、アナウンス原稿を仕上げていく。
放送部の先輩からは何度も没をくらった。
もっと捻れ、こんなんじゃ誰も耳を傾けてくれないぞとスパルタ指導を受け、執念でリテイクを重ねた結果、最終的に放送の許可をもらった。
天童にとってはこれが初めて自分で持ってきた企画で、放送当日が待ちきれないくらいに楽しみにしているようだった。
「当日は僕がアナウンスするから、二人ともちゃんと聞いててね! なんなら録音しちゃってもいいよ!!」
見るからに浮かれている天童は幸せそうだった。
これも部活に全力を注ぐ高校生のあるべき姿なのかもしれない。
◯
やがて迎えた、運命の昼休み。
初夏の風が吹く爽やかな日差しの中、僕は数週間ぶりに例の旧校舎へと向かった。
本校舎からグラウンドを隔てて、敷地の端にひっそりとそれは佇んでいる。
鬱蒼と生い茂る大木を潜って入口に近づくと、閉じられたスライドドアの表面には相変わらず『立ち入り禁止』の張り紙があった。
「お邪魔しまーす……」
錆びだらけの扉を力ずくで横にずらし、薄暗い校舎の中へ足を踏み入れる。
久方ぶりに訪れたその空間は、以前にも増してホコリっぽく感じられた。
入って右手にある階段を上っていくと、相変わらずじめっとしたカビ臭さが鼻をつく。
一階と二階の教室はどこもカーテンが閉まっていて、淀んだ空気が辺りに充満していた。
やがて二つ目の踊り場を越えると、目的の三階が見えてくる。
階段の最上段には、今は誰もいない。
そしてそのすぐ手前、最後から二番目の段差だけが、他よりも一センチだけ低いという問題の場所だった。
パッと見ただけでは、蹴上の差は感じられない。
けれどいざそこに足を掛けてみると、確かな違和感を覚える。
これが坂井くんの命を奪ったのか——と苦々しく思いながら、僕はそこを通り越して、その先にある教室まで進んでいった。
「坂井くん」
入口の扉を開けて、僕は顔を覗かせた。
この教室だけはカーテンが開いていて、他の場所よりも明るい。
ガラス越しに白い光の差す窓辺には、一人の男子生徒が立っていた。
僕と同じブレザーの制服に、赤いネクタイ。
日焼けした肌に、シュッとした輪郭。
やけに整ったその顔は、僕を見つけるなり目を大きく開かせた。
「陸……」
久方ぶりに耳にした、坂井くんの声。
「しばらくぶりだね、坂井くん」
「馬鹿。お前、もう二度とここには来るなって……!」
僕がここにいることを、坂井くんは歓迎していない。
それは彼が僕をのことを思ってくれているからで、紛れもない彼の優しさによるものだった。
でも。
「大丈夫だよ。今日はクラスメイトの二岡も一緒だから。何かあった時は、こいつが助けてくれるからさ」
言いながら、僕はすぐ後ろに待機していた二岡を前に押し出す。
「お、押すなってお前!」
僕のことを心配してついてきてくれた二岡だったけれど、さすがに幽霊の存在には怖気付いているようで、ちょっとした刺激だけでも彼は過敏に反応した。
彼には坂井くんの姿が見えていない。
だから余計にビクビクしているのだろう。
「陸……なんでまたこんな所まで来たんだ? 迷惑だって言ったよな」
坂井くんは二岡を無視して話を続けた。
その声は先ほどよりもトーンが下がり、こちらを非難するような棘が含まれている。
「ごめんね、坂井くん。でも今日は、どうしても聞いてほしいことがあるんだ。たぶん、もうそろそろ始まるはずだけど……」
僕は縋るような思いで教室の窓の方を眺めた。
釣られて坂井くんもそちらを見る。
窓の外には緑の木々と、その奥に誰もいないグラウンドが広がっている。
そしてその隅に設置されたスピーカーから、毎度お馴染みのジングルが流れ始めた。
お昼の放送が始まる合図だ。
《みなさん、こんにちは。お昼の放送を始めます!》
窓の外から聞こえてきた滑舌の良い声は、天童のものだった。
ついでに別の女子生徒も続けて挨拶する。
今日の放送は、この二人が対談する形で進められることになっていた。
《本日お話ししたいのはなんと! あの旧校舎に出る幽霊の真相についてです。はい拍手ー!》
パチパチパチ、とスピーカーの向こうから拍手の音が届く。
坂井くんは怪訝な顔で、苛立ちを含んだような視線をこちらに向けた。
「これってまさか、前に言ってた放送部の……。こんなことしたって、意味ないだろ。余計なことすんなよ」
「意味なくなんかないよ。この放送は、僕と二岡と天童の三人で必死に考えた結果なんだ。僕らの話に耳を傾けてくれる生徒が、この校内のどこかにきっといるはずだよ」
僕らが言い合いをしている間に、放送は本題に入る。
そして三階の幽霊の話題について触れた。
《旧校舎の三階に幽霊が出るという噂は、みなさんも一度くらいは耳にしたことがあるのではないでしょうか》
この高校の生徒なら誰もが知る、悪霊の噂だ。
旧校舎を訪れた者の足を引っ張り、階段で転倒させるという祟りを起こす。
《しかしこの祟り、実は秘密があるのです!》
スピーカーの向こうから天童が煽ると、一緒にアナウンスしていた女子生徒は何何!? とオーバーリアクションする。
そこから、階段の設計ミスについて二人は丁寧に説明していった。
旧校舎の三階付近、最上段から二番目の段差。
本来なら一定のはずの蹴上が、そこだけ低くなっているという事実。
《……ですからあの校舎で祟りが起こるというのは、実は階段に問題があったのです。幽霊が悪さをしているわけではないのです!》
天童の軽快な声によるその暴露は、校内全体に響き渡った。
今ごろ本校舎にいる生徒たちがどんな反応をしているのか、ここからでは確認できない。
せめて誰か一人だけでも、この事実を受け止めてほしいと願う。
「……階段が原因、だって?」
坂井くんの呟きが、その場の空気を震わせた。
正確には彼の吐息は物理的なものではないので、僕の耳が第六感的なもので拾い上げているだけなのだけれど。
「どういうことだよ。それじゃあ俺は……その段差のせいで死んだってことなのか? あの女のせいじゃなくて?」
彼にとってその事実を知らされるのは複雑だったかもしれない。
十年越しに判明した自らの死因に、彼は動揺を隠せないようだった。
「坂井くん、ごめんね。どういう形で伝えるか迷ったんだけど……」
そこまで言ったところで、ふっと、その場の空気が急に切り替わったのを感じた。
「…………ィ……」
聞き覚えのあるノイズが、どこからともなく届く。
ぞわっと全身に鳥肌が立って、あの女が近くまでやってきたことを悟った。
「ど、どこだ!?」
反射的に、僕は叫んだ。
姿が見当たらず、あちこちに目をやっていると、そのうち隣の二岡が「わっ」と声を上げた。
彼の視線を追うと、教室の入口付近に例の女が立っていた。
いや、立っているというよりは浮かんでいると言った方が正しいか。
相変わらず白い顔をした彼女は、足を動かす素振りすら見せないまま、床を滑るようにしてこちらへ近づいてくる。
「陸!」
すかさず坂井くんが間に入って、その背中で僕らを守ってくれる。
「坂井くん……」
「そこの女! お前は一体何者なんだ!? あの階段で祟りを起こしてるのはお前じゃないのか!?」
坂井くんは僕と二岡を庇ったまま、目の前の女に問いただす。
女は体の動きこそ止めたものの、相変わらず電磁波のような掠れた声を漏らすのみだった。
緊張感が漂う中、その場に似つかわしくない呑気な声を出したのは二岡だった。
「……ん? なんだよ市川。お前、なんでそんな怖い顔してんだよ?」
「へ?」
いきなりわけのわからないことを言われて、僕は混乱した。
「いや、怖い顔って……するでしょ、こんな状況」
「こんな状況? どういう意味だよ」
二岡は納得がいっていないようだった。
どうも様子がおかしい。
直後、もしかして、と僕はあることに思い至る。
「まさか二岡。そこにいる女の幽霊が見えてないの?」
幽霊の姿が見えるのは、おそらく一部の人間だけ。
坂井くんの言葉を借りれば、お互いの波長のようなものが合わなければ幽霊の存在を認知することができない。
ということは、今の二岡にはこの女の姿が見えていないのかもしれない。
でも、さっき彼は女の方を見て驚いた様子だったのに——と不思議に思っていると。
「幽霊? いやいや、何言ってんだよ。こんな可愛い子が幽霊なわけないだろ」
「……可愛い子?」
新たに意味不明なフレーズが飛び出して、僕はますます困惑した。
二岡は女の方を向いて、それまで見たこともないような穏やかな笑顔で話しかける。
「君、どこのクラスの子? 名前は?」
まさかの対応をし始めた二岡に、僕と坂井くんは思わずお互いの顔を見合わせる。
「どういうことだ? この状況……。まさかこの二岡って奴には、あの女の幽霊が可愛い女子生徒に見えてるってことか?」
坂井くんに言われて、僕はようやく腑に落ちる。
「そうか。二岡は、あの女の幽霊と完全に波長が合ってるってことか!」
思わぬ展開だった。
おそらく二岡には、この女の幽霊の真の姿が見えている。
僕が坂井くんの生前の姿を見ることができるように、二岡の目にはこの女子生徒の美しい姿が映っているのだ。
「ってことは、彼女の姿が中途半端に見えてる僕らって、彼女とは微妙に波長がズレてるってこと……?」
「かもな。陸はともかく、幽霊の俺まで歪んで見えてたなんて……」
何事も人によって見え方が違うというのは、どうやら幽霊でも同じらしい。
この状況を僕が改めて説明すると、二岡は驚いていた。
「こ、こんな可愛い子が幽霊だっていうのか? しかも悪霊呼ばわりされてただって……?」
ありえない、と驚愕の表情を浮かべる二岡。
「ねえ二岡。その子はなんて言ってるの? 今まで僕を尾け回していた理由って聞き出せる?」
彼を介して、僕と坂井くんは女の幽霊との意思疎通を図った。
それによると、彼女もまたこの旧校舎の階段で転落死した生徒だったという。
彼女が亡くなったのは坂井くんの事故よりもずっと昔のことで、当時はまだインターネットが普及していない時代だったため、いくらニュースサイトで検索しても彼女のことは出てこなかったのだ。
二岡は鼻の下をだらしなく伸ばしながら、女子生徒の通訳を続ける。
「昔から、あの階段の危険性に気づいてる生徒はちらほらいたんだと。でも大半の生徒はそれを知らずに怪我をすることがあったから、彼女はそれを忠告したかったそうだ」
この旧校舎に現れる女の幽霊の真相。
それは、ここで亡くなった心優しい女子生徒が、新たな犠牲者を出さないために危険を伝えようとしていただけだったのだ。
「なんだ……そうだったんだ。僕はてっきり、彼女が僕のことを殺そうとしてたんだと……」
急激に肩の力が抜けていく。
僕が坂井くんと出会ってこの校舎に出入りするようになったことで、彼女は僕の身を案じていたのだ。
この場所に来てはいけない、この階段は危ないから使ってはいけない。
それを伝えようとして、彼女は僕の後を追ってきたのだった。
なのに僕は、彼女のことを悪霊だと思い込んでいた。
勝手なイメージだけで、彼女のことを誤解していた。
人のことを勝手に決めつけて、真実から目を逸らすことは、僕が何より忌み嫌っていたはずなのに。
窓の外ではまだお昼の放送が続いていたが、そろそろエンディングに差し掛かったようだった。
《……ここまで紹介してきましたが、旧校舎は現在立ち入り禁止です。扉が開いていても、中には入らないようにしましょう》
この放送を、一体どれだけの生徒が聞いていたのかはわからない。
できれば多くの生徒に知ってほしい内容だった。
けれど、たとえ少人数でもこの事実を知ってくれた生徒がいるのなら、そこからまた噂が広がって、真実が拡散される可能性はある。
そうすれば、いつかは悪霊の噂も根絶できるかもしれない。
「あっ。ちょっと君、どこ行くんだ!?」
二岡が慌てた声を上げた。
見ると、彼は女子生徒の方へ手を伸ばして固まっている。
それからゆっくりと手を下ろして、どこか寂しそうな顔をした。
「どうしたの、二岡」
「いや……幽霊の女の子、もう成仏するんだってさ」
先ほどの放送を聞いて、彼女は安心したという。
僕らのようにこの場所の危険性を訴える生徒がいるのなら、もう自分はここに必要ないのだと。
どこまでも優しい少女だった。
僕の目には、その姿は未だに恐ろしい髑髏のように映っているけれど、本当の彼女は身も心も美しい生徒だったのだ。
「その……ごめんね。僕、キミのことを勘違いしてた。本当は優しい子だったんだね」
「俺も……あんたのことを誤解してた。謝る」
僕と坂井くんがそう伝えると、二岡曰く、彼女は嬉しそうに微笑んだという。
そのまま教室の空気に溶けるようにして、彼女はゆっくりと音もなく消えていった。
「あーあ。せっかく可愛い子だったのに。もっと早く知り合いになりたかったわ」
ぼやく二岡の隣で、坂井くんは窓の外に目を向けた。
「……俺はずっと、自分があの女の幽霊に殺されたんだと思ってた。だから陸にもそう説明したけど、それは勘違いだったんだな。むしろ、俺があいつを悪霊に仕立て上げてたんだ。……あの子には、本当に悪いことをした」
「僕も同罪だよ。本当のことを何も知らないのに、勝手なイメージだけで知った風になってた」
反省することはお互いにある。
僕も、坂井くんも、真相の見えない謎に対して、自分を納得させるために答えを急いでしまっていたんだ。
お昼の放送が終わり、教室内に静寂が落ちた。
坂井くんは一度深呼吸すると、改めて僕に笑いかけた。
「ありがとな、陸。それにさっきは突き放すようなことを言った悪かった」
「ううん。僕の方こそ。自分勝手に色々と進めてごめんね。でも、これで悪霊の噂もなくなってくれればいいなって思ってる」
「そうだな。これで噂が根絶する可能性も出てきたし……そろそろ、俺も成仏するのかな」
坂井くんのそんな言葉に、僕の心臓はちくりと痛みを覚えた。
「坂井くんも、いっちゃうの?」
この世の未練を晴らして成仏する。
それは彼がずっと望んでいたことだ。
僕が名残惜しいと思ったところで、彼を引き留めることは許されない。
「……成仏する、と思うんだけど。まだ消えないな? 今のところ、体にはなんの異変もない」
確かに見たところ、彼の様子にこれといった変化はなかった。
「なんでだろうね?」と首を傾げつつも、僕は内心ホッと息を吐く。
まだ他にも、この世でやり残したことがあるのかもしれない。
その心残りの正体を突き止めなければ、彼はいつまで経っても成仏することはできない。
「俺にまだ心残りがあるとしたら……弟のことぐらいか」
弟。
前に坂井くんが言っていた。
彼には年の離れた弟がいて、とても泣き虫だったのだと。
「あいつはずっと俺にべったりで、休みの日はよく野球を教えてやってたんだ。夏には甲子園に連れてってやるって約束もしてたのに、事故のせいで駄目になって、また泣かせたかなって……」
坂井くんはきっと、優しいお兄ちゃんだったのだろう。
僕は一人っ子だから兄弟の感覚というのはよくわからないけれど、もし坂井くんがお兄ちゃんだったら、きっと周りに自慢していたんじゃないかと思う。
「弟さん……坂井くんの家族は、まだこの町に住んでるのかな?」
「どうだろうな。あれからもう十年も経ってるし。それに弟は今ごろ大学生くらいになってるだろうから。親がまだこの町にいたとしても、弟は家を出てるかもしれない」
僕らが坂井くんの家族についてあれこれ話していると、それに気づいた二岡が会話に入ってきた。
「なんだ? そこにいる幽霊の家族の話をしてるのか? 卒業生から聞いた話だと、遺族は九年前に引っ越したらしいぞ」
引越し、と聞いて、僕の中の古傷が疼いた。
九年前といえば、僕が小学校に上がった年。
そしてその年の夏に、児童館で仲良くしていた昇くんがこの町から引っ越してしまったのだ。
「そっか……やっぱりもうこの町にはいないんだね」
「ああ。ただ、引越し先を知ってる卒業生もいるかもしれない。必要なら調べてみるか?」
二岡の提案に、僕は食いついた。
坂井くんを成仏させるためにも、その情報は必要不可欠だ。
「じゃ、何かわかったら連絡するわ」
二岡はそう言い残して、先に旧校舎を後にした。
窓辺からやわらかな光の差す教室に、僕と坂井くんは二人きりになる。
ここでこうして肩を並べて話すのは、なんだか久しぶりだった。
「よかったね坂井くん。弟さんの居場所、見つかるかも」
「ああ。お前らには本当、世話をかけるな」
坂井くんは窓の方へ近づくと、頭上から降り注ぐ木漏れ日に目を細めた。
「俺の弟、昇っていうんだ。臆病だけど、優しい奴でさ。特に自分より小さい子どもの面倒はよく見てたな。もともと子ども好きだったのかもしれない」
弟のことを語る時の坂井くんは兄としてのスイッチが入るのか、声や表情がほんのりと丸みを帯びる。
そんな彼の一面を微笑ましく思う一方で、僕の意識はある一点に引き寄せられていた。
「昇……」
その名前の響きに、僕はただならぬ予感を抱く。
九年前にこの地を離れた、昇という名の男の子。
偶然にしては出来すぎていて、いやまさかそんなはずはと思いつつも、その可能性を否定できない。
「その弟さんって、北川小学校に通ってた?」
恐る恐る、僕は尋ねた。
「ああ、そうだな。もしかして陸も北小だったのか? なら、どこかで弟と顔を合わせたことがあるかもな」
ここまでくると、もはや間違いないと思った。
そうだ。
どうして今まで気づかなかったんだろう。
昇くん、昇くん、といつも呼んでいたから忘れていた。
昇くんの苗字も確か、坂井だった。
窓の外で風が唸り、木々が揺れる。
枝の動きに合わせて、木漏れ日が忙しなく明滅した。
眩しそうに目を細める坂井くんの横顔が、遠い日の記憶にある昇くんの面影に重なった。



